第488話 <アレク>


 その日アレクは義父であるレンドール家当主クラウスに手紙を書いていた。


 手紙――というよりは、報告書に近い。


 アレクがカサンドラと一緒に王都へやってきたのは、彼女の監視のためという理由があったからだ。

 そうでなければ、”死んだはずの第二王子”が王都にのこのこと姿を現すなど自殺行為に等しい話。クラウスも目付け役の指示を出すこともなかっただろう。


 人目を避けて地方に籠っていればアレクの正体は万が一にもバレないだろうが、いくら数年の時が経過したとは言え自分のことを良く知っている人と出会わないとも限らない。

 バレたら、著しい危険に晒される。

 そのリスクを考えても、カサンドラ本人さえ知らない彼女が置かれている現状を知り行動が出来る人物と言えば――全てを知っているアレクしかいない、と抜擢された。


 カサンドラの身の周りに気を着けろ、王子との関係性によってカサンドラが危険な目に遭うようであれば逐一報告しろ、と。

 完全監視状態でカサンドラの動向を彼女に不審がられない程度に探らなければいけない。


 その点アレクはレンドール家の跡取りだし、カサンドラは義姉だし、数年後には学園に入るから彼女に学園ないでの様子を聞き出しクラウスに報告するのに最も適した存在であった。


 ――クラウスに恩義を感じている。

 だから、自分の正体を誰にも明かす事無く”今まで”ずっと孤独を抱えて過ごしていた。


 孤独なのは、ただ自分の身分や役目を誰にも明かせないからというだけではない。




 繰り返し世界に強いられる逆行の中、一人それを自覚していること。

 とにかく孤独であった。


 その上、自分は誰の行動に対しても何一つ干渉できないのだと悟り、半ば諦観の念を抱いていたのだ。



 初めて、自分の”助言”がカサンドラに聞き入れられた時は本当に驚いた。

 アレクには頼らない、貴方の言う事など聞く意味はない――そんな態度だったカサンドラが、急に自分に「どうすればいいか」なんてアドバイスを求めてきた時は驚いたものだ。


 しかもそれが自分の本当の兄に纏わる恋愛相談だったのだから、恐れ戦くどころの騒ぎではなかった。




 決して自分が何かをしたわけではない。

 でも少しでも、カサンドラの現状に自分が役に立ったとするならば、本当に奇跡だと思う。


 自分の存在をこの世界から”求められた”のは初めての経験だったのではないか。

 この世界の歯車でさえなかった、ただの歯車に描かれた文様、印に過ぎない存在だった。


 でもカサンドラの方から求められることで、初めて誰かに影響を与える事が出来たのではないかと思った。


 カサンドラが助けて欲しいと言ったから。

 自分の正体を兄に明かすことで事態が前に進むのではないかと思い、それを実行する事さえできた。



 その衝撃と喜びを、彼女が共感してくれることはないと思う。

 普通は分からないし、分かってくれとも望まない。


 自分から世界に働きかけようと思っても、それを悉く見えない力で無かったことにされる。全てから排除され、拒絶されているようでとても苦しかった。


 些細な事でも、自分がこの世界の行く末に関わることが出来るなんて想像したこともなかった。




 だから――

 今一緒に暮らしているカサンドラは、義姉であると同時に紛れもなくアレクにとっての救世主なのだ。 







 流石に『聖女計画』のことや世界の逆行現象なんてクラウスにでも報告できる事ではない。

 何とかそれなりに彼を安心させるような、今まで通りの報告書を作成してレンドールに送ることにする。




 最近は以前より精力的に生徒会の仕事に携わり、外部との折衝も請け負って忙しく過ごされているようですよ――




 報告書を書き終えた後、ホッと吐息を落とす。

 若干の解放感に満たされ、自室から窓の外を見上げるアレク。


 もうすっかり夕方になり、青かった空はいつの間にか橙色にその姿を変じようとしていた。


 カサンドラの帰宅が最近遅いことは気がかりだ。


 学園での講義が終わったらすぐに帰って来ていた彼女も、今に限っては一、二時間程度生徒会室で雑務をこなしてから下校するようになった。

 だから多少彼女の帰宅が遅くなっても物凄く心配だ、と胃を痛める程ではないけれど。



 この帰宅するかしないかの時間帯は、いつも落ち着かない気持ちになる。

 シリウスから警告された通り、カサンドラは危険な立場にあるのだとアレクも分かっていた。


 だが学園への登下校に物々しい警護を手配すると言うのも、逆に三家の神経を逆なでするのではないかと思うと踏み切れなかった。

 今まで一人で街中を散策するような危機感の薄かったお嬢さんが、ここに至って厳重な警戒態勢で登下校を始めるとすればレンドール家の方針そのものに注目されかねない。

 まるで彼らの動きや考え全てを知った上での後出しじゃんけんのように映るだろう。


 皆が平生通りに行動しようと決めたのに、アレクの判断で余計な波紋を広げるのは本意ではなかった。



「――アレク様!」


 学園から馬車が帰還したのだろうか。

 しかし、少々焦った様子の使用人がアレクを訪ねてきたので少々驚いた。


 メイド長ナターシャ自らカサンドラの帰宅を報せに来るなど珍しいこともあるものだ、とアレクは首を傾げる。



「お耳を拝借しても宜しいでしょうか」

 


 彼女は緊張に表情を曇らせ、声を潜めてアレクを見つめる。

 そののっぴきならない彼女の雰囲気に、ドキン、と大きく心臓が跳ねた。





 ※





 カサンドラの着替えを入れた鞄と共に、アレクは馬車内でずっとそわそわしていた。

 もっと早く、という願いとは裏腹な現状。馬車の速度は決して上がらない。

 大きな通りはこの時間帯なので人通りがとても多い、しょうがない話だが苛々ばかりが募る。


 黄昏に足元まで迫られた空の下、人々は一日の活動を終えて皆帰路につきはじめる頃合いだったからだ。


 五月という時節柄、日は長めのはずなのにすっかり夕日が射す時間帯になってしまった。 


 二頭牽きのそれなりに大きな馬車が爆走したら、人を轢いて事故を起こし余計な時間を食ってしまう。


 かと言ってカサンドラの体調が悪いなら、単騎で馬に乗って辿り着いても意味がないし。


「……体調不良……?」


 アレクは少しでも不安を和らげようと、長椅子に座り直して独り言ちた。



 放課後、生徒会室で仕事を代行して行っていたカサンドラが体調不良を訴えて倒れてしまったそうだ。

 一人で帰宅するのは難しい容態なので、お家の方に迎えに来て欲しいと連絡があった。


 その連絡を受けたのはいつも通りカサンドラの下校を待っていた、迎えの馬車を操る御者だったという。


 彼の話から察するに、カサンドラの一大事をアレクに伝えてくれたのは三つ子の内の誰かだろうと思われる。

 寮住まいではない生徒が倒れたら、迎えに来てくれと要請があるのはおかしい話ではない。しかし――……一人で馬車にも乗れないなんて、相当具合が悪いと見るべきか。


 報告してきたのが彼女達だということがどうにも胸をざわめかせる。


 しかも念のために着替えを持って来て欲しいと言われたわけで、一層眉を顰める光景しか浮かんでこない。


 着替えを持って行く状況として考えられるのは、当然制服が汚れたということだ。

 気分が悪くて……というだけの話なら良いのだが。


 嫌な方向に考えれば考える程、動悸が駆け足になってくる。




 朝家を出る時は体調が悪かったようには見えないし、いつの通り元気だったはず。

 倒れる程の何が起こったというのか。


 ガラガラと車輪が回る音がする。

 小刻みに振動する車内で、アレクは膝の上に拳を握って前傾姿勢で歯を食いしばっていた。

 嫌なことばかり想像する自分が憎らしい。



 もしも無理をおしての体調不良で倒れたなんて話だったら、姉を厳しく叱咤しなければいけない。

 今後放課後残って作業をすることは役員会以外はナシという約束をしておかなければ。


 それで終わる話なら、怒りながらも自分は内心全力で胸を撫でおろすに違いない。

 どうか彼女の身にそれ以外、それ以上の異変が起こったわけではありませんように、と今はそれを祈るしかなかった。




 先を急ぎたいと言うのに。

 突然、馬車が大きく揺れてその場に急停止した。



 御者が止まるように馬に指示をしたわけではなく――牽引する馬自身が恐れ、その歩みを止めてしまったかのよう。


 路上で馬車が停まるのは周囲の人たちにとっても大迷惑だ。

 アレクは前方の御者席に座る彼に声を掛けようと、窓を開ける。

 急ぎの用がある時にこんなイレギュラーなことをされてはたまらない。







”……な、なんだ……!?

 あれ……” 



 


 だが御者は呆然とし、その光景を見上げているだけだ。

 声にならない音を喉から漏らし、口をだらしなく開けたまま。



 周囲を行き交う人々も、手に持っているものをその場に落とし、ただただ何も言葉に出せずに佇むだけ。

 人は己の常識や理解を越える場面に遭遇すると、喜怒哀楽のどんなリアクションも即座に表すことができないのかもしれない。








  夕刻   黄昏色に染まっていた空が  黒一色に呑み込まれていく







 急に雲が空を覆った、なんて生易しい表現ではとても済まされない。

 闇が天空そらを貪欲に呑み込んでいく、まるで生き物のようにうねりながら。



 徐々に、ゆっくりと……






 空が 墜ちてくる




「あ……」



 アレクは窓の縁を両手で掴み、その恐怖に身を縮こませる。


 自分はこれが何の予兆であるか   知っている。



 何度、この空を見た。

 幾度、絶望に砕け墜ちた。




 空が呑み込まれ――

 そして、人々の悲鳴が聴こえる。



 城の在る方に視線を恐る恐る向けると、そこには……


 いつもそうであったように。

 最後の光景が映し出される。




 どうして? 何故?




 巨大な黒い影が、泰然とった。

 視界に入れるだけで圧迫感を感じ、嫌悪感を催すシルエット。


 二本の大きな角を頭部に掲げ、王城にさえ収まりきらない山のように大きな『それ』が、無数の闇の衣を纏って鎮座する。

 踏みつぶした王城そのものを彼の玉座にし――緩慢な所作で悠然と座り込む。


 建物が崩れ落ちる音が遠くに響いた。








           嘘だ。

           そんなはずはない。







 黒き塊は、口らしきものを大きく開く。

 空いた穴は真っ赤だ。ぬらぬらとした光が照っていて気味が悪い。




 その口から、咆哮が生ずる。


 恐怖を想起させるおぞましい咆哮に、腹の底が大きく震えた。

 地面が鳴動し亀裂を走らせる。




 黒く染まった空に次から次へと穴が開いた。



 ぼこぼこっと、不規則に断続的に生じるあな、天を覆う闇の不愉快な様に吐き気を催す。







 数え切れない無数の穴から――  胎児のように丸まった状態の『魔物』が垂れ堕ちてくる。






 それらは堕ちる最中に透明な殻を破り背に翼を広げ、王都上空のみならず果てない空の向こうまで同じように見下ろし、滞空していた。

 虚空から押し寄せる軍勢。


 集合体恐怖症がこの空を見上げたら、堪えられず倒れてしまうに違いない。   

 



 嘘だ……と、力無くアレクは何度も何度も呟く。

 何度頬を抓っても、瞬きしても、変容した変実はそのままである。


 途端、堰を切ったように人々が悲鳴を上げ、パニックをおこして逃げ惑う。

 しかし全方位、空を覆うように得体のしれない魔物に包囲されている中でどこに逃げればいいのかさえ誰も分からない。





 『悪魔』が腕らしき部位を横に動かした。

 それと同時に遠くで眩い閃光が発する。直後凄惨な爆発音が響き、アレクの乗っている馬車にまで爆風が届いたような錯覚をした。







 空から続々と、とめどなく魔物が堕ちてくる。








   嘘だ。 



   あれ・・が兄様だなんて、絶対に嘘だ!







 幾千もの魔物を従え連れる『災厄』が目を醒ます。









「……アレク様、行きますよ!

 しっかり捕まっていてください」


 崩れ落ち、両手で顔を覆うアレク。

 しかし前方からはっきりとした声が聴こえ反射的に顔を上げる。



 御者の声は震えて素っ頓狂な程裏返っていた。

 だが己の恐怖心を克己するかのように、無駄に声を張り上げているのだ。





「何が起こったのかはわからないですが。

 お嬢様をお迎えに行くんでしょう!?」





 人々と同じように混乱し、恐怖にパニックを起こしている馬を四苦八苦しながら御者は宥めることに成功する。



 脈絡も落ち着きもなく駆け回る人々の波を避け、大きな馬車を操るのはとても困難だ。


 しかし、やるしかない。




 ここで立ち止まっているわけにはいかない、とアレクは両手を強く組み今度は一層力を籠めて祈りを捧げる。









    祈るって?


    一体、何に?










 悪魔の咆哮が、大地を揺るがす。








 光射さない暗がりの中、馬車は砂塵をあげて走り抜けていく。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る