第501話 未来が見える
どこかすっきりしない。
一本のゲームをやりきって寝落ちした日以来、香織は常にモヤモヤとした感覚に包まれている。
何かがおかしい。
何か、大切なことを忘れてしまっているのではないか。
日常にあるべきものがない。
欠落しているモノがある。
普段通りの、特にやりがいの無い仕事をこなすルーチンワークの日々の生活の中、悶々とした気持ちだけが募っていく。
おかしいな、という感覚が湧いて来たのは自分だけではない。
周囲の友人や会社関係の人たちから『変わったね』と驚かれることが増えたのだ。
「この間百均で一緒に買い物したでしょ? 扇子を手に取った香織がさぁ、何かどこぞのお嬢様っぽく見えたのよね。どしたの?
あんな安っぽいペラペラの扇子が舞踏会の小道具に見えたわ」
「前原君、その……。何だか急に姿勢が良くなったねぇ? いや、常日頃猫背気味だったのを注意していたこちらとしては良い事だと思うよ。
何かあったのかね?」
「あれ? 香織ってチューハイ派じゃなかった? ワイン飲めるの?」
「え? 新作情報要らないの? 香織楽しみにしてたじゃない!
それに乙女ゲーブログの更新止まってるし。
まさか彼氏!? 二次元から足洗うつもり? このうらぎりものー!」
自分では自分の行動の変化は全く分からない。
以前からこうだったような気もするし、でも違ったような……
口を揃えて”どうしたの?”と言われるばかりで香織も毎日戸惑っている。
自分はこうだった気がする。そうじゃなかった気もする。
まるで自分が自分じゃないみたいだ。
※
香織は帰宅して早々、難しい顔をして部屋の一角へ向かう。
攻略が終わったゲームのパッケージを几帳面並べている本棚の前に立った。
昨今はゲーム機にダウンロードして購入が可能なゲームが増えているけれど。
クリアしたという達成感を形として残したいと言う想いが強い香織は、パッケージで買うことのできるゲームはデータではなくソフトの形で購入して記念に残している。
何十ものタイトルが並ぶ、本棚の列。
ゲーム機の種類によって大小さまざまなパッケージが整然と並ぶ様は壮観とさえ言える。
だが、最後にあのゲームをクリアして早や一月が経過したというのに。
未だ新しいゲームを購入して遊ぶ気持ちになれず、パッケージコレクションの増加はあの日を境に止まったままだ。
このゲームをクリアしたら他にも遊びたいタイトルはあったはずなのに、全く食指が動かなくなってしまった。
「やっぱり、このゲーム、おかしい……
これをクリアしてから毎日、変だよ」
そんな気持ちが生じたのは、最後にプレイしたこのゲームが終わってからのことだと思い返す。
怪奇現象に襲われて慌ててゲーム機を強制終了させ、そのまま陳列コレクションに加えた乙女ゲーム――
「こんなタイトルだったっけ?」
香織は誰もいない部屋で独り言をぶつぶつ呟きながら、一つのパッケージを手に取った。
一人暮らしゆえの解放感、誰もいないせいだろうか。日増しに呟きが増えていく一方だ。
『終わりなき愛の物語』
こんな古臭いタイトルじゃなかった気がする!
でもどんなタイトルだったのかと問われても、パッと脳裏に浮かぶわけでもない。
一応、内容はちゃんと覚えている。
ファンタジー世界の勧善懲悪の乙女ゲームで……
ああ、そうだ。確か憎めない悪役令嬢が登場した気がする。
だが手に取ったパッケージに、途轍もない違和感を抱く。
何故だろう。
三人の攻略対象、選べる三人の主人公、そして――背景に金髪碧眼の王子様と。
……何故か一か所、空白になっている。
そこだけまるでカッターか何かで切り抜いたように、不自然に存在そのものがぽっかりスペースが空いて変なバランスだった。
本来ここに、誰か登場人物のイラストがあった?
ネットでこの作品の事を調べようと検索をかけようとしても、何故かタイトルを入力すると通信エラーが生じてしまう。
液晶画面のわけのわからない文字列と言い……
本気で呪われたゲームなんじゃないかと恐怖した、が。
何故かこのゲームを手元に置いておきたいと、手放したくないという想いが強くて。
自分以外の誰にもこのゲームの存在を知られたくないとさえ思う。
仲間に打ち明けて相談する気にもならず、ずっと部屋の中に在った。
このゲームを手に取っていると、いつも泣きたい気持ちになるのだ。
……思い出したい。
忘れたくない!
……私は、何を忘れているの?
「……え!? ちょ、ナニコレ!?」
手に取ってしげしげとパッケージを眺め、その表面を指先で撫でていると。
急に、ゲームソフトが白い輝きを放ち始めたのである。
この自己主張の激しい怪奇現象に、香織はポカンと口を開ける。
もはやお祓い必至では!?
ただ、不思議と背筋が凍るような恐ろしさは感じない。
冷静に考えれば恐怖に震え、床に叩きつけてもおかしくないのに。
”……帰りたい。”
自分の心の内側を叫んで叩く『何か』がいるような気がして。
一月以上襲われ続けていたわけのわからない虚脱感、虚無感、寂寥感。
それら全てがこの中に詰まっているのではないかという奇妙な確信めいた衝動に動かされる。
パッケージから誰かが欠けたゲーム。
ゲーム内容は憶えているものの、スチルもイベントもコンプリートしたししばらくプレイする機会もないだろう『コレクション棚』を飾る一作になるはずのパッケージ。
そこからディスクを取り出し――香織はまさに一か月ぶりにゲーム機を起動させて中に押し込んだ。
懐かしささえ感じる、ファンの回る起動音が狭い室内に掠れて響く。
ああ、こんなオープニングムービーだったなぁ……
漫然と、画面を眺める。
コントローラーを手に取る前に、懐かしさに思わず食い入るように見つめていた。
タイトルロゴ。
やっぱり、こんなタイトルじゃなかった気がする……
香織がもう一度パッケージの不自然に空いた隙間と、そして画面のタイトルとを見比べて首を捻ったその時。
全く何も操作をしていない画面が、やっぱり真っ白一面に塗り替わった。
やはりどこかバグっているのではないかと困惑する香織だったのだが。
ザザッ……と、まるで無線機を使って遠い場所と交信状態が繋がった直後のような、ノイズが混じった不安定な声が響いた。
『あ、繋がっ…………? はい、多分……繋が………てます!』
どこかで聞いたことがあるような懐かしい声が、真っ白な画面の向こうから聴こえてきた。
ああ、このゲームの主人公の声だったかもしれない。可愛らしい女の子の声だ。
恐怖で竦んで動けないのではない。
それ以外の感情で、お尻が床に貼り付いたように全く動けないのだ。
思い出したい
更に白い画面の奥、もっと遠くからざわざわと何名もの声が同時に反響する。
籠った声が行き交い、何かを言い合っているような話し声が耳に届いた。
じわじわと、身体の中が、心の奥が、知らない
会いたい。
貴方に 会いたい。
『………キャシーは今、そこにいるのだろうか?
いや、元の世界に戻ったのだとすれば名前が違うのかな。
そちらの様子が全く分からない。
君にこの声が届いていると信じ、呼びかけるしか出来ない状況だ』
白い画面に、誰かの姿がぼんやりと映る。
ゲームの登場人物の立ち絵……にしては、少々違和感があるというか。
二次元のイラストではない、かと言って3Dモデリングとも違う。
パッケージの王子が実際に生きていたらこんな姿になるのかな、と容易にイメージできる人影が浮かび上がる。
昔懐かしのブラウン管テレビの砂嵐を思い起こさせる映像ノイズのせいで、はっきりとは見えないのだけど。
いや、ブラウン管って。
目の前の薄っぺらい四角い機械製品は紛れもなく液晶なのですけど?
『君がこの世界を救ってくれた日から、二年近く経とうとしている。
キャシーがこの世界から消えてしまってから、長い時が流れてしまったものだ。
……君が帰って来てくれることはないのかもしれない。
役目を果たした君はもうこの世界に留まる理由もないのだろうね。
君には君の、過ごしていた日常があるはずだから。
それを理解した上で、私は――
君に、こちらの世界へ帰って来て欲しいと願う』
ドキン、ドキン、と。
心臓が大きく跳ね上がる。
こんなゲームではなかった。こんな台詞は無かった。
でも彼の声を聴いているとポロポロと涙が溢れてくるのだ。
『……カサンドラ。時間もない、手短に説明するぞ』
今度画面の向こうから聴こえてきた青年の声にも、ピクっと耳が反応する。
画面の端に黒い影が映る――その人影は、眼鏡の位置を指先で調整するような動きを見せた。
『こちらの世界で二年ほど前になるが、悪魔の『核』を完全に破壊したにも関わらず世界が再び巻き戻ろうとしたことを覚えているか。
どういう力か分からんが……お前が逆行現象を止めてくれた。
不思議な空間で、皆がお前の姿を見たそうだ。勿論私も、な。
しかし景色が戻った後、お前の姿が忽然と消えてしまってな。
探せども、全くどこにも見当たらない。
幾度となくお前の所在について話し合ったが、召喚目的を果たし元の世界に戻ったのだろうと結論付けざるを得なかった。
――お前は……
この世界を救うためカサンドラ・レンドールという貴族令嬢の中に喚び出されたのだったな。
分離不可能な程、双方の存在が完全に融合してしまったのだろう。
元の世界へ戻る際、本来こちらにいるべきはずの『
彼が何を言っているのか分からないはずなのに。
何故か”納得”してしまいそうになる自分がいる。
こんな現象、夢でしかないはずなのに。
カサンドラ……。
このゲームのパッケージの中に不自然に空いた空白箇所。
そこに本来、誰かがいたのだ。
それが わたし ?
何かが、記憶の底で揺れている。
出して欲しい、と叫んでいる。
『行方不明のお前の魂を何とか探り当て、更に異界からの召喚魔法を完成させるのに時間がかかってしまった。
封印魔法を極めるはずが、召喚魔法の研究に方針転換させられるとはな。
……ただ、奇跡もこれ限りだ。
聖女の力を著しく摩耗する、今彼女達は必死にこの扉を維持してくれているが負担が大きい。
本人たちがいくら希望しようが、二度目の使用は許可できない大魔法だ』
この白い光を眺めていると、とても幸せな気持ちになれる。
あたたかくて、とても優しい。
自分の求める全てが、向こう側にあるような気がして仕方ない。
画面が揺れる。不安定になってくる。
距離がどんどん遠ざかっていく気がする。
『キャシー。
……君は私を、そして世界を救ってくれた。
これ以上は過ぎた望みなのかもしれない。
この世界を救ってくれたように、きっと君は――そちらの世界でも大勢に必要とされる存在なのだろうね。
元の世界を捨ててこちらに帰って欲しいなんて、結局は私達の我儘でしかない。
でも、もしも君が”戻りたい”と思ってくれるのなら……
どうか、帰ってきて欲しい。
私には君が必要なんだ』
………たい……
想いが、決壊する。
遮っていた、つかえていたものが砕け散る。
――帰りたい! 戻りたい、皆に会いたい!――
わぁぁぁ、と香織は床の上に上半身を伏して絶叫した。
内側から何かが砕け散る音が響く。
薄氷を石で割られたような、高い音。
それは合図であるかのように、己の身体が光り始める。
両腕が、足が、真っ白い光に包まれる。
記憶の奔流に、意識が遠のきそうになった。
必死で堪える、ここで気を失ったら一生後悔しそうな気がする。
今まで奥底に閉じ込めていた沢山の”記憶”が一気に脳裏を駆け巡る――かつて体験したことのある、いや、それ以上にもっともっと大きな衝撃だ。
思い………出した。
私は
わたくしは
『姉上ーーー!
帰ってきてください! 世界が救われたって、貴女がいない未来は嫌です!
置いて行かないでください!』
徐々に自分が変容していくのが知覚できる。
腕の色が白く、更に指先が細く長くなる。
座り込んだ膝の上には、長い
鏡を見なくたって、自分がどんな姿に変わっていくのか思い出せる。
あの時、ゲームの中の世界に生きていたカサンドラという少女と一つになった、
忘れていた記憶を、体験を、ようやく取り戻す。
元の世界、現代日本で再び生きていくにはあの世界の記憶など要らないだろう。
あちらの世界の神か何かが、望み通り目的を果たしてくれた香織のために”原状回復”しようとしてくれたのかもしれない。
この記憶と姿のまま、”元通り日本で生きていけ”なんて放り出されても困るかもしれないけど、余計な世話だ。
忘れたいわけがないじゃないか。
姿や記憶が元に戻った。
あの世界、幸せの日々に戻りたいという気持ちはとても強い。
だがこの身体がカサンドラと香織の融合し、分離できない存在になったのだとしたら?
向こうの世界に行けば、この世界に自分はいなくなる。
本来身体は二人分あるはずなのに、意識も記憶も身体も、全部『自分一人』になってしまったのだから当然か。
王子の言う通り、この世界を捨てるということになるのだ。
だがもう答えは出ている。何も迷うことはない。
「わたくしは、カサンドラ・レンドール」
自然に口を衝いて出た。
……どこにいるべき存在なのか、理解している。
無理矢理以前の姿を忘れさせられ、この世界で生活できたとしても……
しばらく患っていたような大きな欠落を常に感じながら生きていかねばならないのだろう。元居た世界で恙なき日常を送るために、あの世界の出来事を全て忘れなければいけないとすれば代償が大きすぎる。
第一、もう自分は変容してしまった。
姿だけではない。
向こうで経験した全ての思い出が繋がる先は香織ではなく、『カサンドラ』である自分なのだ。
どう転んでも、あちらの世界へ呼ばれる以前の”前原香織”には戻れない。
いくら全てを忘れて元通りの日常を過ごせと言われても、もう無理なのだ。
何より自分が、帰りたい。
自分の意志で。
自分の責任で。
誰かに突然思いがけず召喚されるのではなく、今度は自分がそうしたいと心から望むから!
ただ……
この世界に自分の”過去”を全てを、何も言わずに置いていくのは過去の香織に対してとても失礼ではないか、とも思う。
親や親戚。
そして友人。
何もかも置いて行かねばならない。
少しだけ躊躇い、ごそごそと手を動かす。
でもシリウスが言う通り、時間が無いのは事実だろう。
これ以上三つ子の力を駄々洩れにさせ、
こちら側の声が向こうには全く届かないのだろうか。
少年の涙声、絶叫が木霊する。
『姉上、本当に戻ってこられないのですか?
良いのですか?
……この召喚魔法陣の”触媒”、貴女を追跡するための魔法の根源が何なのか教えて差し上げましょうか!?
貴女の魂、想いが最も込められた”物”を使用してるんですよ。
貴女が兄様に書いた、この
「あああ! 待ってくださいアレク! それだけは!!」
予想外の角度から突かれたカサンドラが焦り、そう叫んだ瞬間、画面の向こうが大きく湧いた。
『キャシー。
――帰っておいで』
白い光の中に 手を伸ばす。
この光の向こうに、自分の未来があると信じて。
『終わりなき 愛の物語』の世界へ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます