貴音と美結・貴音と雪斗《4》
茶飲み話?
何を言いだすかと思えば。
話すことなどありはしない。僕はノートのことで来ただけなんだから。
「断る。知らない人間と話すなど」
老人に背を向け売り場を歩く。2度と来ることはないだろう。
古ぼけた書物。
興味を感じるのは、物語を執筆し続けた創作意欲の名残りだろうか。ダークティアラの仮面を捨てたというのに……馬鹿だな僕は。
ドアに近づいた時、壁にかけられた1枚の油絵に目を止めた。絵があるなんて店内を見るだけでは気づきもしなかった。
「
描かれているのは地球といくつかの
紺碧の宇宙の中、散りばめられた白いものは雪を思わせる。
丁寧に塗られた色。素人が描いたものだろうが、古物商店で売られていることに寂しさを感じるのは何故なのか。
「郁人君にもいつかは奢らないとね。客人、天丼と味噌汁漬物付きだ」
老人の声がする。
カウンターに見える固定電話。
「老舗の丼物屋でね、大きな海老天が評判だよ」
「聞こえなかったのか? 断ると言った」
「そうかい、僕は耳が遠くなったようだね」
愉快そうに老人は笑う。
素の行動なのか演じてるのか。
「その絵が気になるか? 若い
老人は店から離れ、裏方へと姿を消した。
店の裏に部屋があるのか。
僕だけになった店内は、猫が隠れてるとは思えない静けさだ。
猫は僕を恨むだろうな。腹を空かせてるなら、すぐにでも食べたいだろうに。僕を恐れ隠れ続けるなんて。
猫……もしも、僕が思うとおりなら。美結は白い猫の生まれ変わりだろうか。
輪廻が本当にあるのかわからない。だが、美結が見せる親しみと忠誠心。
遠のいた過去の中、膝の上で眠るように死んだ猫。
——ずっと……貴音様に仕えさせてくださいね。
美結の残像が僕に微笑む。
美結……僕は本当に、貴音という
貴音だと言い聞かせてきた。本当に、貴音として生きることを許されるのか?
リオンでもなく人でもない。
僕は……化け物なのに。
「お茶だ。熱いうちが美味い」
老人の声が響く。
盆に乗せられたふたつの湯呑み茶碗。
「商品をずらしてくれるかい? お茶を置きたいんだ」
「客が来たらどうする。油を売ってると思われないのか?」
「油なら毎日売っているよ。この店は商売が目的じゃない。捨てられ忘れられた思い出達の居場所だからね。ほら、どけておくれ」
ひび割れた手鏡と時を止めたままの置き時計。
言われるままずらすと、老人はにこやかに笑いかけてきた。
「出前が来たら和室に行こうかね。昼時ですぐには来ないかもしれないが」
陳列台に置かれた湯呑み茶碗。湯気をたてるお茶は随分と濃いめだ。
「絵の話に戻ろう。恋人の遺言は、絵を売りにだし
「何故、そう思う」
「さぁね、僕は思ったことを言っただけだ」
ひび割れた眼鏡越しに細まる目。僕のことを見透かすようじゃないか。
「早く来てくれれば有難いんだがね。匂いにつられて、風丸も顔を出すだろうから」
静けさの中、老人がお茶を飲む音が響く。
緩やかに形を変える白い湯気。触れた湯飲み茶碗から感じ取る熱さ。
「何を秘め、苦しんでるかは話さなくていい。だが与えられた命も運命も、自分が考えるより単純なものに過ぎない。生きることを許される限り生き続ける。それだけのことだと思うがね」
僕から離れていく老人。
向かう先はカウンター。
僕のそばにある油絵、白いものが雪ならば。男はこの絵に何を込めようとしたのだろう。
リリスは言っていた。
都筑颯太に与えたものは、思い出に触れ知ることが出来るものだと。それが本当なら、絵に込められたものを知ることが出来るだろうか。
「君の元に手紙が届いているね? それはここで書かれたものなんだ。彼ら……都筑君も仲間達も楽しそうだった。開けてみる価値はあると思うがね」
老人が陳列台に置いたもの。
それは古ぼけ、破れかけた1枚の名刺だ。名刺に記された和嶋時雨という名前。
「店を始めた頃、少しだけ刷ったものだ。残されたのはこの1枚だけだが……君に渡そうと思ってね」
「どうして僕に?」
「何故だろうね。ふいに、渡したいと思ったんだ」
老人はドアを開け、外を見渡すなりため息をついた。
開かれたドアの先に見える町並みと通り過ぎる人々。
「やれやれ、出前はまだ来ないらしい。腹が減った。冷蔵庫に大福餅はあったかな」
ぼやきながら僕に近づいて来る。
ひび割れた眼鏡越しに見える温かな目の光。
「少しだけ、気を楽にすることだ。見えるものが変わっていく。君にとって大きな喜びが見つかるかもわからんよ? 遠慮なく飲んでくれ。何度も言うが、お茶は熱いうちが美味いんだ」
老人は笑った。
皺が刻まれた顔に浮かぶ、少年のような笑み。
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