貴音と美結・貴音と雪斗《6》
「貴音様っ‼︎」
僕に気づいた美結が駆けてくる。
開かれた門。
閉めておくよう指示してるというのに。
美結が嫌われる理由は、指示を守らない奔放さだろうか。薄闇の中、美結は微笑んでいる。
「よかった。そろそろ帰って来る気がしたので。書庫室の掃除は明日に続きますが」
顔と服に付いた汚れが見える。まくられた袖越しに見える腕にも……鋭利な傷痕と共に。
「掃除のしがいがあります。これも忘れてませんよ」
微かな音を立てて、差しだされたクッキー。
「ナッツを入れてみたんです。今日は怒られずに渡せますね」
僕を見ながら、美結はペロリと舌を出した。
遠のいた過去、眠るように息絶えた猫。
黄昏庭園の片隅に埋められた骸。霧島貴音として生き始めた頃埋めたもの。
微かな期待が僕を巡る。
地面に染み込んだリオンの血。不死の命が骸に流れ込んでいるならば。猫が生まれ変わった美結は
「君は何故、召使い達に嫌われている」
「たぶん、空気を読まないからだと思います」
美結はあたりを見回した。
僕とふたりだけの場所で、他の誰にも話を聞かれたくないように。
「空気を読む必要はないんです。私はただ、願い叶えてきた。記憶と私だとわかる
「繰り返し?」
僕の声は掠れている。
僕を見て微笑む美結。
「貴音様は気づいてくれましたね? 私の腕に残る傷痕に。たぶん……私の正体にも」
「猫、僕が助けた」
僕の脳裏に浮かぶ白い
それは僕達を包む闇の中、驚くほど鮮明に見える。
「私は何人もの人間に殺されかけたんです。傷をつけられ体中にテープを巻かれて。きっかけは飼い主に捨てられたことでした。彷徨っていた私を囲い、おびき寄せようとした人達。寂しくて……ひとりでいることが怖かった私は、彼らを信じてしまいました。私を助けるために笑ってたんじゃない。弱い者を傷つけることに喜びを感じていたのに」
巻かれたガムテープと白い毛を濡らした血。
あの時、猫は僕の前で気を失った。手当てしてからの数日間、僕を見る目に宿っていた温かな光。それは今……美結に引き継がれている。
「彼らがいなくなり、私が探したのは死に場所でした。体中の痛みが、生きることを否定していく。迷い込んだ誰もいない町……そこは私にぴったりな死に場所に思えたんです。夜になって、屋敷の明かりに気づくまでは」
僕達を包む闇と冷たい風。
震える美結を前に僕は動けずにいる。僕を縛りつけるのは、混じりあう過去と今の風だ。
「私には明かりが温かなものに見えました。明かりに誘われるまま屋敷に向かい、貴音様が助けてくださった。貴音様が秘める寂しさは私と同じ。だから私は願ったんです。何度でも生まれ変わって、貴音様を守れるように……と」
何度でも
僕を?
美結は気づいてるのか。
僕が歳を取らず生き続ける人間だと。
「最初に生まれ変わったのは虫でした。覚えてませんか? 遠い過去の春。私は何度も肩に乗って、貴音様が見る花に向かって飛び立った。2度目の生まれ変わりは鳥。貴音様が外に出るようにと鳴き続けてたんですよ。3度めの今、やっと人になれたんです。雇ってもらえると信じて、貴音様のために出来ることを考えました。今も願ってるんです。この次も人に生まれ変わる。その次も次も……私のひとつだけの願い、空気を読んでる場合じゃありません」
「僕は生き続ける人間だ。僕を追いかける限り、君の願いは」
「終わりませんね。だから、私は幸せでいられます」
「幸せ?」
「はい。貴音様がいることが私の幸せなんです。一緒に願ってくれたら、次も人になれる気がするんですけど」
「僕が……願う?」
「与えられるものは思うとおりじゃない。だから願うんですよ。叶わなくても、叶うことを信じて。人になれなくても一緒に願ってくれるなら。私は誇りを持って生まれてくることが出来る。どんな姿になろうとも……貴音様と会うために」
美結の目が紺碧の空に流れていく。油絵に描かれたいくつかの
神と呼ばれる創造主が、何処にいるのか僕にはわからない。天使と死神が住む世界が何処にあるのかも。
それでも、見えなくてもそれらは存在する。空に隠された
美結の繰り返される記憶と命。
それは神が叶えた願いの姿なのか、リオンの血が骸に流れ紡がれた不死の皮肉なのか。
わからないが、わかることは……僕はひとつだけの生きる意味を見つけた。
巡る
——苦しみがあるからこその幸せがあるんだ。
老人が言っていたこと。
美結がいなくなった時、僕は悲しみに包まれるだろうか。それでも、いつか巡り逢えた時。
「貴音様。命を与えられた時から、私達は自由なんです。ずっと、旅を続けてるんですよ」
「いつか、屋敷を捨てることが許されるだろうか。旅の先で……君は、僕の前に現れるのか?」
「私がいなくなったあとも、いっぱいの思い出を作ってください。貴音様がどんな話を聞かせてくれるのか、願うことが楽しみになってきました」
闇の中で、美結の笑顔が弾けるように輝いた。
「君が望むなら、僕も願い続けよう。ただし、条件がある」
「条件? なんです?」
「これからは、しっかりと空気を読むことだ。君が叱られるのを雪斗が悲しんでいる。僕が願うだけ、空気を読む余裕が出来るだろう」
美結をうながし、肩を並べ屋敷へと向かう。
僕の中に響く鳴き声は、遠のいていく白い猫の残響なのか、オモイデ屋の猫の声なのか。
「君に届いた手紙がある」
「手紙?」
美結は不思議そうに僕を見上げる。
何故自分に手紙が届くのか。
「雪斗のクラスメイトが書いたものらしい。雪斗への手紙と君に宛てて書かれたもの」
「ほんとですか? 雪斗様、喜びますね」
美結は嬉しそうに笑う。
自分に宛てられた手紙に、何が書かれているかわからないというのに。
「明日、書庫室で君への手紙を読もう。おそらくは、僕のことも書かれているから」
「どうして、貴音様のことが?」
「それを知るために読むんだ」
***
手紙に書かれていたものは雪斗への学校への誘い。そして、都筑颯太による僕へのメッセージ。
同封された写真の中、黄昏の慟哭を手に微笑む少年。彼が……都筑颯太か。
次章〈開かれるオモイデへの扉〉
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