第446話 <リタ 1/2>
「準備が整うまでここで待っていて欲しい」
――と。ラルフに言われて早何時間が経過したことか。
室内にある壁掛け時計の短針が一つ数を重ねるごとに、リタの心臓もぎゅっと縮む。
だがラルフが待機していて欲しいと言っている以上、勝手に出歩いて必要な時に合流出来ない……という事態は絶対に避けなければいけない。
これからリタが言った事が現実に起こるとするならば、自分とラルフの二人だけで乗り込むというのはとても難しい話だ。
リタには思いもよらないような準備が進められているに違いない。
クレアを救う事だけに焦点を当てれば、二人だけでも可能かも知れないが……
そんな非合法な取引がこの王都で堂々と行われている事はリタだって許しがたいし、同じようなことが繰り返されないよう撲滅する必要がある。
だが騎士や役人たちをぞろぞろ引き連れて建物を取り囲んで摘発する事も非現実的な話だ。
結局、クレアが危機に陥っているかもしれないというのはカサンドラの話に基づくリタの第六感の予想でしかない。
ラルフはリタが危機感を募らせる根拠を今は一切聞かず、鵜呑みにして動いてくれている――リタを信用してくれているということかもしれないが。
あまりにも雲を掴むような茫洋とした話だ。
そこでクレアが殺されるのか、商品として売られてしまうのか詳細が分からない。
最悪のパターンとしては、旦那さんがその組織の恒常的な一員――つまり犯罪者で、それにクレアも感化され招待客の一人として人身売買に関与し「買う」側になっていた、という事態も考えられた。
下手を打てば大スキャンダルどころの話ではない。
元とは言え、ヴァイル家の公爵令嬢が進んで非合法の奴隷を買いあさっていたなんて事になったら……
流石のヴァイル家の権威も失墜しかねない、お家の威信を揺るがす大騒動に発展する可能性がある。
今回の騒動をヴァイル家内々に収めようとしても、仮に騎士団に協力を要請していたら隠しようもない。
騎士は呼べない?
その場で犯罪者たちを一網打尽、ということは不可能なのかも。
ヴァイル家の私兵を使うのが一番手堅いだろうが、それだとヴァイル家の人身売買関与を疑われかねない……?
二人だけで、恐らく厳重に警備されているであろう”会場”に忍び込めるのだろうか。
そもそもいつ、どこで行われるのか?
――不確実な情報で、クレアの危機を救う。
思っているよりもかなり難しい話なのだと、リタは頭を抱えた。
出された昼食を一人、応接室で食べるリタ。
普段なら喜んで完食する美味しい料理も、こんな状況では胸いっぱいだ。流石に半分も入らない。
だがいざという時に空腹で力が出ない、というのも足手纏いになりかねないので一生懸命胃の中に詰め込んだ。
何もすることがないまま、一人部屋に取り残されて落ち着かない。
余計なこと、不安なことばかりが胸を過ぎる。
もしも全てリタの勘違いで、実は全く関係ない話でした!
というオチなら自分の早とちりィ! と自分の頭をポカっと殴れば良いだけかもしれないが。
自分の行動次第で誰かの人生が変わってしまうのではないかと思うと、暖かい一日なのに体が震えた。
傍に話し相手でもいれば状況は違ったかもしれないが、広い応接室の中であっちにうろうろ、こっちにうろうろ。
あまりにも手持無沙汰なので、ソファの足を使って軽く腹筋運動をしたり気合を入れるために柔軟してみたり――
身一つで過ごせというには、かなり長い時間が経過した。
今頃ラルフは、どこを駆け回っているのだろうか。
※
「遅くなって申し訳ない、リタ嬢」
「ラルフ様!」
漸く部屋に戻ってきたラルフに、ホーーッと胸を撫でおろす。
日が傾いて夕焼けと化した空を眺め、もしかして自分は部外者ということで置いて行かれたのか!? と焦っていたのがようやく落ち着いた。
「これから向かおう。
……ああ、その前に――君はリリエーヌ嬢になってもらわないといけないね」
彼はそう言うが早いか、リタを連れていつも自分が変装する時に使用する衣裳部屋へと押し込めて――
そのまま侍女へとリタの扱いをバトンタッチする。
既に顔なじみで心得た、と言った様子の化粧師はニコニコと楽しそうに片手に櫛、片手に化粧刷毛を構えたままリタを出迎えたのである。
※
「よく……お二人が向かわれる先が分かりましたね?」
そんな非合法の催しが行われているとして、それがどこで開かれるか知るなど……
それこそ当のアーガルドを締め上げなければ分からないと思っていたのに。
「その辺りは、色々ね。……王宮の地下牢に顔を出すことになったから、少々手間取ってしまった」
リタはいつも通り着飾ったリリエーヌの姿であったが、手元には新緑の縁取りで飾られた漆黒の仮面がある。
馬車の中でそれを着けるのも憚られ、膝の上に置いた。案外、仮面は重たいものらしい。
眼鏡をかけた事もないリタにとって、顔を覆うような装飾品は初めて手にする。
仮面の先がとがっていて、不用意に触っているとチクチク指の腹に刺さった。
「ち、地下牢!?」
いきなり物騒な単語がサラッと出てきて、肩を跳ね上げた。
「去年クラスメイトの一人が突然退学になった事を覚えているかい?」
「あ、はい。
覚えてます、結構な騒ぎになりましたよね」
一緒に学年を上がることが出来なかった、クラスメイト。
貴族の子女は学園に通う義務があるが、貴族でなくなってしまえばリタ達のように特待生として別に試験を受けて合格しなければいけない。
貴族が貴族でなくなることなど生きている限りないことなので、退学と言えば余程の事だ。
「彼自身は全く咎はない。
彼の父がこの件に関わっていてね。
証拠も出て、当主は爵位剥奪――妻と子供達は逃亡の末行方不明。一家離散、ということになっているのだけど」
「そ、そう……だったんですか」
あまり関わりが無かった同級生とは言え、同じ教室で学んでいたのだ。会話をしたこともあっただろうし、顔だってちゃんと覚えている。
「ドゥーエの当主は騎士団に捕まり、王宮の地下牢で罪を償っている最中なんだ。
僕は彼に、情報の提供をお願いしてきただけ」
地下牢で
哀れだとは思わないが、巻き込まれたクラスメイトは可哀そうだなと思う。
「――彼はお金目当てが行き過ぎ、そういう集まりに目をつけられ、誘われて。結果的に泥を被せられた人間だ。
でも身分に関してはかなり恭順な人間でね。
牢に入れられても他の仲間のことは黙して庇う……まぁ、それなりに名のある貴族が噛んでいるのだろう、と王宮の上層部も未だに頭を抱えているよ」
「捕まえたのに知っている事全てを話してもらったわけではないんですか?」
折角悪者の一味を一人捕まえたのだ、そこから芋づる式に捕まえて行けばいいのではないかとリタは首を傾げた。
だがラルフは苦笑する。
「この国に自白を強要したり、拷問して聞き出して構わないという法律はないよ。
だから本人が話す気にならず、だんまりを決め込まれてはお手上げなわけだ。
一度そういうやり方を許容してしまうと――歯止めが利かなくなってしまうからね」
一発殴って言うことを聞かせましょう! と公権力がやったら大変なことだ。
思わず顔を赤くして、こくこくと頷いた。
指の骨を一本一本折って話を訊き出すような残虐的な行為が横行するような社会は確かに嫌だ。
もしも何も知らないのに、喋れと拷問されたらと考えたら足が竦む。
それに……事は貴族や金持ちの醜聞に関わる事だ。
周囲が殊更慎重に扱っている案件なのだろうということは庶民のリタにも分かる。
もしくは扱いあぐね、王宮の人間さえアンタッチャブルな状況なのかも?
「だから僕はね、彼に助力を求めてみた。
姉が巻き込まれ、あろうことか”商品”になってしまった。
彼女を救うために知っている事を話してもらえないかな、と」
嘘をついて情報を引き出すのではなく、本当に真っ向から正直に――彼の良心に訴える方向で話しかけたのか。
元貴族だった男は物凄く驚いたし、まさか公爵令嬢まで……と卒倒せんばかりで顔を青ざめたという。
所詮は切り捨てられる程度の末端であった彼も、流石に御三家の子女まで手を出して食い物にしようというやり方に「罰当たりが過ぎる」と打ち震えていたらしい。
……庶民や孤児なら良いのかという話だが、貴族階級の人間にとってその二つは全く別種の人間なのだろう。
その元貴族が有している感覚で例えるなら――そこには動物と人間ほどの差があって。
奴隷という動物を売買するのではなく、公爵家のお嬢様に畏れ多い! と怯えてしまったわけだ。
ある意味、ブレていないな、と絶句せざるを得ない。
いや――触れてはならない御三家という虎の尾を踏んだ事を理解し、獄中の身で身動き後取れない中、三家に恭順の姿勢を保つことでせめてもの保身に走ったか。
「場所の目星をつけ、何か所か様子を伺わせておいた。
一つに大きな人の出入りが確認できたからね。
――私達も、入り込もう」
リタは相槌を打とうと思ったが、「ん?」と首を捻る。
今、リタはリリエーヌ姿だ。舞踏会で踊る装いではなく、もう少し動きやすい観劇に行ったときに着ていた装いと似ている。
首元には大きなエメラルドをあしらった首飾り、仮面の両端に白百合の文様が彫られているのと合わせるように首飾りも百合をモチーフにしたデザインだ。
そしてラルフも黒い仮面を横に置いているものの、それは仮面と言うよりもマスクに近い。
顔の上半分を完全に覆って目だけが孔から覗く――ハッキリ言えば物語の悪役が身に着けるようなものだ。
だがラルフの装いで印象的なのはまだ着けていない仮面ではない。
黒いスーツ姿ではあるもののかなり控えめな印象だ。
リタと比べれば格差がある。
普段彼の眩しい貴公子姿の隣にいる事に恐れ戦くことはあるが、まるで従者のような姿にリタは今更不思議に思ったのだ。
「入り込む、ですか。
招待状もないのに……? 主宰と面識もないですし」
「勿論、仮面を着けていれば素通り出来るとは思っていないよ。
僕が警備の人間を足止めしよう。
相手は何人もいるだろうし厳重な警戒態勢のはず。
少々手間取るかも知れない。
だからリタ嬢。
君は先に会場に入って、様子を見て来て欲しいんだ。
中で行われていることが真実
そうではなく、あってはならない事が行われるとするなら――
姉さんを保護しなければいけない」
足止めってどうするんだろう。
今更彼のすることに疑いを抱いても仕方がないと思うが、人並み以上に護身術に秀でているラルフとは言え。
彼は荒事、戦闘に向いているタイプではないような気がする。
何人もの屈強な傭兵たちに囲まれて無事でいられるのだろうか、そちらの方が不安だ。
勿論魔法を使えばその限りではないだろうが、人間を魔法で傷つけるのも大きな問題になり得る。
一体どういう手段で……?
そんなリタの心中に思い至ったのか、向かいに座るラルフは足元に置いた黒い箱に視線を落とした。
彼の赤い目の動きに合わせ、リタの視線も下方に向かう。
前傾姿勢になると長い金の
長い髪は面倒だなぁ、と指先で耳の裏に髪を引っかける。
長髪用の鬘でも被らないと、腰まで伸びる髪がこんなに扱いが面倒な代物とは分からなかっただろう。
学園の貴族の女生徒は皆長い髪だけれど、手間や面倒をかけているのだとこんなところで思い知る。
「それは……楽器ケース?」
どこかで見たことがあるその黒い箱。
リタが訝し気な声を上げると、ラルフは再びニコッと微笑んだ。
一体これで、どうしようと?
「リタ嬢。
門番と問答が始まったら、いつでも動けるよう身構えておいて欲しい。
僕が動いたら――急いで会場へ向かって、そう、可能な限り『音』を拾わないように気を付けて」
…………????
※
今日は本当に待たされることばかりだ。
まだ開場の時間には遠いからと少し離れた場所に在る餐館で時間を潰し、夕食までご馳走になってしまった。
もう少しで日付が変わる。
こんな夜遅くに集まって始まる催しなんてロクなものではなさそうだ。
それにしても、いくら非常時とは言えこんな真夜中にラルフと二人きりという状況は二度と無いことかもしれない。
窓からキラキラと降りそそぐ月光の煌めきに浮かび上がるラルフの姿は、例え従者仕様の衣装と言っても目を逸らせなかった。
「では、往こう。
リリエーヌ
普段呼ばない呼び方でリタを促す。
その様に戸惑いを覚えるが、仮面を被り、ふさふさの羽扇を静かに広げる。
その羽先で口元を隠し、車外から手を差し伸べエスコートしてくれる彼の手を取って馬車の段をゆっくり降りた。
裾を踏んづけてしまわないよう気をつけながら。
とある広い屋敷を、高い塀がぐるりと囲っている。
厳めしい門構えの外門の前で、ラルフとリタは馬車を降りた後当然呼び止められることになる。
「……失礼、貴女方はこちらの催しに招待された方々でしょうかな?
いえね。
――先ほどお迎えしたお客様で、全員お揃いだという話を聞いておりますが……」
端から疑いを抱いた状態で、上背の高い屈強な衛兵が近づいてくる。
聞いた時間を思い出せば、宴は始まる直前。
もう既に招待客は全員揃っているとなれば、こんなギリギリにひょっこり現れた二人組は何者だと頭から懐疑的な接し方でもしょうがない。
リタはこの段階で頭を抱えたくなった。
疑われずに中に入るどころか、入る段階で捕まってしまったらクレアを助けるという話にもならないではないか。
「おや、お聞きになっていませんか?
困りましたね。
……急な話ではありますが今宵の『商品』を一つ主催の方にお納めするよう指示されておりました。
こちらのお嬢様が先日極秘に入手されたもの。
――ご存じありませんか? 人伝に『魔法のヴァイオリン』と呼ばれる逸品です」
「………魔法の……? なんだって?」
「そんな話は聞いていないが……
本当の話なら失礼な真似も出来んな。
値もつけられないようなシロモノだろう?」
「そうだな、今日の目玉商品って事になってるかもしれん」
数人が集まり、ラルフの周囲を取り囲む。
顔半分を覆う仮面、そして深夜という時間帯。
雇われた傭兵たちには、ラルフの声も聞いたことがないだろうし身がバレる事は無さそうだが……
「勿論、お疑いでしたら――次回改めてお持ちいたしますが?
このまま持ち帰っても宜しいのですね?」
「いや、ちょっと待て!」
「お持ちした品が『魔法のヴァイオリン』かお疑いでしたら、ここで一曲、弾いてご覧に入れましょう。
こちらの商品が
ラルフは全く動じず、しれっとした口調で淡々と述べる。
むしろ、彼らをからかって楽しんでいるかのようだ。
「へぇ、それは面白い!
確かあれだろ? ヴァイオリンで弾いた曲を耳にしたら感動で涙が流れるとか! 聞いた事あるぞ」
「いやー、お前そんな話があるかよ。
俺らみたいな奴が音楽聴いて感動? はは、そんなの馬鹿らしい」
「逆に言やぁ、俺達も感動できるモンなら本物ってことじゃねぇか?
もし本物だったら、マジで追い返すわけにもいかんだろ。
怒られちまう、報酬が減ったら不味いだろ」
「だがリストに無かった奴を入れるのもなぁ。
じゃあ俺は確認してくるかぁ」
ラルフはそんな彼らのやりとりを後目に、黒いケースから例のヴァイオリンをそっと取り出した。
そしてリタに軽く目で合図を送る。
行け、ということだろう。
入口で門番が固まって取り調べていれば、何かあったのかと敷地内の他の場所からも雇われた警備兵が姿を見せ集ってくるものだ。
それまで密やかに闇夜に紛れ入場していた他の面々の様子とは全く違う事に気づき、皆がこちらに注視する。
ラルフはヴァイオリンを構え、ゆっくりを弓を引いた。
本当はラルフの奏でるヴァイオリンだ、じっくりゆっくり聞きたい!
でも聞いてはならないと厳重注意されているなら仕方がない――!
リタは皆が彼に注目している隙間を縫って、ドレスの裾を翻す。
そのままラルフに言われたとおり、会場の建物に向かって大股で走り出したのだ。
自分を留める声、驚く声……それらを背中に受け一心不乱に。
ラルフのヴァイオリンの音色が塞いだ耳の間から微かに聴こえる。
その瞬間、僅かではあったけれど、確かに意識がクラッとした。
危ない。
こんな急ぎ緊張し走っている時に、睡魔に襲われた……?
あ。……これ、魔法だ。
眠りの魔法――多人数に向けて使用できる魔法ではない、精神感応系の魔法はかなり複雑な魔法陣が必要だと習ったのに。
呪文だけで効果を発動できるとか、規格外過ぎないだろうか。
王子を守ることが可能な護衛能力はあると分かっていたけれど、こうやって常人離れした能力を見せられると絶句してしまう。
リタは音源の中心であるラルフから遠く離れ、会場の入り口の銀の取っ手を両手で掴んで振り返る。
本人は何食わぬ表情で、いつものようにヴァイオリンを奏でているようだが。
使用した魔法をヴァイオリンの効果で増幅させている……?
あれ、
奏でる音に魔法を乗せているのは分かるが、まさかあのヴァイオリンにそんな効果があったとは知らなかった。
『
彼の周囲何十メートルもの範囲でバタバタと人が倒れている様子に、冷や汗が流れる。
確かに攻撃魔法を使ったわけではないからセーフなのかも知れないが、魔法の恣意的活用と怒られるのではないか?
……眠り……か。
騒がれず、足止めでき、その間のことを記憶にも残させない。
完璧な手段ではあるが……
とにかく今は、彼の魔法に驚いている場合ではない。
強硬手段を用いても、この会場に潜り込んで様子を見るという役目をリタは任されているのだ。
意を決して、リタは未だ薄暗い
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