第5話 龍一郎 加賀行

龍一郎の最初の加賀行は見る所も多く又、鑑札も無い為、関所を通る事もできず六日掛かった。

龍一郎に取っては遅い、何せ初めての場所を次々に通るのであるから好奇心旺盛な少年には自然寄り道が多くなった。

ましてや龍一郎は人一倍好奇心が旺盛だったから先を急ぐ事が容易では無かった。

龍一郎は前田家江戸屋敷を暮五つに発った、勿論、俗に言う上屋敷である。



[参考]---<武家屋敷の呼び名>----------------------------------------------

時代劇などで○○藩上屋敷、○○藩中屋敷、○○藩下屋敷などの呼び名が出てきますが、これは後世の呼び方で当時の呼び方では無い様です。

と言うのも、○○藩屋敷と言っていると領地替えがあると屋敷名が変わります。

所領地が替わっても拝領屋敷は、殆んどの場合替わりませんでした。

何らかの不祥事を起し大藩が小藩に替えられ大きな屋敷が維持できない、格式に合わないなどの理由が無い限り屋敷替えは無かった様で、屋敷は○○家が拝領しており藩ではありませんでしたので、名称も○○家江戸屋敷と言った様です。

同様に太坂に在っては○○家太坂屋敷、京に在っては○○家京屋敷と呼ばれた様です。

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龍一郎は江戸藩邸を出て新宿、世田谷、調布、府中、八王子、大月、甲府、諏訪、松本、と通り安曇野の前で西に進路を変え乗鞍岳の北を選んだ。

そのあと、再び北を目指し富山で海沿いに日本海に着いた。

その後、再び西に路を変え高岡を通り目的地、加賀金沢に着いた。

途中、府中の賑わいに驚き、諏訪大社の荘厳さに触れた。

龍一郎はまだ少年だったが、座禅修行で仏儀にも興味を持っていた。

それ故に大社の荘厳さを十分に堪能する事が出来た。

静寂の荘厳さはなかなか理解できるものではない。

龍一郎は幼いながら座禅修行により、それを理解する事が出来た。

龍一郎は大社の森の中で座禅を組んだ。

すると横に人が並んで座禅を組み始め五十名を超える員数になってしまった。

皆で夕刻まで静寂を堪能し参加していた人々に礼を述べられお布施をいただいた。

思わぬ収入に人々の世間に対する世情不安を改めて理解する事ができた。

南に乗鞍岳を見上げた時、登ってみたいと言う欲求に駆られた。

だが今回の任を考え、何れ又の機会と諦めた。

龍一郎は昼間には街道を走った訳では無かった。

立ち寄る街に近づくと街道をゆっくり歩き、それ以外は街道が見える山道を走った。

夜は街道を走り人に会うと街道の脇を走った。

夜間でも人通りは以外に多く驚いた。

飛脚、腕に覚えのある渡世人や浪人、用心棒を多数連れた荷車隊、武家の早馬、など様々だった。

龍一郎は北へ向かい富山藩城下を目指した。



[参考]---<富山の地と城>----------------------------------------------------

富山の地は北陸街道と飛騨街道が交わる越中中央の要衝であった。

富山城は十六世紀中ごろ越中東部への進出を図る神保長職により築かれたとされている。

神通川の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見え浮城(ウキシロ)の異名をとった。

又、安住城(アズミジョウ)とも言われた。

しかし最近の発掘調査により室町時代前期の遺構が発見され、創建時期は更に遡ると考えられています。

寛永16年(1639年)、加賀藩2代藩主前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩ができました。

翌寛永17年(1640年)、利次はそのころ加賀藩領内にあった富山城を仮城として借り越中に入りました。万治4年(1661年)、幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、また城下町を整えました。

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龍一郎が訪れたのは、そんな経緯を持つ富山城城下だった。

特に薬種問屋が軒を連ね目を引いた、富山の売薬は日ノ本中に売り歩き名が知られていた。



[参考]---<越中富山の薬売り>----------------------------------------------

1639年に加賀藩から分藩した富山藩は多くの家臣や参勤交代・江戸幕府の委託事業などで財政難に苦しめられていました、

越中富山の売薬の起こりは加賀藩に依存しない経済基盤を作る為に売薬商法を考案したと言われている。

17世紀終期、富山藩第2代藩主・前田正甫が薬に興味を持ち研究し富山反魂丹(はんごんたん)を開発した。

1690年に江戸城で腹痛になった三春藩主に前田正甫が反魂丹を服用させたところ腹痛が驚異的に回復した逸話がある。

このことを聞いた諸国の大名が富山売薬の行商を懇請したことで富山の売薬は有名になった。

さらに富山城下の製薬店や薬種業者の自主的な商売を踏まえて産業奨励のために売薬を採り上げた。

このことが越中売薬発生の大きな契機となった。

18世紀には売薬は藩の一大事業になり反魂丹商売人に対する各種の心得が示された。

この商売道徳が現在まで富山売薬を発展させてきた一因で、藩の援助と取締りのもと越中売薬は種類を広げながら次第に販路を拡大して行った。

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龍一郎は、折角とばかりに反魂丹を買い、他に傷の塗り薬も買い揃えた。

只、問題は子供が一人で薬をそれも一人分以上に買う事に疑問を持たれない様にする事だった。

一軒の薬種問屋に龍一郎は入った。

「お邪魔しますだ、おらは、松本近在の村の者ですだ、村の庄屋様に頼まれまして村人の為の薬を求めに参りましただ、分けてくんろ、銭は庄屋様に預かってきただであるだ」

「おぉ、松本からですか、それはそれは、子供の身で大変でした、それで何を庄屋さんに頼まれましたな」

と店の者との交渉が始まり何の疑いも無く買い揃える事ができた。

子供の龍一郎に取って苦労するのは買い物だけでは無い、食べ物、泊まる処も大人の様にはいかない、旅籠への子供一人での泊まりは無理がある、その為、神社・仏閣の軒下や御堂での寝泊りとなった。

食事は、庄屋等大きな屋敷の台所に忍び込み炊き残しの米を握り飯にし煮付け、香の物をおかずに選び無断で頂戴した、盗みである。

但し、過分なお代は残して置いた、多分台所の賄い方が懐に納め帳尻を合わせるものと思われた。

富山を出た龍一郎は高岡城下を目指した。

富山で思いの外、時間を喰ってしまったので高岡を足早に過ぎた。

これから何度も金沢へ行く事になろう、高岡はそのおりの事と諦めた。加賀金沢には昼前に着いた。



[参考]---<加賀金沢の歴史>-----------------------------------------------

「金沢」と言う名は、昔、山科の地(現在の金沢市郊外)に住んでいた芋掘り藤五郎が山芋を洗っていたところ、砂金が出たため、「金洗いの沢」と呼ばれたという伝説によるものとの説がある。

江戸時代には、江戸幕府(約700万石と言われる)を除いて、大名中最大の102万5千石の石高を領する加賀藩の城下町として栄えた。

人口は江戸・大坂・京の三都に次ぎ、名古屋と並ぶ大都市だった。

戦国時代の一向一揆で本願寺の拠点が置かれた尾山御坊(金沢御坊)と、その周辺の寺内町を起源とする。

天正8年(1580年)、織田信長配下の柴田勝家の甥佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、その地に尾山城を築城した。

賤ヶ岳の戦い以降、前田利家が尾山城(金沢城)を居城とし、加賀藩の基礎が形付けられた。

慶長5年(1599年)に利家が死去すると、翌年には関ヶ原の戦いが起こり利家の遺領を相続した長男の前田利長は、東軍の徳川家康につき、西軍に属した弟の前田利政の所領を戦後に与えられ、加賀国、能登国、越中国を有する大大名となった。

二代目藩主前田利常の時代には、十村制や改作法といった農政改革を進め、支配機構の整備が行われ藩体制が確立した。

江戸時代の金沢の人口は十七世紀後半には十万人を超え、江戸、大坂、京の三都には及ばないものの、名古屋と並ぶ日本第四~五位の都市として発達し、美術工芸など現在に受け継がれる都市文化が開花した。


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