貴音と美結・貴音と雪斗《5》

 僕を残し、老人は店から離れていった。

 お茶のおかわりを淹れるため。僕が持つ湯呑み茶碗も少しの湯気が出るだけになった。


 老人の顔に刻まれた皺は、彼が生き続けた長さを感じさせる。彼にはないのだろうか。憂いも苦しみも、見られ続ける恐怖も。

 リリスにとって、僕が生きる姿はどれほど哀れで滑稽なのだろう。彼女に抗い、死ぬことすら許されない。


 歳を取らないことも、姿が変わらないことも知られるのが怖い。だから繰り返した召使い達の解雇。

 屋敷という名の偽りの居場所。

 そこに居続けることは、苦痛を呼び起こし外の空気を渇望し続けた。逃げ場所も行ける場所もないまま、屋敷を出て彷徨ったひと時。

 僕はリリスの操り人形にすぎない。

 せめて操る糸を断ち切ることが出来るなら。


 名刺に伸びかけた手が止まる。こんなものを受け取って何になるのか。


「さぁ、煎れたてのお茶だ」


 戻ってきた老人は、湯呑み茶碗と皿を持っている。

 皿に乗っているのは大福餅。


「客人に残り物を食べさせる訳にはいかないな。とは言え、お使いを頼む訳にも」


 戻るなりふざけてるのか。

 本当に、掴みどころのない老人だ。


「気楽なものだな」

「おや、店で茶を飲むことがかな?」

「あなたに何がある。苦しみも恐れもないなら、それに変わるものは」

「客人に見えるもの。それが、僕にあるすべてさ」


 老人は笑い、大福餅を食べ始めた。

 沈黙が訪れた店の中、時計の針の音に気づく。

 店の外から聞こえる話し笑う声。ガラクタにしか見えない、それでも商品として並べられた数々の物。


「店があり商品ものがあり風丸がいる。働いてくれる青年がいて、訪ねてくる人達がいる。それだけで、僕は幸せなんだよ」

「苦しみを感じたことは」

「あるからこそ、幸せは有り難い」


 ふたつめの大福餅を手に老人は笑う。


「苦しみを知るからこその幸せがあるんだ。いつかは君にも、わかる時が来るだろう」

「幸せ? ……僕が?」

「時雨さん‼︎ 待たせて悪かったね‼︎」


 ドアが開く音と響く女の声。

 入ってきたのは白い割烹着に身を包んだ老婆。


「なんだい、時雨さんは。はりきって来てみれば、また大福餅だ」


 呆れ気味な老婆の目が僕に向けられた。

 皺が刻まれた顔。だが生き生きと輝いた目と顔色の良さ、伸ばされた背は若々しい印象を呼ぶ。


「まぁ、客がいるなんて驚いた。あんたいい顔してるねぇ」


 老婆は高らかな笑い声を上げる。僕の風貌……眼帯と頬を覆う傷痕。


「怖く……ないのか? この顔」

「何言ってんのさ、目も鼻も口もある。私が怖いのは、のっぺらぼうと食い逃げだね」

紅葉もみじさん、頼んだものをすぐ出してほしいんだ。風丸が隠れっぱなしでね、天ぷらの匂いに呼ばれればいいんだが」

「まったくこの店は、仕事より猫が大事ときた。まぁ、腹を空かせてるのも気の毒だ。2人前の出前、時雨さんとお兄さんが食べるんだろ?」

「いや、僕は」

「ほらほら、和室に急ぐんだよ。格別な海老天を食べとくれ‼︎」


 老婆は出前箱を持ちながら、片方の手で僕の背中を押した。細い体の何処にこんな力が秘められてるのか。押されるまま、湯呑み茶碗からこぼれ落ちたお茶。


「何やってんのお兄さん‼︎ あぁ〜、そんな顔しなさんな、掃除なら時雨さんがしてくれるってね。時雨さん、私も食べってていいだろ? まかないの飯を一緒に持ってきたんだ」

「構わんよ。紅葉さんの話は飽きないからね」


 大福餅を食べ終えた、老人の顔に笑みが浮かんだ。







 ***


 廃墟と化した無人の町を歩く黄昏時。

 今日も雪斗はひとり、僕の部屋で過ごしているのだろう。コートのポケットの中、隠し入れた名刺。


 慌ただしいひと時だった。

 押されるまま入った和室と、老婆が並べ置いた天丼と味噌汁の湯気。掴みどころのない老人ですら、あらがうことが出来ないでいた老婆の賑やかさ。


 ふたりから解放され、和室から出て見えた猫。僕を見上げる深緑の目と空になった皿。


 ——ニャァ〜。


 猫の鳴き声に続いた老人の笑い声。


 ——君は風丸のお墨付きをもらったようだ。いつでも店に来ればいい。あの油絵も買われはしないだろう、君が手に入れない限り。


 妙なことを言うものだ。

 僕は絵を見てただけじゃないか。

 

 ——生きることを許される限り生き続ける。


 僕の命が許されるものなのか。

 わからないが、それでも。


 見上げた空を染める金色。

 雪斗と過ごす黄昏時に空を見たことはなかった。恐れを感じていた黄昏時が、温かく感じられるのは屋敷から離れているからか。

 壊れかけた家の群れを包み込む光。冷たい風が震えを呼び、味噌汁の温もりを呼び起こす。

 雪斗は味噌汁が恋しいだろうか。

 屋敷で食べるものは洋食ばかりだ。時々和食を用意すれば、雪斗の喜ぶ顔が……きっと。

 老婆がまかないにと持ってきた握り飯。

 天丼を食べながら、握り飯を羨むように見ていた老人。2個の大福餅と天丼、よく腹を壊さないものだ。


「美結」


 雪斗が僕の部屋にいるなら。

 召使いが現れても美結が叱られる心配はないだろう。

 あるいは……書庫室の掃除に徹し、部屋に来ることを忘れているなら。


 書庫室に揃う本は、マリーが生きていた頃に揃えられたものだ。時が止まった場所。綺麗になったなら、雪斗と街を歩き新しい本を買い揃えるのも悪くない。

 いつか雪斗が屋敷を引き継いでくれるなら。

 その時までに僕は、自身の不死を雪斗に告げることが出来るだろうか。





 闇が近づいてくる。

 翳りを帯びだした黄昏時の中見えてきた屋敷。



 門の前に立っているのは……美結だ。

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