第32話 剣術指南役 初日
平四郎の剣術指南役としての勤めは試合の翌日には始まった。
門番が大門を開けた時には、平四郎が正面に立っていた、
「本日より、当家剣術指南役を勤めます、岩澤平四郎に御座います」
「はい、私も昨日の試合を拝見しておりました、おめでとうございます」
昨日、帰り際に挨拶した者とは別の門番であった。
「今後、良しなにお願い致します」
「こちらこそ、よろしくお願い申します」
平四郎は、横庭に行き井戸端の桶に水を汲み、乾してあった雑巾を持ち裏口から稽古場に入り、道具を置き、まず正面で正座し平伏し剣技の神々に拝礼した。
平四郎は、稽古場の雑巾賭けを始めた。
それは高所から床の隅々に至り、窓の欄干まで及び、天井を見上げ、何れ(イズレ)天井の太い横柱も拭かねばと思った。
刻を忘れ夢中で掃除していて、窓から見える光から五つをとうに過ぎたはずであるのに、誰一人来ない事に気づいた。
昨日、大勢の藩士を目にしている、「今日は何か行事でもあるのであろうか」と思った。
平四郎は壁から木刀を選び素振りを始めた。
暫くして足音と話声が近づき平四郎に気付くと黙り込んだ。
四人の何れもまだ少年と呼ばれる年頃であった。
「おはよう、どうしたな、入られよ」
中でも年長と思しき少年に視線が集まり、その少年が答えた。
「おはようござます、館長」
続けて他の者たちの挨拶も続いた。
「おはようござます、館長」
稽古場に入って来た。
その後、同様な光景が何度か続き、昨日、審判を勤めた師範代が顔を顰めてやって来て、平四郎に気付くと慌てて挨拶をなした。
「おはようござます、館長」
「昨夜の酒が残っておりますか」
「はい、少々飲み過ぎました」
「酒を抜くには、汗を流す事が一番」
「はい、しかし、本日より出仕とは驚きました」
「役務拝命は昨日、故に当然であろう。ところで本日は初日、今まで通りの稽古で願いたい、私は、居ない者と思って下さい」
「はぁ~」
少し不振そうに答え皆に聞える様に言った。
「館長のお言葉である、本日、館長はいない者と思い何時もの様に稽古致す」
平四郎が隅で木刀を振る間、この日集まった15名の稽古が始まった。
途中、一人増え、昼頃の稽古終了時には16名になっていた、増えた一人は町人だった。
稽古終了と言っても、皆が集まり終了を告げる訳でもなく、一人、二人と稽古場を去って行くだけで最後に師範代が残った。
「田口殿、お時間はお有りかな」
「はい、館内の調べもございますので」
「館内の調べとは」
「竹刀、木刀、床にございます」
「なるほど、その前に少々話しを聞きたいが、よろしいか」
平四郎は高所下中央に座った
「はい」
と答え平四郎の前に座った
「幾つか問いがあってな、
一つ、今日は16名であったが、今日に限った事か
一つ、稽古場の掃除は、誰が行っておるや
一つ、稽古場に入る時、去る時、礼節に掛ける様に思われるが何時からか
一つ、毎日、稽古は竹刀での打ち合いだけか
一つ、一人、町人が居ったが、何故か、何者か、以上」
師範代 は唖然とし返事に詰まった、暫く、思い出に浸る様に考えに落ち、唖然が愕然へと変わった。
「申し訳もございません」
平伏し言葉を続けた。
「先の館長は、基本を大事にされる方でございました、掃除も毎朝門下の者達が行っておりました、そして、何より礼節に厳しい方にございました・・・・」
師範代の顔が俯き、呻きと共に涙が滴り落ちていた、平四郎は、師範代が落ち着くまで静かに待った。
「私は、何時しか稽古場の存続のみに気が固まってしまった様にございます、私は先の素晴らしい指導者に恵まれ師範代に任ぜられましたのに、恥ずかしい限りにございます」
泣きながら答えた。
「左様に己を責めるには及ばぬ、たった一度の某の忠言で、己の過ちに気が付いたのだからな、先の館長の目に狂いは無い、ところでいつも今日位の員数かな」
「先の館長の頃は毎日、五十名以上でした、私が代行に成ってから徐々に減って参りました、近頃は、二十名を越える事はございません」
「町人は、何者か」
「存じません、私が通い始めた時には、既におりました」
「名は、何と」
「清吉と申します」
「うむ・・・・して、稽古は竹刀の打ち合いのみか」
「はい、相手を換え、相手を換え、刻が来るまで」
「朝、集まるのも、自由気儘か」
「はい、申し訳ございません」
「もう良い、明日より、少しずつ戻してゆこう、力を貸してくれるな」
「はい、勿論でございます」
「心底の言葉と思って良いな、時に厳しいぞ」
「はい、望むところです」
「そなたにだけに言うておく、今後暫くまだまだ員数が減る、だが安心せい一時の事よ、良いな、まず今日来た者達に明日は六つ半までに参れ、と伝えてくれ」
「畏まりました」
「昼餉の後、何か予定はあるか、その方の役務は何かな」
「某は近習に御座います、本日の予定はございません」
「では、稽古をせぬか、近習なれば剣技を磨かねばな」
「ぜひ、ぜひにも、お願いいたします」
「では、昼餉の後、会おうぞ」と言って奥へ消えた
師範代は、暫く、其のまま座していたが、勢い良く立ち上がると、走り出した、明日の朝の開始時間を皆に告げる為であった。
その日の午後、平四郎と師範代の稽古が行われ、師範代が何度も何度も床に倒れ、一刻、二刻と続き
師範代が床に転がり失神して終わった。
平四郎も少し息が荒かった。
倒れた師範代の顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。
<つづく>
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