第419話 混迷


 午後の選択授業中、カサンドラは生きた心地がしなかった。

 リナの真剣な表情が瞼の裏に常にチラついて離れない。


 講師の話など全く上の空状態で、一言も頭に入ってこない。


 カサンドラの内心の動揺がもしも形として頭上に出現したら大変な騒ぎになっていたであろう。

 心象風景が投影されることがなくて本当に良かったと、変なことに安堵する始末だ。



 リナから自分に行動を起こし接触を図る理由は、良い理由もあれば悪い理由、どちらも考えられることだった。



 事情を知って味方になってくれるのか?

 それとも物語通り、彼女は自分を敵側とみなすのか?


 リナによって回されたルーレット。

 その出目が赤か黒か、固唾をのんでハラハラと見守るしか出来ない。

 ぎこちない態度の彼女からは、果たして白い球がどこに落ちて止まるのか全く想像が出来なかった。






  彼女達にとって――長い、長い一日が始まる。








 ※



 構内に鐘の音が響き渡る。

 聞きなれた重厚な音は、講義の終わりを告げるものだ。

 重々しいけれど、今日一日の学園生活からの解放を告げる大多数の生徒にとっての福音でもあった。




 とうとう約束の放課後が訪れてしまった。

 時間と言うのは誰に対しても平等なものだということを痛感させられる。

 じりじりと胸が焦げ付くような焦燥感に心を焼かれ、カサンドラは下校する生徒達の動きに合わせてゆっくりと玄関ホールへと向かった。

 午後の選択講義の時にリナは一緒ではなかったが、下校時に全生徒が通過する玄関ホールにいれば彼女と会うことが出来るはずだ。


 話があるということは、きっと今の状況に関する事……なのだろうな。

 隊商襲撃の件の、追及?


 彼女がもしもこの先のストーリーを知っているとすれば、昨日報せがあった隊商襲撃の件は『王子がやったこと』と判断しているはずだ。

 もし自分が彼女の立場であったとしたら――実際に王子が悪魔と化して自分が聖なる剣で倒すことが視えている状態で。

 「怖い人」というイメージしか湧かないのではないか。


 王子が諸悪の根源と知ってしまったと仮定して、では何故リナは自分に接触を計ろうと思ったのだろう。

 王子当人の言葉ではないが、自分が事情を知っていることを知られることは怖いのと思わないのか?


 いたずらに企みを知っていることを知られるだけ。

 本当に王子やカサンドラが悪人なら、これ幸いと捕らえられ危険な存在として害されたり幽閉されるという危険リスクを冒していることになる。


 このままいけば自分が対峙するのだと分かっていて、カサンドラにする話って……



 リナの優しい笑顔が脳裏を過ぎる。

 彼女の穏健な性格を考えれば、当然剣を構えて戦うということに対して積極的にはなれないだろう。


 彼女は彼女なりに、王子の悪行を止めようとして直談判に来たのではないか?

 この先に起こる悲劇を回避したいのはリナもきっと同じ想いに違いない。


 いきなり王子に直訴することは出来ないので、伝手がある――というか悪役側のカサンドラに訴えて、今後起こる不幸な出来事を止めようとしているのだ。

 そうに違いない。


 自分にやや都合の良い考え方かも知れなかったが、リナがいきなり自分達が皆を苦しめる敵だからと糾弾するとは思えない。


 ……悲劇を回避したい想いが同じなら……

 話の進め方さえ誤らなければ、リナと協力できる可能性は十分にある。




 尤も、彼女の真意など実際に聞かなければ分からない事だ。

 ただ希望を抱くことができ、カサンドラの心にも少し余裕が生まれたのは事実である。


 それまでは走って逃げ出してしまおうかなんて信用をかなぐり捨てるような選択肢が浮かんでいたのだけれど。

 カサンドラは画面の向こう側の操作キャラではない、一緒に友人として過ごしてきた時間で、何倍も真に迫った彼女の姿を見てきたのだ。


 何故ここに至って急に彼女が先の出来事を知ってしまったのか、そもそも最初から知っていたのか――

 それは分からないけれど。


 彼女には何度も救われてきたし。

 最初に、自分に声を掛けてくれたリナの気遣う声を覚えている。

 体調が悪そうに見えるカサンドラ、第一印象で意地の悪そうな女生徒に見えただろう自分。

 地方貴族の分際で王子の婚約者になった自分への周囲の抱く微妙な空気感を無視して、普通に話しかけてくれた彼女。

 一年間、シリウスと近づきになるためにずっと勉強を頑張っていた。

 進級時に役員の推薦をもらえるまで努力を重ねたことをカサンドラは良く知っている。


 彼女のお陰でシンシアとも親しくなれた。

 性格上、癖の強いリゼや向こう見ずなところがあるリタ達の緩衝材的な役をこなす控えめなリナの姿が思い起こされる。



 そう言えば――

 リゼやリタとは、色んなところで会って来たし、個人的な話も良く行ってきた。

 恋愛事情も目に見えていたし、共有していた時間もそれなりに多かったと思う。


 でもリナ個人の事はあまり知らなかった。

 以前それで反省したが、もしかしたら彼女なりに思うところがあったのかも知れないな。


 

 自分が一年間、異世界から転移してきた人間だということを隠し通してきたように。

 王子が王宮において苦しい立場におかれ実母さえ殺され、実権の全てを三家に掌握され。人形か道具に過ぎないと暗い想いを抱えていたように。

 アレクがずっと、この世界を何度も繰り返し、望まない未来ばかりを体験してきたことが誰にも分からなかったように。


 皆それぞれ、胸に秘していたことがぐるぐると順に駆け巡る。

 言葉にしなければ決して正しく伝わることのない、背景事情があった。


 リナにそれが無かったと断定することは出来ない。

 そもそも彼女は”主人公”だ。

 カサンドラは何故自分が主人公に転生しなかったのかと最初は嘆いていたが、もしかしたら彼女こそ同じように転生してきた記憶を持っているのかもしれない。

 彼女なりに、王子を倒さないといけない未来を避けたくて陰ながら頑張っていたのかもしれないし。



 大丈夫だ、必要以上に怖がって構える必要はない。



「お待たせいたしました、リナさん」


 昼の時と比べ、カサンドラの表情に自然な笑みが浮かぶ。

 主人公だからとか、自分が物語上の悪役だからとか、そういう世界に勝手に決められた肩書はどうでもいい。


 目の前に立っているリナ本人と、彼女の友人の一人として話がしたいのだ。


「いえ、こちらこそお忙しいのに申し訳ありません」


 リナは鞄をぎゅっと抱きかかえ、何度も頭を下げた。


「カサンドラ様、ええと……厚かましいお願いなのですが」


「何でしょう」


「とても、話し辛いご相談がありまして……」


 彼女はもじもじと落ち着かない様子で、周囲を見渡す。

 下校時刻の玄関ホールは大勢の生徒が通過していく場所、当然ガヤガヤとしていて教室以上に騒々しい。


「リナさん。

 不都合がないのであれば、わたくしの家にいらして下さい」


「え!?

 ええと、それは凄く有難いお言葉ですが、本当に良いのですか!?」


 下校時に気軽にできる話ではない。

 カフェで顔を突き合わせて、という内容でもない。


 制服を着たまま神妙な顔で聖女がどうの悪魔がどうの、などと話を始めるのはあまりにもシュールな絵面である。

 第一誰かに聞かれてしまえば、どこに話が伝わるか分かったものではない。


 カサンドラの館は、中央の手が入っていない安全地帯だ。

 今のところは、だけど。


 人の出入りに関してはアレクや家令のフェルナンドが厳重にチェックしているだろうから、間諜が紛れ込んでいるということもないはずだ。

 父クラウスは人の雇用にはかなり敏感な人なので、別邸にはレンドールから仕えている使用人ばかりが揃っている。


 秘密の話をするには、何かと都合の良い場所なのかもしれない。



「勿論です、リナさんに再びご訪問頂けるのは嬉しいことです。

 一体いつ以来なのでしょう」


「……ありがとう、ございます……」


 リナはぐっと息を詰め。

 意を決したかのように、ゆっくりと大きく首を縦に振った。


 まぁ彼女からしたら、カサンドラがどういう対応に出るのか戦々恐々といったところかもしれないし。

 覚悟が必要なのだろう。







 下校時の並木道を通っている間、馬車に同乗して揺られている間。

 二人は他愛ない会話をして過ごした。


 互いに緊張していることは明白であったが、出来るだけ核心部分から離れるように軽い雑談を続ける。

 シンシアの描いてくれたドレスのデザイン画の話、生徒会の仕事の話、シリウスの話、リゼやリタの話。

 そしてどちらからともなく、入学当初の話に話題が及んだ。




 まるでお互いの学園生活の軌跡を同時に振り返っているかのようだった。

 あんなことがあった、こんなこともあった。

 去年の生誕祭の話、夏に訪れた避暑地ラズエナの話、収穫祭に行われたビュッフェの話。

 ――地方見聞研修の話――……


 とても楽しい毎日だった。

 忘れたくない思い出が沢山蘇っていく。


 このままずっと、今までのような日々が続くのだと何の根拠もないのに信じていた。





 車輪が軋みを上げ、速度が緩やかに落ちていく。



 やがて馬車が停まった。






 ※





 どうやらこの時間、アレクは出払っていて留守らしい。

 今日誰かを家に招待するなんて一言も話していないどころか、カサンドラでさえ予想していなかったことだ。

 それにも関わらず、偶然外出の用事が入っているということに若干背筋が薄ら寒い。


 つい反射的に、緊張気味のリナの横顔を見てしまう。

 彼女が屋敷に来ることになったからアレクは不在なのだろうかと思ってしまったからだ。


 単なる偶然と言われればそれまでだが、悉くアレクが彼女に接触する機会を奪われているというのは運命的な作用が働いていると考えてもよさそうな気がする。


「どうぞ、リナさん。

 今日はお声を掛けて下さってありがとうございます」


 努めていつも通りに振る舞っているつもりだ。

 しかしお互いに、出方を伺い相手の表情をチラチラと確認している。


 彼女を客間に通し、紅茶と焼き菓子を運んでもらった後は再び人払いの指示。

 最近カサンドラが使用人を遠ざけてこそこそ内緒話をしているらしい、と館の住人には伝わっている事だろう。

 王子やアレクのことが無ければ、人に聴かせられないような話を館内ですることは無かった。


 でも現状、そういう人には言えない話が出来る”相手”が存在しているということに他ならない。

 一人部屋の中で頭を抱えたり悩んでいたり不安に感じていた日々がまるで嘘のようだ。


 独りではないという言葉の意味を知り、カサンドラは少し心を落ち着ける。

 ……もしも昨日、王子に真実を伝えようという勇気を振り絞って話しかけなかったら?

 今日、こうしてリナを笑顔で迎えることが出来ただろうか。


 もしかしたら、「どうしよう、どうしよう」と悩んだ挙句彼女の誘いを断ってしまったかも知れない。

 

 やはりそわそわと落ち着かない様子のリナ。

 その表情に不安と戸惑いが浮かんでいるのを見てしまうと、余計な世話だと思いつつもつい言葉が衝いて出てしまう。



「リナさん。気を楽にして下さいね。

 わたくしは、貴女がどんなお話をされたとしても……

 決して疑う事はありません。

 お話になりたいことを、遠慮なく教えてください」



 ここまで来たら、彼女の話を誤魔化す事もない。

 何を言われても――それに対して、真摯に受け答えをする他、カサンドラに選択肢はない。



 彼女が戸惑いながらもカサンドラに声を掛けてくれた事は、今になって思えば大きな助力だ。





「カサンドラ様……。」



 彼女は大きく肩を震わせた。

 唇を軽く噛み、目を伏せる。

 前傾姿勢で呼吸と感情を整える、その光景には見覚えがある。


 まさしく昨日の自分の姿ではないか。

 相手に信じてもらえるかどうかわからず、当たって砕けろの精神で――追い詰められて、もう全てを告白するしかないと肚を決めた昨日のカサンドラ。








「お願いします。

 ………助けてください……もう、耐えられません」







 彼女は更に上体を大きく屈め、顔を覆って泣き出した。

 止め処なくポロポロと流れる涙。



 そして、救いを求める”声”。


 自分はただの一般人に過ぎず、何の力も無い。

 選ばれし者では決してない。


 それなのに何故主人公であるリナが助けを求めるのか、カサンドラには分からなかった。

 だが分からないなりに、感じることはある。




 彼女もまた、この閉ざされた世界の中で彷徨っている?

 出口のない迷路の中に捕らわれて、身動きが取れない?

 ……アレクみたいに?





 彼女は以前、唐突に『生まれ変わりを信じるか?』と話の俎上に乗せてきたことがあったなぁと今更思い出す。

 あの時はなんでそんな事を急に!? と動揺し、ただの彼女の趣味趣向の問題だと思って胸を撫でおろしたのだけれど。





 王子だって アレクだって カサンドラだって 『助けて欲しい』。

  



 そこにまさか正規の主人公である彼女の願いまで加わるなんて、予想外の出来事だった。



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