第2話 時代背景

ここでこの時代の話をしておこう。

徳川幕府は延宝8年(1680年)5月から第五代将軍・徳川綱吉の治世であった。

後世に生類憐れみの令をはじめとする悪政といわれる政治を行った。

だが、貞享元年(1684年)、大老・堀田正俊が刺殺されるまでの治世は悪政ではない。

有能な小身旗本の登用、外様大名からも一部幕閣への登用。

四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島大聖堂を建立。

御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上。

また大和国と河内国一帯の御陵を調査し、修復が必要なものに巨額な資金をかけて修復。

しかし側用人の柳沢吉保らを重用した頃から“悪政”といわれる政治を行うようになった。

綱吉は宝永6年(1709年)に享年63 歳で死去した。

48歳で第6代将軍に就任した家宣は、悪評の高かった生類憐れみの令を廃止した。

正徳2年10月14日(1712年11月12日)に享年51歳で死去した。

宝永4宝永六年七月三日(1709年8月8日)に生まれた四男・鍋松が第七代将軍に就任した。

徳川十五代の中で最年少の四歳で将軍になった人物である。

四歳では政治が解かるはずもなく当然の如く側近政治であった。

幕政は幼少の家継に代わって生母・月光院や側用人の間部、白石らが主導した。

家継は正徳6年(1716年)3月、病の床に臥し、4月30日に死去した。


家継の死により、第3代将軍・徳川家光の系統は断絶し、第8代将軍には紀州徳川家より徳川吉宗が迎えられた。

吉宗は徳川御三家の紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として貞享元年10月21日(1684年11月17日)に生まれた。

兄の次郎吉が病死した後は名を新之助と改めて江戸の紀州藩邸に移り住んだ。

元禄10年(1697年)、14歳で徳川綱吉に拝謁し越前国丹生郡3万石を賜り葛野藩主となった。

宝永2年(1705年)に長兄・綱教(紀州藩第3代藩主)が死去し、三兄・頼職が跡を継いだ。

しかし頼職が病死したため、22歳で紀州徳川家を相続し第5代藩主に就任し吉宗と改名した。

第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えた。

御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。

この物語はそんな時代のおはなしである。

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