第438話 <ジェイク 1/2>



 幻かと思ったが、どうやらそうではないらしい。



 何故かこの場に出現したリゼの姿を認識した瞬間、ジェイクは思考を完全にそっちに持っていかれた。

 自分の役割は分かっている、でもこのまま悠長に魔物の出方を伺う余裕がなくなる。


 頭の中に張り巡らされていた沢山の糸の一本が、音を立てて焼ききれた。

 そんな錯覚。



「――……。

 邪魔だ!」



 前方に陣取りこちらを睨み据えじりじりと近寄ろうとする魔物達が鬱陶しくてしょうがない。

 腰に帯びていた剣を手にとり、精霊石を填めこんだそれを握る手に力を籠めた。



 自分の箍が外れてしまった時の危険な状態、危うさは幾度となくシリウスに忠告を受けたことだ。

 分を越えた魔法を使うな、と彼が口を酸っぱくして戒めてくるのはそれなりの理由があることも事実だ。




 『ジェイク。

  ……常識・・を越えた威力の魔法は容易く使えるものではない。

  人の領域を越えた分――代償も発生する。

  自覚なく、魔力のかわりに生命力を費やしているようなものだ。

  自ら寿命を削るような真似はするな。


  抑えろ。

  抑えられないなら、使うな。

 

  ……騎士団の職務に魔法は要らんだろう?』



 

 遠い先の自分の生命より、今目の前にあるリゼの事の方が何十倍も考えるべきことだ。

 思いっきり剣に魔力を籠め――それを大きく横に凪ぐと赤い衝撃波が前方の樹々や岩、地面を全て根こそぎ抉り取って奔っていく。


 周辺が焦土と化した。


 ……倒れ転がっていた魔物の死体さえ、消し炭となり塵と化した。

 一気に吹き飛ばされ、灼け焦がされる同胞の姿を目の当たりにした魔物は、一匹逃げ、二匹逃げ――

 背を向け、遠くへと逃げ出していく。


 情報を得るという当初の目的を達することなく、敗走を赦す。


 だが、それどころではない。


 アンディが大地に突き飛ばされたかと思えば、急にどこからともなくリゼが降って来たのだ。

 乗り手を失い戸惑う馬を見ればそれに乗って来たのだろうことは分かるが、それにしたって何故彼女がここに。


 上体を起こし、リゼの事を困惑の表情で見つめるアンディ。

 リゼは肩を手で押さえたまま、ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返す。


「……アンディ、怪我はないな」


 強かに打ち付けた背中をトントンと手で叩くアンディ。

 彼はパッと見たところ目立った傷もないようだ。まぁ、華奢な女の子が飛び乗って来たくらいで怪我をするような人間など、騎士団にいないと思いたい。


 足元の地面には、狙いを外され空しくそこに一本の矢が突き刺さっている。



 ……アンディが狙われた?

 それをリゼが助けた?


 ……いや、待て。

 全く意味が分からない。



 混乱しているのはジェイクだけではなくこの場にいる人間全てだ。

 ただ慌てふためいているわけにもいかない。


「ああ、私は大丈夫……だけど」


「指揮! 替われ、もう奴らは逃走済みだ。

 後処理頼む。

 話も、後で聞く」


「了解。

 全く……ここまで派手に更地にされると、見通しが良すぎて隠れる場所もないじゃないか」

 


 アンディが立ち上がってジェイクの”やらかした”その惨状を確認して肩を竦めた。

 



「おい、リゼ。

 お前一体なんでここに……」


 その場に両膝をつき、呆然とした様子で硬直していたリゼがゆっくりとした動作でジェイクを見上げる。


「……あ、ちょっと、待ってください。

 頭が……

 流石に、二徹はしんどくて……

 ちょっと休んで良いです?」


 彼女の目の下には大きな隈がある、疲労困憊、憔悴といった状態が見て取れるのだけど。

 わけがわからず立ち尽くすジェイクを視界におさめ、リゼはどこか満足したようにへらっと笑った。


 今まで見たことが無いような、明け透けで素直な笑みだったように思う。


 そのまま地面の上に仰向けに寝転がるリゼをどうしたものかと。

 片膝をついて、躊躇いがちに手を伸ばすと――


「あ、――……一つだけ」


「ん?」





 何の躊躇いも、曇りもなく。

 彼女は今日の天気を見たまま口にするかのような気軽さで、







    「私、ジェイク様の事、 好きです」






 声がジェイクの耳に伝わる前に、瞼を閉じた彼女はスコンと意識を失い深い眠りに堕ちたのである。










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 感情と 記憶が  心の深いところで交差する


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 自分にとっての、”元凶トラウマ”は何かと考えれば悩むまでもなく全てが『父親』に帰結する。


 彼は――ロンバルド侯爵家当主ダグラスという人間は、ジェイクから見て本当に理解しがたいろくでもない父親だ。

 あれと血が繋がっていることが既に呪いのようなものだと思っている。


 理解を欠片もしたくないと思わせる存在だ。




 彼は確かに人間の枠を越えた、”強い”人間であった。

 ロンバルド家の長に立つことが運命づけられた、畏怖の対象。

 彼の腕力、戦闘技術、魔法、全てが常軌を逸していた。


 戦闘狂、と友人に仇名されるくらいには。



 ――彼は強いものが好きだ。

 力無き正義は無力どころか、発言権さえ与えないような傲慢で人の心を持たない、文字通りの冷血漢である。



 あの男ダグラスが一人の女性を攫ってきたこと、それが始まりだった。



 ダグラスにはちゃんとした由緒正しい血統の夫人がいる。

 ジェイクの母で、母がダグラスの正妻だということは誰もが理解して認めていた。


 彼らは幼い頃から家同士の契約で結ばれたごく普通の、何の特筆すべきこともない政略結婚を遂げる。

 互いに互いの役目を理解している二人は当初の予定通り結婚し、ごく普通に一人の子をもうけた。


 それが自分ジェイクだ。


 しかしダグラスは、温和で大人しく、ごく普通のお嬢様であった母に対して全く興味を持つことができなかった。


 興味と持たないだけならまだマシか。

 折角自分の子が生まれたが、半分妻の血が混じってしまった事に対して思うところがあったらしい。

 戦う術を知らない弱い人間、そんな母の血も流れていることに大きな不満を抱いた。


 もしももっと強い女との子が生まれたら?

 自分を凌駕するようなロンバルド家の最高傑作が生まれるのではないか、と。


 周囲の人間はそんな彼の発言を笑い飛ばしていたが、彼は本気だった。

 自分の強さを何より誇りを持つ男は、己の血が薄まったまま次代に繋がるということをこの上なく嫌悪した。



 弱い人間の血が混じった人間をこの家の跡取りにしたくない。



 今改めて考えても、ジェイクにはわけがわからない。

 当然周囲の人間も「???」と首を捻って、「御館様は変な事を言う」と誰も真剣に取り合いはしなかった。



 いくら自分の血を完全に残そうとしたところで、人間は自力で分裂できるわけでもないから無意味だというのに。



 だがあの男は、国中の伝手を使い、傭兵たちから情報を集め――

 ”彼女”を見つけ出してしまった。

 女だてらに屈強な傭兵も手も足も出ない、生まれてくる性別を間違えたと苦笑いされる女剣士。

 黒髪をポニーテールに纏めた、釣り目の美人な女性である。


 彼女の実力を自ら確かめ、認め、彼は狂喜したという。 


 無理矢理屋敷に連れ帰り、嫌がる彼女を第二夫人にしてしまったのだ。



 これには家の人間も驚愕し、とんでもないことだと大騒ぎになった。

 だが表立ってダグラスに意見を言えるような人間もいない。

 

 第二夫人――エマにしてみれば、全くとんでもない話だ。

 ただ普通に女剣士として身を立て、それなりに名を知られてきた矢先に三家の当主に目をつけられて捕まって、閉じ込められてしまったのだから。

 好きでもなんでもない、ただ”剣の腕を気に入った”という理由だけで。


 本人の同意もない、人攫い以外の何物でもない。

 だがそれが全く問題に出来ない程、彼の権威は絶大だった。





 ようやく満足の行く相手を見つけたダグラスは、第二夫人との間に男児が生まれた後「これを後継者にする」と高らかに宣言したのである。






 自分の血、彼女の血。両方を継いだこの子グリムは、きっと自分をも超える傑物に違いない。



 もう一人の息子の自分に対しては、好きにしろ、と。

 物心ついた時に宣言され、それっきりだ。

 面と向かって面倒くさそうに言い捨てられたのを最後に、声をかけてもらう事もなくなった。



 尤も、好きに生きろと言われた事自体はジェイクにとって、とても幸運なことだ。


 経過や状況がどうであれ、グリムが後を継ぐのは正しい選択だとすんなり納得できたから。


 エマの血を引く腹違いの弟のグリムは、確かにダグラスが言う通り周囲を驚嘆させるほどの武芸のセンスに卓越した傑物だった。

 ダグラスは己が望んだ、有能で満足のいく子どもを手に入れたのだ。


 幼い頃から神童と呼ばれた少年は、父の期待に応えるべく日々の努力も決して怠らなかった。

 イレギュラーな形で後継ぎに決まったと言っても偉ぶることもなく、明るく快活な少年だったので誰からも好かれていたし。


 ロンバルドを継ぐ人間として教育を受け、次の当主はお前だと言われ続けたグリム。

 ジェイクも面倒を背負いこむより、それで良いと心底思っていた。



 周囲から言われるほど、ジェイクは不憫でも”可哀想”でもなかった。

 面倒で厄介な立場を替わってもらったことに、罪悪感を抱いていたくらいだ。

 自分はラッキーだった。責任なんか負わなくてすむ、自由が約束されていたのだから。


 誰と話していても良い、町で見かけた人間と仲良くなっても文句を言われることもない。


 ――幼い頃は自由を満喫していた、でも地位の替わりに窮屈な生活を強いられているグリムを放って置くことも心苦しかった。



 兄弟仲はよく、遺恨は無かった。

 境遇に対して驚くべきことに、ジェイクとグリム、そして母とエマもとても親しい仲だったから。


 母はエマの境遇に涙し、何くれとなく世話を焼いた。


 周囲が腫れもの扱いする彼女の許を訪れ、話し相手になったのが本来はライバル同士のはずの第一夫人だ。

 母は根っから、人が好いのだ。






 グリムならしっかり跡を継いでくれるのだろう、それが一番丸く収まるし、ジェイクにとっても有り難い話だ。

 周囲の雑音など、耳に入れなければいい。






 そんな当人達にとって、比較的穏やかだった生活も、突然終わりを迎えることになる。






 珍しく、父ダグラスを交え家族皆で夕食を採っていた時にその事件は起こった。


 相変わらずダグラスはジェイクに話しかける事もないし、母の存在も無視をする。

 いつもと変わらない光景。


 グリムやエマが気を遣ってこちらに話しかけてくるのが逆に申し訳ないと思う程だ。

 気まずい空気に覆われた食卓は、味などあったものではない。






 ――ああ、思い出すだけで忌々しい。







 ダグラスにとって本当の家族は、自分達ではない。

 所詮親類に押し付けられ、無理矢理作らされた家族擬きだ。


 自分が見つけてきたエマと、そして優秀で非の打ち所のないグリムという息子だけが彼の家族。

 そうだったはずだ。






 ジェイクの記憶から生涯消える事はないだろう。


 血に染まった、あの晩餐を。

 十年も前のことなのに、決して褪せないあの凄惨な夜。

 生まれて初めて、明確な殺意を自覚したあの日を。






「――がっ……は………っ……」


 食事の最中、何の前触れもなくグリムが大量に血を吐いて椅子から転げ落ちたのだ。


 あまりにも唐突な事で食堂にいた誰もが理解できなかったが――凄惨な光景がそこに広がっていた。



 彼が苦しそうに咳をするたびに血の飛沫が磨き上げられた床に飛び散り、彼の髪も肌も血の色に染まる。



「おい、グリム、どうした! しっかりしろ!」


 椅子を蹴り飛ばしてグリムに近づいたが、彼の息は既に絶え絶えであった。

 彼の身体を揺すったが、殆ど反応がない。

 指先は痙攣し、今にも事切れそうな弱い脈にぞっとした。


 このままでは、本当に死んでしまう。



「いやぁ! グリム!!」



 自分の息子が血まみれになって横たわる姿を、半狂乱になったエマが必死で掻き抱く。

 息子の名を呼び、狂ったように叫び続けた。




 

「誰か! 医師を……! お願い!」



 その声にハッとして動き出した給仕の人間達。

 だが彼らの行動は、他ならぬ当主に遮られることになる。





「医師など呼ばんでいい。


  ……このような虚弱、捨て置け!」





 彼は憤りに身を任せ、手前のテーブルに拳を叩きつけた。

 激昂する彼の周囲の空気がビリビリと震え、誰もその場から一歩も動けなかった。


 グリムを抱きかかえる彼女エマは、何が起こったのか分からないというくしゃくしゃになった顔でダグラスを見上げる。

 つい数分前まで、和やかな夕食中だったはずなのに。


 一瞬で、地獄に変ずる。



「だ、ダグラス様……?」


 信じられない事に、ダグラスは憤怒の顔で席を立ち、エマとグリム母子に侮蔑の視線をくれた。




「よくもこんな欠陥品を掴ませてくれたものだな。

 こうなっては、使い物にならん。




    なまじ生き残りでもしたら、こっちも面倒がかかるだけよ」







   なにをいっているのだ  こいつは。






 グリムの傍で両膝をつき、口の端から血を吐いて咳き込むグリムを呆然と見守るジェイク。

 ゆっくりとした緩慢な動きで靴音が近づき――

 ダグラスは自分の背中を、軽く足先で蹴った。


 



「しょうがない。

 ………この家はお前にくれてやる」



 心底うんざりした体でジェイクに吐き捨てる奴を見て、全身の血液が沸騰したのではないかと錯覚するほど憤りを覚えた。

 怒りで目の端がチカチカする、という経験はあれが最初で最後だろう。


 泣き叫ぶエマ、血を吐くグリム、動こうにも動けず途方に暮れる使用人達――

 この阿鼻叫喚の状況を無視して食堂を去ろうとする彼の神経が全く分からなかった。



 虚弱?

 ――のたうち回り痙攣するグリムを一瞥し、身体機能が回復しないと判断した……から?

 そんなにあっさり?


 元通りに回復するかもしれないのに?

 早々に、切り捨てる?



 お前の子だぞ?

 めちゃくちゃ望んで、後継ぎにする! って期待していた子供だぞ?

 お前が攫ってまで連れてきた嫁との子供だぞ?



 それを……

 欠陥品?

 


 血を吐き苦しむ息子を、まるで汚いものでも見るかのような、軽蔑の醒めた視線で見下ろしていた。

 人の心がないのか?



 許せなかった。

 我を忘れ、ジェイクは父親の背中に掴みかかる。


 殴ってでも、先ほどの言葉を撤回させたかった。




 どうしてこんなことになったんだ、全部お前のせいだ、と。



 だが後ろに目でもあるのか、ダグラスはジェイクの突進など難なく交わし、首根っこを掴み上げた。

 離せと暴れるジェイクを、彼は思いっきり壁に叩きつけ舌打ちを一つ。


 全身強かに打ち付けられ、一瞬息が止まる。

 アバラが折られていたとこの時は知らず、尋常ではない痛みにジェイクは床の上に這い蹲って呻いていた。



 グリムの顔色がどんどん白くなる、瞳から光が消えていく。




 ジェイクは彼に向かって手を伸ばした。

 激痛に顔を歪め、ゆっくりと匍匐し指で彼に触れようと力を籠める。






 このまま何も出来ず、義弟が息絶えるまで待てというのか?

 こんなに苦しんでいる彼を救うことも出来ないのか?






「ダグラス様」




 その場で固唾をのんで震えていたジェイクの母が静かに動いた。

 ダグラスの行く手を阻むように立つ。


 彼は不審そうに眉を顰めた――今まで当主に逆らったことなど一度もない母の、初めての反抗的態度に驚いたのかもしれない。




「貴方の妻ではなく、オットー伯爵家の人間として発言いたします。

 あの子に……グリムに医師の手配をすることを、お許し下さい。




 ……お願いします」




 


 



 名家の令嬢として嫁いできたにも拘わらず、今まで散々蔑ろにされていた母。

 彼女は、全く躊躇う素振りもなく。




 ダグラスの眼下、床に頭を擦りつけてそう懇願した。




 数秒の時を経、ダグラスはむっつりと不機嫌そうな顔をした。

 腕を組んで鬱陶しそうな吐息とともに、ぼそっと呟いたのだ。




「……。

 好きにしろ。あれはもう、要らん」  







 まだ言うか、と。


 怒りが脳天を貫きそうになった。







 彼の靴音が廊下の向こうに。

 どんどんどんどん、遠ざかる。




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