第404話 <リゼ>
「……フランツさん」
「なんだ。」
「浮かない顔ですね」
休日の日曜、リゼは毎週のようにロンバルド邸の訓練所で指導官をしているフランツの許に通っている。
裏の森で乗馬の訓練を終え、時間もあるから剣の稽古でもつけてやると憮然として言い放つ中年のおじさん。
彼は学園で講師としてリゼに一対一で剣術を指南してくれている言わば師匠というべき存在である。
基本的に女心を僅かたりとも解そうとしない、無神経でデリカシーの存在しないおじさんだった。ただ、恵体で屈強で、精悍な普通のオジサン。
飄逸としていて掴みどころのない男性。
――だが、この日のフランツは気に入らない事でもあるのか常時眉間に皺を寄せて隙あらば腕組みをして考え事をしている。
具体的に何かに対して怒っているというわけではなさそうだが、だからこそリゼは不思議に思って直接問いただすことにしたのだ。
「……リゼ」
「何ですか」
「お前こそ、浮かないどころか地にめり込んだような顔面してるぞ」
どうやら、自分も相当険しい表情をしていたようだ。
師匠と弟子、二人並んで眉間に濃い皺をくっきり浮かべ――それぞれ互いから目を逸らし、大仰に大きな溜息を落としたのである。
※
リゼが苦虫を噛みつぶしたような顔をしているのは、どうしても自分一人では解決の目途が立たない難問を抱えているからだ。
――ジェイクの事がよく分からない。
正確にはジェイクの気持ちが分からず、一人心を乱される。
特段、自意識過剰なわけではないはずなのだが……
ジェイクの存在を知り、彼に惚れるまでは恋愛という概念自体人生の中からぽっかり欠いていた可愛げの欠片もない女子であった。
彼の事は好きだし、その気持ちは変わっていない。
想いが募れば募る程、親しくなればなるほど現状に満足してそれ以上の変化を躊躇ってしまう。
一緒にいられれば――傍にいることが出来れば、それで幸せだと思わないといけないのかなぁ、と。漠然とした諦観を感情に落とし込み、飲み下している最中である。
どう考えても住む世界が違う。
たまたま学園で同じクラスになっただけの、本当なら話をすることもできない遠い存在だ。
同じクラスだからと言って王子と距離が縮まるのかと言われれば、それは絶対あり得ないように。
彼もまた同じカテゴリで、単なる特待生の自分とは生息地が違う生き物同士だ。
……凄い形相で、シリウスから借りた眼鏡を跳ねのけられた時。
何が起こったのか全く分からず、吹っ飛んで壊れた黒縁眼鏡を呆然と見つめる他無かった。
ただただ、理解の及ばない出来事に”怖い”と足が竦んで床から動き出すのにかなりの時間を要した。
あのまま突っ立っていたら変な事を言い出しかねなかった。何とか逃げ出せ、本当にほっとしたものだ。
なんで、あんなに怒ってたんだ?
そう想定し自分の心を宥めようとした。
だがどうにもその解釈ではしっくりこない気がして、何で彼が怒るのか意味不明状態である。
眼鏡の質が合わないと視力に歪みが生じると聞いたことがあるが、不用意に他人の眼鏡を着用したリゼへの注意喚起だった……?
うーん……?
これ以上掘り下げて考えたら、自分の首を自分で締めることになる気がして、心を無にしようと頑張る。
でも考えないようにしようとすればするほど、彼の姿が脳裏から離れてくれないのだ。
万が一、彼が自分を異性として好いていてくれたとして――
その仮定はリゼにとっての希望が潰えることに他ならないと、分かってしまったから。
烏滸がましくもそう仮定してみよう。
では何故、ジェイクは自分に何も言わないのか。
簡単だ。言えない事情があるから、何も言わない。
それは彼の家庭の事情によるものかもしれない、身分に関わる事かもしれない、どちらにせよリゼの事を考えて黙ってくれているということになる。
…もし自分が彼を好きだと言えば、逆に困らせる事になるだけじゃないか?
手に入れたいと思ったらそれを我慢する必要のない、望むことは容易い立場の人が”敢えて”何も言わないのだ。
それ相応の理由があるはず。
彼を取り巻く状況が許さないのなら、リゼが彼を好きだと言ったところで何も変わりはしない。
むしろ彼を徒に苦しめるだけになるのではないか。
”現実的に無理”だと分かっているから一定の距離を置いてくる相手に、自分は何を言えばいい?
一緒に、いたい。
好きだから。
どんな形でも。
本当は死ぬほど嫌だけど、それしか方法がないなら――愛人的立場でも傍に置かせてくれと自分は願うだろう。
でも彼はきっとそんな状況を許容しないし、受け入れてくれることもないのだという事だ。
そこまで考えて、自嘲した。
リタの事は言えないな、どうやら自分にも誇大妄想の
いくらでもどんな女性でも選り取り見取りな彼が、わざわざ自分を好きになる理由なんかないし。
ただの気安く話せる友人、それ以上でも以下でもない。
眼鏡を吹っ飛ばしたのは、恐らく力加減を間違えただけだろう。
多分きっと。
――怒っていたのは、生徒会に無関係なはずの自分がしれっとそこに混ざっていた事に対してかも知れない。
「いや……それがなぁ。
最近、どうも嫌な予感がビンビンで、落ち着かないんだわ」
「フランツさん、予知能力があるんです?
占術の心得でも?」
嫌な予感って……そんな曖昧な。
リゼは唖然とした顔で彼の横顔を見上げる。
無精ひげを指で撫で上げる彼は、何とも言えず吐き出せない不満を抱えているかのような渋い顔。
「んなもん、あるわけないだろ。
ただ、勘……っていうのかな。
アンディが地方任官で発った後から、どうも靄がかかったようで気が晴れん」
「何の根拠もないのに、漠然とし過ぎですよ。
アンディさんは騎士ですよ? 騎士!
フランツさんに遠出を心配されるような子供じゃないと思いますけど?」
肩を竦めて鼻を鳴らすようにそう言うと、カンに障ったフランツの拳がぐりぐりとリゼの頭頂部を抉ってくる。
「痛、痛い……痛っ!」
「大人に対して小馬鹿にしたような口の利き方は猛省しろ、リゼ・フォスター。
そんなんで社会を渡っていけると思うなよ!」
組織とは無縁の流れの傭兵稼業をしていたというフランツに社会を語られるのは噴飯ものである。
だが、いくら身を捩ってもリゼの抵抗など彼には抵抗の内には入らない。
体格はもとより純粋な腕力ではやはりフランツのような屈強な男性には全然敵わないなと思い知らされる瞬間だ。
いくら剣の腕をあげても、生まれ持った性差の壁を埋めるのは大変難しいこと。
男子生徒に混じって狼狽することもなく、顔色一つ変えず泰然としているジェシカは凄いなぁ、と改めて思ってしまう。
力の差を受け入れ、その上で相手より優位になるよう立ち回る彼女の姿はリゼの目標でもあった。
一度彼女に勝ったとは言え、あれは偶然の産物。
あれから何度組手をしても、ジェシカに膝を着かせることなど出来なかった。
「はぁ……
ま、お前の言うことも一理ある。
嫌な予感なんて、そう当たるもんでもないわな。
最近城に出る用事が続いてるから、ストレス溜まってるんだろーな」
そう言って彼は口角を釣り上げ、にやりと笑う。
腰に帯びる剣をすらっと抜き出し、刃を横たえたそれをとんとん、と空いた方の掌に乗せた。
「お互い余計なこと考えなくて済むよう、動くとするか。
なぁ? リゼ・フォスター」
「うっ……」
お手柔らかにお願いしますなんて言ったところで、若干殺気立っているフランツの耳には届くまい。
これはしばらく彼に付き合わされることになりそうだ、と覚悟を決めてリゼは自身の得物の柄に右手を添えた。
※
抱いていた暗澹たる気持ちが、がむしゃらに身体を動かすことで少しはマシになる。
しかし、最近はフランツも遠慮なく剣を打ち込んでくるようになった。
まだ手首がじんじんと痛みを発している、寮に帰ったら水で冷やした方が良いかもしれない。
フランツらしくもない胸騒ぎという言葉選びに最初は笑っていたけれども。
言われてみれば、リゼも日々の暮らしの中、急に不穏な空気を感じる瞬間など無いと断言できないことに気づく。
具体的に何が起こるのか言い当てることは出来ないけれど、街全体を覆う何を端に発するのかは分からない緊張感――得体のしれない不気味な影が背後から押し寄せてくるような。
あまりにも掴みどころのない茫洋とした『不安』。
「あれ、リゼ! 久しぶりー」
そんな自分の重たい感情を掻き消すような能天気な声が聴こえ、ついつい道端で立ち止まる。
ロンバルド邸の外門がまだ十分視認できる、フランツに挨拶をしてまだ数分も経っていない。
我知らず、げっ、と口から品のない言葉が飛び出そうになる。
つい眉根を寄せてしまったのは、こちらに笑顔で片手を挙げる少年の姿に見覚えがあったからだ。
「グリムさん」
さん、と言うと彼は不満そうに口を尖らせた。
だがこんなロンバルド邸の威容を後ろに背負ったグリムを呼び捨てる事は、リゼにはとても難しい事だった。
そもそも、彼に対して突然の膝枕云々の軽口から生じた警戒心が大きく働いているのだ。
思わず胡乱な表情で、悠々と近づいてくる笑顔のグリムを眺めてしまう。
「うちに――いや、ロンバルドに何か用事だった?」
「フランツさんの指導を受けに来ただけです」
「あの人そんなにサービス精神旺盛だったっけ?
前も思ったけど、君って凄く気に入られてるんだね」
敵意は感じない。
人懐こそうな笑みは、昔馴染みのテオを思い起こさせる『弟分』という印象を他人に与える無意識の所作、表情の作り方。
「はぁ……」
「ジェイクはもう屋敷に戻ってる?」
「知りませんけど、多分まだじゃないですか?」
ロンバルドと一口に言っても、リゼが訓練を受けている兵舎や裏山と本家の人達が生活しているだろう建物は区域から全く違う。
彼が自分の『家』に帰ってもリゼが知る術はないし、彼だって一々顔を見せに来るほど暇ではないはずだ。
日曜だというのに、朝から晩まで騎士団に詰めているらしいというのは可哀そうだなぁ、と思うけれど。
本人は騎士団で活動している方が楽しいらしい。
「そっかー。
ジェイクに謝りに来たんだけど、いないんじゃしょうがないな」
「喧嘩でもしたんですか?」
グリムは学園の寮から通っているはずだ。
だから会おうと思えばいつでも会えるだろうに、わざわざ遠い本邸まで足を運んできたとは……
よっぽど酷い喧嘩でもしたのだろうか、ジェイクが弟に怒る姿はあまり想像できない光景だったが。
「喧嘩というか……
僕がジェイクに言っちゃいけないこと言って怒らせたって話でね。
言い過ぎて悪かったし、ジェイクが気にしてたら嫌だから。
謝るなら早い方が良いかなって」
彼はバツが悪そうに苦い笑みを浮かべる。
どうやら彼は思った以上に素直な少年のようだ。家族と喧嘩をして、すぐに謝ろうと行動に移せるのは立派だと思う。
家族だから別に良いだろうと相手に甘えるのではない、意外ときっちりした少年なのだな。
素直過ぎるから、リゼに対しても軽口がポンと出て来るし。
言ってはいけないことをつい口にして後悔して――
でも、寮から歩いてちゃんと謝ろうと覚悟して訪れるだけの実直さも持ち合わせているという。
思ったよりは良い子なんだろうな。
苦手意識を持っていた事を少しだけ反省した。
義弟とは言え、ジェイクと血の繋がりのある家族の一人だ。可能であれば仲良くなれるに越したことはない。
「君は今帰るの?」
「そうですけど」
「えー、最近何かと物騒だよね。
良かったら僕が送ろうか?」
「結構です」
兄に謝りに来たのではなかったのか。
思わず無機質に、全く感情を乗せないままピシャリと彼の提案を封殺してしまった。
グリムの指摘通り、時刻は夕暮れ。多くの一般家庭で夕食時の時間帯だ。
寮に戻る頃には陽も完全に落ちているかも知れないが、それは今に始まったことではない。
そう言えば以前、この時間帯にジェイクとここでバッタリ会って寮まで送ってもらった事もあったっけ。
職務上、女性を一人で帰すわけにはいかないからと送ってもらえたのは役得だと思ったが……
ジェイクに送ってもらえるならまだしも、グリムに送ってもらう理由は無いとリゼは首を横に振る。
「大丈夫です!
今日や昨日通り始めた道じゃないんですから」
それに自分は以前の自分とは違う。
何者かに襲われても応戦できるという自信があった。
誕生日にジェイクから貰った革ベルトにはちゃんと自分の剣を括りつけているし、こんな物騒なものを掲げている人間を好き好んで襲う人間もいないだろう。
自分ではなくリナだったら――何故送ってもらわなかったと目くじらを立てるところだが。
自分は大丈夫だと思い込んでいた。
「そうかなぁ……結構心配なんだけど。
やっぱり送るよ?」
意外と強情だ。
「良いです良いです、兄弟揃って心配性ですね」
このまま彼と話を続けていたら無理にでも送るなんて流れになりかねない。
兄弟喧嘩の謝罪機会を奪いたいとも思わなかったし、リゼは彼を振り切るようにグリムに背を向けた。
「早くジェイク様に謝れたらいいですね」
何があったのかは知らないが、拗れる前に仲直りできればいいのだけど。
傍目には普通に仲が良い兄弟にしか見えなかったから、喧嘩をすることもあるのかと不思議な気持ちだった。
※
剣を携え街中を闊歩する、取り立てて可愛くも美人でもない十人並みの容姿の自分。
自分が男だったら逆に避けて歩くレベルだと苦笑し、グリムの心配そうな顔を思い出していた。
どうも女性扱いされるのは慣れないし、それに複雑な気持ちだ。
嬉しい嬉しくない以前に、自分の技量では突発的アクシデントにも対処できない未熟な剣士だと看做されているような気持ちになる。
「――……ッ!?」
油断していたわけではない、はずだ。
だが――
普通に道を歩いていて、急に暗がりの路地から腕が伸びて来た時、何が起こったのか思考が理解を拒んだ。
正面から堂々と得物を構えて襲ってくるお行儀の好い賊徒などいるはずがないのに、急に全身を強い力で引っ張られ、口を覆われた時に真っ先に感じたのは
恐怖だった。
自分なら賊か何かに襲われても抵抗できる、逆に叩きのめして成敗できるだけの力がある――はずだった。
しかし複数の男の腕に一瞬で拘束され身動きが取れないと悟った時、恐怖で頭の中が真っ白に塗り替えられる。
ガンと後頭部に強い衝撃を受け、仄かな火花が散った視界が混濁する。
殴打されたのだと知覚するよりも リゼの意識が闇に沈む方が早かった。
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