第30話 剣術指南役選定試合

藩稽古場(江戸期には道場とは呼ばなかったようだ)は、下屋敷に設けられる事が普通で、屋敷が一つの小藩でも 藩稽古場は屋敷奥が普通であった。

七日市藩は、其の点、独特で、何代か前の殿様が剣術好きで豪壮な稽古場を上屋敷に設け、その場所を正門脇とした、警護を兼ねたと言われてい.る。

試合当日、正門が六つに開かれ、出場者を受け入れた。

登録者は百人を超えるため、二百畳の稽古場を二つに分け、まずは半分の五十人にする事にしていた。また、当日の申し込みも可能で、その理由は当日の申し込みを拒否すれば、必ず、其の内の何人かが騒動を起こすと予想されたからだ。

適切な判断と言えるが、その対応に任る者たちは、より大変である。

其の為考えられた方法が、くじ引きで一番から二百番までが用意されてあった。

一番と2番、隣で三番と四番が対戦して行く、くじ引きは、申し込みと同時に行われ、稽古場へと入った。龍一郎は六つを四半刻過ぎた頃、門を潜り名を告げ稽古場に入った。

懐に草履を仕舞い入った、入り口には、草履、草鞋、下駄など多数有ったからで、履きなれた草履を無くしたくはなかった。

稽古場には既に二百人を超える人々がいて、出場者だけではなく、見物の藩士も多数いる様だった。

龍一郎は、少し前に出て正座し正面に向かって礼をした。

その後、ゆっくり立ち上がり、ゆっくり左右を見渡し、ゆっくり正面へ歩み始めた。

ざわざわとしていた人々が徐々に静かになり龍一郎を見つめ始めた。

龍一郎は高所に近づき再度正座し礼をした後、高所端の床に正座した。

見ていた人々は、この大胆な男に驚く者、呻く者、睨む者、関心する者様々であった。

当の龍一郎は目を閉じ我関せずと言った赴きで平然としていた。

それからも続々と人が入って来て、思い思いに座った。

そして申し込み終了刻限の六つ半の太鼓が鳴り響き、一瞬静かになり大門が閉まる音が微かに聞えた。

暫くして高所左の出入り口から藩重席と思しき武士団が現れ高所に順に座り中央を空け、その左右に江戸家老と留守居役が座った、高所下左に若い武士が立ち話し出した

「私は、若輩ながら、本藩 師範代の田口 太郎佐(タロウザ)と申す。

これより、試合要綱を説明いたす、私と隣に座す者で審判を勤め申す。

次に、この稽古場を二つに分け、二試合を同時に致す。

手にお持ちの番号を確認戴きたい、一番、二番は高所側、三番、四番を向こう側、五番、六番を高所側、 七番、八番を向こう側と言う様に順に試会って戴きます。

太鼓の後、 番号の呼び出しを行います。

太鼓が鳴りましたら静粛にお聞きの上、該当の試合場へお越し下さい。

本日は竹刀にて、お願い致します、なお、判定に不服は許されません。

判定、態度、等、当藩に不向きと思しき方は、屋敷より退去して戴きます」

皆に納得して貰うべく暫く間を置き

「では、太鼓を」と言うと、彼の後ろに立つ若い藩士が太鼓を三度鳴らした。

「始めます、一番、二番は高所側、三番、四番を向こう側で準備をお願いします」

この言葉を合図に大勢の藩士が動き出し、稽古場の中央で二列になり一組は高所側を向き正座、もう一組は背中合わせに出入口を向き正座した。

稽古場が二つの試合場になり師範代が高所側の中央、横に座っていた藩士が出入口側試合場の中央に移動し、それぞれの番号を再度呼び、試合う二人が揃うと別の藩士が竹刀を渡した。

後は「始め」の言葉を持つだけだ、太鼓一発の後、師範代の「始め」の声が掛かり長い試合の一日が始まった。

龍一郎の番号は四十二だった、まだ先だ。

彼は、始めの声が掛かった後、正座を崩し、胡坐にしたり伸ばしたり、立ったり、しゃがんだり、その場で飛んだりした、血が滞ったり筋肉が強張るのを防ぐ為だ、同様な動作をしている者が何人もいた、其の者たちは、お互いを確認し会っていた、いずれも上位に辿り就く事は容易に予想され龍一郎は、二十一番の武士を意識した、

この日来ている武士のほとんどは浪人で皆、似たような風体だった。

着古した着物と袴を着て、髷も整っていず、中には髭を生やし、月代も綺麗に剃れていない者が大半だった。

龍一郎は意識を試合う二人に向けた。

二十一番の武士が試合っていた。

その武士も同じ風体だが、醸し出す気が他の者と数段異なっていた。

隙のない正眼の構えだ剣技もずば抜けている、勝敗は見るまでもない。

龍一郎は、太刀筋と足裁きに注視していた、対戦者が前後に動き剣先をちょんちょんと当てるが揺が無い、今度は対戦者が左右の動きも加え始めたが揺が無い、焦れた対戦者が上段から面打ちに出たところを左へ抜け胴を払い対戦者は右に吹っ飛んで行った。

対戦者が弱すぎだ、彼の真の力は解らないままだった。

龍一郎の番号が呼ばれた、龍一郎は前へ出て竹刀を受け取り右手一本で軽く素振りし、竹刀の交換を審判に依頼した。

審判は竹刀を受け取り素振りし「このままで」と言って交換を拒否した。

龍一郎は、それ以上の言及を避けた、「始め」の声が掛かり試合が始まった。

龍一郎は二十一番の武士と同じ技で勝った、ただ違ったのは、龍一郎の竹刀が砕け散った事で、審判と高所に座る者たちも驚いた。

その後一回戦が終わった時には昼に近く二回戦は六十二名が残った。試合う時に回収してあった番号書きのくじ引きが再度行われ龍一郎は五十八番だった。

待ち時間が長いが龍一郎には退屈は無縁だ、龍一郎は勝ち残る五人を予測したり、高所に座る重席の人々を眺めたりと、面白かったからだ。

しくしくと、二つの試合は進んだ、敗者が立ち去り人が減っていった。

途中、高所に座る重席の人々と藩士に弁当が配られたが、審判と出場者は食事抜きであった。

高所では酒を飲んでいる者もいた。

出場者の中には、恨めしそうに見ている者が何人もいた。

龍一郎はと言えば全く意に介していなかった。

山修行のおりには、五日、六日と食べない事があり慣れていたからだ。

あの武士は二回戦を面打ちで勝ち抜き、龍一郎も面打ちで勝ち抜いた。

席に戻る時、あの武士と目が合い、龍一郎の意図を理解したようだった。

そう、龍一郎は、その武士の太刀筋を真似、勝ち技を同じくしていた。

昼をとうに過ぎていた、三回戦のくじ引きで龍一郎は、三十一番と不戦勝を引き当てた、運も技の内である。

逆にあの男は初戦で、相手の八双からの打ち込みを強い打撃で弾いた後、左肩への打ち込みで勝利した、打撃は抑えたもので骨折しない程度にしていた。

この時点で決勝戦に残る相手が誰か、解っているのは少なくとも二人いた、あの武士と龍一郎自身である。

四回戦は、勝ち抜いた十五名と不戦勝の龍一郎を合わせ十六名で、又、くじ引きが行われ、龍一郎は一番、彼は十六番であった、龍一郎の対戦者は八双の構えを取らず、試合の流れまで同じには、出来なかったが、左肩への打ち込みで勝利した、打撃は抑えたものであった。

あの男は、相手の左へ抜けての胴切りで勝ち抜いた。

ここまで来れば、審判は元より、高所の人々にも二人の剣者の格の違いに気づいており、決勝戦の予想は、付いていた、後はくじ次第である。

四回戦が終わり、残り八名になった時点で小休止が伝えられた。

稽古場に二列になり試合う場所を二つに分けていた藩士たちが壁際に戻り、弁当を食し始めた。

審判も食し、今度は、残りの八名の出場者にも、与えられた。

車座になった出場者の真ん中に握り飯、香の物、茶が用意された。

龍一郎は茶を飲み塩握りを一つ取り食べ始めた、他の者も手を伸ばし食し始めた。

龍一郎は、二つ、三つ、四つ、五つと食べ周りの出場者を驚かせた。

試合う前は、満腹を避ける事が剣士としての心得・常識であったからだ。

食べ過ぎれば身体の切れが悪くなる。

又、胃の腑に血流が行き、足腰、腕の力が失せると言われているからであった。

龍一郎も、そんな事は知っている、が、これ位の量は、食べた内に入らない。

龍一郎は八つを食べ茶を飲み、ゆったりとしていた。

重席の中には、この光景を見て

「ただの腹減らしであったか」

と自分の思い違いに腹立たしい顔をしている者もいた。

龍一郎は皆から少し離れ横になり眠りだした。

稽古場に居る全員が驚き彼を見つめた。

彼は食事前に「戴きます」、食後に「ご馳走様でした」と非常に行儀が良かった。

その彼が稽古場で寝ている、ここまで勝ち抜き皆も剣の強さは解っていた。

だが時々見せる様子が、馬鹿なのか利口なのか、行儀が良いのか悪いのか、底の知れない、興味の尽きない男だった。

暫くして、師範代が若党の一人から耳打ちされ立ち上がった。

「これから続きを始めます、其の前に、これより我殿が御覧になられます。

皆の者、心して、お迎えいたせ」

細やかな太鼓が連続して鳴り出し、重席方、藩士全員が深々と礼をした。

出場者達の礼は、深い者、軽いものとまちまちであった。

重席方が入って来た出入口から豪奢な羽織袴の殿様が現れ高所中央に座り、稽古場全体を見渡した。



------------------<上野七日市藩>------------------

この時代の上野七日市藩藩主は第6代で前田 利理(マエダトシタダ)であった。

利理は元禄十二年(1699年)生まれ、宝永五年(1708年)に従兄の第5代藩主・利英が死去したため、養子として家督を継いだ。

正徳3年(1713年)に大和守に任官されていた。

因みに、後に従五位下・丹後守に叙位・任官し、大坂加番代、駿府加番、朝鮮通信使の接待役を務める事となる。

--------------------------------------------------


藩主・利理が師範代に声を掛けた。

「太郎佐、続けよ」

「はぁはぁー、始めます、一番方、二番方、前へ」

右に一列に座っていた出場者の中から龍一郎が立ち上がった。

又、一番であったからだ、もう一人も立ち上がり二人は竹刀を受け取り向き合った。

其の時、家老と思しき武士が殿様へ何ごとか囁いた。

龍一郎は、その光景を目の隅に止めながら対戦者に礼をし合図を待った。

師範代が殿様を見、頷きを確かめ「始め」と言った。

龍一郎は、此れまで通りの正眼である、相手も正眼を取り相正眼となった。

試合う時、一番見られる光景である。

龍一郎の正眼は、ゆったりしていて力を感じさせない。

相手の正眼は、力感溢れる剛を感じさせた。

対照的な正眼の構えであったが二人は動かない。

暫くして龍一郎の竹刀が動き右手一本の握りに変えられ姿勢も棒立ちになった。

龍一郎のこの動作に皆は驚いたが声はない。

相手は意図が測れず余計に動かない、龍一郎は、そのまま前へゆっくり進み始めた。

相手は退いた、それでも龍一郎が間合いを詰める、相手が退いた。

これが繰り返され相手の踵が藩士に触れ、もう退けないと知り、竹刀の握りを改め、

「きぇー」

の声と供に突きを放って来た。

見ている者は竹刀の先が龍一郎の喉を貫いた様に見えた。

が、その一瞬後、突きを放った男は左に吹っ飛び失神していた。

龍一郎は元に戻り礼をして、待ちの席へと戻って行った。

審判を勤める師範代が失神した男の面倒を藩士に命じ稽古場の外へと運ばれて行った。

龍一郎は、失敗した、失神までさせるつもりはなかった。

だが、相手の突きが思いの外、鋭く、技の加減を誤ったのだ。

殿様を見ると家老と話していた。

「ほぉー、あの家老、剣は使えねど頭は使える・・」

と龍一郎は、考えていた。

勿論もう一人、真似されている本人も十分理解しているはずだ。

次の試合は、力量が拮抗しており、なかなか勝負が付かず四半刻が過ぎた。

両名ともに汗とかすり傷まみれだが、審判が有効打を認めなかった。

「止め」

師範代が声を掛け両名に宣告した。

「今度、私が止めと言った時は両名供に失格と思って戴きたい、宜しいな・・・」

一拍の後師範代の声が再度飛んだ。

「では、始め」

同時に、激しい打ち合いが始まり、此れまでも激しいものであったが、より一層激しさを増し壮絶、疲労、悲壮を感じさせた。

一人が疲労から足をもつらせた所を面打ちで長い試合が決した。

次の三試合目はあの男の番だった、一瞬の試合だった。

師範代の「始め」の声を聞くと、数泊後、正眼に構えた、あの男がつぅつぅの前進し面打ちを決めて終わった。

四試合目も始まった途端に長期戦を予感されるもので、師範代は直ぐさま止めた。

「待て・・・四半刻にて勝敗が決せぬ時は両名供に失格と致す、宜しいな・・・始め」

今度は策士が勝ちを得た、足が縺れよろけたと見せかけ面打ちに来る所を抜き胴を放ったのである。

此れで、残ったのは四人となった、師範代がくじ引きをしようとした時、殿様が声を掛けた。

「待て、組み合わせは、儂が決める、良いな」

「ははぁー」と師範代は下がった。

「一試合目と二試合目の勝者が先に試合え、次に三試合目と四試合目の勝者じゃ」

師範代も重席の者たちも同じ思いだった。

もし、二と三の試合勝者が試合えば、又、長時間が予想されたからである。

つまり、殿様が決めた試合の結果が皆も見えていると言うことであった。

師範代が一旦四人を下がらせ、改めて一試合目と二試合目の勝者を呼んだ。

龍一郎が立ち上がり竹刀を持った、相手も竹刀を持った。

龍一郎は相手の目に勝利への執着を感じた。

が、如何せん既に疲労困憊である。

「始め」

師範代の声が掛かった。

試合であるから当然、慈悲も遠慮も配慮も無用である。

龍一郎は、初めて上段に構え、ゆっくり前進し、相手の竹刀を床に叩き落とした。

見ている者には、上段からの振り下ろしがゆったりしたものに見えた。

と思った時には、龍一郎の竹刀は上段に戻り、立ち位置も元に戻っていた。

「勝負あった」

師範代が判定した。

直ちに、二試合目が告げられ、あの男が立ち上がり、もう一人も立ち上がった。

二人が竹刀を受け取り向き合った。

「始め」

師範代の声が掛かった。

今度はあの男が龍一郎の真似をし上段からの打ち下ろしで相手の竹刀を叩き落とした。

「勝負あった」

師範代が判定し、二人の敗者は席に戻り太刀を持ち上座に礼をし稽古場を去って行った。

殿様が家老に耳打ちした

「儂は、江戸家老の池田 次郎右衞門じゃ、二人の者、こちらに参れ」

二人は高所正面に座し一礼し言葉を待った

「姓名、流派、里、住まいを述べよ」

「どうぞ、お先に」

「では、お言葉に甘えまして、私の姓名は岩澤 平四郎と申します。

代々の浪人でございます、芝神明近くの長屋に妹と住まいしております」

「岩澤 平四郎殿と申されるか、良い名じゃ、妹御と一緒とな、親御殿は、如何が致した」

「私が十九のおりに父が、二十一にて母を失いました」

「さようか、岩澤殿の歳は幾つかの」

「二十八にございます」

「妹御は幾つじゃ」

「十八にございます」

「解り申した、では、もう一方、願おう」

「私は、橘 龍一郎と申します、江戸の生まれにて御家人、二十六にございます」

「橘殿、何故、着流しで参ったな」

「ここの所、江戸散策を致しておりまして、その姿にございます」

「橘殿、何故、月代を剃っておられぬな」

「八年程、江戸を離れ武者修行をしておりまして山の中では、月代など考えも致しませんでした」

「八年の武者修行とな・・・」と言って、殿様を見、周りの家臣たちを見渡した。

「はい」

「幾つもの国を回ったであろうなぁー」と感銘の声で言った。

「はい、蝦夷地・・・琉球以外は」

「うむ・・・・、ところで、殿が其の方らの一人に絞るのは惜・・し・・い・・と申されておる、どうかな」

「どうと申されますと」

「お待ち下さい」

「何じゃ橘殿」

「私は、御家人とは申せ直参でございます、貴藩の剣術指南役の任に就く事は出来かねます。

本日は、私の組頭の命により参じました」

「おぉー、おぬしがその者であったか」と周りを見渡し、組頭を見つけ頷いた。

「はい、このまま二人が戦わずお帰し戴くことは、適いますまいか」

「勿論じゃ、試合って貰う」

「致し方御座らん、では、お聞き届け戴きたい願いがございます」

「何じゃ、申してみよ」

「今、申しましたように、私は直参です、勝ちを得ましても指南役には就りませぬ。

負ければ勿論の事で御座います。

そこで我ら二人が試合いし勝敗に関わらず岩澤殿を指南役にお願い致します。

私が勝ちを得ましても指南役を勤める事が出来ぬが故に御座いまする」

「確かに、直参ではの~」其の時、又、殿様が耳打ちした

「橘殿、勝敗に関わらず、都合の良い時に指導する師範に就ってもらえようか。

岩澤殿、そなたには、勝敗に関わらず剣術指南役に就って貰えようか」

「願ってもない事です」

「岩澤殿、いかが」

「負けても、で、よろしいのでしょうか」

「構わぬ、但し、二人の勝負に関わらず、 岩澤殿には、師範代と試合って戴きたいが、いかがかの」

「かまいません、では、先に師範代と試合いとうございます」

「先に、師範代と・・・・なるほど」と言い、横を見ると、殿様が頷いていた。

「決まった、 今をもって当藩、剣術指南役決定試合を終了と致す。

当家、師範代と岩澤殿との試合にて、岩澤殿が勝ちを得た時点で剣術指南役、就任と致す。

岩澤殿が負けなれば、再度の公募と致す、太郎佐、岩澤殿と試合え」

「はぁ」

師範代が二本の竹刀を持参し、平四郎に選ばせた。

龍一郎は待ちの場に下がったが家老の願いにより龍一郎が審判となった。

師範代と平四郎が向き合った。

龍一郎が両者を交互に見て告げた。

「始め」

試合は相正眼で始まったが、突然、師範代の顔が強張った。

対峙して初めて、平四郎の技量が解ったのだ、手が出せなかった。

暫くして平四郎の剣先が上下に細かく動き相手を誘った。

師範代が八双に変化させ、直ぐに面打ちに出た、平四郎が右に抜け、胴打ちを決めた。

「勝負あった」

龍一郎の声が掛かり終わった。

「今より、岩澤殿が当家の剣術指南役でござる、皆の者、心致せ、殿、お言葉を」

家老が宣言し殿様へ場を譲った。

龍一郎は待ち場に戻り、平四郎と師範代は平伏した。

「岩澤殿、只今より、当家、剣術指南役を任ずる」

「ははぁ」

「 太郎佐、しかと、指導を仰げ良いな」

「ははぁ」

殿様の後を継ぎ家老が稽古場に集う家臣一同に告げた。

「これより、当家、剣術指南役・岩澤平四郎と当家、剣術師範・橘龍一郎の模範試合を行う。

両者、前へ、太郎佐、審判を勤めよ」

龍一郎と平四郎は、竹刀を選び向き合った。

師範代・太郎佐が頃合いを計り告げた。

「始め」

勿論、始まりは相正眼であった、が、今度は平四郎が強張ってしまった。

龍一郎の技量は師範代の力量では解らない、見物している者には力の抜けた隙だらけに見えるのである。

いや平四郎にも解からなかったのだ、と今、対戦してみて実感していた。

平四郎は、龍一郎が、並々ならぬ剣者と感じた。

稽古場での修行ではない、本人が言った様に武者修行での真剣勝負の数が醸し出すものだ。

平四郎も訳あって全国を旅しており、真剣での勝負もあった。

だが、今、対峙している男、龍一郎の醸し出すものは、並々ならぬ数々の修羅場経験を感じさせた。

平四郎は飲まれている自分を意識し、数歩後退し深く呼吸しその場で何度も飛び跳ね緊張を解き放った。

その間、龍一郎は竹刀を右手に垂らし持ち平四郎を小さな笑みと供に待っていた、

「お待たせ致した、お手柔らかに」

「こちらこそ、お手柔らかに」

再度、二人は相正眼で対峙した、平四郎の心は決まっていた。

平四郎は気持ちを切り替えていた、此れは試合ではない、況してや勝つつもりはない、下級者が上位者に指導を受けているのだ・・・と。

その思いに、身体は伸びやかに躍動し、竹刀が迷いなく振られた。

龍一郎は平四郎の竹刀を全て受け、流し、弾き、抑えた。

当初見ている者達には平四郎が、優位に見えた。

其の内、攻められているはずの龍一郎が最初の立ち位置から全く動いていない事に気付く者が現れ始め、次々に伝えられ自分たちの剣術指南役になる人の優勢を喜んでいた者たちも、この事実に驚き、信じられない思いに至っていた。

平四郎の打ち込みは、非常に鋭く重い感じで、見ている藩士たちには、一太刀でも受ける自信がなかったのだ。

その打ち込みを、この橘龍一郎と言う男は、平然と受け、流し、弾き一歩も動いていないのである。

高所の殿様、重席の方々も驚愕していた。

家老の次郎右衞門は、師範代の太郎佐と岩澤平四郎の試合を見て「上には上があるものじゃ、次元が違う」と思った。

だが、その岩澤平四郎と橘殿の試合は、これまた「次元が違う、上には上がある、一体何処まで上があるのやら」と言う思いにさせられた。

誰の目にも勝敗は明らかで、それは立ち会っている本人たちにも解ったいた。

素早く激しい打ち込みは半刻も続き、その勢いに衰えはなかった。

突然、夢から覚めた様に殿様が家老に耳打ちした。

「それまで」

家老が稽古場に響き渡る程の大声で試合を止めた。

試合っていた双方が元の位置に戻り正座し高所に向かった。

家老が話し出そうとすると殿様が手で留め話出した。

「良い試合を見せて貰うた、剣術指南役・岩澤平四郎、藩士の剣技向上に力を尽くせ」

「ははぁ」

「直参、橘龍一郎殿、当家・客分剣術師範として藩士の剣技向上に力を貸して下されよ」

「畏まりました」

「次郎右衞門、二人の持成し(モテナシ)を良しなにな」

殿様が立ち上がり満足そうに満面の笑みを浮かべ去って行った。

「皆の者、本日、ご苦労であった、見ての通り、当家は良き剣術指南役を得た。

今後、皆もこの稽古場に通い剣技向上に尽くせ。

先頃、江戸に参られた、然るお方が大層な剣術好きと聞き及んでおる、殿の望みじゃ」

然るお方とは、勿論、将軍吉宗である。

家老の大声の締めで長い七日市藩剣術指南役公募日は終わった。

「平四郎、この者、留守居役の小田輔市郎(スケシロウ)じゃ、入魂に致せ。

輔市郎、本日の後始末を誰ぞに任せ、後からわしの部屋に参れ、橘殿、 平四郎、参ろう」

家老が留守居役に指示し平四郎と龍一郎を従えて奥へと歩き出した。

家老の住まいは殿様の住まいと同様に渡り廊下で繋がっており其のまま家老の客間まで行けた。

家老が部屋に入って振り返り廊下で立ち止まった二人を不思議そうに眺め問うた。

「いかがした」

「足が汚れております」

平四郎が声で答え、龍一郎は足を指差していた。

家老が大笑いし大喜びした。

「良き日じゃ、良き日じゃ」

その声に、導かれる様に女中が現れた。

「お疲れ様でございました、御用は」

「急いで、足の潅ぎ水と足拭きじゃ、次に酒、食事の順にな」

「承知いたしました、ほかに、お人は」

「おぉ、輔市郎が参る」

「畏まりました、少々、お待ち下さい」

と言って下がって行った。

家老が廊下に出て来て足を庭に出し腰掛けた。

「さぞ、疲れたであろう」

家老が二人に労いの言葉を掛けた。

「はい、橘殿と立ち会うまでは、疲れなどありませんでしたが・・・・」

「で、あろうなぁ~」

「御家老、正直な所をお聞かせ下さい、私よりも橘殿をお望みでは」

「平四郎、儂が、その様に見えるか」

「解りません」

「では、橘殿に、尋ねてみよ、歳は苦労の数と等しくはないでな」

「橘殿の苦労は、多いのですか」

「と、わしは見た、どうじゃな、橘殿」

「今後は、龍一郎とお呼び下さい、苦労の数は、どちらが多いかわかりませんが、平四郎殿を選ばれた理由は解ります」

「それ、みよ」

「しからば龍一郎殿、何故に御座いましょうや」

「若輩は私です、殿は無しに願います、私は、八年もの間、自由気儘に生きて来ました。

どのような藩でも勤まるはずがありません」

「左様で・・・・」と家老を見た。

「橘殿の言う通り、苦労比べは出来ぬが、やはり、平四郎は苦労が足りぬ」

「左様で」と同じ言葉を繰り返した。

家老も龍一郎も平四郎なりの人には言えぬ苦労があると思った。

だが、その後の思いが異なった。

家老の思いは 『藩に、災いがなければ、なんでもよい』で有り、龍一郎の思いは 『生涯の友を見出した、何であろうと手助けいたすぞ』で有った。

二人の女中が水桶と足拭きを持って現れ、二人の足を洗おうと庭に下りるのを二人同時に止め、

「自分で致す」

気せずして一緒に言って足を自ら洗い足拭きを貰い拭いて座敷に上がった。

「平四郎、剣術指南役は江戸家老直属でな、上役は、儂一人じゃ」

「左様で」と三度目だ

廊下を歩く音が聞こえ声が掛かった。

「御家老、輔市郎(スケシロウ)で御座います」

「入れ」

輔市郎が部屋に入り、改めて、平四郎、龍一郎に挨拶した。

「留守居役の小田 輔市郎(スケシロウ) と申します、以後、入魂のお付き合いを願います」

「平四郎とお呼び下さい、こちらこそ、入魂のお付き合いをお願いします」

「龍一郎とお呼び下さい、こちらこそ、入魂のお付き合いをお願いします」

廊下に女中の声がし酒の支度が成った、改めて、労を労い杯を開けた。

「輔市郎、平四郎の住まいをいかが致す」

「はい、今、稽古場に隣接します住まいには、先の館長の妻子が居られます」

「その事よ」

「私は、妹と二人にございます、長屋をご用意戴ければ、宜しいのですが」

「馬鹿を申せ、藩稽古場の館長ぞ、先の館長には、申し訳ないが、妻子には、長屋に移って戴こう、其の後、平四郎に稽古場の奥に住まいして貰う、輔市郎、手配、致せ」

女中が食事を運んで来た、こうなれば、龍一郎には、話など、どうでも良い。

飯に被り付き、どんどん膳の上の皿が空いて行く。

飯は四杯過ぎた、話も聞かず、八杯の飯を食べ、女中の入れてくれた茶を飲み、少し落ち着き、耳が活動を再開した。

呆れ顔で見ていた家老が待っていた様に問うた。

「龍一郎、師範は、引き受けてくれるのだな」

「はい、毎日と言う訳には、参りませんが、承知いたしました」

「そなたの実践剣法を伝授してくれ」

「まず、無理ですな」

龍一郎の返事はにべも無かった。

「なぜじゃ」

「とても、付いてはこれますまい」

「片鱗なりとも、頼む」

「無理で御座いましょうな・・・・・但し、平四郎殿は、付いてこれるでしょう」

「おぉ、そうか、平四郎、どうかな、修行してみるか」

「勿論です、龍一郎殿、お願い申す」

「承知した、では、私は、此れにて失礼致します、近々、お邪魔致します」

「私も、一旦長屋に戻ります、荷作りもありますれば」

「再会、楽しみにしておる」

「お暇致します」

二人は退席し、門番に顔を覚えて貰う事も兼ねて挨拶し屋敷を後にした。

二人は、お互いに心の中で、二人の付き合いがこれから長いものになる事を予感していた。

二人は、とある橋の袂で別れた。

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