第479話 <シリウス>


 レンドールの別邸でアーサーの弟――この国の第二王子だった少年と話をしてきた、その帰り道のことだ。



 ――よりによってレンドール家の養子になっていたとは。



 まさか彼が生きているなど、しかもカサンドラの義弟として王都に住まっていたなど想像だにしないことだと。シリウスは唸っていた。


 孤児院が焼き討ちされたあの夜、リナから聞かされた話はどれも今までの自分の常識を覆すような話だった。

 彼女から聞かされたのでなければ、荒唐無稽な話だと完全に真実だと受け止めることは難しかったと思う。




 アレクの事でも驚いたが、何よりこの世界が”別の世界”の創作物を基にして創られたもので。しかも終わりなく繰り返し続ける閉ざされた空間だったことに、価値観を大きく揺るがされた。


 人生は一度しかない。それが遍く人間の共通認識であり、普遍的真理。常識とも言える。


 天地がさかさまになり、水が地から天へ上るのが当然だと言わんばかりの俄かに信じがたい彼女の話。

 それまでのシリウスの抱えていた懊悩は、ただこの世界が予定されていた結末へ導くためだけに背負わされていた事情だと理解してしまった。



 ……バカバカしい、くだらない。

 こんな世界は、自分達が変えてやる。



 強い決意を抱き、自分の父が謀殺したはずのアレクとも実際に会って話が出来た。


 記憶を引き継ぎながら何度もこの世界を繰り返してきたがゆえ、諦観の籠った悲しい笑顔のアレク。

 子細な記憶はなくとも、常に違和感を抱きながら何度も何度も己の過去の足跡を辿る恐ろしさに堪えてきたリナ。



 ……そして記憶を消され、何度も”滅ぼされ”続ける、この世界の住民全て。



 この一年半という限られた時間で救わなければいけないというのは、今までよりもずっとスケールの大きな話であり。

 自分一人で頑張れと放り出されても途方に暮れるだけだっただろう。




 決して独りではない。

 自分だけが誰にも言えない事情を抱えて不幸だ、などそれこそ思い上がりで馬鹿馬鹿しい話だったのだろう。









「ねぇねぇ! これ、すっごく可愛い!」


「……ホントね、ふわふわだわ!」


「あー、でもこの前別のぬいぐるみもらったばかりなのよねぇ」


 大通りの雑貨屋前に、何点か露店のように机の上に商品が並んでいる。

 その売り物の前で数人の買い物帰りの女性がわいわい楽しそうに会話を交わしているのを、何気なく視界に入れた。


 彼女達が残念そうな顔でテーブルの前をぞろぞろと離れて行った後、本当に偶然、『それ』を見つけてしまったのだ。

 両の掌の上に乗る程度の大きさ、高さ三十センチもないだろう黒い毛玉。

 いや、黒い猫を模した本物の猫の毛並みを思わせる布で出来たぬいぐるみだ。


「……。」


 シリウスは世間一般が指し示す”可愛いもの”なるイメージとは無縁である。

 当然興味もない。

 動物もそんなに好きではない、言葉で意思疎通出来ない相手はどちらかというと苦手な部類だ。


 足を止めてしまったのは気まぐれに過ぎなかった。

 こういう玩具の可愛さなるものは自分にはさっぱり理解できない。


 が、先ほどの女性たちの反応から察するに世間一般ではこの黒猫のぬいぐるみは可愛いと思える形をしているのだろうと思えた。





「お買い上げありがとうございました!」





 ハッと気が付いたら、対価を支払いそのぬいぐるみを買っていた。 




 ……これを渡したらリナは喜んでくれるだろうか。





 



 しかし……一体どういうタイミングで”これ”を渡すべきだろうか?





 しばらく考えてしまった。

 

 こんなぬいぐるみを学園に持ち込むのも憚られるが、同じクラスにいるのに女子寮監に渡すよう頼むのも仰々し過ぎる気がした。


 いや、違う。

 これを渡したリナの反応を直接見たいのだ。

 従って、自分に似合わないから人伝に渡す……というのはナシだ。


 午後の講義が終わった後、生徒会室に彼女を呼び出して渡すのが一番確実な方法だろうと思われる。

 渡すタイミングならいくらでも見つけられるだろう。

 深く考えずにそう決めたはいいものの……



 週明けの朝。

 眠くて回らない頭を掌で押さえたシリウスは、黒い猫のぬいぐるみを入れた袋を鞄の中にぎゅうぎゅうに押し込む。


 その内に薄ぼんやりとしていた思考がゆっくり動き出していった。



「今日は……月曜日か……」



 カレンダーが目に入ったのもあり、シリウスは独り言ちた。

 いつも着けている眼鏡を掛け、眉間に寄せた皺を指先で解す。



「……ん? 月曜?」



 鞄の中に入れた包みを見下ろし、自分の言葉に我に還る。


 月曜日放課後の生徒会室――?

 そう言えばジェイクがリゼに勉強を見てもらう”アルバイト”の日ではなかったか?


 まさか二人が勉強をしている最中にリナにこれを渡して喜ぶ様を眺める、というわけにもいかない。

 生徒会室が使えないのなら、もうどこで彼女に渡しても同じことではないか。


 別の日に渡せばいいだけの話なのだが、寝起きが悪く機嫌が地を這う時間帯なのも相俟って一層苛立ちが募った。

 ジェイクはリゼと二人で仲良く生徒会室で勉強会という密室時間が作れるというのに。


 そのせいで自分が当初の予定通りリナにプレゼントを渡せないのか、と不満に思った。


 ほぐしたはずの眉間の皺が更に盛り上がってきた気がする。


 とりあえず彼がリゼと二人きりなのを良い事に生徒会室で不審な行動をとらないよう釘を刺しておかないとな、と。


 制服の赤いネクタイを締め、シリウスは鏡に映しだされた憮然とした自分へそう言い聞かせて部屋を出た。

 学生鞄の中にぬいぐるみを忍ばせたまま。




 ※



 だがシリウスは幸運だった。

 たまたま午後の選択講義がリナと同じ地理学だったおかげで、彼女にプレゼントを渡す機会を得ることが出来た。

 勿論完全に二人きりというわけにはいかないが、隣で帰り支度を進めている彼女にさりげなく贈り物を手渡すのは決して難しいことではない。

 

 今朝は少々気持ちがささくれ立ってしまったせいで若干なりともジェイクに失礼な発言をしたような気がする。

 些細なことで皮肉を言ってしまった、と思わなくもない。

 過ぎた事なので今更どうにもできないが。



「どうしたのですか?」


 皆が席を立って早く帰ろう、と講義室から出ていく姿とは対照的にいつまでも席を立つことなく、窓際最前列の席でじっとリナの様子を凝視していたのだ。

 視線の先にいたのがリナでなくとも、一体何があったのかと恐る恐る声を掛けて来ることだろう。


 チラ、と肩越しに周囲を一瞥する。


 講義室にいた生徒の多数が離席し、帰路についただろうことをシリウスは確認。

 ようやく固く金具を締めたままの、やや膨らんだ鞄を開けて――薄い布に包まれた「それ」を掴みだすことができた。

 さんざん鞄の中で窮屈な想いをしたのだろうプレゼントは隙間から引きずり出され、体積を膨張させる。


「先日、店で見かけたものだ。

 お前はこういうものが好きなのではないかと思ってな」


「え? 何でしょう……

 開けても良いですか?」


 彼女はおっかなびっくりの手つきで袋を開ける。

 そっと指で「それ」に触れると、パッと顔を輝かせた。



「わぁ、可愛い……!」


 店の前に置いてあったそのまま、黒猫のぬいぐるみがリナに両手で掴まれて天井に向かってかざされた。


「これ、頂いてもいいのですか!?

 触り心地も良いですし、とってもかわいい猫ちゃんですね」


「勿論だ、私が持っていても仕方ない。

 ……お前の収集物の一つにして、並べてもらえればいい」


 彼女の部屋の中を見たことはないが、話を聞くに様々な小物を集めていることは確かなようだ。

 実用的なものから程遠いその感覚はシリウスには理解できないが、それが彼女の趣味であるならば構わないと思う。

 

「ありがとうございます! 大切にしますね!」


 いつもどこか遠慮がちに声をかけてくる彼女が、満面のニコニコ笑顔で喜んでくれたのでシリウスもホッとした。

 こんな些細な贈り物であっても受け取ってもらえないという事態は避けられたようだ。


「シリウス様、今日はもうお帰りですか?」


「そうだな。リナ、お前はどうする」


「今日はリゼの勉強が終わるのを図書室で待っていようと思います。

 リタも付き合ってくれると言っていますし、三人で帰れるはずです」


「時間が無いと急かした私が言うのも難だが、根を詰めすぎないようにな。

 ……まぁ、今週は……少々難しいが。

 来週以降は時間を作り、図書室に向かおうと思っている」


 一朝一夕で難しい魔法を完成させることなど出来ない、それはシリウスも分かっている。

 彼らが束になってかかっても解くことの出来ない頑強な封印を被せることが出来れば、大勢の安全が確保されるはずだ。

 悪魔を蘇らせるなど簡単に言ってくれるが、聖女がその存在を倒すまでに無関係の大勢の国民を確実に守り切れるとは思えない。

 少なからず人的犠牲が生ずるはずだ。

 確実に起こるだろう人的災害に他ならず、絶対に封印を解かせるわけにはいかない。



 聖女などという存在に頼らなくても、自分自身の力でより多くの人間を救えばいいだけの話ではないか。



 本当はもっとこちらの件についても調べ物に没頭したいが、中央の情勢が落ち着くのに今しばらく時間がかかりそうだ。

 恐らく今週は、毎日のようにアーサーと王城に顔を出さなければいけない状態が続くことだろう。



「分かりました。

 ご一緒出来る日を楽しみにしています!」



 彼女は黒猫を抱き締めながら、嬉しそうに頷いたのである。



 リナに遠慮なく”ぎゅむっ”と抱き潰されている黒猫の尻尾が、眼前でゆらゆらと揺れていた。





 ※





 彼女にぬいぐるみをプレゼントして二日後。



 週半ばの放課後、シリウスはリナの姿を探し図書室に顔を出そうと北棟への回廊を渡っていた。

 これからアーサーと一緒に王城に向かう予定になっているが、かなりストレスが溜まるやりとりになるだろうことは明白。


 宰相と顔を合わせることがない日なのは幸いだが、他にも今回の闇競売の大捕物で関わった人間との面倒な地固め作業が終わっていない。

 他国の使者と再び折衝をしなければならないということにうんざりしていた。


 東の国のやんごとなき血脈のお嬢さんが興味本位で遊びに興じ、ロンバルドの私兵に捕まって正式に騎士団に引き渡された――

 公にするわけにもいかないが、さりとて全く無かったことに出来るわけでもない。


 彼らからしてみれば彼女はクローレス王国で公然と行われていた邪な催しに誘われただけで被害者である、という強硬な姿勢を崩すわけにはいかないようで。

 国内の話だけで収まればまだしも、あまり関係が宜しくない国境を接する国とのゴタゴタは本当に胃に来るものがある。


 いつも弱音を吐きたいわけではない。

 せめて、一目姿を見るだけでも心が落ち着くのではないか、と彼女の姿を探していた。


 ……彼女の存在は、学園生活を過ごす中での唯一と言っていい癒しの存在だったと思う。

 仮に彼女が打算で自分に近づいたのだとしても、だ。

 リナとの時間が存在しなければ、今頃心が壊死したまま――あんな計画に未だに加担していたのではないかと思うと怖気が走る。



 彼女がいるだろう図書室に向かっていると。

 不意に向けた視線の先に、急いだ様子で教室棟に向かうリナの姿が回廊から見えてしまった。

 遠目からだが彼女を見間違うことはない。


 教室に何か用事でもあるのだろうか。


 特に疑問に思わずシリウスも方向を転換し、彼女の許へと向かった。

 遠目から見るだけでも良いと思っていたはずなのに、一度存在を意識するとそれだけでは満足できない。


 人間の欲の限りが無さに自分で呆れながら、階段を降りて毎朝集う『教室』の扉を開いた。



「……シリウス様!?」



 自分が彼女を追うように教室に入って行ったので、リナも警戒したのか若干驚き声を上げた。


 誰もいない教室に、彼女は何をしに来たのだろうか。


「ああ、お前がここに来る姿が見えたからな。

 ……少し気になって来てみただけだ。お前は図書室にいるものだとばかり思っていたから」


 少々言い訳がましい発言になってしまった、と心の中で嘆息をつく。

 だが彼女はホッとした表情で、いつもと変わらない笑みを向けてくれたのだ。


「教室に忘れ物をしてしまったことに気づいて、取りに来たのです」


 取りに来た――と。

 彼女は発言と同時に、鞄の中から黒い塊を取り出した。


 それは黒猫のぬいぐるみである。

 自分が一昨日彼女にプレゼントしたものだ。まさか持ち歩いているとは思わなかった。


 しかしそれ以上に驚いたのは……


「何故、そのぬいぐるみは服を着ているのだ?」


 自分がプレゼントした黒猫のぬいぐるみは、無理に押し込んで丸めたら真っ黒な毛玉にしか見えない出来栄えだったはず。

 目も黒いので、余計に黒一色である。


 しかし今彼女が掲げて見せるぬいぐるみは――

 学園に通っている男子生徒の制服ブレザーをデフォルメしたような白い布が着せられている。


 それだけではない。

 何故かその黒猫には




   眼鏡のような飾りが鼻の上にくっついていた。




「この猫ちゃんがどうしてもシリウス様にしか見えなくって……!

 部屋にあった布でお洋服を縫ってみたんです!

 この眼鏡の細工、良い出来だと思いませんか?」


「そ、そうか……?」


 自分は人間だ。

 決して猫ではない。


 確かに口が描かれておらず、無表情な黒一色と言われれば……連想されるのも納得できるような気もするが。

 彼女の視界に認知の歪みでも存在しているのではないかと、少し頬が引き攣った。


 まぁ、本人は手芸が好きだしぬいぐるみを気に入ってくれて、嬉々として手を加えてくれるなら……

 それは直接的ではないが、くすぐったい気持ちにもなる。


「この子がシリウス様に似ているって一目でピンと来てしまいました。

 部屋に帰ってもずっと一緒で――

 この子と寝るので、専用の小さな枕も作ったんですよ!」



   はぁ?



 唖然とするシリウスとは対照的に、高揚した調子のリナは更に喜色を浮かべて言葉を続ける。



「ちゃんとパジャマも作ったから大丈夫です、ナイトキャップも被せたらとっても可愛いかったんですよ!」






 まさか自分が贈ったぬいぐるみに一角ならぬ苛立ちを覚えるとは思わなかった。


 どういうことだ……


 と、内心煮え滾る憤りを何とか理性を抑え、自身の眼鏡を軽く人差し指で押し上げ黙した。


 もう少し自分の心に余裕がなければ、彼女が意気揚々と掲げる猫のぬいぐるみを奪い取ってそのまま窓を開け遠投していたかもしれない。


 流石にそこまで大人げない人間ではないので、シリウスは無言で制服らしき服を纏う猫のぬいぐるみを睨みつけるしかなかった。



 だが――

 リナはふっと、笑顔を曇らせ俯いた。

 その雰囲気の変容ぶりに、シリウスは戸惑いの視線を向ける。





「シリウス様、ありがとうございます。

 夜寝るとき、この子が傍にいて。

 私、久しぶりに……朝が、怖くなかった……です」  



「……怖い?」



 彼女は表情を強張らせ、ぎゅっと”シリウスに似せた”という黒猫のぬいぐるみを抱え込んだ。

 微かにリナは俯く。




「隊商が襲撃される事件があって。

 過去の記憶を、思い出して……

 ずっとずっと怖かったです。


 夜寝て起きたら、時間が戻ってるんじゃないかって。

 ……また最初からやり直しなのかもしれないって、一人になったらそんなことばかり考えてました」




 彼女のぽつりぽつりと漏れ出る声が、シリウスの胸を鋭く穿つ。

 過去の記憶を”思い出して”しまった、と彼女は言っていた。

 膨大なやり直しの記憶を、彼女は景色として、情景として思い出してしまったのだと。



「シリウス様!」


 彼女は急に顔を上げ、強く呼びかける。

 その顔は追い詰められたものの悲壮さを表しているようで、いたたまれない。

 心が疼く。シリウスはぐっと手に力を籠めた。




「貴方は、私のシリウス様ですか?」



「リナ?」


 唐突な質問に完全に気を呑まれ、シリウスは瞠目した。

 必死にそう訴えかける彼女顔は今にも泣きだしそうで。



「私だけの、シリウス様ですか?」


 

 彼女は掻き抱いていた猫のぬいぐるみを自分の机の上に置き、そう叫ぶように問いかけ――

 ぎゅっとシリウスに飛びついて来た。

 彼女は肩を震わせ、嗚咽を漏らして泣いている。





 何度も繰り返してきた三年間。

 過去の自分の辿って来たであろう足跡に触れ、既視感を覚えることばかり。

 シリウスだけではなく、ラルフやジェイクと過ごした時間も確かに記憶の”中”に在って。


 そして――

 過去のいずれかの時を生きたリナが、その時共に過ごしていたシリウスに恋をし、それが叶ったこともあっただろう。


 皆、全て忘れてしまった。

 でも、過去の自分は、過去の真っ新な記憶のシリウスと共に楽しく学生生活を過ごしてきたはずだ。それはリナの中での記憶として、確かに在ったことなのだ。


 自分リナなのに自分・・ではない自分リナが、何度も何度も、恋をした。


 今の彼女が会った事のない『シリウス』を、過去のリナは知っていた。


 いっそ何も知らず、思い出さずに延々と繰り返していられるならば――

 今この時しか存在しないと当たり前のように過ごすことが出来ていたなら。


 彼女はこんなに思い悩むこともなかったのだろう。


 シリウスは当然、彼女のように記憶があるわけではない。

 彼女やアレクの発言が無ければ”巻き戻り”という現象さえ鵜呑みにして信じることも難しかっただろう。


 今でも全く、実感がないのだから。

 そもそも記憶を失った側の人間である。

 リナの気持ちを、完全に理解することは出来ない。想像は出来るけれども、それだけだ。

 完全な当事者にはなれない。



 自分だけのシリウスなのか、という想いは彼女の悲痛な叫びだ。

 この世界の人間の魂と呼べるものが一つしかないとしたら、その一つを一回ごとに記憶を洗浄し延々使いまわしている・・・・・・・・と言っても良い。


 過去の彼女が、過去の自分シリウスの大切な人だったことだってあるとしたら。

 ……とても複雑な状況だが、彼女はもはや失われた”過去のリナ”が――恋敵のようなものなのかもしれない、と感じた。




「勿論、私はお前のものだ。

 今、こうして傍にいるリナ・フォスターだけを愛している」


「……。」



「今私が持つ、お前と共有した記憶、体験。

 全てが、ここにいる私達だけのものだ。


 過去のお前や私は、知らない。

 もうどこにもいないのだから。何も不安がることはない」



 ずっと、”覚えている”ことに苛まれ続けるとしたら、辛いことだ。

 しかし――


「お前はあの日一時的に過去の膨大な記憶を思い出し、混乱したのだろう。

 大丈夫だ。

 人間など、そんなに記憶力に優れた生き物ではない。


 今お前が覚えている、過去の出来事の羅列など――この先歩む時間とともに、すぐに薄れて消えてゆく」


 彼女はひっくひっく、と喉を鳴らして泣きじゃくる。


 優しく、そして心が強い女性だ。

 どんなことがあっても、にこにこ笑顔で自分を、そして周囲を癒し和ませてきた。


 そんな彼女が零れ落とした本心からの訴えに、シリウスは己の無力を知り打ちのめされる。



 

「そう……だと、いいと思い、ます。

 自分が、望んで、過去を……思い出した――のに。


 今、こんなにも……忘れたいって。強く、望んでしまうんです」



 それが事態を変えるきっかけになったのだから。

 彼女の選択も勇気も、正しい事だった。


 過去の己の残した足跡をつぶさに思い出し、”本当に自分だけのものなのか”と不安になるほど、彼女は自分自身に戸惑いを覚えているのかもしれない。

 彼女が思い出したい、と望んだから蘇った記憶。


 それならば必要がなくなれば、いつか。


 普通の記憶のように、使わない記憶モノから順に砂と化して。


 さらさらと風に溶け、彼女の中から忘れ去られて行けばいい――そう思わずにはいられない。



「リナ」



 泣きっぱなしで真っ赤になってしまった彼女の目がこちらを見上げる。

 抱き締めたまま、彼女の頬に手を添えた。




「過去の『我々』との記憶など――今のお前には一切必要ないものだ。

 そんなものは、私が全て忘れさせてやる。


 それだけの話ではないのか?」

 


 じっと彼女の顔を至近距離で見つめる。

 しばらく微動だにせず、ただ互いの瞳に映り揺れるそれぞれの姿だけを視界いっぱいに入れていた。




 どちらからともなく、その距離が更に近づいて――







   ガタッ。






 その瞬間教室の入口近くで物音が聴こえ、リナは顔を蒼褪めさせる。


 手か足を扉に思いっきりぶつけたとしか言いようのない、無音の教室に大変良く響く音だ。


 明らかに誰かが教室の中に入って来たと分かる。リナの視線が横を向き、軽い悲鳴が上がった。



「……シリウス様!

 お話、聞いて下さってありがとうございました!

 ええと……ぬいぐるみ、持って帰りますね!」


 彼女は完全に赤面し、机の上に置いていた黒猫のぬいぐるみと鞄をひったくるように両腕で抱え込んだ。

 そしてその状態の顔を隠すように、後ろ側の扉からバタバタと全力で走り去ってしまったのである。







「はぁ……。」




 完全に水を差され、シリウスはむすっと不機嫌な表情になって視線を”闖入者”に向ける。

 一体誰に邪魔をされたのかと内心の不満を視線にこめ、睨んだ先に……



「ご、ごめん、シリウス。

 邪魔をするつもりではなかったのだけど」



 げっ、と変な声が喉を衝いて出そうになった。


 心底気まずそうな顔のまま、視線を斜め上に向け。

 頬を掻いて教室前方の扉前に立っていた人影は――友人の一人、アーサーだった。


「……。」


 返す言葉もなく、思わず無言になってしまう。

 何と言う居心地の悪さ。



「玄関ホールで待っていても中々君が来ないから、もしかして何かあったのかと……

 もう時間も迫っているし」


「ああ……そうだったな……」


 完全に今後の予定の事など頭から抜けていた。

 ずっと待たせていたのは申し訳ないが、しかしこのタイミングで顔を出すなど間が悪いにも程があるのではないだろうか。


「本当にごめん」








「何を謝る。


 ――私はただ、目にゴミが入ったと彼女が言うから……その確認をしていただけだ」




 シリウスは出来る限り淡々と、平静を装い鞄を手に取る。



「……。

 シリウス。

 流石にその言い訳は無理があると思う」 



 彼は――限りなく、真顔だった。




 心の中で舌打ちを一つ。


 いくらアーサーでも、これで丸め込まれてはくれなかったか、と。

 ……一、二年前の彼なら「そうなのか」と納得して誤魔化されてくれたかもしれないが……



「事故だ、事故。

 一々言及してくるな……と、言いたいところだが」


 はぁ、と肩を竦めて大きな溜息を一つ。













「あの二人――特にジェイクには黙っておいてくれ」




 知られたらうるさくてかなわない。

 状況が容易に想像出来て頭が痛くなった。 
















 彼女の頬に触れた指先が未だ、じんじん熱い。 

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