第473話 <リナ>



 放課後の図書室、人気ひとけのない奥の席。


 リナは静かに席に着き、書棚に置いてあった厚い背表紙の本をパラパラとめくっていた。

 古めかしい装丁だが、殆ど生徒に貸し出された形跡の無い魔法理論の書物である。

 リナだってこういう事態でも無ければ開くことはなかっただろう。

 読んでいるだけで眠たくなりそうだ。

 普通の辞書を読む作業に等しい。


 魔法は半分以上感覚で使っているもので、小難しい法則や理論を文字を並べて説明されても中々ピンとこない部分がある。

 勿論学問なので体系だって考えなければいけないものだが、実際に魔法を使える人間でなければ文字を読んでいても意味が分からないだろうな、とは思う。


 理解できる言語で書かれているはずなのに、何を書いているのか分からない……。そういう感想を抱くのがオチである。


 魔法に触れたことがない自分だったら、この文字列を目の当たりにしてきっと混乱していたことだろう。


 何かを阻む、防ぐための魔法は基本的に三通り考えられる。


 障壁、結界、封印。


 瞬間的に見えない盾を展開し、敵の攻撃を弾くことが出来る障壁。

 広い範囲を対象に、魔力的な干渉や魔法攻撃を防ぐことが出来る結界。


 ――永続的に対象物へのあらゆる干渉を無効化させる、封印。


 障壁魔法は使った事はあるが、それ以外は全く未知の領域だった。

 


 特に障壁や結界は術者の魔力が途切れれば効果もなくなってしまうものだが、封印魔法は全く別の魔法陣循環理論が組み込まれて永続的に効果が得られるのだとか。

 聖アンナが使った封印魔法は、そんな理論的なものではなく聖女パワーで無理矢理抑え込んだものだろうが。

 いざ皆で力を合わせて封印魔法を完成させようと思えば、理論や魔法陣構築の事前研究は必須。



 無学なままでは足を引っ張りかねない、とリナは早速図書室で関連する本に目を通すことにしたのだ。 



 とりあえず今日借りる本はこれでいいかな、とようやく一冊選り抜くことが出来た。

 椅子に座ったまま、ホッと息を落とす。




 しかし――

 今朝は本当に大変だったなぁ、とリナは『魔法学 干渉法則』という書物のタイトルを指先でなぞりながら、思い出しては苦笑を浮かべてしまう。

 昨日の今日で、ここまで状況が動くのか、と。


 ……とは言っても、ジェイクの性格を考えるとあれくらい堂々と言ってのけそうな気がするし。

 ラルフはラルフで、ちゃんと相手が不安にならないよう行動できる人だから――


 朝の学園大パニック様相も、予想の範疇ではあったのかも知れない。

 学園の外で二人で会うことが出来ないのなら、学園の中で一緒にいる時間を過ごす、という考えに行き着くのは自然な流れだ。

 今後の円滑な学園生活を考えれば、むしろ何も変わらないと思って登校していた自分達の方が甘かったのではないだろうか。



 毎週日曜日の餐館でのアルバイトも固く止められてしまったし。

 これから卒業までシリウスと二人でいられる時間はどれくらい残されているのだろうか。


 少し感傷的な気持ちに浸りながら、リナは椅子に座ったまましばらくぼんやりとしていた。




「ここにいたのか、リナ・フォスター」



 不意に声を掛けられ、リナは驚いて視線を上げた。

 聞き間違えるはずもない声の主は、その通りシリウスのものである。


 リナは驚き、立ち上がった。


 今日は忙しいから放課後図書室で過ごす時間が無い、と彼自身が言っていたはずでは……?


「シリウス様?」


 場所柄、大きな声は出せない。

 必死に抑えた声はそれでも十分上擦っていたと思われる。


「……お前を探していた。

 心当たりのある場所を覗いてもいなかったので、図書室にいるのだろうと足を向けただけだ。

 今日はここにいないものだと思っていたが――やはりお前は勤勉な人間だな」


「え? 私に何か用ですか?」


「用……

 それなら一つ、途中で出来たな。

 先程生徒会室に寄った際、カサンドラが生誕祭の資料が一部足りないと言っていた。――お前に貸したものだ」


「……あっ……」


 リナは顔を蒼褪めさせる。

 慌てて自分の鞄を開けて確認すると、確かに先週末に拝借したファイルが収まっている。

 返却しにいかなければと思っていたが、ここ一週間あまりにも慌ただしく心に余裕もなかった。

 写そうと思っていたのにそれも儘ならず、ずっと持ち歩いていたことになる。


 しまった、と自分の迂闊さを呪うが時既に遅しだ。



「カサンドラ様はもうお帰りですよね。

 明日で間に合うでしょうか、ご自宅までお届けした方が」


「まだ生徒会室で作業を続けているだろう、そう焦らなくても良い」


「そんな……お一人で、ですか!?」


「カサンドラにとって、魔法関係は門外漢だ。

 どうやら当人はその事をいたく気にしているようでな。

 生徒会の雑多な仕事は出来る限り引き受けるから、代わりに例の件を進めていて欲しいと言っていた」


 成程、だから生誕祭で使用する資料が見当たらないと困っているのか。

 しかもシリウスに伝言の使い走り役をさせてしまった形になる、一層リナは固まってしまった。


「煩雑な手続きもあったはずですが、かなりご負担では」


「カサンドラも去年役員として責任を持ち過ごしていた。今年は彼女にある程度任せても特に問題はないだろう。

 当人がやる気なのだからな」


 自分達に残された純粋な時間は一年半、長いようで――短い一瞬の期間。


 学校行事に割かれる役員の仕事の一部を彼女が負担することで、シリウスやラルフ、王子の手が空くなら……それはとても彼らにとって助かる事のはずだ。

 先に封印魔法を完成させるとシリウスも言っていたけれど、喫緊の課題を早く終える事が出来るかも。


 シリウスも異議なく、普通に任せることにしたというのだからそれも驚きだ。

 彼女の事を信用しているのだろうことは雰囲気で伝わってくる。


「申し訳ありません、これからすぐに返却に向かいます。

 シリウス様もお忙しいのに手を煩わせてしまって……」


 完全に恐縮し、頭を下げる。

 だが別に彼は怒っている様子は全く無く、それがまだリナにとって救いであった。



「その用は、途中で出来たものだと言っただろう。

 お前に会いたかったから、こうして探していただけだ」


 真っ直ぐに誤解なく、そう言われると今更ドキッとする。

 今朝からずっと彼の表情はいつにもまして穏やかで。周囲を牽制し、遠ざけるようなオーラは全く感じなかった。

 


 リナは虚を突かれ、じっと彼の顔を見つめた。眼鏡の奥に、綺麗な黒い瞳が同じように自分の姿を捕らえている。



「これから……少々癖の強い人間に会う用事があってな。

 正直、あまり気が進まない。


 ………お前の顔を見れたら、少しは前向きになれるかと思ってな。

 声が聴きたかった」



 最初は言っている意味が分からなかったが、理解し飲み下すと、一気に顔が熱くなってしまった。

 今まで彼がそういう弱音めいた発言をしてくることなど、普段無かったからだ。


 いつも彼は淡々と物事を処理するし、文句は言ってもそれを当然のように受け入れている人だ。


 そりゃあ彼だって嫌な事や面倒な事、出来れば進んで携わりたくない案件だって沢山あっただろう。

 今まで表に出さなかっただけで。


 自分に何か特別な力があるとは思わない。

 でも、そうやって彼が素直に感情を見せてくれるのはとても嬉しくて、少しでも役に立てれば良いと思う。



「お仕事大変だと思います、どうか頑張って下さいね。

 私はいつでも、シリウス様の味方です」




 意識的に微笑むのは、ちょっと難しい。

 でもそう言って彼を励ますと、たったそれだけの事なのに彼も目を細めて笑んでくれた。


 ふわふわとした優しい時間が、このまま停まってしまえばいいのに。

 不謹慎にもそう思えるほど、リナはとても嬉しかった。




 だが彼が不意に視線を逸らし、穏やかだったその表情を急に険しいものに変じさせた。

 視線の先にあるのはリナの左手だ。


 手根部に残った赤い痕を彼が凝視していることに気づき、焦って右手で視界から隠すように覆う。が、当然遅かった。


 孤児院で火事を消そうと身を乗り出した際、手首近くに痣のような火傷痕が残ってしまったのだ。

 普段の生活に支障は無いし、見た目の割には痛みもない。


 敢えて手をひっくり返さなければ手の内側を見る頻度も多くないので、全く気にしていないのだけど。


 彼は眉を顰めたまま。

 リナの左手を覆う反対側の手を掴み、赤い箇所には触れないように――そっとその痕を再び外気に晒す。


「あの時の火傷か?」


「はい。

 ……痛くはないのです、少し赤くなっただけで」


 彼は無言で、掌をじっと見つめている。





「……すまない。

 私に力が在ったなら、この痕も消せるだろうに」




「いいえ、気になさらないでください。

 人助けの勲章みたいなものですから。


 それにあの時の事を思えば、これから先何があっても耐えられると思うんです」


 自分でも出来る事があるのだ、という。

 勇気と自信をくれる痕。



「……。」



 目立つ個所ではない。

 むしろアリサのような、大きな赤い火傷痕が残ってしまった方がとても可哀想で、不憫でならない。



「全部、お前のお陰だ。

 ありがとう」


 シリウスはそう言って、リナの左手を両手で包んだ。

 まるで壊れやすいものを丁寧に取り扱う時のように、そっと触れる。


 自分より一回りも大きな手から、長い指から。


 伝わってくる彼の体温に、リナはとても恥ずかしくなり、いたたまれず。

 嬉しいけれど、こんな場面を誰かに見られてしまったらと急に羞恥に襲われてしまったのである。








 ガタッ、と音がした。






 思わずリナが肩を跳ね上げ、その音を発した方向を恐る恐る見遣ったら――



 手を握り合って見つめ合うというシチュエーションど真ん中をリゼとリタが目撃し、二人とも「あわわわ」と焦燥を顔中に敷き詰めているではないか。


 図書室の奥の角で、シリウスと見つめ合って手を繋いでいるシーン……

 客観的に自分を見つめ直すと、急に恥ずかしさが限界を越えて沸騰していった。


 シリウスはこんな風に自然に触れてくるような人でもなかったはずなので、猶更現状、「違うの!」と言い訳をしたくなるワンシーンである。


 頭の中が一瞬で蒸発寸前、限界を越えた。



「シリウス様! お忙しい中、ありがとうございました。

 私、これからカサンドラ様に資料を返却に行きますので……!


 どうか無理はされないでくださいね。


 ……失礼します!」



 彼の手をパッと離し、リナはバタバタと鞄を持って席を離れる。

 本を借りるのだけは忘れなかった自分を褒めたい。






 ※






「どうして二人とも私についてくるの?

 図書室に用があったのでしょう?」



 恥ずかしさの余り、逃げるように図書室を脱出したリナ。

 シリウスには大変申し訳ないと思ってしまったが、事情を全て知っているこの二人にあんな姿を目撃されると気恥ずかしさがまさった。

 身内に見られたくないという根源的な想いが押し寄せる。



「冗談でしょ?

 確かに私、調べ物する気で図書室に行ったけど。

 あんな気まずい空気の中、そんな気失せるわよ」


 リゼは若干引きつった表情で、リナの問いに反応する。

 確かにあの場に残してしまうことになったシリウスと、この二人の間に漂う気まずさを考えたら致し方ない事かも知れない。


「私はリゼかリナと一緒に帰りたかったからついて行っただけ。

 図書室に用があったわけじゃないし」


 確かにリタは自ら率先して封印魔法の理論だ魔法陣の構築だ、という研究分野に手を着けそうもない。

 リゼにくっついて図書室に来ただけなのだろう。


「もう今日はそんな気分でもないし……

 ねぇリナ。これから三人で一緒に帰らない?」


 リゼの提案には賛成だ。

 今更図書室に戻って本を読み続けるという気にもならないし、目的の本は借りたのだから自室で頭を悩ませれば事足りる。


「分かったわ。でもその前に生徒会室に寄ってもいいかしら。

 資料を返すのを忘れて、カサンドラ様に迷惑をかけてしまったの」


「それくらいなら勿論付き合う!

 三人で一緒に帰るの久しぶりだもんね!」


 昨日話し合いが終わった後、ジェイクとリゼの補講を終えて皆で一緒に帰ったけれど。

 それはまた状況も特殊だったし、純粋に三つ子だけで一緒に帰宅するのはかなり久しぶりな気がする。


 午後の講義も異なるし、常に一緒にべったり、という関係でもない。

 それぞれが人間関係を持っていて、決して三人だけで完結することはなかった。


 全くバラバラの性格であるから当然かもしれない。


 だが、その性格の差こそ仲がいい秘訣なのかもしれないなぁ、と思う。




「それにしてもシリウス様って凄く積極的!

 私、すごく吃驚した!」


 リタがそんな風にニヤニヤ笑ってこちらを見て来るので、リナは再び顔が熱くなって頬に手を当てる。


「もう、あんまりからかわないで」


 普段、他人や姉達の微笑ましい恋愛模様を眺めているだけだったリナ。

 それが今度は自分が渦中にあるのだ、リタもこの機会を逃がさないとばかり、リナの腕に自分の腕を組んで見上げてくる。


「いいじゃない、ねぇねぇ。

 リナってば全然そういう話してこなかったから、滅茶苦茶気になる!

 シリウス様って二人きりだといつもあんな感じなの?」


 酔っ払って絡んでくるオジサン並みに面倒な絡みをしてくるリタに、苦笑いしか浮かばない。


「……リナが嫌がってるんだからやめなさいよ」


「リゼだって気になるでしょ!?」


「別に。」


 淡々としているリゼだが、チラチラとこちらに向けてくる視線が少し痛い。

 話してくれるなら聞いてもいいけど、という言外の声が聴こえてくる……!




「よーし、じゃあ、さっさと渡すもの渡して、今日はリナの話をたっくさん聞いちゃおう!

 で、何を返すの?」



 リタが意気揚々と力こぶを作り、こちらに圧力をかけてくる。

 鞄の中から黒い装丁のファイルを取り出し、リナは胸に抱えた。

 どの道すぐに返さなければいけない。カサンドラの前で鞄の中をごそごそ探るわけにもいかないので、先に手に持っておこうと思ったのだ。


 生徒会室は目の前。


 この回廊を渡り慣れてしまった事に、自分でも若干戸惑いを覚える。



「じゃあ私が返してきてあげる!

 貸して貸して」


「あ、ちょっとリタ!」


 ひょいっとファイルを掴み上げ、リタは廊下を早歩きで進む。

 廊下を走ってはいけないという決まりは律儀に守っているリタだが、彼女に追いつくためにはリナもリゼも走らなければいけない。

 どうして自分達が校則違反を強いられているのかと釈然としない思いを抱えながら、リタの後ろを追った。



 リタは生徒会室扉の前に辿り着き、ふふん、と得意げな顔をしてドアノブに手を掛けた。


「失礼しまーす」


 前置きなく、ガチャっと開かれる扉。

 まるで教室の扉を開けるかのようなスムーズさ加減で生徒会室のドアを開けるなんて……!

 すっかりリナの事に意識を囚われ、地に足が着いていない。


 いや、きっとそれだけではない。

 リナの話を聞くと同時に、”自分の話”も是非聞いて! という二重の意欲が混じっていてハイテンションなのだ。



「ちょっとリタ! ノックしなさいよ!」



 リゼが怒るのは当然で。


「すみません、お借りしていた資料をお返しに来ました!」


 慌ててリタの後ろから、謝罪の声を掛ける……




 が。




 リタは扉を開けたまま、完全に硬直していた。

 ピクリとも動かない。



 理由は一目瞭然だった。



 生徒会室の奥、書類棚の近くで。





 カサンドラだけではなく。

 カサンドラの顔を至近距離で見下ろし、彼女の顔に手を当てている――王子の姿が視界に飛び込んできたからである。





    あと一秒か二秒遅かったら、


    そのまま………


    ええと、


    ……二人は婚約者なのだから、別に、おかしいことは一つもないのだけど








    ……。









 その場にいる全員が、しばらく凍り付いたように動けなかった。

 誰かがこの場に封印魔法でもかけたのではないかと疑義を抱く状況だが。





『お邪魔して申し訳ありませんでした!!』




 三つ子ゆえの以心伝心、バッチリのタイミングで声を揃えて頭を下げる。

 平身低頭、心からの謝罪の意を籠めて。




 息を止めて苦しそうなリタが、ファイルを近くの机の上にそーーーーーっと置いた。



  



 そのまま三人で回れ右。


  





   バタン!    思いっきり、リゼが扉を閉めた。









 ※







「………。」



「………。」



「………。」




 下校途中、並木道まで三人は口を結んで無言のままだった。






「ねぇ、リナ」





 唐突にリゼが真顔で振り向く。


 まるで夢から覚めた後のような、余韻を引きずる青い瞳。







「一緒に山登りに行かない?」





 しごく真面目な顔から、似つかわしくない単語が飛び出してリナはポカンとした。








「賛せーい! 山に登って、皆で一緒に叫ぼう!

 凄く大声出したい気分!

 リゼが分かってくれて嬉しい!」




「……。

 衝動的に叫びたくなって……」



 


 何故かリゼは悔しそうに唇を噛み、握った拳を小刻みに震わせる。








 え?









       ――  山!? これから!? 





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