第475話 <アレク>



 ――数日前から、姉の様子が何だかおかしい。



 学園から帰宅してから。食事中、朝起きて。

 終始ニヤニヤしているというか、顔の緩みを全く抑えられていないというか。


 本人は頑張って普段通りに行動しているつもりになっているが、頭の周囲にお花畑が見える……。



 逆の態度をとられるよりは万倍マシだが、それにしたって限度があるのではないか。

 どうせ兄、つまりアーサー関連で何かあったのだろう。

 既にくっついている二人の関係に今更アレクが関わる余地もなく、そのつもりも全くないのでスルーする事に決めた。



 その内平静に戻るだろう、と。



 自分の姉と兄が普通に婚約者同士でお付き合いをしているという異常事態は、すっかり慣れていたはずなのに。

 兄と何かある度に浮かれ模様の姉の姿に、苦笑いしか浮かんでこない。





    幸せなのは良いことなのだろうな、うん。






 ※





 そんな中、週末の土曜日を迎えることになる。

 相変わらず姉の口角は上がりっぱなしの様子だが。

 今日は生徒会の仕事があるとかで、部屋の中に閉じこもっている。

 去年は彼女のフルートの練習に付き合わされて大変な目に遭ったが、今年は巻き込まれずに済みそうだ。

 



 ※


 


 事前に報せがあった通り、一人の男性がレンドール別邸を訪問してきた。


 とても不思議な感覚だ。

 もう二度と会うことはないのだろうと思っていた相手と、実際に対面するというのだから。

 幾度この『時間』を繰り返しても、一度足りとて巡り合うことがなかった。


 あんなに会いたいと切望していた兄にも一向に会えず。

 せめてジェイク達に会えないだろうかと試してみた時も不思議な何かに遮られるように、全く影も形も目の当たりにすることはなかったのだ。


 本当に同じ世界に同じ国に存在しているのか、と疑問を抱く程。

 いつも何かしらのトラブルに見舞われ、彼らに会うことが出来なかった。


 ……強行突破で無理矢理王宮に突撃しようとした際、大きな事故に遭って大怪我を負い、その後の意識がないま姉の入学式前に逆行していたこともあった。

 あらゆるケースにおいて、この世界は自分の介入を遠ざけた。


 自らの意志で動こうとすればするほどアレク自身が世界から排除され、物理的に接触できない状態になっていたものだ。


 いつしか、自分で何か変えることを諦めた。

 無力さを受け入れることで、ようやく諦める事が出来た。

 

 今も無力であることに変わりはないけれど、状況は今までと全く違う。

 この世界に希望が存在することを、アレクは初めて知ったのである。




「久しぶりだな」


 目の前の青年は開口一番そう言って、掛けた眼鏡の位置を人差し指で軽く調整する。


「はい、本当にお久しぶりですね。

 シリウス様・・・・・


 応接室でシリウスと対面し、アレクはにっこりと微笑んで彼の名を呼んだ。

 記憶にある面影を残しているものの、流石に青年期に差し掛かったシリウスの容姿は想像よりもぐっと大人びて成長したものである。


 まじまじと彼を見つめていると、彼はやや不満そうに口を尖らせる。


「お前にそう呼ばれるのは据わりが悪い、普通に呼んでくれ」


「やっぱりそうですよね~。

 じゃあシリウスさん、今日は僕を訪ねて下さってありがとうございます。

 アレク・レンドールとして、心から歓迎しますよ」


 立場上、それくらいなら許されるだろうか。


 シリウスは肩を竦め、億劫そうな所作でソファに身を沈める。



「随分、性格が変わったな。

 お前の事だから、メソメソ泣いているだけなのかと思いきや」


 母と一緒に山道を馬車で進んでいたあの日。

 ……何度逆行しても、その度にまざまざと思い返される、忘れることの出来ない”それまでの記憶”。


「流石に過去が過去ですからね。

 神経も太くならないとやっていられなかった、という事情もあります」


「……そうか。

 ……。

 王妃の……

 例の件については、本当に悪かったと思っている。

 何分、身内がしでかした事だ」


「いえ、シリウスさんに謝られても困ります」


 そのことについて今更誰かを追求したいという気持ちはなくなっていた。

 勿論母の事は悔しく、悲しい。

 しかしそれ以上に、閉じ込められてしまった『三年間』という繰り返しはアレクの心を大きく削り取っていた。


 三年以上前のことは、もはや既に起こってしまったことで、変えることが出来ないのだ、という厳然とした事実に昇華されている。

 逆に変わるはずの”三年”という繰り返しの時間の中、自分はそれに介入する権利もない傍観者であるという悲しい事実に途方に暮れていたのだ。



「では早速本題に移ろう。

 カサンドラから大まかな話は聞いていると思うが、私からもお前に直接伝えたかった。


 ……長い間、ずっと大変な想いをしてきたのだな。

 辛かっただろう」


 とても静かに、穏やかに。

 労い以外の感情のない彼の声を受け、両膝の上に置いた手に知らず力が籠る。



 ――今になって分かったことがある。



「大丈夫です。

 今は十分、それが報われてるって思ってますから」

 


 辛い境遇ということは、それ自体が本当に辛いのではない。


 ……誰にも分かってもらえない、共感してもらえない事こそが辛いのだ、と。




「当事者の一人であるお前にも同席してもらうのが筋だったな。

 ……場を整えられなかったことは私にも責任がある」


「いや、普通に考えて無理でしょう」


 アレクが学園に侵入することは現実的ではないし、王宮はもっと無理だし、この家に全員が急に集まるというのも不自然すぎるし。

 いくら使用人達に口止めをしたところで、人の口に戸は立てられない。


 皆が一堂に会して何をしていたのだ、と注目されることは避けなければいけないだろう。

 ただでさえレンドール家は現状かなり危うい立場にある……と思う。


 この先三家の当主にとって目の上のたんこぶ過ぎる存在で、どうにかして排除しようと動き出してもおかしくない。

 シリウスもそういう考えがあってこの家を選択肢から外したのだろうが。


「そう言ってもらえると少しは救われる」


 シリウスが抑揚の少ない、淡々と静かな声で皆を招集した後の内容を語ってくれた。

 それは自分も把握していることだし、カサンドラからも聞いている。


 だが実際に彼の声を通して聞いていると、シリウス自身の懊悩の軌跡が垣間見えるような気がして胸が痛くなる。


 これからの展望があるだけで、アレクは大きな前進だと感じられる。

 聞き終わると同時に、期待で胸をいっぱいにしてシリウスを見つめていた。


 だが肝心の彼はというと、未だに渋面のままだ。



「私はアーサー、ひいてはお前に対し非道な選択を採っていたということだな」



 その悔恨は、今回だけの話ではない。

 きっとアレクが経験してきた過去を含んだ、何回も絶望に叩き落とされた経験の事を指すのだろう。


「懺悔しなければならない。

 私が真実、宰相の申し出を端から聞くつもりなどなければ――このような事態は起こらなかったかもしれない。いや、私がいなくても計画は止まらなかったかもしれないが……



 ……王妃やクリスを事故に見せかけて殺し。

 それだけに留まらず、アーサーを悪魔に堕として倒させるなど凡そ人間の思いつくことではない。

 最初からそんな計画に従う余地など無い。

 私自身いかなる不利益を被っても、断固として拒否すべきだったのだろう。


 ……だがな。


 ――……私は……


 ある程度の犠牲を先に払うことで自分が手に出来るだろう未来を……一瞬でもチラつかされてしまった時点で宰相の誘惑に負けていたのだと思う。


 ……。

 奇跡でも起こらなければ得られないだろう、夢を見せられた。


 何のしがらみもなく、自分の善いと思える道を敷ける未来は……どれほど願い、切望したビジョンだろう。


 禁断の果実に他ならなかった。……私の心の未熟さ、弱さが招いた事だ。


 まぁ、私一人の有無で何かが変わったとも思えんが。

 宰相の話を真っ先に跳ねのけなかったことを――私は後悔した」



 悪政を敷くことは善政を敷くより易いことなのだと思う。


 良い事をしようとしても、誰かにとって都合が悪ければ邪魔にしかならない。


 ――出る杭は打たれる。


 だがどれだけ突出してもそれを打つべき槌が無いという状況は――シリウスの置かれている立場から考えれば魅力的な話に映っただろう。

 理性ではそれは外法だと分かっていても、全てが上手くいけばそれを手に出来るかもしれないと意識させられ、彼は積極的に手を下すことも出来ないまま。

 現状維持の学園生活を選んでしまったのかもしれない。


 物理的に宰相の目論見を潰すのは困難だっただろうが、一顧だにしなければ宰相もまた計画を変更せざるを得なかったかも。


「シリウスさんがそう思うことを見込んでこの世界・・・・が貴方にこの役割を持たせたのだとしたら……

 まぁ、今更言ってもしょうがないですよ」


 歪な世界。

 ここで永遠に、いつ終わるともしれない三年を繰り返すだけだったはずだ。

 こうしてシリウスに全てを知ってもらえただけで、分かってもらえただけでアレクは幸せだった。



「姉上がこの世界の本質を教えてくれた事で、ようやく得心がいったんです。

 僕の世界じんせいは、僕が主役ではなかったんだって。


 ……でも、その上で皆さんがこの状況を何とかしてくれて、この世界がゲームという元の作品から解放された時――

 きっとそこが、僕や皆が主役になれる世界なんだって思ってます。


 だから頑張ってくださいね。

 勿論、僕にも出来る事があれば何なりと言って下さい」 



「ああ、私もそのために全力を尽くすつもりだが……

 お前にはカサンドラ周辺に警戒しておいてもらいたいと思う」


「姉上ですか」


「ああ。

 ……とにかく、今のカサンドラは何か理由をつけて貶めるということも出来ない、周囲の人間からアーサーの婚約者として広く信任を得ている状態だ。

 それを良く思わない父達が何を仕掛けて来るか、私にも見当がつかん。


 何事もなければいいが、そこまで私も関われん。

 身辺警護は常に万全の体制でいて欲しい」


「分かりました。

 今までの姉上の行動を考えると、窮屈に思うかもしれませんね。

 王妃候補という自覚が無さそうな感じでしたし」


 護衛も付けずにふらっと一人で街に出て行った時は吃驚した。

 自分がどういう立場なのか本当に分かっているのだろうか、あの人。


「この話をする前までは、多少ザルな警護でも良かったのだがな」


 彼は肩を竦め、長い脚を組みなおす。


「『聖女計画』の中で、アーサーの婚約者だったカサンドラは排除される側の人間として扱う予定だった。

 最初から”悪役側”として立場を追われるよう仕向けられていたわけだ。

 計画の有無を問わず、邪魔な人間である事実は変わらん。


 ただ――入学以来、カサンドラは三つ子に対し大きく肩入れをし、気に掛けていた。彼女の尽力があって理想的な盤面が整った、とも言えるな。


 私はこれまで宰相に「カサンドラを利用するべきだ」と主張を続けていた。

 早々にカサンドラの足を引っ張って潰すより、三つ子の後援者のような存在でいてもらっていた方が我々にとって都合が良いのではないか、と。

 カサンドラを宰相の意識から逸らそうとはしていたものの、流石にこれ以上彼女を野放しにさせる理由も見当たらん。


 レンドールの発言権、中央への干渉が強くならない内に、『聖女計画』とはまた別に奴らが手を打つ可能性は十分考えられる。


 現状を鑑みればフォスターの三つ子の身の安全は保障されている。だがカサンドラはその限りではない。

 学園外ではお前が守ってやって欲しい」




 今まで比較的カサンドラが自由に動けていたのは、三家の計画に対する利用価値があったから。


 既に三つ子の恋愛が成就した以上、彼らにとってレンドール家は邪魔以外の何物でもない。

 王子もその婚約者も、追い落としたいだけの存在。


「心得ています」


 大きく頷くと、シリウスはフッと細い吐息を漏らした。




「カサンドラ……か。

 アレク。お前は本当に、彼女を自分の『姉』だと思って接しているのか?」

 

「どういうことですか?」


 シリウスは僅かに言い淀み、躊躇った後。

 控えめに、アレクに問うてくる。


「……彼女は、当人の告白通り異世界の記憶を持つ人間……なのだろう。

 お前が願い喚んだとして、だ。


 言わば他人に成り代わられたようなものではないか。


 お前の知っているカサンドラという存在だったものは、もうこの世界のどこにもいないのだぞ?」



 助けて、と。

 強く強く願ったから、あの時彼女の中に、別の世界の人間が宿った。

 そしてその記憶を持つ人間は、この先に起こることを知り、どうにかしたいと――婚約者である王子を救いたいという一心で、彼の心に近づいていくことを選んだ。

 とても迂遠なやり方ではあったけれど。

 その純粋な想いがあったから、自分は兄と再会できたのだと思っている。



「――……シリウスさん。

 ……姉上は、姉上なんです」



 そもそも、人格や性格なんてものは、何かと切り離して単独で存在するものではない。

 過去の記憶、経験、知識、感情。それら全てが相互に影響し合って『ヒト』になる。


「兄様も仰っていたのですけれどね。


 ……今まで知らなかった経験や記憶が一気に意識に流入し、自分の一部となるって相当大きなショックだと思うんですよ。

 他の世界に生きてきた『カノジョ』にとっても、カサンドラ・レンドールという十五年の人生全ての記憶に触れ、まじりあうわけで。

 どちらか一方の人格ではなく、カノジョの記憶と姉上の記憶が相互に反応した結果、『今の姉上』になっている。そう僕は解釈しています。

 本人です。

 偽物なんて無いんです」


 一方的に意識を乗っ取られている現象とは違う、と思う。

 召喚されてきた彼女の『記憶』、元の『性格』もカサンドラの過去に引っ張られて変質してしまったのではないか。

 二人の人生の記憶を同時に持ち、自然に融和しているという奇跡。


 どちらにとっても、本人なのではないだろうか。

 どちらが主客か、なんて問うても本人も分からないのではないだろうか。


 彼女は自分の知っている姉でもあり、そして異世界の知らない女性でもある。

 どちらも矛盾せず、一人の人間として存在している。

 根幹たる、根っこにあたる部分で強く共有できる想いがあるからだろう。


「都合の良い言い分かもしれませんが、僕にとって姉上は姉上です。

 僕と――レンドールの家族と過ごしてきた記憶を持って、その時の感情も思いも全て覚えていて。

 同じ時間、同じ過去を共有してきた事を覚えているなら、もうそれは僕にとって姉上でしかないんです。

 異世界の記憶によって本来知らないことを知ってしまったから、価値観や行動が少し変わってしまっただけ。


 にあるものは変わっていないと思うんです」


 確かに別人のようだった。

 でも本質的なところは変わっていないのではないか。

 少なくともアレクは、カサンドラの事を姉だと思っている。



「……そうか。

 すまない、不愉快な事を聞いてしまったな」


 シリウスは謝罪の言葉の後、しばらく瞑目した。




「僕にとって、大切な家族ですよ。

 兄様も、姉上も」   



 二人の関係がこんなに上手くいった事は奇跡だ。

 アレクとしても、どうかこのままやり直す事無く未来へ進みたいと心から願っている。


 血の繋がりの有無に関わらず、逆行前の決して忘れる事のない『過去』を共に過ごしてきた家族。

 アレクにとってとても大切な人たちだから。


 カサンドラを『変えて』しまったのが自分なのか、と悩んだこともあった。

 でも――

 幸せそうに、今日だって朝からニヤニヤ嬉しそうに含み笑いを漏らしていた彼女の事を思うと。


 自分の願いは、想いはきっと間違っていなかったのではないか。

 異世界の記憶が、彼女の幸せに繋がり閉鎖された世界を解くきっかけとなるのなら。



 それにカサンドラが別人だと言えば、アレクも既にアレクではない別人なんじゃないかと怖くなる。

 本来なら体験するはずのない、幾度も幾度も同じ三年を繰り返し。その記憶を持ったまま、体験した実年だけで一体何十何百年になるのだろう。


 ただ逆行すると同時にその段階で真新しい”十一歳時点の記憶”が蘇るからシリウスに実際に会ったのも数年ぶり、という感覚でいられるだけで。

 そんな通常の人間が知らない時間を何度も過ごしてきた記憶を持つ自分は、果たして自分なのだろうか。


 今の性格だって、そういう周回を経た結果得たものかもしれない。

 でも自分は自分だ、と思うから。


 小難しい事を考えず、自分は常に自分だ、と強く考えるようにしている。


 ――そうでないと、自我が崩壊しそうだったから。




 消えゆく時間、逆行するだけの時。




 誰も自分の過ごした三年間を覚えてくれていない。

 誰とも、思い出話を出来ない。

 さらさらと流れ落ちる、自分の時間。



 だから――固定化され、もう変える事の出来ない入学式以前の”過去の記憶”だけが拠り所だった。


 記憶かこを共有して傍にいてくれる数少ない家族なのだ、カサンドラは。

 記憶を持ちアレクの昔を知っている彼女は、紛れもなく彼女自身なのだと思いたい。



 そんな自分の必死さが、シリウスにどう伝わっただろうか。

 少し緊張した、が。





「私には兄弟姉妹がいない。それについて何か思うことも無かった。

 一人の方が気楽ではあるからな。

 ロンバルドのような修羅の家と比べればマシだと思っていたくらいだ」


 シリウスは静かに微笑み、黒い双眸を細めた。

 第一印象の見た目とは違い、こんなにも優しい表情も作れるのかとアレクも驚く。




「……だが、お前のような弟なら欲しかったな。

 アーサーやカサンドラを羨ましく思う」




  


 まさかシリウスからそんなことを言われるとは。





「はは、最大限の誉め言葉ですね。

 ありがとうございます、シリウスさん」











 生憎、自分の兄の席は――生まれた時から埋まってる。 





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