第458話 朗報



 昨夜、王都が何となく騒がしかった気がする。


 

 神経が尖ったまま殆ど眠れなかったカサンドラの『気のせい』かも知れない。

 果たして自分の見えないところで何が起こっているのか、良い方にも悪い方にも予測しうる現実を固唾をのんで待ち続けるしかない現実。

 結果を待つだけということも辛かった。



 不安が増大し、希望でそれを打ち消そうと瞼を閉じる。


 そんな現実から、想像から目を逸らし手放しで彼女達を信じられれば良いのだろうが、それは実際に行動をしている彼女達に対して不義理だと思うのだ。

 


 自分に必要なものは、どんな結果であっても動じず受け入れる覚悟ではないか。

 楽観的に根拠のない薔薇色の未来を一方的に期待したところで――二の舞である。



 朝食が全く手につかず、給仕たちから大変心配された。

 だが無理に食べてしまえば迷惑をかける結果に終わりそうだ。今の精神状態では、胃が受け付けない。

 やんわりと食欲がないことを伝え、カサンドラは自分の部屋に籠った。


 屋敷の使用人達にとって、ここ数日のよく分からないバタバタとした騒ぎが気にならないわけがない。

 何度も王子が訪ねて来て人払いをするわ、突然三つ子が訪れて伝令用の早馬を貸し与えるわ、アレクもカサンドラも気が漫ろ状態だわ。


 自分達のここ数日の行動を外側から眺めているだけでは、何が生じていたかなど想像も出来ない事態である。


 ふぅ、と小さく溜息をついたカサンドラは窓際に立って空を見上げた。

 出窓を開けると、上半身に吹き付ける風がとても心地よい。


 青い空に浮かぶ真っ白な綿菓子のような雲が、ゆっくりと流れていくのをぼんやりと視界に映した。


 雲は見ようによっては色んな形に見えてくる。

 魚の形に見えたり、犬の横顔に見えたり。


 すると雲がゆっくりと輪郭を歪め――大きなハートの形に見えなくもない形になったのだ。

 もしもこれが夕方や朝焼けだったら、色づいて可愛く映ったかも知れない。


 丸みがあって、厚いハートの形が上空に浮かぶ。

 何となく気になってそれを見守っていると、徐々にそのハートマークの中心が薄らぎ、まるで左右半分に千切れるかのような様相を呈し、カサンドラは不吉過ぎて慌てて両手を挙げて宙を掻く。

 折角可愛いハート型だなと思っていたのに中央から割かれるなんてあんまりだ。



 そんな暗喩は要らない……!



 だが無意味に腕を振るカサンドラの姿を外から発見した一人の少女が、



「カサンドラ様ーーー!」



 こちらの行動に応えるよう、無邪気に両手をブンブンと頭上で交差させて呼びかけてきたのである。


 まるで先にカサンドラが彼女の存在に気づいて両手を振っていたかのようなやりとりに、曖昧な笑顔でカサンドラは両腕を引っ込めた。 

 貴族の令嬢にしてはあまりにもはしたない行動ととられてしまったのではないかと思うと恥ずかしい。




「ご、ごきげんよう」




 カサンドラの誤魔化しを含んだ二階の自室からの声は、とてもリタには届かないだろう。





 ※





 リタをいつもの応接室に通してもらった後、カサンドラは彼女の話を聞くため廊下を歩いていた。


 アレクも同席してもらおうかと思ったが、彼は用事があって屋敷を出払っているらしい。

 いつも屋敷にいるわけではないけれど、アレクがいないのは少々不安なのは事実だ。


 だが先ほど窓から見下ろした時の彼女のテンションから想像するに、きっと最悪の結果には至らなかったのだろう。誰かの命が失われた後、あんなに笑顔でテンションが高いリタなどとても想像が出来ない。


 それだけでもカサンドラの心は軽くなった。



 応接室に入るなり、カサンドラはリタに襲われた。

 襲われたというのは大袈裟かもしれないが、入室した瞬間前に彼女が飛びかかってきたわけで。

 まるで肉食獣が運ばれた餌に待ってましたとかぶりつくかのような勢いだったので、吃驚してしまった。



「カサンドラ様!

 聞いてください! あのですね――」



 カサンドラに正面からしがみついたまま、リタは顔を上げて話し始める。

 完全に興奮しているというか、高揚しているというか。


「り、リタさん。少し落ち着いて下さい」


 このまま頭から丸かじりをされるのではないかと危機を覚える勢いに呑まれてしまったが。

 彼女の表情や態度を見ていれば、とても嬉しい事があったのだろうことはすぐに分かる。

 元々、隠す気もないのだ。




「クレア様、無事でした!

 危ない所だったんですけど、何とか間に合いました!

 助かったんです、カサンドラ様の言っていた物語とは違う結果になったんです!

 今はラルフ様と一緒ですから、もう大丈夫かと」



 一度大きく深呼吸をしたリタは、キラキラと輝く双眸で再度カサンドラを見上げた。


 彼女の報告が、大きなうなりとなってカサンドラの感情にダイレクトに突き刺さる。

 何より聞きたかった言葉だ。


 事件など起こらなければ最良なのは、間違いない。

 でも彼女に本当に危機が訪れていて、それをリタが救うことが出来たというのなら。


 完全無欠の朗報ではないか。

 初めて――


 初めて、この世界で起こるはずだった『シナリオ』の一つの要素を覆すことが出来たという事に他ならない。

 今まで何一つ役に立ったと思えなかった自分の”記憶”が、一人の女性を救う手掛かりになった。


 嬉しかった、何も変えられないのではないか、という憔悴や徒労感に苛まれていた今までのモヤモヤが吹き飛んでいくかのようではないか。

 俯き、込み上げる感情をぐっと抑える。


「そう……ですか。

 彼女は、無事なのですね」


 一言一言、噛み締めるようにカサンドラは確認する。

 彼女はゲームの中で、”王子の”せいで死んでしまう人物として登場することになる。

 クレアの身に降りかかることが分かっていても、ゲームの中の主人公やラルフがそれに気づくことなど出来ず、助けることは出来ない。

 いつだって間に合わない、発生したら止める事の出来ない――ラルフから聞かされる事後報告のイベントだ。


 それが『回避』できた事は、大きな希望だ。


「リタさん、本当にありがとうございます。

 貴女が気づいて下さらなかったら、取り返しのつかない結果に終わるところでした」


「そんなことないです、カサンドラ様や王子がタイムリーな話をしてくれたから、です。

 あの話が無かったら、私も完全にスルーしてましたし。

 ノーヒントで悪だくみに気づけって、不可能ですよ」


 ジェイクの件も、ラルフの件も。

 それは意識していなければ簡単に見過ごしてしまえるようなキッカケだったのだと思う。


 これから起こるだろうことを詳しく知っていなければ予測しようのない事だったのは事実だろう。

 しかしそれは皆が真剣に話を聞いて、それについて自分なりに考えてくれたからこそ関連付けることが出来た、それはまさに奇跡のようなものだ。


「えーと。

 カサンドラ様やリナから聞いてた話と随分違う!? って吃驚しましたけど」


 あはは、とリタは苦笑いを浮かべる。


 元々時期が前倒しになっているということで、完全に記憶ゲームと一致しているわけではないことは分かっていた。

 イベントによって引き起こされる結果がアバウトに合っていればいい――という、余白あそびを内包した世界であることはカサンドラも知っていたのだが。



「まさかクレア様が、大きな水槽に沈められて溺死寸前にされているとか思わないじゃないですか」



「えっ!? 水槽!?」



 いきなりとんでもない単語がリタから飛び出して、カサンドラは顔を青くした。

 確かにクレアがその場所で殺される、ということがイベントの結果であれば良い……のかもしれないが。

 そこでそんな大掛かりな身の毛も弥立つような光景が展開されていたなんて、流石に想像していなかった。


「よ、良くご無事でしたね。リタさんも」


「私は火事場の馬鹿力って奴です」


 仮にカサンドラがその場にいたとして、そんな窮地に陥っているクレアを無事に助けられるとは考えられない。

 聞けば聞く程絶体絶命な状況で、それを成し遂げてみせたのはやはり彼女だから出来たことなのかも。


 リタが居ても立っても居られないほど興奮状この態で屋敷に駆けこんできた気持ちも分かる。

 そんな大立ち回りを演じて、好きな人の姉を救うことが出来たのだから落ち着けと言う方が無理な話だろう。

 

 それにしても何と救いのない男か。

 クレアの旦那は本当にどうしようもない人間だと知っていたし、現実で会っても絶対に近づきたくないタイプだ。

 王宮演奏会で会った時のあの王子やラルフなどとの微妙な空気を思い出す。


 ――騎士団に引き渡されたアーガルドが、適切な処罰を下されるよう信じるしかない。更生の余地などないのだから、自分がクレアにした仕打ちをそのまま受けるという罰でも食らえばいいのに。

 曲がりなりにも法治国家、大法官の審判次第なのはしょうがない。


 まさか大金を手に入れるためだからと言って自分の奥さんを皆の前で――なんてそこまで頭の神経が焼き切れた人間だったとは。

 あの場に集まっていた人間達が、暇を持て余したろくでもない人間だという描写はされていたものの、とんでもない話ではないか。


 ゲーム内で口封じのためにナイフで一突きに殺される、という状況の方がクレアにとって有情に思える狂った現実。

 そんな狂気の世界で、よくもリタが彼女を無事に救えたものだ。


 傷心のクレアの傍にラルフがついているなら、もう心配はないと思うけれど。

 カサンドラは息が長い方ではないので、何分も水の中に沈められていたらと考えると足が竦む。



 一頻り、会場となった場所での出来事を話すリタ。

 物語でもなく、ゲームでもなく、同じ世界で起こった事だ。

 現実を、未来を、リタは変えることが出来たのだろうか。


 この先、自分の知らない世界へ行くことが出来る?

 ――期待をしてもいいのだろうか?




「それでですね!

 あの、私、私――」



 突然リタは口籠る。

 そしてやおらカサンドラの手を両手で掴み、その場でぴょんぴょんと飛び跳ね始めたのだ。

 何故急に兎の物真似を!? と焦ったが、彼女は今まで見たことがない程、顔を真っ赤にして嬉しそうに叫ぶ。




「ラルフ様に、告白されちゃいました!」





 その衝撃的な言葉に、カサンドラは翡翠の瞳を僅かに瞠った。


 ラルフがリタに告白――自分の想いを伝えたのか。

 クレアの命が助かって安堵したカサンドラの心に、じんわりとその言葉の意味が広がっていく。


 彼は”救われた”のだろうな、と。

 きっとそれは彼女にしか出来ない事。

 本来想定されていた時期よりずっと早く、そして本来想いが通じるには必須だったはずのクレアの”死”というものがなくても。


 そうか。良かった――!




 今までシナリオに縛られて無理矢理押し留められていた関係が、つっかえていたものが押し流されて。自然な流れとなるよう、ゆっくりと動き出す。


 まさか彼の方から、というのは吃驚したけれど。

 元々二人は両想い状態だったので、どちらが先だからなんて関係ないだろう。




「おめでとうございます、リタさん。

 わたくしも嬉しく思います」



「ホントに現実かなって、朝起きて何度もほっぺた抓りました。

 今でもまだ夢の中にいるみたいで。


 ……それもこれも全部カサンドラ様のお陰です、本当にありがとうございます!」



 ぎゅー、と。

 更に手を握るリタの力が強くなる。


 どこからどう見ても幸せ大爆発状態な彼女だったが、少し涙ぐんでいた。



「わたくしは何も……」


「カサンドラ様からの助言がなかったら、私の願いは絶対叶わなかったです!

 ……だって、言われなかったらあんな面倒で嫌いな講義なんか絶対しませんよ!

 気が向いて一回参加して終わりでしたよ」

 

 ここがゲームの世界の条件付け、フラグやパラメータの影響が具体的に人間関係や好感の結果として表されるとすれば――

 いくらリタが好きだ好きだと言って後を付け回していたところで、ラルフと親しくなるのは確かに難しかったかもしれない。

 条件に引っ掛からず、『リリエーヌ』という架空の存在にもなれなかったわけで。


 相性が悪い攻略対象という事実が足を引っ張り、想いが通じる事はかなり難しかったのではないだろうか。


「わたくしはただ事前に知っていた記憶でアドバイスをしただけです。

 実際に努力を重ねたのはリタさんご自身なのですから」


 ただコマンドボタンを一度押すだけで、現実の人間の能力が向上することはない。

 現実では、実際に嫌な事があったり苦しいことがあっても、それを身に着ける本人の意思と努力が不可欠なのだ。

 この一年、しっかりと苦手な事を実行できた根性や一貫性、信念が今の状況を作っているのだと思う。


 それに比べれば自分のしたことなど、役に立ったかどうか甚だ疑問である。


「カサンドラ様がこの世界に来てくれたお陰なのは変わりませんから。

 私達を避けたり関係ないって放って置くことだって出来たのに。いつも助けてくれたじゃないですか」



 明るくて前向き、という人物評はどこか定型句じみている。

 だがリタを見ていると、そんな紋切り型の表現がこれ以上しっくり来る子はいないなぁと思えるのだから不思議だ。


 彼女達が悲しんだり落ち込んだりする姿は見たくなかった。

 だから想いが叶って良かったと心から思う。






「あああ、でもカサンドラ様、私、これからどうすればいいんですか!?」


「リタさん?」


「確かにラルフ様の事ずっと好きでお近づきになりたかったのは事実です! 事実ですが……!」


 彼女はカサンドラから手を離し、拳を作って歯ぎしりをする。

 若干苦悶の見え隠れするその表情は一体。



「いざ願いが叶うと、その先どうしたらいいのかほんっとに分からないんです。

 傍にいられたら一日ハッピーくらいの感じだったんですよ!?

 今まで読んできた物語だって、両想いになったらそこで終わるものばかりで……!」

 


 客観的に見て、今までラルフやリタだけに限らず、リナやリゼだって『それで付き合っていないとはどういうことだ』と思われなくもない関係性だった。


 改めてデートだなんだと一念発起しなくても、自然に傍にいた。

 友人というざっくりとしたカテゴリから完全に逸脱していたと思う、乙女ゲームの宿命と言えば宿命かもしれないが……


 リタに至っては毎週ラルフの家に通っていたわけだし。

 いきなり今日今この瞬間から両想いでした、恋人ですよ! とラインを引かれても戸惑うものなのかも知れない。

 しかしそれをカサンドラに聞かれても答えなど分かるはずがないではないか。


 カサンドラだって、誰かに恋愛指南してもらえるのなら指南してもらいたいくらいだというのに。



「こんなことを言っている時と場合ではない事は分かってるんですが!

 ホントに急展開過ぎて頭が回らないんです。


 カサンドラ様、また相談に乗って下さい。

 先輩として頼りにしてますから……!」


「わたくし達は同い年ですよ」



「恋愛の大先輩じゃないですか!

 ずっと仲良くいられるコツとか、沢山お話聞かせて欲しいです。


 あ、勿論!

 聖女だなんだというよくわからない話が落ち着いたらですけど!」




 えっ、とカサンドラは絶句した。






 憧憬の念でカサンドラの顔を見つめるリタの瞳は真っ直ぐだ。

 恋が成就したことについてカサンドラが一定の役割を果たしたと彼女は感謝してくれている、だからこれからも、ということなのかもしれないが……

 







    ――彼氏ラルフに直接聞いてもらえないだろうか。 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る