第420話 <リナ>
『――この世界諸共、全部なくなってしまえばいい!』
リナの”記憶”にある、おぞましい異形。
それは目を背けずにはいられない、人間だったものの成れの果てだった。
彼を中心に世界が暗く歪み、天上には厚く昏い雲が覆う。
彼の最期に放った言葉通り、その闇の力は全てを呑み込んでいこうとした。
その暗黒に染まる世界の中、唯一光輝いているのは自分の手に在る聖なる
いくら悪しき者に操られていたとは言え、彼が大勢の人を苦しめたのだ。
片手では到底足りない、罪もない人たちが死に至らしめられた。
彼はラルフの姉を死なせ、これ以上なく彼を苦しめたのだ。
ラルフだけではなく、他にも彼によって大切な人を奪われた人は沢山ある。
この理不尽と言う名の
放置すれば、この大地は闇に呑み込まれてしまうだろう。
至る所を魔物が跋扈し、人が怯えて暮らす世界になってしまう。
それだけは嫌だった。
だから、リナは――
背中から禍々しい一対の蝙蝠が如き羽根を生やす、元は人間であった”彼”を剣で凪いだ。
呆然と立ち尽くす。
崩れ、灰燼と化し散っていく『悪魔』の姿をリナは見送った。
カラン、と乾いた音が大地に響く。
赤黒い血の結晶が地面に空しく転がった。
見るのさえおぞましい黒きオーラを纏う”それ”が、悪魔の核?
リナの手によって、この世ならざる異形の魔物は再び深い深い眠りに堕ちていく。
※
そんな光景を見たのは、一度の記憶だけではなかった。
傍には決まってラルフがいて。
変わり果てた友人と相対する彼の哀しみや戸惑いが、遠くから見ている”自分”にも伝わってくる。
何故彼が――そんなにこの世界に恨みがあったのか、悲しい事があったのか。
気持ちや真実を知ることも儘ならず、彼は国中に傷跡や爪痕を残して消えていく。
頭がズキズキと痛かった。
ただの夢だと切って捨てる事など出来ない、生々しいイメージに捕らわれる。
何時間もずっと自分が過去に体験しただろう出来事を、外側からずっと延々と眺め続けていた。
四角い窓の向こう、浮かんでは消え現れては消えていく思い出の欠片たち。
それがリナの周囲をぐるぐると旋回し、螺旋を描いて意識を撹拌していく。
夢から醒め現実に意識が戻れたのは奇跡だと、今になって恐ろしさを感じる。
あのまま永遠に記憶の部屋に閉じ込められたまま、出てこれないのではないかと恐怖が過ぎっていたから。
王子が大勢の人を不幸に陥れ、王国を滅ぼす。
はは、何かの悪い冗談?
実際に今までの自分が目の当たりにしたという事実に戦慄を覚えずにはいられなかった。
なんであんなに良い人が?
――人は見かけによらないというし、表面上はニコニコしていても裏で何を考えているのか分からない人などこの世にいくらでもいる。
王国の民のことを第一に考えると嘯くのと同時に、そんなに恨みを抱えて滅したがっていたのかと想像すると豹変ぶりが恐ろしい。
もはや何を信じればいいのか、とリナは途方に暮れた。
また、そんな恐ろしい事実を知ってしまった自分はどうすればいいのか……とも。
あの記憶が夢でなければ、きっと同じことがこの現実でも起こってしまうのだろう。
しかし、過去の夢から目覚めた段階では俄かには信じがたい話だった。
いくら記憶に残っているとは言え、あの王子が何故?
特に今回、リナは王子と今までとは比べ物にならない頻度で接触があったと思う。
どのシーンを思い返しても、呪いごとを吐き捨てるような人間には見えなかったし、半信半疑だ。
きっとこの世界の王子はそんな事をしないんだ。
既視感の少ないこの世界は新しい未来へと繋がっているから、今までの過去とは違うに決まってる。
混乱しながらも、リナはそんな可能性に一縷の望みを託していた。
この世界は記憶に残されているどの世界とも在り様が違う。
自分が三つ子であった時など、一度もなかった。
カサンドラが、あんなに優しい人だった世界は無かった。
この世界は違う。
……何かが影響し、王子の行動も変わっているに違いない!
そんな希望に縋って、リナはいつも通りの日常に戻ろうと決意した。
カサンドラに対しよそよそしい態度をとってしまったことはわだかまりとして残っているが、今まで通りに接しよう。
自分が望んでこじ開けた記憶の箱を、リナは懸命に鍵をかけて沈めようとした。
あれは悪い夢だった。
あまりにも悲惨な出来事ばかり繰り返し、それに堪えられなかったリナはあの不条理な世界から抜け出した。
自分は、今までとは違う世界に来ることが出来たのではないか?
王子が悪魔だとか、自分が聖女だとか、そんなわけのわからない世界にいるのが、自分はとても嫌だったのだ。
どういう力が働いたのかはわからないが、記憶を封じてもう一度幸せな人生を送り直すため、リナはここにいる。
ああ、きっとそうだ。
自分はどうやら、記憶によれば聖女だったらしい。
――きっと、その奇跡の力を使って世界を飛んだんだ。
嫌な事がない世界にいきたい、と。
ここはそんな自分が願った世界で、もう悪いことは起こらないんだ。
そうに違いないと自分を鼓舞し、学園に辿り着いた。
だがそんなリナの心を木っ端みじんに打ち砕く、残酷な報せが担任により告げられてしまったのだ。
『先日、王都に向かって発っていた隊商がなにものかに襲われたということだ』
頭を横からガツンと殴られたような大きな衝撃がリナを襲った。
全身が
教壇の前で眉を顰めて難しい顔をする王子の横顔を、まんじりともせず凝視した。
凍り付いたように動けず、身体は冷えて指先の感覚がない。
息継ぎに喘ぎ、浅い呼吸を繰り返す。
そんな、まさか。
悪魔にとりつかれた王子が凶行に走って――
これから多くの人を傷つけ始めるの?
大変な事だ、心配だ、困った、という顔をして。
王子が裏で各地を混乱に陥れ、魔物に人間を捧げようと考えているのかと思うととても正気ではいられなかった。
しかもそんな事を知っているのはリナだけなのだ。
彼が凶行に走るなら自分が止めなければいけない。
でも……
自分が”力”に目覚める前に、悲しむ人が沢山出てしまう。
でも何の力もない今、彼に対峙したところで嬲り殺されるのが関の山。
この学園、王国で絶大な信頼を得ている彼を今、諸悪の根源、この事件の犯人だと糾弾したところで信じてもらえるはずもなく。
「……知らなければよかった」
リナはその日、寮の部屋で一人膝を抱えて泣いていた。
自分の過去の記憶を掘り起こすような真似をしなければこの先に起こる信じられない出来事も知らないままでいれたのに。
既視感を覚えることは辛かったが、でも先を知らないでられる分、全然マシだった。
もしかしたら記憶が既視感で留まっていたのは、自分の心を守るギリギリの防衛本能が働いていたからなのかもしれない。
未来を知っていること程、それが避けがたい未来である程、苦しいことはない。
絶望の高波がリナを襲う。
怖い。
……嫌だよ。
なんで王子が?
なんで自分が?
知ったところで、今の自分になすすべもない。
誰にも分かってもらえない!
誰にも助けてもらえない。
理解されない。
一人ぼっち。
……独りきり…………
周囲全部が闇に覆われようとしていた時、リナの脳裏に一人の女性の姿が思い浮かんだ。
それはこの世界で、リナにとって一際異彩を放つ人物であった。
「カサンドラ様……。」
リナは寮の部屋、寝台の上でふかふかのクッションを抱きかかえている。
ぎゅっと抱きしめたままのせいで、四角いクッションは窮屈そうに形を変えて。
涙の染みがいくつもの黒い影をクッションの布に作っていた。
彼女だけは、最初から全然違った。
姉達の存在よりも、ある意味で彼女は不可思議で違和感のある存在だったと思う。
急に何もない所から出現したとしか思えないリゼやリタ達。
しかし、記憶の中に意地悪で高慢で、まさに邪魔や嫌がらせをするばかりの悪役であった彼女が……
確かに外見こそそのままだが、中身はまるで別人のようであった。
リナは彼女を一見した時、既視感を感じなかったことがとても不思議で。つい話しかけずにはいられなかったほど、興味を惹かれた。
……彼女の事がとても好きだ。
いつだって優しかったし、頼りになるクラスメイトであると同時に――
知らない世界を、喜びを、楽しみを与えてくれる存在であったから。
意地悪だなんてとんでもないと記憶を疑ってしまいたくなるくらい真逆の気質であろう。
記憶の中に残っていた彼女の姿と全く重ならず、『誰?』なんて聞いてしまったことを今でも悔やんでいる。
過去なんかどうでもいい。
今、目の前にいる彼女こそが本当のカサンドラであり、自分が大好きな人であるということに全く変わりはないというのに。
もしも王子がこの先『悪魔』と化してしまうのなら、カサンドラが一番危険だ。
いつも彼の傍にいるし、何かの拍子に彼の悪行を目の当たりにして危害を加えられてしまうかもしれない。
もしかしたら巻き添えを食って、カサンドラに良くないことが起こるかもしれない。
この先の未来を知っているリナにとって、最も抜き差しならない憂慮する事項は、カサンドラを王子から遠ざけることであった。
例えカサンドラの不興を買おうが、怒られようが、嫌われてしまおうが。
彼女をこの先にある不幸から助けるべきだと、リナはそう決意したのだ。
折角この世界で初めて友人になれたカサンドラが、婚約者の手によって不幸になってしまうのは耐え難いことである。
例え信じてもらえなくても良いではないか。
婚約者を侮辱するなと怒られても良い。
自分に出来る事は、自分の知る限りの真実を伝えてカサンドラを守ること、それだけだ。
今の自分に世界を救える力なんてないけれど、だからと言ってみすみす大切な人を不幸になるのを指をくわえて見て良いはずがない。
彼女は思慮深い女性だ。
リナの言葉をすぐに信じてくれなくても、鵜呑みにはしなくとも。一蹴して省みない――という、狭量な女性ではない。
こちらの忠告に貸してくれる耳を持っている、とリナは仄かな期待を抱いていた。
膝を抱えて泣いている場合ではない。
言いづらい事で、信じてもらえない事かも知れないけれど。
自分しか彼女を救えないのだと思うと、悠長におろおろしている場合ではないと奮い立たずにはいられなかった。
例え世界が閉ざされていて、繰り返していて
全ての思い出を忘れて やり直すことになるとしても
神様に無駄だ無意味だと嘲笑われようとも
彼女が不幸になる姿だけは、見たくないと思った。
※
カサンドラと話をするのは、いつも楽しい。
だけどこの日は示し合わせたかのように過去の話ばかりを振り返って、胸が詰まった。
彼女と話をしていると、何だか不思議な気持ちになる。
まるで……
まるで、彼女は。
全てを、この先を、知っているのではないか? と。
そんなありえない錯覚に襲われ、視界がぼやける。
自分にとってそんなに都合の良い話があるはずがないのに。
未来を知ることが出来たのは、自分が過去の記憶を”掘り起こした”からだ。
今まで感じていた既視感の正体を知り、そして繰り返す世界の謎を解き明かし、この先の未来へ皆で進みたかった。
もう駄目だ。もう遅い。
王子がこの世界を滅ぼそうとしてしまうのなら、今のまま、皆で幸せな未来なんてありはしない。
苦しい。
先を知っている自分が、彼女を救わないと、と思ってここに座っているのに。
カサンドラを助けたいという決意のもとに無理を言って家まで押し掛けたのに。
彼女の何もかも見通すような、綺麗な翠色の双眸を前に言葉がつっかえて、伝えたい言葉が全く出てこなかった。
王子の傍から逃げて。
危険だから。
貴女が巻き込まれて酷い目に遭ってしまう前に――
でも本当に自分がカサンドラに訴えたいことは、”それ”なのだろうか。
真実、カサンドラは今、助けが必要な危険な状態なのだろうか。
彼女は王子に全幅の信頼を寄せ、そして王子もカサンドラのことをとても大切にしているように見える。
記憶の中のどこにも見たことがないくらい、王子はとても毎日幸せそうだし楽しそうだった。
何を考えているのか分からなかった、超然としていて掴みどころのない王子様ではない。
皆と何一つ変わらない、恋人を想う普通の人間らしい青年だ。
本当に、あの人が、全ての”元凶”なの?
分からない。
何を信じたらいいの。
何を拠り所にすればいいの。
「リナさん。気を楽にして下さいね。
わたくしは、貴女がどんなお話をされたとしても……
決して疑う事はありません。
お話になりたいことを、遠慮なく教えてください」
カサンドラの言葉が、罅割れて崩れ落ちそうな心に響く。
乾いた土に慈雨が降り注ぎ、一瞬で満たされていくように。
誰かにそう言って欲しかった。
”分かって”欲しかった。
自分の抱えている不安や悩みを、誰かに分かち合って欲しかった。
助けないといけないと思って勇気を出してここに来たのに。
カサンドラに悲しい想いをして欲しくなかったから、嫌われてでも王子から離れて欲しいと訴えたかったのに。
駄目だ。
そんな何もかも分かったように、優しく促されたら……
縋りたくなってしまう。
支えを欲してしまう。
自分が助けないといけないのに。
逆なのに。
「お願いします。
………助けてください……もう、耐えられません」
張りつめた糸がプツンと切れた。
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