第494話 <ジェイク 2/2>
視線の先には目を覆うような惨劇が広がって――という最悪の事態にはならなかった。
彼女に襲い掛かろうとした魔物が、横に凪いだ剣によって首と胴と”さようなら”状態に。飛びかかる体勢のまま、デイジーの足元に多量の血を撒き散らしながら落ちていく。
デイジーが「ひっ」と恐怖に身を縮め、自分に訪れていた危機を今更自覚しているのは良いのだが……
一人の女性を助けに訪れた人間がいる。
その人物が全く想定外の人物だったので、ジェイクは一瞬ポカンと口を開けてしまった。
「……グリム、お前何で」
見間違えるような相手でもない。
灰色の髪、そして自分と同じ橙色の双眸。
姿かたちこそ全く似ていないけれど、所謂腹違いの
彼に対して、ずっとどう接して良いか分からなかった。
罪悪感、後悔、後ろめたさ、自分だけが五体満足であることへの申し訳なさ――
でも元気だった時の彼を思い出し、出来るだけ普通に接したいというアンバランスな感情がいつも鬩ぎ合う。
妾の子が爵位を継ぐのは耐えられないという、それだけの理由で毒を盛られ健康とは程遠い、後遺症で虚弱を余儀なくされた義弟。
颯爽と現れたのが彼ということに、理解が追い付かなかった。
ここにいるわけがない。
いや、彼もロンバルド家の人間として学園に入学していたことは事実だから、この寮で姿を見かけることはしばしばあったのだけど。
この混乱状況、あちらこちらで散発的に魔物との戦闘が勃発しているこの街中に彼がひょっこり姿を見せるなんて思えない。
――体調は大丈夫なのか?
チラッと脳裏を過ぎる言葉を口に出そうか出すまいか、僅かに逡巡を繰り返す。
しかし状況は劇的に好転したわけではない、ただグリムが魔物を一匹屠っただけ。
腰を抜かしてその場にへたり込むデイジーは現状無事だが、未だに断続的に頭上からは魔物が誰彼構わず襲い掛かってくるという状況だ。
「おい、何ボーッと突っ立ってんだ! ジェイク!」
混乱して棒立ちになった隙を突かれ、伸ばした爪を突き立ててくる巨大蝙蝠のような魔物。
注意喚起の声に反射的に身体が動いた。ひょいっと動くと、勢い余って魔物が自分の首元があった”空間”を抉る。
ジェイクが間一髪避けたために地面に突っ込んでしまった魔物の頭部を、別の人間の剣が貫いた。
「フランツ? ……おい、どういうことだ!
なんでグリムがここにいる、早く安全な場所に避難させてやれ!」
見渡す限り激しい戦闘が繰り広げられている場所に、フランツが増援に駆けつけるのは分かる。
何せ声が届く範囲内で、ダグラスや彼の腹心の部下達が派手な魔法を景気よく打ち上げているのだから。
ロンバルドの人間として放って置けないとはせ参じるのはおかしくない。
だが彼はそれ以上に、身体の弱い、いつ発作を起こして倒れるか分からないグリムの体調を気遣って護衛に徹する必要があるはずでは?
何故、デイジーを助けたのが弟なのだ?
グリムは澄ました顔で剣を構えているが、その光景に違和感しか抱けない。
「話し込んでる場合か、ぜーんぶ後だ、後。
おい嬢ちゃん、しっかりしろ。
立てるか?」
フランツは別方向の魔物を剣の先で牽制しながら、じりじりとデイジーに近づく。
「……お恥ずかしいですが、足に力が………
いえ、そんなことはどうでもいいです、カサンドラ様は」
「彼女は無事だ、学園にいると聞いている」
フランツの言葉に、デイジーは一層力が抜けてしまったのか。
座り込んだまま、顔を覆い「良かった」と繰り返す。
「で、だ。
嬢ちゃんがここにいるのも困るんだ。
見ての通り、とーっても危険だからな?」
こんな最前線に近い場所で、身を護る術を持たないお嬢様にウロウロされていては気をとられて仕方ない。
だから早急に彼女を『保護』する必要があるわけだ。
言葉で説明して納得させるような時間もなく、フランツは彼女の了承も得ないまま先に行動に移す。
「え? きゃあああ!?」
ひょいっと肩に彼女の体を担ぎ上げた。
まさに小麦袋を肩に乗せるかのように荷物扱いをし、軽々と。
フランツの正面にはデイジーの腰から下が垂れ下がり、ジタバタと彼女は藻掻いた。
「ちょ、ちょっと…待って……こんな姿……!」
どう考えても、貴族の令嬢を運ぶ際の格好ではない。
しかし魔物の襲撃を防ぎながら救助していくとすれば、両手を塞ぐわけはいかなかったのだろう。
フランツは彼女の抵抗など全くものともせず、体格差で押し切る。
デイジーは真っ赤な顔でポカポカとフランツの広い背中を拳で叩くが、当然彼にはノーダメージだった。
「ジェイク、グリム。
将軍の後方支援は宜しくな。一旦この子連れて行くわ」
じゃあな、と手を挙げて――ロンバルド家の私兵を与る部隊長は、一陣の風のように去って行った。いや、もはや嵐だ、あんなもの。
上空からの標的にならないよう、ひょいひょいと瓦礫の上を飛び踏み越え、相当上下移動の激しいトリッキーな動きで疾走していく。
デイジーの長い髪が通常あり得ない広がり方を見せ、風に靡く。
いやぁあぁぁぁぁぁぁぁ!
恐怖とも羞恥とも知れないデイジーの救いを求める声だけが、ジェイク達の間に残された。
軽い口調で大雑把な人間だが、あれでも腕は相当立つということは知っている。
クラスメイトの女子を任せるのに十分足りる存在であるが、増援に駆けつけてくれたお前がいの一番に現場から去ってどうする!?
一体何だったんだ……
平時であれば痛む頭を押さえ、呆然と立ち尽くしたい。
しかしながら、既に目に映るもの全てが異常事態、緊張感の迸る命がけの戦地であることは間違いなく。
ジェイクの身体は今までの鍛錬が染みつき自然と奴らの攻撃を察知し動く。
ヒュッと風を斬る音が耳元を掠めた。
こちらの状況に忖度してくれることはないようだ。
「あー良かった、間に合って」
いつの間にか、ジェイクの真後ろにグリムが回り込んでいる。
会話が成立しやすいよう、そして周囲への警戒を解かないよう背中越しの格好だ。
「
身体に障らんうちに、フランツと避難してればよかっただろ」
デイジーと一緒だ、ここで倒れられても困る。
「はは、そういうわけにもいかないんだよねぇ。
……だってさ、
僕、もう健康体だし?」
彼は何事もないような口ぶりで、そうあっけらかんと言い放った。
この数時間、まるで現実味がないことばかりが起こっている。
地に足が着いていないと言うか、全てが『夢の世界の話だ』と言われたら納得してしまうだろう。
健康体?
……それ自体は喜ばしい話だ。だがこんな状況に至って、急に彼の体調が健康になるなんて偶然があるのだろうか。
つい一か月前、彼は道端で発作を起こし倒れ伏していたではないか。
完全に彼の身体が元通りに治る日が来るとは思えなかった。
奇跡が起きたのではない、奇跡を起こした人間がいる、ということだとすぐにイメージが連結する。
王宮に突然出現した、悪魔。
悪魔は聖女が覚醒しなければ蘇らない、という奴らの計画。
何より、聖女が目覚めたと高らかに宣言したダグラスの檄。
「……リゼか!? ……あいつ……」
『聖女』は元々癒し手と呼ばれる存在だったと言っていたな。
どんな難病も治し、失われた手足さえ元に戻すことが出来るなんて眉唾も甚だしい大袈裟な話だなぁと思っていたが……
「律儀だし冷静だよ、彼女は。
前に助けてもらった恩を返すって言われて吃驚だよ。
この状況だから使える『戦力』を一人でも確保したいって真顔で言われたら、ねぇ? 断れないじゃん」
ハハ、と彼は笑って剣を振るう。
彼はダグラスの息子であると同時に、この大陸で随一の女剣豪として名高い女性の間に生まれた子供だ。
嘗て神童と呼ばれ将来を嘱望された才覚は喪われたわけではない。
流石に病身をおしての訓練では限界があったのだろうが、それでも生半な騎士よりも彼の動きは正確で一切の無駄がない。
「お前は聞いてないかもしれんが!
聖女の力ってのは、リスク無しで使えるものじゃないんだぞ!?
……あいつは、そんなに軽々しく人を治したってのか」
ついムキになって、ジェイクはがなり立てた。
勿論リゼを非難したいわけでもない、治って良かったと思う。むしろ弟の体を治してくれてありがとう、か。
でも無邪気に喜んでしまえるほど、奇跡の代償は安くない。
正直聞きかじった程度の話だけど。
むやみやたらにホイホイ使っていい力ではない事はジェイクにも分かる。
何故自分の生命を削るような真似をして、と苛立ちを覚える。
だがその反面、ドクン、ドクン、と大きく鼓動が打ち付けられる音が耳に触る。
複雑で、何とも言えない、感謝の念も湧いてくる。
私的な”利益”のために使っていいはずのものではないけれど、そのお陰でグリムの体に呪いのように蔓延っていた後遺症が消えたというのなら。
嬉しくないわけがない。
「今日僕が救う人間の数が、削った
――役に立たなきゃ、
善いとも悪いとも、ジェイクには何を想えば良いのか分からなかった。
叶わないから奇跡だったはずなのに、今こうして背後に義弟が元気な姿で立っている。
「ま、とりあえず。
聖女様達が本丸を落とすまで、ここを凌ぎきらないとね」
この魔物は悪魔が異界にいる眷属を呼び寄せているいるもの。
ならば元凶の悪魔さえ倒してしまえば魔物の軍勢が現れることもなくなり、一気に形勢逆転できる。
あの悍ましい化け物に瑕をつけることが出来るのは、神の力だけだと言うのなら――
彼女に任せるしかないのだろう。
聞きたい事、分からない事はたくさんある。
何故リゼが聖女になった?
アーサーでなければ、あの悪魔は何なんだ?
「それもそうだな、事の是非なんか一々気にしてたら、こっちがこいつらに喰われかねん」
元々複数の事物を同時並行で考えるのは不得手だ。
グリムの言う通りここは目の前の魔物達を一体でも多く屠り、これ以上の被害拡大を防ぐことこそが自分の仕事だ。
発端だ、原因だ、経緯だ――なんて生きて戻ればいつでも糺せる!
※
誰かと背中を預けて敵と相対する――という経験は初めてだった。
四方を敵に囲まれるという事態、まず遭遇することがないからだ。
包囲されるようなドジは踏まないし、囲まれたところで無理矢理突破口を押し開く、それが不可能な『現場』に遭遇したことはない。
父ダグラスの発言全ては業腹である。
けれども日常生活で有事のためにと鍛練を続け普通の一般人には全く後れを取らない、ある意味で普通の人間の規格を越えた存在になってしまっていたら――?
自分を追い詰める者はなく、追い立てる者もなく。
誰かと協力して何かを成し遂げるという機会も得られず……
強くなればなるほど、何処か、孤独を感じるものなのかもしれない。
だからと言って、こんな事態を甘んじて善しと受け入れたダグラスの考えはこれっぽっちも分からないけれど。
「あーあ、ホントにあの人絶好調だね」
ぼそ、と背中越しにグリムの不快な声が伝わる。
尽きる事がないのかという魔力と体力を存分に活かし、ダグラスは多くが疲弊して足が縺れる者もいる中一人元気だ。
逆に溌溂と無限に湧く魔物達を嬉々とした顔で燃やし尽くし、切り伏せていくのだ。
全身返り血で真っ青の中嗤う彼の姿はもはや奴自身が悪魔なのだと言われても納得できる異様さを誇る。
「自分を本気にさせる奴がいないからって、こんな馬鹿な真似をするなんてな。
アイツは本当に狂ってる」
「ふーん。
僕には詳しい事情、分からないけどさ。
……何、この悪魔事件って、あの人が絡んでるんだ?」
「どこまで足突っ込んでるのかは知らないけどな」
そっかー、と。
グリムは何か思う事でもあるのか、口調は軽くとぼけた反応を返した。
しかし敵だけは正確に斬り落としていくのだから、その表情と実際の行動のギャップには瞠目してしまう事だろう。
「じゃあさ、全部が終わって……
皆が無事生き残ってたら、僕達二人であの人に引導を渡しに行くってのは?」
唐突にそんな提案をされ、思わず動きが止まるところだった。
心臓に悪い、何を言い出すのだと振り返ったが――グリムの横顔は真剣そのものだ。
「二人がかりでボコボコにすればいいんだって。
それなら思い残す事無いでしょ、隠居させてやろうよ!
身体が治ったのは嬉しいけど、貴重な少年時代は戻ってこないんだよ!?
恨みが消えるわけないし! あー、殴りたい!」
無事だったら、か。
現状を継続したとして、あの鬼神が魔物の群れに押しつぶされるとは考え難い。
地上の生命体が全て滅んでも奴だけは拳を掲げて生き残っていそうな雰囲気を感じる。
そして自分もグリムも、こんなところで地面に倒れ伏すつもりは毛頭ない。
つまり全てが終わったとして、今後ずっとあの男が自分の視界に常にあることになる。
名前を呼ぶだけで、思い浮かべるだけで吐き気がするほど強い憤りを抱く存在が常に前を歩いているというのは中々耐え難いものが在った。
今回の件で、ほとほと彼には失望した。まぁ、元々期待など
ロンバルドの当主などという特殊な地位を任せておけないと強く思い知らされたジェイクである。
――ダグラスの思考回路は、とても単純だったのではないか?
ふと、思った。
今になって得心がいく。
彼の望みは、ずっと自分に拮抗するか己より強い存在が現れる事だったのでは。
だから”強い”子に固執したのではないか。
自分の血を継ぎ優れた強い女性の血も継いだ人間なら、きっと自分よりも強くなるに違いない、自分を楽しませてくれるに違いない、と。
だからその役割を担うはずだったグリムに毒を盛られ、彼はガッカリしたはずだ。
最高の素材と言っていたグリムが”壊れて”しまって、彼は何もかもがどうでもよくなってしまったのかもしれない。
今後死ぬまで自分を脅かす存在は現れないのだと自己完結してしまって、こんな魔物相手に憂さを晴らすように自分の力を誇示し、血に酔う醜態をさらしている。
傍で愉悦に浸りながら魔物を屠り続ける奴の姿など、あんなものは『末路』でしかない。
そんなことで満たされる程度の”欲”なら、自分達がその鼻っ柱を叩き折ってやれば良い。
実現すれば、きっと彼は満足して己の限界を受け容れることが出来るのではないか。
――既に自分は、彼の本質を知ってしまった。
周囲に傅かれたまま、好き放題させて良い存在ではない。
いつまた顕示欲に取りつかれ、騒ぎを起こさないとも限らないではないか。
「よし、じゃあ全部終わったら――下剋上だな。
俺らに膝を着かされるなんて事があったら、あいつもデカい顔は出来ないだろ、プライドは山のように高いしな!
当主の座を分捕って、田舎に押し込んでやろうぜ」
「いいね、それ賛成!」
今の二人がかりでねじ伏せる事ができるかどうかは分からないが。
魔物相手より、百倍良い勝負はしてみせる。
その声に呼応するかのように――
悪魔の咆哮が 王都を、国を、大陸を奔る。
白き光に貫かれ、巨大な腕を肩から斬り落とされた双角の悪魔。
奴は憤り、猛り声を放った。
聖なる光が天を衝く。
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