第480話 <アーサー 1/2>
二年前と一年前を比べれば、全然違う環境で。
一年前と半年前を比べても、置かれている立場が変わっていて。
半年前と一月前と比べても、周囲から見える『アーサー』という人間は大きく変わったと思う。カサンドラへの想いだけではなく、行動が以前よりずっと前向きになれたから。
だが……
何も知らなかった状態の一月前と。
全てを知ってしまった『今』の差は、筆舌に尽くしがたいものがある。
この世界の在り方を始めとし、『聖女計画』などという、ある種の自分に対する殺害計画の存在。
三つ子が聖女だったということも吃驚したけれど、何から何まで今までの常識が覆される想いであった。
明るみになった多くの真実は茫洋としていたら全く理解の及ばない別次元の話のようで、思考は常に混迷していた。
カサンドラやアレクが誰かを騙すような嘘を言うはずがなく、すんなりと不可思議な話を信じる事が出来た事は幸いだったと思う。
僅かでも躊躇って受け入れられないと思う事があったら……
あの日騎士団で感じた不自然な空気を感じることも出来ず、結果的にアンディを誰も助ける事が出来なかったかもしれない。
全て、薄氷の上。首の皮一枚繋がって、掴み取った真実なのだと思っている。
ガラリと変わった自分達の世界の中、アーサーはずっと緊張感に包まれている。
それでもなお、今が一番人生で満ち足りた幸福な時間だと感じていたことは紛れもない事実であった。
環境が激変しても、傍にいる大切な人達の本質は変わる事はない。
同じ苦難や問題に同じ視点から協力出来る、それはアーサーにとっては得難い体験であった。
※
シリウスと共に王宮から寮に戻り、ホッと人心地着く。
だが時計を一瞥すると夜の十一時を迎えようとする時間で、今日も遅くなってしまったものだと肩を落とす。
明日の登校準備をしなければいけない、今日という一日が何もないまま過ぎ去ろうとしていた。
時の流れは早いものだが、特に放課後王宮に向かう用があると、その時間の早さは何も無い時の数倍のスピード感覚に陥ってしまう。
本来なら明日の授業の予習でも、と机に向かうところではある。
だが――
この日はそのような殊勝な気持ちになれず、アーサーは机の横の棚から一抱えの箱を取り出した。
慎重に手に取り、机の上に置く。
パカと蓋を開けると、そこには様々な色の封書が整然と積み重なっているのが分かる。
それらを確認したアーサーは、重なる手紙の数枚を手に取り丁寧に机上に置いた。
箱の中に何十と重なるその封書は全て、同一人物から贈られたものである。
何となく過去の彼女の手紙を読み返したくなってしまった。
入学早々、初めてカサンドラに手紙を渡された時は驚いたなと思い返す。
内容自体は決して特筆することもない、近況報告に留まる内容の文章だったけれど。
返事を求める催促のような雰囲気は一切なく、ただ彼女の
生徒会室の机の上に気が付いたら置かれている彼女の手紙をいつの間にか楽しみにするようになっていた。
今まで私的な手紙のやりとりの経験は殆どない。
しかも学園で毎日のように顔を合わせるクラスメイトから継続的に貰い続けることに不思議な感覚を抱いていたような気がする。
……入学当時の自分は、いかに婚約者であるカサンドラと円満に婚約解消できるかということばかり考えていた。
あまり親しくなってしまっては、婚約を白紙に戻す理由付けも難しくなる。
しかしわざと彼女に失礼な態度をとるという方法は抵抗があり、書面上の婚約者として半ば事務的に接するしかなかった。
対応に困り、苦慮していた時であったのでカサンドラと出来る限り顔を合わせないようにしようと行動していたことを思い出す。
そんな自分に彼女がどういったアクションを起こすのか全く想像が出来なかったが、まさか毎週のように手紙を添えてくるなんて。
彼女なりの自分への接触方法だったのだろう。
だがどうするべきか考えあぐね悩んでいたアーサーにとっても、彼女が保ってくれる一定の距離感がとても有難かったことを良く覚えている。
贈ってもらった順に並んでいる手紙を一枚一枚手に取って読んでいると、その時期に起こった事も同時に思い出されて一層懐かしく思えた。
簡素で分かりやすく丁寧な文面でありながら、あたたかみを感じる文字は彼女の性状をそのまま表しているかのようだ。
過去を辿っていると、逆に現実世界の時間の経過を忘れる程に没頭してしまうアーサーだった。
が、しばらくすると頭に巡らせていた回想が一旦止まる。
こんな夜遅くにも拘わらず、自分の部屋を訪ねて来る者がいたからだ。
「おーい、アーサー起きてるか?」
こちらがその問いかけに返事をすると、ごく自然な動作でひょっこり友人の一人が部屋に入って来た。
窓に掛かった厚いカーテンの向こうは真っ暗闇。
「ジェイク」
「言われた通りティルサの経過報告書、持ってきた」
そう言って彼は厚い紙束をヒラヒラと横に揺らす。
「ありがとう。
……持ち出して問題なかった?」
「問題が全くないわけじゃない、明日には返してくれ」
「無理を言ってごめん」
別にこれくらいなら、と。
ジェイクは軽く肩を竦めた後、部屋の中にずかずかと入って来た。
現在のティルサの状況が気になっていた事もあるが、中々騎士団にまで足を運ぶ時間がない。
ジェイクもその一件だけに注力しているわけではなかったので、遠隔地の現状を把握するために彼に依頼していた案件でもあった。
持ち出すべきではない文書を人伝てに渡すわけにもいかず、学園内に持ち込むのも宜しくない性質の資料だ。
彼がこんな時間に訪問してきたのも仕方ない話だなと、アーサーは頷いた。
彼は机の傍に歩み寄り、紙の束をアーサーの向かっている机の端に置こうとした――が。
「うわ、なんだそれ」
自分が手元に並べている封書に気づき、あからさまにぎょっとした顔をする。
「そんなに用件が溜まってるのか? 無理すんなよ」
「大丈夫、これは公務の案件ではないから」
読んでいた手紙をゆっくりと畳み、アーサーも苦笑する。
流石に一日に何十枚も自分宛ての封書が届けば大変どころの話ではないけれど。
これはむしろ、それらの心の負担を癒してくれる効果を持つものだ。
全く違う意味合いを持つ手紙である。
「ん? ――カサンドラからもらった奴?」
封筒の宛名を見ると、厳めしい達筆の文字ではなく年若い女性が書いたものだと一目瞭然だ。特にカサンドラの書く文字は生徒会の書類で頻繁に目にする機会があるので、ジェイクもすぐにピンと来たようだった。
「そうだね。
進級してから直接話をするようになったから、わざわざ渡してくれる機会は減ったけど。
以前は毎週のようにもらっていたから」
その数も、ジェイクが驚く程多いものになっていた。
「あー、覚えてる覚えてる。
確かカサンドラがお前に手紙を渡してるって噂になって……一時期手紙を渡すのが
シリウスが大激怒してたけど」
たまたま落ちた彼女の自分宛ての手紙を拾ったことを今でも覚えている。
何気ない日常の光景を他の生徒に目撃された。
ただそれだけの話なのに、何故か婚約者や恋人のいる女子生徒だけではなく、好意を抱いている相手に手紙を渡すという行為がそこかしこで見られるようになってしまったのだ。
その余波、いわゆるとばっちりを受けたのが自分の友人達だったことも良く記憶している。
登校するたび山のように手紙を渡され、シリウスが「どうしろというのだ!」と爆発し――圧力をかけて自分達へ贈ることを辞めさせたことも鮮明に。
確かに毎日、手元にあるような数の封書が届いたら彼でなくてもうんざりすることだろう。
「お前も筆まめだったんだな。
忙しいのによくも毎回返事書けたよなぁ、尊敬するわ」
俺には無理無理、と彼は舌を出して掌を横に振る。
「え? ……いや……毎回返事を送っていたわけでは……
……。」
彼女から手紙を受け取っていたけれど、こちら側から返事をしたのは数える程度な気がする。
「義理堅いお前にしては珍しいな、結構な頻度で文通でもしてんのかと」
アーサーは机に両肘をつき、手を組む。
そしてヒヤッとした汗が背中を流れてゆくのを感じた。
「……キャシーに手紙を渡したの、二、三回くらいだったような……」
「うっそお前マジで!?
こんだけもらっといて………返事が二、三回!?」
彼が本気で驚き、箱の中に積み重なる手紙の束とアーサーの顔を交互に凝視する。
「……流石にカサンドラが可哀想じゃね?
これってラブレターだろ? 返事なしとか心が折れるわ」
うわー、と。ジェイクの表情がやや引きつっているのに気づく。
「違うんだ、ジェイク。
そもそもキャシー自身、返事を強要するような文面を決して添えてはいなかった。
その、所謂心の内を表すような……恋愛に関わるような文言もない。
私の事情を慮ってくれていて、内容自体も私に何かを問うようなものではなくて……
近況報告が主で、返事は逆に彼女を困らせるのではないかと判断したから」
頭上から降ってくるジェイクの視線が、とても痛い。本当にアーサーの行動が鬼畜の所業であるかのような扱いだった事も、一層焦りに拍車をかける。
彼にドン引きされるような状況ではない、とつい口数が多くなる。
ただ、自分でそう言っていてふと気づく。
返事が必要がないような、当たり障りのない近況を伝えてくれるカサンドラの手紙。
これだけ何十枚も渡してもらった手紙の中に、アーサーへの感情と言うか想いというものは直接書き込まれているわけではなかった。
それは彼女の性格上当然の事だと思っていたし。
あからさまに彼女が言葉として想いを形にするのは、かなりの決意が要るのだろうことは容易に想像できること。
少なくとも、ここに並んでいる手紙はジェイクが言っていたようなラブレターではない。
違う。
ラブレターというには、きっと足りない。
しかしながら、意識してしまった瞬間チラリと『欲しい』という感覚が心の底から顔を出す。
それこそ、相手に強要など出来ない。そもそも他人が「くれ」と言ったから、と書きだすものでは絶対にないというのに。
その自分の言い訳ぶりが楽しかったのか、彼は噴き出した。
「ぷっ。
……お前が焦るとか珍しいもの見れたな」
「あまりからかわないで欲しい」
「何だよ、俺の言い方なんざ可愛いもんだろ?
……お前らの
ジェイクは若干恨みがましい顔で眉根を寄せ、傍の椅子にどっかりと腰を下ろした。相変わらず表情がよく変わる、その時その時の感情を表に出しやすい性格なのは以前のまま。
どうやら経過報告書を手渡しに来ただけですぐに「おやすみ」とはならないようだ。
思い当る光景はいくつも記憶にある。
「別にからかっているわけではないよ。
ただ皆、ジェイクがもしも自分の意志で一線を越えてしまったら、後悔するだろうと心配しているだけだ」
彼の立場もそうだが、リゼの立場も現状ではかなり難しい宙ぶらりんと表現しても差し支えない。
未だ公然と認められていない”恋人”と結婚したいと主張するだけなら、彼らの自由かもしれないが。
ちゃんとした段階を踏まない内に、庶民の娘に手を出したなんてことが吹聴されるようになれば、誰にとっても良い話にはならない。
何も背負うものがないもの同士ならともかく、彼はロンバルド家の嫡男という身の上に生まれてしまったのだから。
「……分かってるっての。
そういうの含めて信用ないのかって腹立ってるだけだ」
腕組みをして、苛々とした感情を立ち昇らせるジェイク。
彼は基本的に真面目な人間だし、道に外れたような事はしない人間だと分かっている。
だが殊、リゼに関する事だけは傍から見ていてもハラハラするほど大変な執心ぶりだ。
恋だの愛だのという感情に疎かった自分でさえ、彼の気持ちは隠しおおせているとは全く思えなかったので。
……実際、先週の会合前のリゼの発言に肝が冷えたのは事実である。
ジェイクが激情にかられたら何をしでかすか分からない――良くも悪くも、だ。
「ま、俺からしてみりゃそれもどうなんだって話だけどな」
不満げな顔で、彼は声を漏らす。
「……そりゃあ、何とも思ってない相手からそういう目で見られたら、普通は嫌だろうよ。
ぞっとする程気味が悪い話だし、怖いに決まってるだろ。
だけどお互い好きで一緒にいるんだぞ?
二人になって――それで何とも思わないって……
相手に対して逆に無礼じゃね?」
ジェイクの言わんとする話の意図は、理解しているつもりだ。
右の掌を掲げ、彼の発言を遮る。
「個人の価値観によるところが大きいと思う。
ジェイクはそう考えていてもそうじゃない人もいるかもしれない、言語化しづらいプライベートな話だから」
「あー……ラルフみたいな奴もいるしな」
ジェイクはそう言いながら、うーん、と天井を眺める。
彼がリタの事を物凄く気に入っていて好きなのだということは分かる。
だがラルフは以前彼女を指して『天使』と言っていたころがあるように、少々相手の事を神格化し過ぎていてとても連想出来ない的な想いを抱いているような気がする。
まぁ、直接胸の内を聞いたことはないので単なる想像だけれど。
「俺はあいつの方が重症だと思うけど」
低く唸るジェイクの友人を憂う声に、何とも答えることが出来ずやはり曖昧模糊とした表情になってしまう。
「……。
どういう価値観の持ち主にせよ、想いは各人の自由だと思う。
でも学園内で風紀を乱すような真似を私達が行うことは許されることではない。
ジェイクだって、重々言い聞かされてきただろう?」
あまりにも奔放すぎる有力な大貴族の息子が生徒会に入って――女性好きな性状が災いし、結果的にとても外部には話せないような問題が生じたことがあるそうだ。
今は学園の歴史の闇として葬られて埋められている話ではあるにせよ。
自分達が外聞を憚らない行動をとることで信用を失うようなことになっては駄目だ。信用とは築き上げるのは難しいが、失うのは一瞬という扱いが難しい概念なのだから。
しかしそうやって信用第一、校則だ規律だと小言を言っていた
放課後誰もいない教室でリナと――などとは予想がつくはずもない。
理屈では済まされない感情の揺らぎの難しさを痛感したアーサーであるが、彼の気持ちが身につまされて良く分かってしまうのも難しいところだ。
自分だって何とか耐えたものの、先週は危うく本当に彼女の唇に触れるところであった。
ジェイクの事をとやかく言える権利など、もはや無いも同然かもしれない。
「人を好きになることはとても素晴らしい事だと思う。
……。
想いの伝え方は一つではないだろう、それはジェイクだって分かっているはずだ。
折角の学生生活、誰にも後ろ指をさされる事のない時間を皆が過ごせれば良いと思う」
第一、今は皆が当たり前のように想定する『未来』が手に入るのかどうかさえ、今後の自分達の行動次第という状況なのだ。
想いが叶ったと浮かれている場合でもない。
地に足を着けて一歩一歩確実に、というシリウスの言葉は真理だとアーサーも思う。
「伝え方、ね。
お前は良いよなー。
カサンドラからこんなに熱烈に伝えられてんだからさ。
疑いようもないし満足だろうな」
彼はじーーっと、少し離れた場所から机の上を見据える。
アーサーはその視線から手紙達を遮るように、そそくさと大切に保管してあった箱の中にしまいこむ。
「だから、別にそういう手紙では……」
もしも……
この自分の手元にある沢山のカサンドラの直筆の手紙に、彼女の『想い』が直截に綴られているものであったとしたら……
控えめに自分のことを気遣ってくれる彼女の本心や想いは、言葉にされなくても十二分に伝わっているけれど。
それはそれとして、形に残る彼女の言葉が欲しいと、そんな我儘な感情がポッと火を灯す。
嬉しくて嬉しくて、ずっとお守りのように持ち歩くだろうことは想像に難くない。
いや、もしかしたら大切に保管するために額に入れてしまうのかもしれない。
現実的にそんな事は無理だと分かっているのに、未練がましいことだとアーサーは心の中で自嘲する。
毎日のように彼女に会って話が出来て、現時点でそれ以上に何かを求めるということは許されないと思っているというのに。
長居して悪かったと気まずそうな雰囲気を纏い、部屋を出ていくジェイクの後姿を見ながら――
しばらく、机に向かって考え込んでいた。
もしも自分がラブレターを渡したら?
自分が先に彼女への想いを書き綴り、渡せばどうだろうか。
彼女も同じような熱量の手紙を返してくれるのでは……?
あのジェイクから、”流石にカサンドラが可哀想”と不憫がられるようなことをしてしまったのか、と。
大きな衝撃に打ちのめされたのも、そう思い至った理由の一つである。
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