第448話 <ラルフ>





 ――誰かを好きになることが、怖かった。



   自分が どちら側 なのか、分からなかったから。


 



 ※





 最初に存在を知った当初から、ラルフはアーガルドという人間に対し不信感しか抱いていなかった。

 金遣いが荒く、口ばかり達者で評判も頗る悪い。


 実際に彼と話をしていると、神経を逆なでされるばかりで顔を合わせるのも嫌だった。


 だがそうも言っていられないと、アーガルドに直談判に向かったのは姉のクレアが家を出、結婚して半年後の事だ。

 結婚以降彼女は社交界に全く姿を見せなくなり、音信不通状態でとても心配した。


 アーガルドの家でどんな様子なのか気になって仕方なかったので、彼らには内緒で――当時はまだ雇われていた使用人に様子を伺わせることにしたのだ。

 すると、とても信じられないような惨状が赤裸々に語られ、その時点でどうやって彼をこの国から追い出すべきかとそればかり考えていたような気がする。


 つましい暮らしを姉がするのは、彼女の意思だ。

 それはラルフが文句を言うべきところではないが、暴力に関しては話が別だ。

 大切な家族を手酷く扱われて抗議をしない方がどうかしている。


 絶対に――彼を姉から引きはがす。

 強固な意志を以て、アーガルドの糾弾に行ったのだ。





 だが彼は肩を竦めた切り、事も無げに言ったのだ。

 やれやれ、と嘯きながら。



「ラルフ君。

 それもね、一つの愛の形だよ。

 彼女は望んで、私の傍にいるのだから」



 いけしゃあしゃあと、こちらを小馬鹿にするような物言いに、話すだけ時間の無駄だと思った。

 そんな”愛”があってたまるか。



「――愛という言葉は少々面映ゆいけれどもね。

 こんなもの、君のような外野が嘴を挟める類の話ではないだろう。当人の想いが何よりも優先されるものだと思わないか?

 彼女は私にとても尽くしてくれる、それを喜んでいるのに。君はその幸せを、君の勝手な基準で判断して彼女から奪うのか」


 自分ラルフの事が重荷で、嫌で、追い詰められて。

 そして掴んだ人間がこいつなのかと思うと、自分の罪深さに絶望した。


「お前は姉さんの事など本当に好きなわけでもない、それなのによくもそんな台詞が言えたものだな」






「愛しているよ。

 ……愛しているから、傍にいて欲しい。

 他の人間の目に触れさせたくない。

 彼女の持つ全てを僕は手に入れたいし――彼女にどこまで許されるのか、知りたいと思う」



「随分一方的な言い分だ。

 姉さんの幸せのことなんて、何一つ考えてはいないのに」



「はは、そんなことはないよ。

 私は彼女が欲しい言葉は、何だって分かるんだ。

 それは彼女の事を知っているから、分かろうとしているから。

 これを愛と呼ばずに何と言うのかな」




 アーガルドは細い目を開けた。

 狡猾で残忍で、常に言葉で相手を煙に巻く。




「所詮……愛だなんだと綺麗な言葉で飾ったところで。

 皆、同じだよ。


 君も。

 私も。

 その辺りを歩いている人間も。

 男も、女も。


 愛って都合のいい言葉だよねぇ。

 耳障りのいい言葉を使いはするが、結局相手を支配したいってだけの話さ。



 いくら言葉でラッピングしてもね、愛なんて――手前勝手な相手への征服欲と変わらないんじゃないかな?」



 一人の人間に愛という名の値札がついている。



 それを正当に対価を払って手に入れるか

 無理矢理脅して奪い取るか

 知らない間に盗み取るか



 その形の差はあれど、相手を占有する、という結果には変わらないんじゃないか。

 手段や方法に角度の違いこそあれ、根底は 一人の人間を手に入れたい という欲が在る。


 外側から見て不当な手段に思えても当人同士が納得の取引結果なら、文句を言われる筋合いはないね、と彼は笑った。


 クレアはクレアで、従順に言うことを従う事でアーガルドの歓心を買おうとする。

 愛情をもらおうとする。


 相手を占有し独占したいという想いはアーガルドもクレアも変わらないのだ、と。




 だがそんな言葉遊びで納得できるほど、ラルフも不見識な人間ではない。

 どこからどう見ても、姉は彼に騙されているし客観的に見れば不幸だと思ったから。





「ま、世界は広い。色んな人がいる。


 きっと私には及びもつかないような、そして君が言う誠実な? 相手を思いやる? 恋愛関係……かな。そういうのもきっと、どこかにあるのだろうね。


 ……でも、ラルフ君。

 きっと君は、『こちら側・・・・』だよ」



 彼は楽しそうに、ニコニコ笑った。

 その悪意しか感じない表情に嫌悪感が募る。



「君は犬が好きなんだって? いいね、いいね。

 犬は素直で従順で、決して裏切らない! 素晴らしい人間のパートナーだ」



 うんうん、と彼は満足そうに頷いた。




「従順で――言いなり。

 支配欲を十全に満たせる。飼い主と、飼い犬。

 必ず上に立って主導権を握れる。


 きっと君は誰かを好きになったら、相手にもそれを無意識に求めてしまうんじゃないかな?

 ふふ、いや、何となくね。



 こうやってわざわざ私のところに姉を返せと抗議しに来るくらい――姉想い、いや、独占欲・・・の強い子供のようだから?


   ……楽しみだねえ」






 今から思えば、彼の言葉は呪詛そのものだ。

 ずっとラルフの心の深いところに刺さって、未だに抜けずに時折痛み、血が滲む。




 違う、自分はそうではない。

 反論したい反面、完全に断言できるほど自分は自分の事を良く知らなくて。


 姉に対する感情を、よりにもよってこんな男にそんな一言で切り捨てられてしまって息が出来ない程腹立たしくて。


 でも明確に反論する根拠を持っていない、形も解法もない。


 ラルフは愕然とし、途方に暮れた。




 あちら側・・・・


 もし、自分が誰かを好きになってしまったら 彼と同じように相手を扱うのだろうか?


 自分にも制御できない自分の感情が、誰かを傷つけ不幸にすることがあるのだろうか?



 ……分からない。


 だが、今まで優しく理性的で、間違った事を厭うクレア自身が自ら望んで己をその場所に置いている。

 理屈が通じなくなってしまい、望んで彼の傍にいるのだと本人も認めてしまったくらいだ。

 人を――こんなにも容易く堕とす感情。


 愛なんて概念がなければ、こんな事に煩われずに済んだのに。






    ……誰かを好きになることが怖いと、強く思った。







 ※

 



 考えるだけ無駄だと、すぐに気づく。


 どうせ自分は政略で婚姻関係を結ばなければいけない身上である。

 一々誰かを好きになったりだとか、恋愛をするということ自体避けねばならない立場なのだから。


 ――ラルフにとってとても都合のいい、安心できる理屈だ。


 学園に入学して大勢の人間にアプローチを受けたところで、必ず誰か一人を好きになって選ばなければならないなんて義務はない。

 むしろそんな関係は避けるべきだし、誰かを勝手に好きになるなど以ての外だ。

 トラブルや面倒の素にしかならない。



 殊更表立って忌避の感情を出して否定するほど愚かではないけれど、確実にラルフは恋愛沙汰を嫌っていた。

 自身に関わらない事であっても、”一体どちら側・・・・なのか”なんて一々気にしてしまう自分が嫌だった。




 だが大変困ったことに――ラルフには、入学してしばらく後、自分がある特定の女生徒ばかり気にしている事に気が付いてしまった。



 彼女はとても、面白い。

 本音を隠し、社交辞令の美辞麗句で虚飾された学園生活の中。ひたすら彼女は分かりやすく、個性的であったと思う。

 何と言うか……


 反応が、物凄く素直だった。


 何を考えている? 企んでいる? と身構えなくても、彼女は常に明け透けであった。疑義を挟む余地がないくらい。


 こう言えば喜ぶだろうな、と思ってそう言えば予想通りの反応を示す。

 彼女はいつも素直に受け入れ、喜んでくれた。


 その反応は小気味よく、常に相手の言葉や反応を疑ってかかるような毎日の中でホッと一息つけるような存在だったのだと思う。

 とても気楽で、ラルフが”こう思って欲しい”と言った言葉、行った行動。

 彼女はいつも笑顔だったし喜んでくれた。


 言い方は良くないが、彼女は自分にとって素直な仔犬のような存在だったのかもしれない。

 飼っている犬には思った時にすぐ会えると言うわけではない。

 だが学園に行けば、彼女の姿を見かけることが出来る。



 彼女の笑顔を見ると心が落ち着き、穏やかになる自分に気づく。



 学園の外で会うこともあったし、結構縁があるものだなと思うと何故か嬉しかった。




 元気に駆け回り、大声でクラスメイトと話す姿を見て――

 その笑顔が自分だけのものでないことに、僅かに不満を持ってしまった。




 ふと、アーガルドの呪いめいた言葉が脳裏に過ぎる。




  言うことを聞いてくれる、分かりやすい、単純。



 それが向かう先……。


 今まで自分が絶対に持ちたくないと思っていた感情の一端ではないかと思うと怖くなった。






 ※







 確かに自分は、独占欲が強いのだろうと思う。

 だから――



 結局、彼女の気持ちを利用して偽の婚約者役を半ば強引に押し付けてしまった。



 親からの命令でしょうがなくという理由付けはあったものの、断ろうと思えば断れたはずだ。


 彼女をこちらの家の事情に巻き込むのは嫌だと最初はあんなに憤っていたのに、ふと、これは自分にとって好都合なのではないか? と、気づいてしまってから罪悪感が一層積み上がっていった。




 彼女が嘘でも偽りでもこの契約に同意してくれれば、その役を演じてくれている間だけは自分のものでいてくれる。

 時間制限の関係だが、それがギリギリ、適切な距離なのではないか?

 そこまでなら、許されるだろうか?





 自分は……

 アーサーのように純粋ピュアというわけではない。

 彼のように清く正しく、常に誠実に相手を想えるのかどうか、そんな自信は自分にない。


 いつも自分を苛み、躊躇わせ、纏わりついてくる脳内のアーガルドの言葉に何も言い返せない。

 どうなってしまうのか、分からない。



 この想いを自分で認めたら、姉のように。アーガルドの言うように……


 他人から見ても到底受け入れられないような想いに縛られるのではないか、相手を追い詰めるのではないか。

 自分が誰かの人生を崖から追い落とし、狂わせてしまうのではないか。




 疲れていた。


 あちらアーガルド側なのかもしれない、と。

 いつもいつも自分の想いを自分が疑い、立ち止まって頭を抱えてしまうことに。







 ※






 夕食を用意させた餐館に、ひとまずクレアを運び入れたのは一時間ほど前の話だ。



 ラルフがクレアに話しかける前に、彼女は気を失ったように深い眠りに陥ってしまった。

 すぐに医師を呼び寄せクレアの容態を確認させたものの、未だ詳細は聞かされていない。後遺症なんて残らなければいいのだが。


 

「ラルフ様! こちらですか?」



 館内で、自分に割り振られた私室の中、うろうろと落ち着かず行ったり来たりを繰り返していたラルフ。

 急に扉が空いて、中からリタがひょっこりと姿を現した。


 枕元に自分がいては、姉も起き抜けに落ち着かず困ってしまうだろう――と、皆に任せきりにしているのが申し訳ない。

 気がかり過ぎてとても気の休まらない状態だったが、それはリタも同じに違いない。


 彼女はここに着いてからずっと意識がないクレアの傍につききりでいてくれたようだ。

 すっかり夜も深まり、下手をしたら一睡もしていないまま夜明けを迎えかねない状態である。


「クレア様、今はぐっすりお休みです!

 精神的ショックと疲労の合わせ技で、気を失ってしまったんだろうって。お医者様も言ってました」


 外傷もないとのことだ、ホッとする。


 自分の旦那に命を売られかける――というこの上ない裏切り行為に直面し、精神が完全に参ってしまったのだろう。

 とにかく、命さえ無事なら良いとラルフも思う。


 今ならクレアともお互い逃げ道を作らずに話が出来ると思う。



「そうか、それは良かった。

 君のお陰で姉さんは無事だった、改めてお礼を言わせて欲しい。

 ありがとう」


「……いえ! そんな、お顔を上げてくださいラルフ様!」


 ラルフが彼女に礼を言うと、あからさまに慌てた様子でリタは両手を交互に上下させた。


「クレア様がご無事で、ほんっとうに良かったです!

 これで……きっと、未来も変わりますよ!」


 リタは感極まった様子で拳を握り固め、ジーンと感動に耽っている。

 当然ラルフは彼女がそこまで打ち震えて喜んでいる理由など知る由もない。


「未来?」


「あっ」


 リタはしまった、と焦り口を覆う。



 ……顔を引きつらせて「やってしまった」と表情全体で後悔する彼女を見ていると、そんな彼女の胸中とは反比例するかのように心が暖かくなった。


 彼女にポーカーフェイスなんて、きっと無縁の単語なのだ。


 いや、必要もないか。



 楽しい時には、笑顔になる。

 困った時には、まさしく今のような顔になる。



 嬉しい時には、素直に喜ぶ。

 悲しい時には――思うまま、泣くのだろう。

 

 裏を探る必要もない、話していると一々相手の言葉をひっくり返して眺める癖が馬鹿らしく思えてしまう。





「え、ええと……

 ラルフ様には、ちゃんとお話しないといけない事がありまして」


「そうだね。

 僕は君が嘘をつく必要がないと思ったから敢えて理由は聞かなかったけれど。

 どうして姉さんが危険を事前に察知できたのか。

 何故一般市民に過ぎないリタ嬢が、仮面舞踏会の名を借りた競売・・が行われていることを知っていたのか。

 正直、何から聞けば良いのか分からないくらいだ」



「勿論、その理由は後でお話します!」



 彼女に情報を与えた”誰か”がいる事は間違いない。

 だがクレアがこうして助かった以上、それ以上望むことはない。

 リタが無理に言いたくないのなら、敢えて追及するつもりもなかった。



「その前に、ですね。

 先に……ラルフ様に答えておきたいことがあるんです」


 リタの顔は、蒼くなったり赤くなったりとても忙しい。

 ついさっきまで焦っていたはずなのに、今は顔中林檎のように真っ赤になっているではないか。



 ああ、本当に可愛いな、と。こんな時でも、つい笑みが込み上げてくる。


 彼女が何を考えているか、探る必要もない。

 いつだって、分かりやすくて。隠し事なんかできない子だ。



「君が誰を好きなのか、と聞いたあの質問のことかな?」



 ラルフが首を傾けてそう確認すると、赤かった彼女の顔がもう一段階朱に染まる。

 可燃物が彼女の顔周りにあったら、引火してしまいそうな熱と共に。



 一生懸命、『真実の愛』という単語に食って掛かる姿はとても驚いた。

 驚くと同時に、色んな意味で、嬉しかった。



「――――!

 そ、そうです! それです!! あの、私は……」



 勢い込んで彼女が言葉を続けようとしたが、ラルフは遮るように人差し指を自分の口元に持って行く。


 「しーっ」と静まるようにジェスチャーで伝えると、リタは思いっきり吸い込んだ息の行き場がなくなってしまった。

 苦しそうに肩で何度も、荒い息を繰り返す。





 リタはとても、分かりやすい。

 自分に好意を持ってくれていることくらい、とっくの昔に気づいていた。

 そもそも隠そうともしていない、こんな想いのままに動く彼女の気持ちに気づけないのは鈍感というレベルではない。

 敢えて探ろうと思わなくても彼女の好意は常に真っ直ぐだった。


 見返りを求めない、純粋な彼女の気持ちは自分にとって心地よいものであったと思う。


 自分への好意を利用して、偽の婚約者の話を引き受けさせて……

 我ながら酷い話だ。


 彼女が自分を好きでいてくれるならいいだろう、と。その気持ちを言い訳に、自分にとって限りなく都合のいい状況を用意したのだから。




 突然のラルフの制止を表す動作を目の当たりにし、彼女は口を押え一気に泣きそうな顔になる。


 ここまでコロコロ表情や色が変わるなんて、一体どういう顔の造りをしているのだろうか。



 自分が「言うな」とばかりに言葉を遮ってしまった事を、彼女は悪い方向に解釈してしまったに相違ない。

 彼女の頭上に岩が落ちてくる幻覚が見えた、そんなにショックだったのだろうか。






 例え自分の想いがどこかで逸れて、間違うような事があったとしても、


 彼女はきっと自分の気持ちを伝えてくれる。



 自分に対して真っ向から否定の言葉を飛ばしてきたように。

 嫌なことがあったら、彼女は嫌だと伝えてくれるのだろう。





 彼女の上に立ちたいのでもないし。ましてや従順であれなど全く望まない。

 気持ちを奪いたいわけでも、搾取したいわけでも勿論ない。






 ただ、彼女の存在が自分にとってかけがえのないもので、愛おしいと素直に想う。




 



「ここまでしてもらって、この上――先に言わせるような真似はしないよ」







 え? え? と。彼女はこの期に及んで挙動不審である。


 どうやら本気で分かっていない彼女の手を取った。















   「僕は、君の事が好きだよ」

 




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る