第2話 推し作家と前日譚①

 こんな事態に陥った経緯を説明するためには、今から一ヶ月前まで遡る。


「橘」


 校舎裏。

 日陰になったその場所で、彼女はびくりと身体を震わせた。


「ひ、柊くん?」


 おずおずとこちらに顔を向けた彼女、その手にはビニールで包まれたサンドイッチがある。近所のコンビニでたくさん並んでいるものだ。


「またコンビニ飯か。栄養偏るぞ?」


「ご、ごめんなさい……」


「いや、謝る事じゃねえんだけどな……隣、いいか?」


「ど、どうぞ……」


「悪いな、じゃあお邪魔して、っと」


 苦笑しながら、彼女の隣に腰掛ける。

 校舎の壁を背もたれにしながら、俺はここに来た目的を果たすべく行動を開始した。


「ほら」


「え?」


 突然差し出された小包に目を丸くする橘。

 そんな彼女に、俺は照れ臭さを隠せないまま言葉を紡ぐ。


「作ってきたんだ、弁当。どうせまた適当に買い食いしてるだろうと思って」


「そ、そんな、悪いですよ……」


「受け取ってもらえないと俺が二人分食べないとダメになる。食べてくれた方が助かるんだが、どうだ?」


「柊くん……」


 問いかけた俺に、彼女はしばらく言葉を発さなかったものの、やがてくすりと微笑をこぼした。


「……柊くんは、ずるい人ですね」


「まったくだ。親の顔が見たいもんだよな」


 下手な軽口に、それでも彼女はくすくすと楽しげに笑ってくれる。

 それを心地よく感じながら、2人して両手を合わせる。


「「いただきます」」


 合唱の後、食事を開始する。

 

「……! おいしいです、柊くん」


「そりゃよかった」


「はい、すごくちゃんとしてます」


「料理に対する感想がそれになるのはだいぶキテるな……」

 

 作家にしてはあまりにもあんまりな食レポに悲哀を感じながら、俺は言葉を紡ぐ。


「……やばいのか? 締め切り」

 

 問うた俺に、橘は困ったように笑う。


「……少しだけ。でも、もう慣れっこですから」


「そういうもんなのか……大変だな、漫画家って」


 疲れが隠せない彼女の笑みに、俺はただ相槌未満な言葉しか返せない。

 

 俺のクラスメイト、橘 亜衣(たちばな あい)が漫画家『藍色みかん』であると知ったのはクラス替えがあった四月の事。

 過労と栄養失調から行き倒れていた橘を、道端で偶然見かけた俺は彼女を自宅まで運び、粥を作るなどささやかながら看病を施した。


『ほら、替えのタオルだ。頭に乗っけとけ』


『ご、ごめんなさい、柊くん……』


『気にすんな。袖振り合うも他生の縁って言うしな』


 掛け布団からちょこんと顔を出しながら謝ってくる彼女に俺はからからと笑う。


『むしろ悪いな、見つけたのが俺みたいな冴えないクラスメイトで』


『いえ、そんな! ……本当に、ありがとうございます』


『そりゃ何より。もうすぐ粥できるからな』


『は、はい……』

 

 照れ臭そうにもぞもぞと蠢くクラスメイトに若干癒されながら、俺はキッチンに戻ろうとして、


『……ん?』


 その折、不意に目にしたのは自分が好きで好きで仕方がない漫画の手書きイラストで。


『橘も好きなのか、はるゆら。いいよなはるゆら……いい……』


『そ、それは……!』


『……? このイラスト、どこかで……』


 なぜか慌て出した橘をよそに、俺は食い入るようにそのイラストを見つめ。

 その数秒後、思い出されたのは昨晩出版社主催で行われた『はるゆら』こと『春にゆらめく』十巻発行記念生放送で。


『これ、昨日みかん先生が生放送で描いてた……』


『だ、だめっ……!』


『うおっ!?』


 隠そうとしたのだろう、突如として飛びついてきたパジャマ姿の橘に押され、俺はそのまま壁際の本棚に激突し。


『あ……』


 そうしてバタバタと棚から降ってきたのは設定資料の山、山、山。

 それはすべて、俺のような古参ファンですら手に入れられない逸品モノで。


『……藍色みかん、先生?』

『…………』


 半ば思考を停止させながら問いかけたこちらに、彼女は観念したとばかりにこくりと頷いたのだった。

 あの日以来、俺は何かと家事がおろそかになりがちな橘に手料理を馳走したりしていた。


「何度思い出しても災難だったよな、橘。よく知らないクラスメイトに家に入り込まれた挙句、大事な秘密を知られちまったんだから」


「そ、そんな事ありません!」


 我ながら随分やらかしたもんだと自虐するこちらに、しかし橘が声を荒げて否定する。


「私、本当に嬉しかったんです。柊くんが助けてくれなかったら、きっとダメになってました」


「橘は抱え込むタイプだからな……困った事があったら言ってくれよ。飯くらいならいくらでも作ってやるから」

 

「柊くん……」


 そう告げた俺に、彼女は目を丸くした後、ふわりと淡く微笑んでみせた。


「……ありがとうございます、柊くん。こんなにも優しいファンがいてくれて、『藍色みかん』は幸せ者ですね」


「あ、いや、それはそうなんだが……」


「え?」


「……いや、何でもない」


 きょとんとする彼女に苦笑を返す。


 一応、友達としても心配してるつもりではあるんだがわざわざ言う事でもないだろう。ファンとしての下心がないとも言い切れないし。


 そんな俺の心などきっと露も知らず、橘は両の手を握りながらやる気満々といった様子で言葉を紡ぐ。


「楽しみにしててください。次の話も、柊くんに心から喜んでもらえるよう頑張って描きますから」


「おう、期待しとく。ま、みかん先生が描いた漫画なら何でも美味しくいただいちゃうけどな」


「もう……柊くんは私に甘すぎます」


「ファンはそうなっちまうもんなんだよ。……でも、無理はすんなよ」


「……はい」


 祈るように告げた願いに、橘はこくりと頷いて。

 それからそっと、こちらの肩に重さが来た。


「橘……?」

 

 驚いて視線を向けた先、俺の友人はその小さな頭をこちらの肩に載せていて。


「ごめんなさい、少しだけ寝不足で……肩を借りてもいいですか?」


「いや、別に構わねえけど……」


「ありがとうございます。じゃあ、少しだけこのままで……」


 そう言って橘は目を閉じ、それきり何も言わなくなった。

 遠慮がちに預けられた重みに、触れ合う身体の柔らかさに、彼女の実在性を強く感じる。

 ほのかに香る甘い匂いにドギマギとしながらも、しかし俺はどうにか平静を保った。

 親愛なる作家先生が、大切な友人が、せめて今だけでも穏やかに過ごせるように。

 

「…………」

 

 そうして、予冷のチャイムが鳴り響くまで。

 残りの昼休みは、静かに過ぎ去った。

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