第436話 日常と非日常
「おはよう、キャシー」
カサンドラよりもよっぽど休息が足りていないはずの王子。
しかし彼は疲労を感じさせないいつもの爽やかな表情でカサンドラの席まで声をかけに来てくれた。
キラキラと光の粒子を纏う眩しさを前に、反射的に目を細める。
新学期が始まって一月が経過したが、今ではすっかり王子がカサンドラに話しかけに行く光景は日常風景の一部と化している。
自分達を取り巻く状況は全く非日常的としか言いようがないのに、皮肉なものだ。
一月前は王子が『おはよう』とカサンドラのことを愛称で呼びながら声をかけてきただけで教室全体の空気が一変し信じられないモノを見た、とでも言いたげな様子だったのに。
王子が声をかけてくれることが普通の事と認識された今、自分達のこのやりとり――雑談の内容は一変し、日常とは真逆の話をしているのだから。
しかし王子が自分に毎朝話しかけてくれるのが当たり前、という状況をつくってくれたおかげでこうして毎日不審がられず話が出来る。
先見の明というわけではないけれども、カサンドラにとっては幸運な事だと思う。
急にこそこそと、毎朝顔を合わせる度に二人で話をするようになったら不審に思われるかもしれない。
もしもこの朝のやりとりが無かったら、互いの報告を手紙でやりとりする必要に迫られていた可能性がある。……誰かに拾われて読まれたら妄想癖があると思われかねない内容を、手紙で話す……? 想像しただけで無理無理、と頭を振りたくなる。
そんな物騒な文章、手紙という証拠を彼の机の中に入れておくのは悪手過ぎるだろう。
今までのように当たり障りのないカサンドラの近況報告と挨拶だけの、誤って他人に読まれたところで羞恥ダメージを受けない手紙ならともかく。
こうして日常の風景に溶け込ませながら、核心について話が出来るのは奇跡のような状況だ。
昨日の予期せぬ物騒な”やりとり”の直後と言うこともあり、王子の無事な姿を見る事が出来ただけでホッと安堵する。
いくら明け方、早朝とは言えもしも彼が行方不明になったり怪我を負わされたり、それ以上の不幸な出来事に巻き込まれでもしたら……?
想像するだけで身の毛がよだつ話である。
かと言って彼を一人での行動は危険だと引き留めることも難しかったのも事実だ。
出来る限り普段と変わらない日常を、と考えると二人揃って登校するわけにはいかない。
それにしても――王子は変わらず、王子そのものである。
王子のこの姿を見て、昨日三つ子やアレクと顔を突き合わせて深刻な話をしていたのだ、と想像できる生徒はいないだろう。
リタやリナも休むことなく、普段と同じ時間帯に登校している。
リタに限っては眠たそうに大あくびを繰り返しているが、逆にその緩んだ素の姿が普段通りとも言えた。
「昨夜は遅くまでありがとうございました」
廊下の窓際、朝の定位置となった場所でカサンドラは頭を下げる。
教室内はガヤガヤと騒々しいが、廊下に出て来る生徒は殆どいない。教室に入る生徒達はこちらの姿を見て会釈し、そそくさと足早に進む。
通行の邪魔をしているつもりはないのだが、やはり王子が朝から廊下に立って話をしていたら目立つし気になるだろうな、と思う。
去年までは登校した後、常に自席に座ったまま代わる代わる訪れる大勢の生徒とにこやかに雑談していたのだから。
雲泥の差と感じられてもしょうがない。
「それはこちらの台詞だよ。
事前に相談もなく、君の屋敷に集まってもらうよう動いてしまったのだから」
「とんでもないです。
王子の的確な判断のお陰で、わたくし達の首の皮一枚繋がっている状況なのかもしれません」
「騎士団でジェイクの行動を聞いた時はとにかく時間がない、という事しか考えられなかったからね。
時間をかけて彼女達を説得という手段は困難だと思った。
説明を全て任せる事になって申し訳ないと思っている。
……まさかリナ君が先んじて君に会っていたとは想像していなかったけれどね」
王子は表情を硬くする。
カサンドラから今後起こるだろうイベントの話を手帳に書き記していた彼は、箇条書きで書いたからこそ状況が酷似しているとピンときたのかもしれない。
イベントは期日通り、予定通り進行すると思い込んでいたカサンドラはジェイクの不在をそこまで訝しむ事は無かった。
――生誕祭や武術大会などの学園行事はスケジュールがあらかじめ決まっているが、事件を起こすか起こさないかの匙加減は任意なのだ。
学園生活と言う折り目正しい予定通りの生活を送っていると、その境目が曖昧になって――事件はゲーム内の発生時期と同じに違いない、と思い込んでしまった。
やはり自分以外の誰かの視点、気づきは重要だ。
「あの、お体に障りはございませんか?」
昨日、カサンドラの持っている指輪に魔法をかけた事でかなり消耗したということはアレクから聞いた。
その上カサンドラも気づかない早朝から彼の姿は無く――全く体力も精神力も回復していないのではないか。
「問題はないよ、あの程度のことなら」
急な話の連続で非日常領域に突入。
だが彼は普段と変わらない態度を崩さず、周囲に心配をかけることもない。
見かけ以上にタフな人なのだろうなぁ、と感心すると同時に気後れもする。
リナに話があると言われただけで、あんなにも狼狽えてしまって。
自分の知っていることは話せても、それについてどうするべきなのか分からず建設的な行動を何も起こせない。
二日前に事情を知ったばかりの王子はギリギリのところで事態を押し留めてくれているというのに……
アレクの強い想いに喚ばれて自分はここにいる。
もっと賢くて行動力のあるプレイヤーだったら、こんな体たらくではなかったのではないかと悔しくも思う。
彼の姿をもう一度伺うと――
いつもは一糸乱れぬサラサラの金の髪なのだが、前髪の右端が重力や流れに逆らうように変な方向に歪んでいるのが目に入った。
つい今朝のアレクの言葉が脳裏をよぎり、流石に彼も全く今まで通り身支度を完全にする余裕がなかったのかと思う。
余裕がないのは良い事とは言えないはずなのに、自分だけではないのだと少しだけ親近感が湧いた。
「シリウス様達は、何か仰っていませんでしたか?
平日、急に王子が不在だったわけですし」
「……まぁ、シリウスにはたっぷりと嫌味と説教を受けたよ。
立場に対する自覚が足りないとね」
あの生真面目な彼のことだ、全く急に予告なく王子が寮に帰ってこない事態など許容できることではないだろう。
ガミガミと小言を
「ラルフは……何も言わなかったかな。
――『ジェイクがいたら、朝帰りだなんだと煩かっただろう』と。
それだけだよ」
……朝帰り……。
いや、全く状況的に誤った表現ではないし、自分達は自分達の事情があって集まり、長時間一緒に過ごしたわけだ。
あの一連のやりとりをその単語一つで済まされてしまうのは、少々納得いかないものがあるけれど。
王子がカサンドラの屋敷で何も事前調整もなく一泊――しかも早朝誰にも気づかれないようこっそり帰るという状況は朝帰りとしか表現しようがないか。
外へ向かっての言い訳が難しい事態だが、カサンドラも二の句が継げずに曖昧に苦笑いを浮かべる他無かった。
「ジェイク様……ご無事なのでしょうか」
朝の時間、話し込んでいても始業の鐘がなる前にこちらに声をかけてくれるジェイクの姿は今はない。
遠く離れた場所にいるので、現場の様子を想像する事さえ難しい状態だ。
今頃リゼはどのあたりまで進んでいるのか、それさえ分からない。
出来るだけ早くアンディ達と合流して欲しいと思う、でも何分彼女にとって初めての道のり。慣れない馬だ。
しかも一日では辿り着けない場所に向かうわけで、いくら地図があったとしても迷って辿り着けないなんて事態も十分考えられる。
何せ、リゼの行動は……
本来のゲームのシナリオ上、特にリゼがジェイクの攻略ルートに入った以上、必ず発生するイベントを『壊す』行為だ。
結末を全く違う形にしようとする行為が、果たして成功するのか……?
真っ向から立ち向かう彼女の行動が身を結ぶか否かで、未来が決まる。
どうか、上手くいって欲しい。
祈る事、願う事しか出来ない自分を歯痒く思いながらカサンドラと王子はどちらからともなく窓の向こうに視線を遣った。
日が昇る方、真っ青な空へ。
***********************************
ジェイクがティルサの砦に到着した。
アンディは、全身の力が抜け落ちる程ホッとする。
だがすぐに己の無力さ、そして彼に対する申し訳ないという気持ちに襲われ唇を噛み締めた。
「凄いな、あの包囲を破るなんて」
砦の周囲は魔物にぐるっと囲まれて、もはや奴らに見つからず脱出することも難しい状況であった。匿っている町の住民たちも生きた心地がしないはずだ。食料だって無限にあるわけではなく、タイムリミットは刻一刻と迫っている。
それを、馬を飛ばして駆けてきたであろうジェイクが囲いの外から道を開いて突入してきたらしい。
見張り台の傍で様子を伺っていたアンディは火柱が上がるのを見て、彼の到着を知ったが――その威力は流石としか言いようがない。
アンディは魔法は得意ではない。
元々素質のあるなしが全てとは言え、悔やむばかりだ。
いくら窮地を脱することが出来たとしても、自分達が不甲斐ないばかりに彼の手を借りることになったという事実は変わらない。
もしも魔物絡みの話だと事前に分かっていれば、宮廷魔道士達と共同で事前の準備は全く違ったものになっていただろうに。
自分達のせいでジェイクを急遽派遣してもらうなんて事態になった、それが明るみになれば責任を負わねばならない。
どうして――魔物が関わっていると報告が無かったのだ。
今更考えても仕方のない、それはこの場を無事に収め、切り抜けてからの話か。
砦は万が一に備えて魔物が侵入しづらい結界魔法が施されている。しかし十年以上前に張り直して以降手つかず。
結界の効果が果たしてどの程度残存しているのか、アンディの目から詳しい事は分からない。
魔物の群れに襲われるということがイレギュラー過ぎて、アンディも最善の方法が分からない。
人里に出てきたはぐれた魔物一体を討伐することくらいは出来るが、人間の何倍もの戦闘能力を持つ魔物が群れを成して迫って来れば今の戦力では抵抗が難しい。
……異常だ。
”魔法”を使う人間を恐れ、大陸の覇権を人間に明け渡したはずの魔物が。
今になって何故、徒党を組んで人間の町を襲い、砦に迫ってきているのか?
魔物が群れを成して人間を襲うという事態は、勿論歴史の中で初めてではない。
だが長年平和な世が続いている、少なくともアンディは耳にしたことが無かった。
――思考にチラつくのは、既に滅んだはずの悪魔の存在だ。
かつて
悪魔が何らかの事情で蘇った、復活した。
だから魔物が凶悪化し、人間に害をなそうと動き出した……?
明らかにこちらに敵意を持ち、殲滅せんばかりの勢いの魔物の群れを眼下に収めアンディは頭を横に振った。
分からない。
「なぁ、アンディ。
例の噂は聞いたか」
「……何だ?」
すぐに階下に降り、ジェイクに今回の失態の謝罪と、この劣悪な状況の打開について話をしなければいけない。
魔物の強腕に吹っ飛ばされた彼は幸い命を落とすことは無かったが利き腕を包帯でぐるぐる巻きにされている。
戦力として数えられない騎士、兵士の数は日に日に増える一方だ。
「……ティルサから命からがら逃げ延びた奴がいただろう」
「意識が戻ったのか?」
「おかしなことを口走っている」
螺旋階段を降りる。
一段、一段。
壁に灯す火が、薄暗い足元を茫洋と照らす。
「ティルサに人間がいたらしい」
「生き残りがいたのか?」
偵察役の話では、町は壊滅状態。
逃げ延びた人間は砦で保護しているが、そうでない人間は……
思い出したくなくて、アンディは眉を顰めた。
「………すぐに姿を消したんだそうだが……
仮面を着けた男だったとか」
仮面?
「そいつが言うには、その姿が………
いや……
何でもない。
見間違いだろう。
はは、俺もわけがわかんないんだ」
そこまで気になるような事を言っておきながら、やっぱりやめたなんてナシだろう。
しかしティルサの生き残りがいたとして、どのみち救出に向かうにはそれなりの準備が必要だ。
カツン、カツン、と靴音を響かせ二人は一階で待つジェイクの許へと向かっていた。
彼が来てくれたのだから、生きて帰れる――とは思う。
しかし東部地方へ任官されて早々こんな失態を冒した自分を、彼がどう判断するのか。
命は助かっても、それだけで全てが解決するわけではない。
表情はずっと、険しいままだった。
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