第432話 <リタ 2/2>
物を渡すだけでどれだけ時間がかかっているのか、と口に出しながら。
アーガルドはクレアの腕を掴み、後方に強く引っ張った。
初めてリリエーヌの姿で会った時にはもっと余裕があって、表面上は優しそうな優男だった気がするのだが。今はただの偉そうに振る舞う強引な男性にしか見えない。
声に出してから引っ張るまでは同時のようなもので、クレアの体は大きく傾いだ。
痛そうに僅かに表情を歪めたが、すぐに元の表情に戻った。
「……ごめんなさい。
その首輪、あの子に渡して頂戴ね。
面倒なら、捨ててくれても構わないわ」
ますますリタにはよく分からない要望である。
この思い出の品を渡したいのか渡したくないのか、それさえも分からない。
まさかポイっと投げ捨てるわけにもいかないし、リタは目を白黒させて二人の姿を呆然と見遣るしかなかった。
アーガルドに連れられ、停まっている馬車に戻るクレア。
こちらには一瞥もくれることない彼がどんな人物なのかということは、どうしても色眼鏡で見てしまうので口を引き結ぶが――
本当に彼女は幸せなのだろうか。
そんな疑問がリタを襲い来る。
幸せの形など人それぞれというのは分かっている。
他の誰が見ても「辛そう」と思えるような状況でも、本人が幸せを感じていればそれは他人がとやかく言えるものではない。
――好きだ、という気持ちは自由だし、結局独りよがりな感情でもある。
犯罪に至らないものであれば、恋愛観で他人が人の幸不幸を計って止めることは難しい。
……好きなら、しょうがない。
だからラルフも何も言わないし、言えないのだろうと思う。
彼女が幸せだと言えば、満足してると言えば――勝手に相手の幸せを決めつけて別れさせでもすれば、恨みを買うだけ。
クレアが現状に前の生活よりも幸せを感じているなら、リタが何か言う資格もないしそのつもりもない。
ラルフの姉とは言え、自分にとってはたった二回会話を交わした人でしかないからだ。
でも、とリタは手を握りしめる。
掌に在る赤い首輪、昔彼女が飼っていた犬の遺品だ。
話ぶりでは、ラルフの方に懐いてしまってとられてしまったみたいだ、とモヤモヤしていたようである。
でもこれを今まで大事に保管していたということは、コロンちゃんを大事にしていたはず。
ヴァイル家の家族も可愛がっていて彼女の犬だ、という認識を持っているからわざわざ彼女に訃報を伝えたのではないか。
それなのに敢えて他人づてに渡そうとするし、それが嫌なら捨てても良いなんて本当にそう考えているのだろうか?
本当は直接ラルフや家族に会い、渡したかったのではないだろうか。
もっと言えば、一緒に弔ってあげたかったのでは?
彼女は……帰りたくても、実家に帰してもらえない……?
まさか、ね。
流石にそこまで不自由な生活をしているなら、さっきの剣幕でリタにラルフに対する想いを伝えてこなかっただろうし。
クレアが自分の意志で、ラルフに会いに行けるなら――
「………。」
さっきリタに話したような事を――直接本人に伝えるべきではないだろうか。
少なくとも彼が物凄くクレアの現状を心配しているのだという話は聞いている。
逃げるように会わないという選択をとり続けるのではなく、互いに言いたいことを言うべきではないのか。
そうでないと、この首輪の持ち主も浮かばれないと思う。
心に秘めた想いなど言わないと誰にも分からないのだ。
自分はラルフの肩をどうしても持ってしまう。
彼は決してアーガルドにとって不利になるような発言はしなかったが、でも信用していないのだろうなという事だけは分かる。
リタは足元に堕としたままの鞄を拾い上げ、馬車に乗り込んだ彼女達の後を追って走った。
前方で手綱を握る御者は退屈そうに欠伸を噛み殺し、出発の合図を待っているをチラッと確認。
馬車の扉が大きな音を立てて閉まる。
このままでは、もう二度とクレアに会うことも出来ないのではないか?
そんな漠然とした不安が胸中を支配した。
ラルフとクレア。
互いにどういう関わりを持っていた弟妹だったのか具体的に聞けたのは、今が初めてだ。
自分が首を突っ込む問題ではないと分かっている。
でも……
そんな風に拗れなくてもいいじゃないか、と思うのだ。
今、彼女が幸せなのならば。
ラルフを避けて逃げ隠れるような真似をせずとも、堂々と会って首輪を渡せば良いのではないか。
この先もずっと、実態のわからない姉の事を心配し心を痛めるのだろうラルフの事を思うと――
幸せな姿を見せつけてやって、しっかり自慢して、双方蟠りのない状態で別の生活に戻る事が一番健全なのではないか。
意を決してリタはその馬車に駆け寄った。
――しかし、何と言って馬車の扉を開けてもらえばいいのだろう。
すぐにでも前進しそうな馬車の側面、おろおろとその場に佇むリタ。
勢いでダッシュしたのはいいものの、自分でも説明しがたい感情をクレアに押し付けることは、自分の我儘に過ぎないのではないか。
余計な事をしてもっと二人の関係が拗れてしまったら?
物事を深く考えるのは苦手なリタは、頭からプスプスと湯気が出そうな程悩んだ。
そんな風にリタが躊躇して右往左往していると、突然”パシン”という破裂音に似た音が馬車の中から響いたのだ。
どう自分の耳や勘を誤魔化しても、その音は誰かが思いっきり誰かを平手打ちした音にしか聞こえない。
物を落としたとか、どこかにぶつけたとか、そんなレベルの音ではなかった。
リタの体は考えるより先に動き、「クレア様!?」と彼女の名を呼び両手でドンドンと扉を叩く。
「大丈夫ですか、クレア様!?」
どんどんどん、と何度叩いても中から反応はない。
彼女の返事もなく、不気味さが背中を這いあがる。
だがこの外から見えない小部屋のような場所で、彼女が無事であるのかとてもとても不安が勝った。
逆にクレアが彼を叩く……という光景は全くイメージできない。
「ええい、なんだ――うるさい!」
苛立ちの籠った怒声とともに、強い勢いで扉が開かれる。
その勢いに仰け反り、なんとか扉と馬車の車体に挟まれるという事態は回避できたようだが。
頭上から、糸目の青年が眉根を顰めてリタを文字通り見下ろしている。
彼が足を前に蹴りだせば、リタの上半身に直撃するだろう。
だが彼の邪魔な体の向こうを急いで確認すると、奥の方で身を縮めてちょこんと座り込んでいるクレアの姿が見えた。
日光が射し込み、車内の様子もしっかりと浮き上がってリタの視界に映る。
クレアの足元に落ちる白い帽子。
そして直前まで白かった彼女の肌は――頬は、赤く腫れあがっていた。
脳裏に甦るのは、彼女の肢体から覗いた傷跡の事だ。
あれは決して事故やドジというわけではなく……
リタは顔面蒼白になり、不愉快そうにこちらを睥睨するアーガルドを問いただした。
「クレア様を叩いたのですか?」
「……はぁ?
言っている事がよくわからないな。
そもそも、一体何の用だ」
「違うのよ、リタさん。
これが私が躓いてしまって、転んだ拍子に打ち付けただけなの」
「そんなわけないじゃないですか!」
どんな転げ方をしたら、片方の頬だけ真っ赤に腫れるような怪我をするというのだ。
しかもリタならともかく、彼女のような生粋のお嬢様が――いや、奥様がやらかすような失態ではない。
だが叩かれたとしか思えないのに、それを当人が否定するなら彼を責めるのは困難だった。
被害者が、被害を受けていないというのだから。
呆然とするリタを嘲笑うように、ははは、とアーガルドは笑った。
「そうとも、私が彼女を叩くはずがない。
……さぁクレア。早く家に帰ろう。
舞踏会の打ち合わせのために、お客さんが訪ねて来る時間だ」
「舞踏会……?」
彼女はそんな話は聞いていないと言わんばかりにきょとんとした顔だ。
掌でそっと赤く腫れた頬にふれ、ゆっくりと撫で擦る。
痕に残るような怪我ではないが馬車の外にまで響く音――相当痛かったのではないだろうか。
「口が滑ってしまったね」
彼は微かに険しい顔になり、しまった、と言わんばかりの表情で口元を掌で押さえる。
「今週末、仮面舞踏会に招待されたんだ。
君へのサプライズと思って黙っていただけだよ」
「まぁ、ありがとうございます!
私、仮面舞踏会は初めて参加します」
狐目の青年は、参った参った、と肩を竦める。
ニコニコ笑顔になるクレアと、そして妻のためにサプライズを企画していたらしいアーガルド。
普通に仲が良さそうな夫婦の会話に見えるのに、リタは何故か凄く居心地が悪かった。
彼女の紅く腫れた頬と、アーガルドという男性の笑顔がこの会話の中でアンバランスだと感じたせいか。
「――それで、君。
まだ私達に何か用かな? 誤解で時間をとられ、大変迷惑だよ」
彼女が酷い目に遭ったのでは、と思って車体を思いっきり叩いた。
もしもこの馬車に護衛が従っていたら、完全に押さえつけられていたに違いない。
そう思えば――元ヴァイル家の長女だったクレアが、供もいないような状態で外出しているというのも不用心では?
「………いえ、すみませんでした」
納得できない、不承不承ながらも引き下がる他なかった。
この状況でラルフに面と向かってしっかり話をしてくれなんて、流石のリタも言えない。
”誤解”?
何だろう、不自然が極まっていて飲み込むことが難しい。
特にアーガルドが嬉しさを隠しきれない、ニヤニヤととても嬉しそうな笑顔を見せていることもリタには引っ掛かった。
頬を張ったということが彼らの言うように本当にリタの誤解であったなら、こんな事思うこと自体申し訳ない。
しかし、その
舞踏会の話を聞いて無邪気に喜び微笑んでいるクレアとはあまりにも対照的な笑顔に禍々しささえ感じた。
嫌な予感がする――とは言っても、自分には関わりのない家庭の話だ。
彼の傍から離れろ、なんて部外者が言ったところで聞く耳も持たないだろう。
望んでそこにいるなら、彼の事を好きなら何も言えない。
『好き』、という感情は常に前向きでポジティブな感情だと信じて疑っていなかった。
誰かが一途に誰かを想っていることに、こんなに蟠りを覚えるなんて考えた事も無かった。
遠ざかっていく馬車を牽く馬の蹄の音が遠ざかる。
カラカラと車輪の音が離れていく。
彼女から預かった赤い犬の首輪を握りしめ、リタは途方に暮れた。
こんなこと、誰にも相談できない。
ラルフに会って、何て言うの?
貴方の姉が、旦那さんに殴られていたみたいですよ、なんて言えるか?
それが余計な世話なら、何と言ってこの首輪を届ければ良い?
――貴方に直接会いたくないそうで、言付かりましたって言えばいいの?
いやいや、そんなこととても直接言えない!
……でも彼女が他人でしかないリタを介してでしか首輪を渡せない状況って、他に言い訳が思いつかない。
だが捨てるなんて論外だ。
「……どうしよう……」
※
カサンドラの話を聞いた時、この世界が繰り返されているだとか物語の世界だとか、そんな遠大な話はするすると右の耳から左の耳に通り抜けていった気がする。
だが、ラルフの話になった途端、「あれ?」と警鐘がけたたましく脳裏に鳴り響いたのだ。
アーガルドの不気味な笑みは、絶対良い意味でのサプライズではない他の何かを企てているようにしか思えなかった。
物凄い偏見に近い視線で見ていたからそう感じたと言われれば否定できないけれど。
妻を喜ばせるという以上の何かを、彼は目論んでいるのではないか。
特に仮面舞踏会は聞きなれない単語だ。
ラルフの婚約者を演じる関係で、今まで多くの貴婦人たちの話を笑顔を貼りつけて聞く時間も多くなった。
この時期に舞踏会が開かれるなんて珍しい、更にマスカレイドとなれば派手で話題性のある噂が好きな有閑マダム達が話題にしないのは――おかしい気がする。
ざわざわと、落ち着かない。
王子が悪魔になる、だとか。
自分たちが聖女の素質がある、だとか。
リタの手に余る、抱えきれない雲を掴むような話過ぎてイメージが全くわかない。
真実かどうか調べる方法もリタには思いつかなかった。
だがラルフに関わることなら話は別だ。
このタイミングでラルフの大切な家族、姉であるクレアに良からぬ陰謀が忍び寄っているならば――
昨日の話が無関係だとは思えなかった。
でも自分の思い違い、思い込みの可能性も高い。
どうか”そうであって欲しい”、とリタは強く願い、瞳を閉じた。
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