第472話 <リタ>
口を開けば、喜びのあまり奇声を発しそうになる。
気を抜けば、頬が緩んでニヤニヤと変な顔を晒しそうになる。
――昼食時間の食堂は、学園の全生徒が集う場所だ。
そんな変な行動をとってしまったら、気でも触れたのかと思われかねない。その結果ラルフに風評的な意味で迷惑をかけてしまうかもしれない……!
でも我慢が難しい。
嬉しいよぉぉぉ!
と心の中では大騒ぎなのだが、それを静寂の支配する食堂であけっぴろげにするわけにもいかない。
とにかく自分の心を律し、水のように静かに……!
リタは目の前の美味しい昼食に集中し、それ以外の雑念を懸命に追い払おうとしていた。
だがふとした瞬間にラルフの顔が脳裏に蘇り、衝動的にジタバタと手足を動かしそうになる。
大変落ち着かない時間であった。
もう自分は『リリエーヌ』じゃなくても、彼と一緒にいることが出来るのだと思うと脳が焼ききれそうな程、熱くなる。
貴族のお嬢様に変身して婚約者のフリを演ずるのは貴重な経験だったと思うが、所詮は仮初の自分を演じているだけに過ぎない。
こういうお嬢様だったら、彼の隣にいても誰からも文句を言われないのかな――
理想の”お姫様”になる夢を見れた。
前情報なく自分とリリエーヌが同一人物だと気づける人間はいないはずだ。
ラルフ以外には看破出来ない……はず。
とにもかくにも、扮装せずとも『リタ』のままでいられる。
それは殊の外嬉しい事であった。
このまま溶けてしまうのではないかという、湧き上がる喜びを抑えるのに精いっぱいである。
※
昼食が終わった後すぐ、ラルフと一緒に生徒会室前の西中庭まで向かっていた。
三段噴水が設置されていて落ち着いた雰囲気の良い場所だが、場所柄かあまり人気のない中庭だ。
リタも他の多くの生徒と同様に、廊下を殆ど使用することがない。
傍に在る医務室にも縁が無かった。まさに健康優良児である。
頻繁に来たことがない区域だが、残っている思い出はとても深いものばかり。
ラルフに用事がある時は生徒会室を訪れたことがあるなぁ、とか。
この間は初めて生徒会室の中に入って、シリウスからまさかの衝撃的事実を聞かされたなぁ、とか。
――一番最初にここに来たのは、リゼがあの奥の噴水に頭を押し入れられ事件が起こったからだったなぁ……
とか。今思い出しても心臓に悪い出来事なわけだが。
あれから随分、変わってしまった。
時間が経てば自分も変わる、他人との関係も変わる。
その変化は自分にとって好ましいものばかりで、この学園で過ごした時間はとても大切なものだ。
たとえここに通っていることが仕組まれたものであるとしても。
自分が『主人公』だという特権のせいだったとしても。
……楽しかった。
「まぁ、リタさん! ……ラルフ様、ごきげんよう」
庭園に辿り着くと、既に一人の女生徒が自分達を待っていた。
満面の笑みを浮かべ、咲き誇る花のように可愛らしい女の子である。
「こ、こんにちは」
ペコっと頭を下げると、彼女はとてとて、と。小走りでリタに近づいてくる。
普段走り慣れていないのがよく分かる動きをする彼女――キャロルが、リタの眼前でぴたっと制止した。
じーっと自分を見つめるキャロルは、偽物のお嬢様だった自分と比較して生粋の混じりけのない、完全純度百パーセントの貴族令嬢である。
「まさか貴女がリリエーヌさんだったなんて……!
こんなに近くにいたのに、気づかなかったです!」
彼女は突然、緊張しているリタに急に飛びかかって来た。
飛びかかるというよりは抱き着いたという方が正しいかも知れない。
反射的に彼女の体を抱き留めると、キャロルが自分の目をじっと見上げているのが分かる。
一体どうしたのだ、と流石のリタも混乱状態だった。
彼女は何かに納得したかのように大きく頷いた後、いそいそと距離をとる。
そして両の掌を顔の横で重ね合わせ、にっこり笑顔をリタに向けてくれた。
「その節は本当にありがとうございました。
改めまして、ラルフ様とのご婚約おめでとうございます」
え? 今の、何の確認??
内心でどっと汗が噴いたが、とりあえず頭を下げる。
「あ、ありがとう……ございます。
あの、キャロルさんは怒っていないのですか?」
「怒る? 私が……?
何故怒らなくてはいけないのでしょう」
「だって、あの舞踏会で私が皆さんを騙したようなものですし――」
「そんな事を仰らないでください!
ヴァイル公爵も大っぴらには出来ない事情がお有りだったのでしょう。
こうやって身を偽る必要がなくなったのであれば、大変喜ばしい事だと思います」
彼女は全く表情を変えず、ニコニコスマイル。
亜麻色の長いストレートの髪が初夏の爽やかな風に微かに靡く。
頭の上の大きな赤いリボンも、他の人が身に着ければただ子供っぽいだけの印象になるだろうが。
彼女が身に着ける事で、可愛らしさが一層底上げされる装飾品と化している。
「でも、私少し不安なんです」
リタは恐る恐る、キャロルにそう言った。
ラルフに思いが通じて嬉しい、そして正体を明かして素のままでラルフと一緒にいられるなんて踊り出したくなるくらい嬉しい!
ただ、舞踏会の話を自分から言い出した瞬間、得も言われぬ恐怖がリタを支配した。
「私、皆さんの前で貴族の娘だ――なんて嘘をついて、騙してしまったわけですよね?
これ……犯罪で、捕まってしまうんじゃないでしょうか!?」
嘘をつくのは悪い事だ。
偽りの婚約者の話を受け容れたのはラルフの頼みがあったからで、全く後悔はしていない。
ただ、今の現状に至って冷静に現実を省みると。
リリエーヌなどという架空の令嬢になりきって大勢を騙した。
それは何かしらの罪に値して、牢屋に入れられてしまうのではないか。
そんな不安に突如襲われたのである。
キャロルとラルフが互いに視線を向ける。
アイコンタクトのように、その一瞬で意思統一。
「リタさんはそのようなことを煩っていたのですね。
――確かに僭称は罪に値します。
それによって不利益を被り損害を受けた人間がいるのであれば、訴えられるかもしれませんね。
……では、一体この国のどなたが、リタさんを訴えるのでしょう」
ふふ、とキャロルはなおも笑顔を向けている。
だがその雰囲気に圧力を感じるのは、リタだけではないだろう。
「リタさんが僭称したため、舞踏会でラルフ様に「選ばれなかった」。
その事による不利益――
ではリリエーヌさんが選ばれなければ、他のどなたが選ばれたと仰るのでしょう。
そもそも貴女はラルフ様がお選びになったお嬢さんですよ?
ヴァイル、そして当家マディリオンを敵に回すことに繋がる可能性があるというのに?
貴女が身分を偽っていた事を、今後全ての人生を賭けて訴える根性と気概のある方が果たしていらっしゃるのでしょうか」
怖い。
その愛らしい顔立ちから立ち上るプレッシャーに、リタは思わず背中を仰け反らせた。
「リタさんの仰るとおり僭称は罪です。
この件で貴女を訴えるなら、貴女が名をお借りしたブレイザー子爵家の人間が妥当でしょう。
ですが――ブレイザーの当主ご自身がそれを容認し、上に訴えるつもりがないのなら。もはや貴女に罪はないということに等しいのではないでしょうか」
それは物凄い詭弁のような気もする。
だが訴えられ、罪の判決を法官に言い渡されなければ、牢屋に入れられることもないのだろうか?
「どうか心配なさらないでください。
エドガーが言っていたヴァイオリンの少女がリタさんだった、という事もラルフ様から聞きましてよ?
リタさんは……彼と出会うキッカケを作って下さった恩人でもあるのです。
私の目が届く内は、貴女を陥れようと画策する生徒など許しません」
彼女の口から出るのに余りに似つかわしくない強い言葉に、リタは文字通り背筋が凍る想いをした。
「この件については僕自身、しっかりと対応をするつもりだ。
君が気に病むことはない」
ラルフも同様に言うくらいだから、リタが役人に捉えられたり犯罪者として後ろ指をさされることもないのだろう。
それだけで胸のつかえがとれ、リタもようやく心から安堵する。
若干の後ろめたさを感じつつも、あんなに嬉しかった。
そのつかえがとれた今、朝以上に晴れやかな一点の曇りもない喜びに満ち満ちることになる。
「リタさん。
ヴァイル家はクローレス国内は勿論、他国との外交、社交対応の任の多くを国王より賜っていると聞いています。
ヴァイル公爵家に嫁がれるということは――毎週のように賓客をお迎えしたり、他国の王族を歓待するなど重責を多く担われるのでしょう」
――うっ。
そんな風に正面から今後の話をされると、言葉に詰まりかける。
大切な役を、果たして何の取り柄もない凡庸な人間に務まるのだろうか。
遊んでいるだけでいいわけがない。
「普通の恋愛ではない」と釘を刺された気がして、ふわふわ浮かれて地に着いていなかった心がようやく地面に降り立った。
「貴女ならきっと立派にお務めになります!
……この一年、貴女は本当に真面目に講義に取り組んでいましたよね。
リリエーヌさんという代役を果たせた貴女なら、どなたに謗られる事もありません。
ふふ、最初の頃は……
紅茶をお出しする際、王子の袖口にかけてしまったこともありましたね」
うわぁぁ!
それは! 黒! 真っ黒歴史だから!
あの時は本当にもう駄目だと、心がぽっきり折れる寸前だった。
自分にこんなことは続けられない、もう辞める、とすっかり自信を失ってしまった一年前。
カサンドラの励ましやフォローが無ければ、継続して礼法作法の講義に顔を出すなんてできなかったと思う。
……彼女がいなかったら、自分の想いは絶対に叶うことはなかったのだろうな。
「今日はラルフ様に無理を申し上げましたが、リタさんにお会いできて良かったです。
どうか今後とも仲良くしてくださいね」
キャロルはスカートの裾を抓んで軽く一礼をする。
その所作の美しさに同性の自分でもドキドキした。
ごきげんよう、と浮き浮きした様子で去っていく彼女の後姿に、リタはしばらく手を振り続けていた。
「……。
キャロルさんって、あんな方でしたっけ?」
リタは思わず、本音をぽつりと漏らして口元を覆う。
だって、あの清廉として自信に満ちた性格であれば、舞踏会の日にケンヴィッジの三姉妹にああも良いように扱われなかったと思うのだ。
彼女達に怯え、怖がって大人しそうに静かに佇むお嬢様、という雰囲気は今のキャロルには全く見当たらないものであった。
べ、別人……?
リタがそれを他人に言えた義理もないのだが。
「エドガーさんのおかげ……?」
素敵な婚約者が出来たことで以前より明るくなった、とカサンドラも言っていたし。彼の良い影響で、キャロルの性格が変わったのかもしれない。
「君のおかげだと思うよ」
「え? 私何かしましたっけ?」
「……ケンヴィッジの三姉妹を覚えているだろう?
彼女達が一度、キャロル嬢に謝罪したのだとか」
「あ……」
そう言えば、以前そのような話をチラッと耳にした事があるような。
あの時は自分の正体がキャロルにバレやしないかビクビクしていて、あまり詳しい話は覚えていないけれど。
謝罪した、という話は耳に聞こえてきた気がする。
「完全に和解したわけではなく、まだぎこちない空気は残っているけれどね。
互いに不干渉でいよう、という言質をもらって一安心と言ったところらしい。
……おかげでキャロル嬢も安心して学園生活を楽しめるようになったと、君にとても感謝していたよ」
「そうなんですか、良かったですね!」
謝るというのは、とても難しいことだと思う。
プライドの高そうな長女アリーズのことを想像すると、どんな風な光景だったのか? なんて今更恐ろしく思えるけれど。
不毛な関係が少しでも和らいだというなら、リタも嬉しい。
それにしてもラルフは貴族間の情報や関係の細かい事を良く把握しているのだなぁ、と驚く。
そういう話も全部掌握できるほど、他人と信頼関係を築けているということだし。
誰に文句も言われず、ラルフと一緒にいてもいい。
キャロルにも背中を押してもらえ、リタは嬉しさと喜びと幸福感で、そのまま空を飛べるのではないかと思った。
「あああ……
ホントに、これ、現実なんですよね!?」
全部、ラルフが好きだという気持ちでここまで走ってこれたようなものだ。
楽しい事だけではなかったけれど、諦めなくて良かった、と思う。
「私、この気持ちを全力でどこかにぶつけたいって言うか、外に出さないと貯め込んだら爆発しそうなんですけど」
「……え? 何の気持ち?」
ラルフはぎょっとした様子で、ニヤニヤと笑みを噛み殺すリタを眺めている。
どうしよう。
本当に口の端がつり上がってしまうのを止められない。
何もかもが、自分にとって『幸せ』なのだ。
しかし当人であるラルフにそう言われると、とても困ってしまった。
「……え?
あの……ラルフ様の事が、えーと、好きですっていう気持ちをですね……」
すると彼は猶更不思議そうに首を傾げる。
「僕はここにいるんだから、そのまま言ってくれたらいいだけの話なのでは?」
「そうだけど、そうじゃないんです!」
思わずリタは拳を握って彼に詰め寄った。
「この気持ちを思いっきり、誰にも迷惑をかけないところで、ぶつけたい……!
お腹の底から大きな声で目いっぱい――
叫びたいんです!」
「………は?」
「こんな学園内で叫んだら、私完全に変な人じゃないですか!
私だって、恥ずかしいって思うこともあります。
それに! ラルフ様の鼓膜が破れてしまったら一大事ですよ!?」
自分の声量の多さには、いつも周囲から指摘を受けているので自覚しているつもりだ。全力で絶叫なんてことになったら、普段静寂や細やかな音の調べに耳を使っている彼の聴覚を壊してしまうかもしれない。
真剣にリタはそう懸念していた。
「????」
溢れ出るこの感情を、そのまま声に出して盛大に叫びたい。
今まで口に出して誰かに言う事さえ難しかったこの感情を。
一度どこかで吐き出さないと、いつまで経っても昇華できないくらい。
まだまだ、溜まってる。
「あ!
そうだ、誰もいない山の上で、思いっきり叫ぶなら誰にも迷惑かけませんよね!?」
我ながら名案である。
どこからともなく自然に心の奥底から湧き上がってくるこの気持ちを、思いっきり叫んでスッキリさせたい……!
自分でも持て余すような気持ちを、相手にぶつけるのは申し訳ないとも思ってしまう。
相手に向かって放つ言葉は、一度渡して終わり、というわけではない。
受け手が存在する以上、その言葉に相手も反応を強いられてしまうだろう。
そうじゃない。
ただ、誰の目も気にせず。
それこそラルフ本人にさえ受け止めてもらえなくても構わない。
純粋に大きな声で叫びたかった。
「――君は、本当に……
考え方が突飛というか、何と言うか」
気が付けば、ラルフは顔を逸らして肩を震わせている。
どうやら笑うのを堪えていたようだが、その我慢もすぐに決壊してしまった。
初めて彼が声をあげて笑うシーンを目撃してしまい、リタは物凄く焦った。
そんなに変な事を言ったのだろうか、と。
「……それで、山に登って、なんて叫ぶの?」
「勿論、『ラルフ様の事が好きだー!』って叫びます!
思いっきり!
山のてっぺんから、太陽に向かって。
気持ちが発散されて、楽になれるかも知れません!」
はっきりそう言い切って拳を固めると――
彼は堪えきれず、お腹を抱えて笑い出した。
「……君と一緒なら、一生飽きないね」
そんなに優しい声で言われたら、心拍数が一気に上がってしまう。
これは――今日にでも、山に登って一叫びしてこなければ。
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