第426話 <リゼ>




 もう覚悟を決めた。


 はらを括ったリゼは、興奮気味に鼻を鳴らす馬の腹を蹴る。






 ※




 たった数時間前、リゼは『日常』に浸かっていた。



 学園の講義も終わり、特に用事もなく寮の自室に帰宅する。

 鞄を置き、授業の復習のために軽くざっとノートと教書に視線を遣った。


 だが――すぐにペンを机の上に転がし、そのまま寝台の上へ倒れ込むようにダイブした。

 全く集中できない。


「今日もジェイク様、お休みかぁ……」


 大仰な溜息とともに、リゼは天井をぼんやりと眺めて独り言を呟いた。

 彼が休むのは決して初めてではないが、週明けの月曜も含め三日連続で休んでいることは純粋に心配になってくる。

 家の事情とは言っていたものの、もしかして体調を崩して寝込んでいるのではないか……と。


 実際に体調不良だとしても彼の立場を考えれば、何の医学的見識も持たないリゼなどお呼びではない。

 薬草学の知識は無いし、医術とも無縁。役に立てることなど何もない。


 誘拐未遂事件で助けてもらった後、教室で顔を合わせるのがちょっと気恥ずかしいなぁと思っていた。

 だが一日会えないだけで、リゼの心も一気に餓えて乾いていく。

 毎日のように会えていたジェイクに数日会えない、たったそれだけの事が自分にとってこんなにも辛いことだったのだと改めて自覚した――まではいいのだが。


 誘拐未遂事件の聞き取り調査の後、騎士団から解放されて寮に送ってもらった時。

 彼は休むなんて一言も言っていなかった。


『また明日な』


 手を振って、特に何事もなく「バイバイ」したはずだ。

 あの時まで彼は、翌日からリゼと同じように学園に登校するつもりでいたことが分かる。

 家の事情で、急に数日学園を休む理由……?


「まさか……」


 考えたくもない。

 だが、のっぴきならないお家の事情でジェイクが呼び出されているということは。

 とうとう彼の正式な婚約者が決定し、その顔見せだとか挨拶だとか契約だとかでロンバルド邸に戻らなければいけなくなったのか……? 


 そうだともそうでないともリゼには分からない。


 「あああああ!」と叫び起き上がり、毎晩の安眠を齎してくれる枕に何度も拳をめり込ませる。

 寮備え付けの枕は柔らかい羽毛の入った枕で、残念ながら全く手ごたえは感じられない。


 仮にそうだったとして、リゼに何が出来るというのか。

 好きだと伝えて、何になる?


 ……ああ、分かっていた。

 所詮はただの夢見る庶民に過ぎない。

 分不相応な夢は叶うことがない!

 でも、楽しかった。

 嬉しかった、このまま『その時』が来るまで夢を見ていたかった。


「はぁ。

 水でも飲もうかな……」


 悪いことを考え出すと、自己嫌悪のスパイラルに陥りそうだ。

 勝手に妄想して勝手に落ち込んで勝手に喚くなど情緒不安定過ぎる。


 この場に自分一人だから良いようなものの、誰かに見られたら精神的致死ダメージを負ってしまうだろう。


 そう言えば……

 王都近辺の街道で大きな隊商の襲撃事件があったとも担任教師が言っていた。

 数日前の誘拐未遂事件の事と重なるというわけではないけれど、治安が悪くなっているのだろうか。


 あの犯人は完全に私怨、逆恨みで自分に殴りかかって酔狂な貴族に売り飛ばす予定だったとペラペラしゃべっていた。

 背後関係を洗い出すため、騎士団が大掛かりに動いているのだとしたらジェイクもそれに巻き込まれているのではないか。

 むしろ陣頭指揮を執るべき状態なのかもしれない。


 数日間、欠席したって何もおかしくない。


 そう思い至ると少しだけ、ホッとした。


 早く会えたらいいのに。

 元気な姿で、普通に話が出来る。

 それだけで良い。


 ――先週までの有り触れた変わり映えのない、でも幸せな日常。

   些細で当たり前の日々を神様に願いそうな自分に気づき、柄でもないと自嘲する。



 そんなとき、部屋にノック音が響き渡る。

 思いがけないことに、寮監から呼び出しを受けたのだ。


 リゼのお客さんということだが、何故かグリムが自分に用があると訪ねてきたらしい。

 

 グリムって、あのグリムだろう。

 ジェイクの義弟で、自分の命の恩人だ。


 そう言えば、グリムにちゃんとお礼を言っていなかったことをここにきてようやく思い出した。

 自分は騎士団によって保護され、心身ともに大変良好な状態である。


 あんな目に遭っても五体満足でいられたのは、自分の捜索が尋常ではなく早かったお陰である。

 グリムはあの日、リゼの後をこっそりついて見守ってくれていたというではないか。


 路地裏に引っ張り込まれたリゼは、ガツンと頭を殴られ意識を失った。

 誰にも気づかれず騒ぎになっていなかったら、自分が行方不明だということもしばらく気づかれなかっただろう。

 だがグリムがその一部始終を目撃してくれていたお陰で、リゼは窮地から救われたのだ。


 しかもグリムは自分を助けようとしてくれたそうだ。

 発作に襲われ動くこともままならない状態に陥り、それは叶わなかったとか。


 素直にグリムに寮まで送ってもらえば、あんな事態は防げたのだろうかと思うと二重の意味で申し訳ない気持ちで一杯である。

 グリムは学年が違うし、選択講義も重ならない。

 偶然すれ違ってお礼を言うタイミングなどそうそうあるはずもなく今に到る。


 しかし義理はちゃんと果たすべきだった。

 自分はこの通り無事だし、ありがとう、とちゃんと正面からお礼を言うのが筋というものだ。

 それまで彼自身にあまり良い印象を抱いていなかったことは、後回しにして良い理由にはならない。


 



 ※


 




「お待たせしました。

 こちらが地図、旅装、そして数日分の路銀です。

 ああ、それと夕食を食べる時間もなかったので……パンも入れておきますね」


 銀髪の絶世の美少年が、リゼの前に荷を並べている光景は――まるで現実感がなく。

 夢なら早く醒めて欲しいと思ったが、いくら頬を抓っても瞼をぎゅっと閉じても場面は暗転することがない。


 現実なんだ、と。

 リゼの心臓が再度大きく脈打った。


 アレクと名乗ったこの少年は何と亡くなったはずの王子の実の弟。

 クローレス王国第二王子だと聞いた瞬間、吃驚し過ぎて文字どおり絶句した。

 彼がどうしてカサンドラの義弟になったのかという経緯まで聞かされ、もう頭の中に情報が入り乱れて大洪水状態だ。


 大きな革袋の中に、互いに確認しながら荷を詰めていく。


「馬で駆けても丸二日はかかるでしょう。

 緊急事態ですが、必ず町に立ち寄り宿をとって休んでください。

 野宿など以ての外ですよ。

 それと、僕のもので申し訳ありませんが、剣と……

 貴女は魔法が使えると聞きましたから、精霊石も持って行ってください」


「ありがとうございます」


 淡々と出立の支度を進めるアレクを見ていると、僅かでも揺るぐような姿を見せられないとリゼは唇を噛み締めた。

 カサンドラ達の話を完全に信じられるかと言えば――信じたくないと言ったはいいが、ほぼほぼ、そうなのだろうと信じざるを得なかった。

 あのメンバーで自分達を欺いて嘘をつきからかう理由などどこにもない。


 真実……?

 彼女達が語ってくれた『この世界』の在り様が、本当だと言うの?


 物語の世界……?

 同じ時間を、繰り返している……?

 俄かには納得しがたい話だった。


 だが他ならぬ王子やカサンドラ、そしてリナの言う事だ。

 少なくとも彼女達はそれが真実だと思っているし、その情報が正しければこの世界は二年後に『時間が戻る』ことになる。


 話の流れは不鮮明で、分かりづらかった。

 どうすれば問題が解決するのかさえ、分からない。


 出口が在るのかないのかさえ判断できない巨大な迷路の中に引き込まれたような気持ちである。


 だが、疑って様子を伺う状況でもないことは確かだ。

 物語通りの出来事が生じるというなら……

 ジェイクの目の前で、友人アンディが殺されてしまうことになる。


 そんなのは嫌だ。

 彼が悲しむのは嫌。


 事件を起こした発端が『王子』ということになれば、あれだけ仲が良かった王子と敵対する未来が待ち受けている――らしい。

 そんな荒唐無稽な物語を実現させるため、アンディが奸計の犠牲になっていいわけがない。


 自分と話をしたことがある、身近な人が死んでしまうかもしれない。

 それはリゼに途轍もない焦燥感を齎した。


「本当に大丈夫ですか? 姉上や僕の話を信じて――

 ティルサへ駆け付けてくれますか?」


 こちらの戸惑いを見透かすように、アレクはじっとリゼを見据える。


 出立のための荷を用意すると言って連れられた小部屋は、ランタンの明かりがともる少し埃っぽい部屋だ。


 馬や荷などは、レンドール家が雇う伝令役が普段使用しているものを使わせてもらうことになった。

 報せをレンドールの本家に伝える非常事態用に、早馬はいつでも使える状態にしてあるそうだ。

 駿馬で、なおかつ結構気性が荒い馬だとアレクは言った。


 小部屋の外から鼻息荒く地面を蹄で蹴る音が、微かに聴こえる。




「昼夜問わず馬で駆けるって、言う程楽じゃないですよ?

 貴女に堪えられますか?」



 乗馬の指導を受け始めたのは数か月前だ、年季が入っているとは言い難い。

 ジェイクと遠乗りに行けるほどにはなったが、なりふり構わず一直線に目的地まで向かって馬を飛ばす――

 というのは勿論初めての経験である。


 アレクは何度もこちらの決意の程や、覚悟を確かめて来る。

 彼にとって、いや、自分達にとってこの救援が上手くいくかどうかで”未来が変わる”かもしれないという岐路に立たされている。


 リゼが生半可な気持ちで事に臨むというのであれば、己の身の危険など省みずに代わりに行こうという強い意志があるからだ。

 その静かな圧力に気圧されるわけにはいかず、リゼは荷物を詰めた革袋の口を、ぎゅっと紐で固く結びあげる。



 世界がどうあろうと。

 自分が何だろうと。


 想いは一つだ。



「勿論!

 ……ジェイク様に会えるんですから、平気です」


 

 このまま何日も、彼が帰って来るのを待ち続けるだけなんて真っ平御免だ。



 何のために剣を習ってきた? 馬で駆ける訓練をしてきた?

 それは全て彼の傍にいたいからだ、役に立ちたいと思ったからだ。


 同じ景色を肩で並べて見たい! そうと強く強く望んだからだ。

 助けられ、頼るだけの自分でいるのが嫌だったからだ。


 




   ジェイクが好きだからだ。

 




「火の中だって水の中だって迷わず行きますよ。

 馬に乗って行けるだけ、全然マシですね」




 すると彼は鳩が豆鉄砲を食らったような面食らった顔をする。

 王子と同じ蒼い双眸、でも兄よりは大き目のそれを瞠って若干身体を仰け反らせた。


 ややあって、少年は苦笑いを浮かべる。





「そうですね。

 貴女に望みを託して良いですか?


 ――僕は……違う未来を知りたいです」





 まだまだ、分からない事や全容が解明できていないと王子達は焦っている。

 実際に事態が動き出し、こんなにも早く危機が訪れるということは予想外のことだった、とも。


 先ほどカサンドラに思ったままの事を伝えたが、他にも突っ込んで聞いてみたいことは沢山、山積みだ。

 残念ながらそれらを確認して話し合う時間的猶予はない。


 でも全てはアンディが無事に帰って来てからの話だ。


 この世界に王子を『悪役』にしようとする存在がいるのであれば、思い通りにさせるわけにはいかない。








 レンドール家の茶色の馬を一頭借りた。

 カサンドラ達に出発の挨拶をしたいと思ったが、急いでジェイク達の後を追わなければ間に合わなくなる恐れがある。

 一分の差で間に合わないなんて事になったら目も当てられない。


「この時間ですし、街の外門から出ようとすれば兵士に引き留められるかもしれませんね。

 警備も厳重になっているでしょうし、不審な行動をとらないように気をつけてください」


 王立学園の貴族子女たちに向けて、あのような警告をしたということは……

 かなり神経を尖らせる状態なのだろう。


 皆怖がってしまったし、王都から出ようという生徒はいないはずだ。

 未だ詳細が不明、犯人が分からない。

 犯人が街の中に入って来たら大変なことだ、当然王都に入る人間はかなり警戒されているに違いない。


「一般人の街への出入りは禁止されていませんよね?」


「ええ。ただ、入って来る人間についてはかなり厳しいチェックがあるとは聞きました」


「了解しました」


 王都から出る分には、身分の保証も必要なさそうか?


 だが曲がりなりにも女の子が一人、馬に乗って王都を発つのは不自然に映るかもしれない。

 変に目をつけられても困る、レンドール家の手の者だと思われ上に報告されては迷惑がかかる可能性も考えられなくはないのだ。

 夜にさしかかる時間、慌てて街を飛び出す理由―― 

 

 衛兵にひき留められたら田舎で親が重病と言う報せを受けたとでも言って、駆け抜けてしまおう。出て行く分には大丈夫……と、思いたい。


 


 王都に戻って来る時は騎士団と一緒だ、帰りの心配はしない。






 ※





 馬に乗ろうとしても振り落とされた。

 上手く乗れなかった。

 こっちの言うことをちっとも聞いてくれないと苛立っていたのは、一年前だった。


 


 ひらりと馬に跨ったリゼは今、赤い手綱を強く握っている。

 鞍の側面に革袋をしっかりと固定し、リゼは「どうどう」と馬の背面から長い首を撫でてやる。

 

 努力は裏切らない。

 今まで積んできた経験は、決して無駄ではない。



 ほんの数時間前までは寮にいたのに、こうも状況は変わるのか。

 グリムにカサンドラの屋敷へ三人で来るように指示を受けた時は意味が分からなかったが、更に意味が分からない事態に陥るとは思わなかった。


 もう平和な日常は帰ってこないのかと悔しく思ったが、すぐに首を横に振る。



 

 失われた日常を再び手にするために、これから動くのだ。





「カサンドラ様方に、宜しくお伝えください」


「どうか……気をつけて」


 屋敷の門まで付き添ってくれたアレクが眉根を寄せ、そう呟いた。

 月明かりの射し始めた薄暗がりの中、神妙な顔だ。


 


「あ、アレク様!

 それともう一つ! お願いします」



 ぎゅーっと手綱を牽いて、一度足踏みさせる。





「リナに――私が文句言ってたって伝えておいてくれませんか!?

 『なんでもっと早く、話してくれなかったの!』って!」

 





  我ながら無茶な言い分だとは、自覚している。





     さあ、こう。

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