第421話 いっしょに


 しばらく肩を震わせて嗚咽を漏らしていたリナ。


 彼女が自分から言い出してくれるのを待つ以外にはないと、彼女が泣き止むまでじっと待っているつもりであった。

 だが思ったより早く、彼女は己の袖口できゅっと両目を擦って涙を振り払う。


 まだ目の周囲は真っ赤に腫れていたが、いつまでも泣いている場合ではないと彼女自身が一番よく分かっているのだろう。

 互いの経験、記憶、考え。

 それは言葉にすることでしか相手に伝える事が出来ないものだった。


 いくら推測をしたとしても、所詮は自分の思考フィルタを通したものの見方でしかない。

 どれだけ正確に言葉を操ろうとも認識に齟齬が生じ、誤解が生まれるケースは多々あるのだ。

 完全に相手を理解することなど出来はしない。


 でも理解してもらおうと言葉にしなければ、その先に進むことは出来ない。

 分かってもらえないだろう、と言葉を引っ込めてしまうことで相手に分かってもらう機会を、自分達はずっと見失っていたのだ。



「話を聞いて頂けるのですね」


「勿論です」


 リナは一度両目を瞑る。

 勇気を振り絞るように、何度か逡巡した後。

 ゆっくりを瞼を開けて縋るような視線でカサンドラを見つめてきた。



「私は……入学式の日から。

 学園生活を何度も繰り返しているようだと、気づいていました」


 リナが言葉を選びながら、慎重に声を出す。

 何度も視線を左右に振って言い淀みながら。


 ”繰り返し”という単語はカサンドラにとっては、いやこの世界にとってのキーワードだと思っている。

 だから彼女から言われた時には、少なからずホッとできるくらいだ。


「……繰り返している……」


 もしも自分が何も知らない一般人だと信じて過ごしていたら、彼女の意を決した告白に戸惑うしかかなっただろうが。


「ですが、はっきりとした記憶はありません。

 繰り返しているのだろう、という程度です。

 誰かに確信を持って相談できる状況ではありませんでした」


 リナの言葉を脳内でもう一度噛み砕く。

 同じ時間軸に巻き戻って繰り返していると証言したアレクの場合とは少々勝手が違うようだ。


「はっきりとした記憶がないのに、繰り返していると気づいたのは何故ですか?」


 少なくともアレクは、何度も体験した過去の記憶を引き継いでいるようだった。

 何度もカサンドラが追放され、王子が悪魔になって倒される――そんな世界が嫌だと思った。

 その願いが神に通じたのか何なのか、異世界から『自分』の意識が召喚されたというわけらしいが。

 生憎、カサンドラは超常現象に対して全くの無力である。

 魔法の才能もなく、アレクは希望を抱いてくれているもののとても期待に応えられる展望は見えてこない。


「……既視感、です。

 これは説明することが、とても難しいのですが……」


 遠慮がちに彼女は自分の身に起こった、通常とは違う感覚について教えてくれた。

 初めて経験することなのに、どこかでそれを行った事がある、見たことがあるというデジャヴュにいたるところで襲われるのだという。

 まるで過去の自分の足跡を知らない内に何度も辿っているような気持ちだったと述懐する。


 過去に体験したことがあることなのでは?

 そんな既視感を通し、自分が延々とこの学園生活を繰り返しているのではないかという推測に至ったのだとか。


「そうだったのですね……」


 カサンドラは思わず大きく頷いてしまった。


 彼女は”主人公”だ。

 しかし基となるゲームには、引継ぎ要素がない。

 パラメータを強化してニューゲームというコンテンツはなく、エンディングを迎えて周回を開始する時には全て初期値に戻る。

 当然物語もイベントも初期化した状態で物語のスタートを迎えることになる。


 その周回が、主人公にとって初めての学園生活なのだ。

 別のセーブデータや前周回の記憶を思い出しながら進めるわけではない。

 だが、既視感……か。

 三年間、起こるイベントはあらかじめ決まっている。

 いくらイベントの多さや文章フレーバー差分が売りでも、何周もすれば同じイベントを幾度も体験することになるだろう。


 完全に白紙に戻るべき記憶が、何度も繰り返しやり直している内に消去効果に漏れや薄れが出てしまったのか。

 ――エラーと呼んでもいいのかもしれない。


 生物の進化の過程だって特異体質だの突然変異だの、予期せぬ結果が生じる事はあるのだ。

 やり直しの過程で世界が想定していないアクシデントが起こることもあるのではないか?


 それが――完全にリセットされず、リナの体に薄く残った”既視感”という感覚なのではないだろうか。

 もしも完全に消去され、白紙の状況で延々とやり直すならある意味リナは幸せだったのだろう。




 何度も何度も三年間をやり直し続けているのでは、と気づいた途端……

 怖くなるはずだ。




「……不思議な事に、カサンドラ様に対し、私はそんな気持ちを持ったことがありませんでした。

 リタや、リゼに対しても……。

 とても嬉しかったし、毎日楽しかったです。

 私は……

 今まで経験したことがないのだろう、この世界がなくなってしまうのではないかと、ずっと、ずっと怖かったです」


 カサンドラには既視感を抱かなかったというなら、確かに彼女の感覚は本物だ。

 自分は本来の悪役令嬢カサンドラではない。

 異世界から記憶だけを持って喚び出され、性格や考え方まで変わりすっかり別人になってしまった。


 カサンドラはカサンドラで、原作の通りに物語を進めるわけにはいかないと一年過ごしてきたわけだ。

 魂が覚えてしまう程幾度も繰り返した世界の中で、カサンドラが新鮮で異端な存在に感じたのは無理のない話である。


「私は、カサンドラ様は皆と何かが違うのではないか? と、ずっと感じていました。

 もしかしたら、私の話を信じてくれるのではないかと」


 彼女が言う話を辿ると、カサンドラやアレクと違ってストーリーそのものは先が見通せないようだ。

 かなり中途半端な繰り返し状態らしい。

 それは生殺し状態に近い、とカサンドラは想像して胸が痛んだ。


 何かを成し遂げても、初めての気がしない。

 いつかどこかで経験したような想い、感情、景色、反応ばかり。

 それは――心が折れる。


 しかも繰り返しているのではと疑いを持てば、当然どこかの段階で今の経験も全て一旦忘れて強制的にやり直しになるのだと自覚してしまうわけで。

 先が見えないことだけは分かってしまう、逃げ出すこともできないなんて、想像を絶する閉塞感溢れる世界ではないか。


「リナさん……」


 いつも優しく、笑顔で努力家の彼女が。

 にこにこ微笑んでいるその裏側で、判然としない未来にいつも脅かされていたなんて想像もしていなかった。




   先が見たい、と嘗てリナは言った。

 



 そういう状況なら皆で一緒に未来に行きたいと強く願うはずだ。

 自分自身の将来のことではなく、この世界を彼女は続けて歩いていきたかったのだと漸く理解できた気がした。


 王子、アレク、リナ。

 パッと外側から見ただけでは、抱えている事情を知ることなど出来なかった。

 誰にも言えない記憶を持っていて、この先が破滅しかないのではないかと絶望をしていた自分を思い出すと……

 思い込みが激しかったなぁ、と反省せざるを得なかった。

 世界を越えて”転生した”自分がいるとしたら、他に同じような信じられない境遇に置かれている人が他にもいるのはおかしな話ではない。


 もう少し注意深くアンテナを張っていたら、悩みを言い合うことがもっと早くできたのだろうか。

 チラッとそんな想像が脳裏を過ぎったが、まぁ、無理だろうなとも思う。

 信じてくれる、信じたい、という強い信頼関係があってこそ出せた勇気だから。


 回り道のように思えても、この一年は決して無駄なんかではない、自分達にとって必要な時間だったのだと思いたい。



「一人で悩むのは、もう嫌でした。

 ですが、ただ私が同じ時間を繰り返しているなんて言い出しても、何の根拠もありません。

 相談したところでカサンドラ様もお困りになるのではないかと思ったのです。」


 リナにとって自分はとても不思議な存在だった。

 カサンドラとは周回ごとに当たり前に顔を合わせ、いじめられたり意地悪をされるはずなのに、こんなことが以前あったなぁ、という既視感を抱くケースがなかった。


 王宮植物園に行ったり、お茶会に呼ばれたり、避暑地の別荘に呼ばれたり……


 元々ゲームの中に無かった出来事は、リナにとってとても楽しい事だったのだと強い主張を受けた。

 何をしていても過去の自分もやってきたことでしょう、とがっかりすることがない真っ新な世界は彼女にとっての希望。


 カサンドラが何とか王子のことを知りたくて、打ち明けて欲しくて右往左往していた期間、王子だけではなく彼女にも影響が及んでいたのだなぁ、と面食らった。


「先走って、前世を信じますか、とか。

 ちょっと変な子みたいな話をしてしまったり」


 リナが恥ずかしそうに俯いて、小さく呟いた。

 膝の上に置いた両手の指を動かすリナの姿に、そう言えば最近そんな質問をリナから受けて吃驚したことがあったとシーンが蘇る。

 自分を信用してくれて相談してくれようとした機会を、カサンドラは驚いて気のせいだと思い込もうと深く考えなかった。

 精一杯のSOSをみすみす見逃していた、ということか。


「私は――いっそ、全部忘れてしまいたかったんです。

 既視感を覚えるから、がっかりするしまたやり直すのだと思って辛かったので。

 ……でも、自分がこんな状況だと説明するのに感覚だけを話しても誰にも信用してもらえないですよね。

 だから、逆に思い出そうとしたのです。

 この先に起こる事を思い出して、それを言い当てれば証拠になるんじゃないかって……」


 リナの表情が大きく翳った。

 言葉にすることで、今までの自分の想いを振り返っている。

 彼女の想いの変遷を知ることが出来て、カサンドラは話の妨げにならない程度の相槌を打ちながら聞いている。



「勿論そんなに都合よく思い出せなかったです。

 何度か試してみても全然駄目で。でも諦められなくて。

 でも……あの日……

 過去に自分が見てきた色んな光景を、初めて目の当たりにしたのです」



 リナが目を醒まさない。


 心配したリタと一緒に女子寮のリナの部屋へと向かったのは週明けの一昨日の話だ。

 どうやら彼女の話は、いよいよ現状に迫ってきているらしい。


 なかなか把握しづらかったが、記憶の「窓」という表現で何となくそれがスチルのような思い出が彼女の中に刻まれているのか、残っているのか、と唸った。


 セーブデータ、いや一周ごとに真っ新な初期値の主人公から開始するゲームだが、システムデータの中にそれ以前のプレイで見た一枚絵スチルやエンディングなどは残る。

 それを過去の自分はスチル回収と呼んだりしていたが、彼女はそれを見つけてしまった……ということか。

 まさか本当にゲームデータの中に自分達は住んでいるのか?




 ……いや、そうであれば起こるシナリオやイベント、会話の内容もロボットのように全く同じものをなぞるだけのはず。

 以前にもカサンドラは、イベントは主旨さえ外れていなければ良いアバウトなものだなぁ、と感じたことがある。

 実際にこの世界は、生きている。


 同じことをそのまま機械的に繰り返すだけではなく――

 目の前にいるリナが既視感に悩み、原作にいなかったアレクが逆行体験に心を蝕まれていたように、確かに皆自我を持ち、悩み、生きている・・・・・


 ゲームを忠実に再現する世界……それも実現を可能にするための設定を無数に生み出してまで。

 それって誰が何の目的で作った世界なんだろう。





「漂い浮かぶ記憶の中、私は聖女と呼ばれる存在になっていました」



 震える彼女の声に、思考を一旦止めて表情を引き締める。

 血を吐くような訴えだった。

 聖女に覚醒していない段階で自覚できるとは思えない、そこまで分かっているということは――

 元から疑ってはいなかったが、本当に彼女は未来に起こることを知ってしまったのだ。



「隊商が襲われて、それから皆、悲しい想いをして……

 ……王子が、王子が……」




「リナさん、言葉にすることが辛いのであれば、それ以上は大丈夫です。

 ええ、わたくしもその先を知っています」




「………私、信じられなくて。

 でも、あれが本当なら、カサンドラ様が危険だって思って……」




 虚を突かれ、目を瞠った。

 彼が絶対にこの実行犯ではないと信じているカサンドラに浮かばなかった発想である。


 自分も悪役側として一まとめにされて避けられるだろうと思っていたが、まさかカサンドラの身を案じて警告をされるとは。

 今日彼女が自分に決死の覚悟で話しかけてきたのは、全て王子のたくらみだから”逃げて欲しい”と言いたかったから……。



 勿論王子は潔白であると信じている。

 だが――


 こんな状況に置かれ、未来を知って途方に暮れ状況でも自分のことを案じてもらえたという事実に、心が大きく揺さぶられる。



 敵と見做されるどころか、彼女にとって『カサンドラ』は助けるに値する人間だったのだ。





「わたくしの事を心配して下さってありがとうございます」



「突拍子もない話ですよね。

 ……信じてもらえますか?」


 自分の話を、脈絡も整合性もない話だとリナは恥じ入る。

 だけどカサンドラがそれを信じないということこそ、ありえない話だ。むしろ何より聞きたかった話ではないだろうか。


 

 事情を知っているかさえ分からないカサンドラに思わず助けを求めてしまうくらい怖くても。

 未来を知り、第一に自分の事を心配してくれたリナの優しさが身に沁みる。




「今まで不思議な現象に襲われて辛かったですね。

 大丈夫です、リナさんだけではありません。

 話して下さってありがとうございます」



 昨日、自分は王子に話を全面的に信用してもらえた。

 とても救われた。

 一人じゃないと想えたことが、何より嬉しかった。



 俯き加減で、頼りなく。

 身体を縮こませ、”未来なにか”に怯えるリナの姿は昨日の自分そのものではないか。


 彼の行動を倣うという意識は無かったが、なるほど、ごく自然に体が動く。



 自分も迷子であることには変わりはないが、暗い森の奥で途方に暮れてしくしく泣いて蹲っている子がいたら、手を差し伸べずにはいられない。




 彼女に歩み寄り、白い両手をぎゅっと掴んだ。




 血の通うぬくもり。肌を伝う体温を彼女と分かち合うように。


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