第401話 臨界点
王子の懸念は、正直に言えばカサンドラにとって杞憂だった。
今までのやりとりや平穏な日常、決して劇的な事の起こらない毎日。
その中で大袈裟な事態など起きるわけがないだろうと思っていた。
それはきっと、三つ子を中心に据えて考えていたからかもしれない。
実際に今、攻略対象達――ジェイク達の胸の内がどれほどのものであるのか、カサンドラには知りようがなかったから。
※
「カサンドラ様、今日は宜しくお願いします」
週末の生徒会役員会議のため、生徒会室にカサンドラは早めに訪れ用意を始める。
だが今年度に入ってからは、当たり前のようにリナも一緒に事前準備を手伝ってくれるようになった。
テキパキと手慣れた様子で茶器などの準備をする彼女に、カサンドラは彼女に伝えるべきことを思い出し声を掛ける。
「今日は王子とジェイク様が少し遅れていらっしゃるそうですので、急がなくても大丈夫ですよ」
「そうなんですね、分かりました」
「あの方たちがいらしてから、会議を始めましょう」
先に役員のメンバーが集まって座っている時にやってくるはずだ。
流石に王子を欠いて会議を始めるわけにもいかず、今日は彼らの到着を待ってからのスタートとなる。
今回はジェイクと王子の二人が遅れて来るとの事だが、時にはシリウスが所用で遅れて来ることもあったので――決して珍しいことではなかった。
役員会と学園側との交渉・折衝はカサンドラの見えないところで行われているので、未だに闇の中状態。
ラルフやシリウスらはいつも通りの時間に訪れ、他の学級委員達も時間に間に合うようにしっかりと到着済みだ。
開始の時間が少しズレると伝達し、先に飲み物を彼らに振る舞うことにした。
「カサンドラ様。
私、シンシアさんからドレスの原案を預かってきました」
和やかな週末モードに浸っている最中。
リナが席を立ちテーブルの上に置いた自分の鞄を、手で手繰り寄せる。
「もう……ですか? 早いですね」
思わぬ仕事の早さぶりに、カサンドラは目を点にする。
依頼をしたのは数日前のはずなのに、既にデザイン案を用意できた――だって?
講義が終わってからずっと、自室で黙々と作業をしてくれていたのだろうか。
シンシアの控えめな笑顔が脳裏に浮かび、とても感謝しているがその分心苦しくもあった。
何でもかんでも彼女に負担を寄せ過ぎだな、と反省することしきりである。
ベルナールにも一声かけて謝罪するべきかもしれない。
依頼した当のカサンドラは放課後カフェデートなんて余裕を曝け出していたけれど、きっと彼はそれどころではなかっただろうから。
目つきの悪い昔馴染みの恨みがましい視線が、カサンドラの想像の中で突き刺さる。
「ほぅ、アーサーの言った通り、存外頼りになるものだな」
シリウスも驚いたように眼鏡を指先で押し上げ、鞄の中を
だがリナはだんだん顔を蒼褪めさせ、何度も何度も鞄の中を覗き込む。
「あ、あら……?
おかしいです、確かにここに入れたはずなのに……!」
リナが人からの預かり物を失くしてしまうなど想像がつかない。
だがいくら中を覗き込んでも、目的の紙が見当たらないと焦りの色が濃くなる。
カサンドラとしては、こんなに早くデザイン案が提出されるとは思っていなかったので、別に次回でも構わないのだが……
彼女が預かっているはずのものを失くしたというのなら話は別だ。
ハラハラと探し続けるリナの様子を見守るしかない。
だんだん泣きそうになってくるリナに、何と声を掛けようかと悩んでいると――
彼女の手元は焦りのせいか見事に滑り、バサッと鞄ごと絨毯の上に落とした。
中に入っていた教書や教本、ノートや筆記具がバラバラに広がってしまったのだ。
預かり物を失くすなんて、そんな……と、彼女は呆然自失状態に陥った。まさにその時。
――コン、コン。
入口の扉が折り目正しい二度のノック音を響かせる。
誰かがやってきたようだが、少なくとも王子やジェイクではないだろう。
特にジェイクだったらノックなどせず、そのままノブを回して押し入ってくるはずである。
「すみません、リゼ・フォスターです。
今宜しいでしょうか」
「リゼさん、どうかされましたか?」
完全に涙目でしゃがみこむリナを心配に思いながら、扉を開けて訪問者を迎え入れるカサンドラ。
そこに立っていたのは、顔のパーツは全くリナと同じ三つ子の姉のリゼその人だ。
明らかに呆れ、溜息をつかんばかりの表情で――彼女は生徒会室をぐるりと見渡した。
「会議はまだ始まってない……ですよね、良かった」
そして床に散らばった本のたぐいを搔き集めるために這い蹲っているリナを見つけ、大仰に肩を竦めたのだ。
顔面蒼白で潤んだ目をするリナも、姉の視線を感じたのか
「リナ、私の鞄と間違えたでしょう」
そう言いながらリゼは右手に提げていた鞄を見せつけ、リナに向かって突き出す。
「えっ」
「見覚えのない紙が入ってたし。
この鞄、リナのでしょ?」
しばらく床に這いつくばるようにして散らかってしまった本を拾おうと腕を伸ばしていたリナ。
だが自分がどうやら間違った鞄を生徒会室に持ってきたようだと、遅まきながら理解して。
カーーッと顔を真っ赤に染めて立ち上がる。
穴があったら入りたいとは今の彼女の心境かも知れない、実際カサンドラだけではなくラルフやシリウスも慌てふためくリナの姿を眺める事しか出来なかったもので。
「あ、ありがとう……リゼ」
「たまにこういう事やらかすわよね」
はい、と焦げ茶色の学生鞄をリゼは妹に手渡した。
もしも自分の鞄と間違って持って行ったのがリタだったら、苦笑では済まずに大声で注意していたかも知れないが。
なんだかんだ、リナへの対応は甘いリゼである。
「あった! ありました、カサンドラ様!」
正しく自分の鞄をようやく手に入れ、リナが急いで蓋を開けると中から数枚の紙を入れた大きな封筒がするりと出て来た。
これだけ異質なもの、いくら鞄をひっくり返してもあるはずがないのにリナの慌てっぷりはすさまじかったと今思い出すと微笑ましささえ感じる。
大切な預かり物を失くしてしまったという思い込みがそうさせたのだろうが、心の底から安堵した表情のリナだが……
足ががくがくと震えているのが、少し可哀想だと思った。
「見つかって良かったですね」
「面目ないです、お騒がせしました」
赤面状態で、リナは頬に手を当てる。
「あー、私の鞄が」
用件は終わったし、さっさと退散しようとしていたリゼが床に転がる自分の鞄に目を留めて唇を尖らせた。
中を漁られ、ぶちまけられ散乱する本やノート達を見てそれを拾い上げに行く。
「リナ・フォスターは案外粗忽な一面があるのだな」
淡々とした口調だが、呆れているというよりは温かみを感じるというか。
非難する意図ではなく、苦笑しながらシリウスはそう声を投げかけた。
「うう……
すみません」
カサンドラにデザイン原紙を渡し、今度は自分が落としてしまったリゼの鞄の中身を搔き集めに急ぐリナ。
「リナは油断するとうっかりしてますよ。
そういうところが試験が苦手な一因なんでしょうけど」
鞄の留め具をパチンと閉め、リゼは再び肩を竦めて答える。
実際に紛失したわけではない、姉妹間で鞄の取り違えがあっただけだ。
特に実害があったわけでもないが、リナの素の人柄のお陰か場の雰囲気は和やかなものに変わっていた。
会議開始まで時間があったし、隙間の時間を彼女の”うっかり”がいい具合なトラブル未遂を起こしすぐに解決して全く退屈せずに済んだ。
何事もそつなくこなすしっかり者という認識があった彼女の、意外な側面を垣間見ることが出来た一幕である。
「間違えて持ってきたのがリゼの鞄で良かったです。
もしリタの鞄と間違えていたら、帰るまで気づいてくれなかったかも……」
「あの子なら――朝まで気づかないんじゃない?」
この場にいないだけで散々な言われようであるリタ。
今頃くしゃみでも連発しているのではないか。
帰る前に確認して違うと気づき、ここまで面倒がらずに届けてくれたリゼは流石きっちりしている。
「………あ、このペンって私のペン?
名前書いてたっけ……」
リゼはテーブルの上に転がっている黒いペンを離れた場所でジーッと凝視した。
その眉間に皺を寄せて目を凝らす姿に、シリウスは面食らったようだ。
「なんだ、リゼ・フォスター。
お前も視力が悪いのか?」
「え? ……はい、そうなんですよ。
生活の中で困ってるわけじゃないんですけど、小さい字が見えづらいのは不便と言えば不便です」
彼女は眉間にくっきりと刻まれた皺を指先でぐりぐりと解きほぐしながら、溜息を一つ。
普段から机に齧りつくように勉強し、小さな文字を書き続けるリゼにとってはある意味職業病のようなものかも知れない。
「暗いところで本を読む癖があったので、そのせいなんでしょうね。
まぁ、近づければ見えるから大丈夫です」
テーブルの上に転がっているペンを抓み上げ、胸元の高さまで持ち上げる。
癖になっているのか目を細め、それが自分のものであるか確認するリゼ。
視力が弱るのは、この世界ではさぞかし不便だろうなとカサンドラも思う。
「見た目さえ気にしないのであれば眼鏡を考えてもいいかもしれないですね、リゼさん」
カサンドラは自分の机の上にシンシアが描いてくれたアフタヌーンドレスのデザインを広げながら、そう言った。
「確かにそうなんですけど、眼鏡ってかなり高価なものじゃないですか。
ちょっと手が出ないですねー、ホントにそんなガラスで見えやすくなるの? って思いますし」
自分のペンだと分かったのか、上着のポケットにそれを無造作に突き刺したリゼ。
うーん、と腕組みをして思案する仕草をする。
「一度使い始めたら手放せないものだが……
試しに着けてみるか?」
「え!? い、良いんですか?」
「別に減るものではない、便利さを実感するがいい」
何故か眼鏡を推すシリウスは、いつも掛けている自分のそれをスッと外し、傍に立つリゼの前に無造作に置いた。
資料の枚数を確認していたカサンドラは、急に眼鏡オフのシリウスが視界に飛び込んできて思わず噎せそうになる。
急に外されると心臓に悪いから辞めて頂きたい。
普段彼の身体の一部のように存在感を誇示しているアイテムがその顔から消えると、全く別人だ。
「すみません、それでは失礼して」
使い方を聞かずとも、四六時中使用しているサンプルが同級生にいるわけで。
リゼは迷うことなく黒ぶちの眼鏡を自身の顔に装着した。
「わぁ! 視界がクリアですね……!
凄い……!」
リゼは感嘆の声を上げる。
あまり普段はしゃぐような性格ではないが、周囲に音符が飛び交わんばかりに興奮している。
黒い縁の眼鏡は彼女には武骨すぎるが、眼鏡少女という属性が付与され結構似合っていた。
「どうだ、便利なものだろう」
何故か若干得意げなシリウス。
もしかしたら今、彼比で機嫌が良い状態なのかもしれない。
あわあわと慌てふためくリナは、当人の心情を度外視すれば可愛い姿だったし。
それにシンシアがこんなに早く要望を聞き入れてくれ、原案を作成してくれた。きっとシリウスも想定していなかっただろう。
引き受けてくれたどころか、もうここまで仕事が進んだのだから。
何もかもが意のままで、シリウスは案外上機嫌なのでは? という疑惑が浮かんだ。
「高価なものかどうかはともかく、便利なものなら踏み切ってもいいんじゃないかしら?」
リナの勧めに、そうねぇ、とリゼは眼鏡を着けて外してを繰り返す。
カサンドラは視力が良いので、そうではない人の視界というものは理解しがたいものがある。
しかしレンズ越しで見た世界がハッキリと見えて便利なら、多少値が張っても購入に踏み切る余地はあるかもしれないだろう。
さっきの目を細めて凝視するリゼの顔はちょっと怖かったし。
もしもあの顔で遠くから観られたら、睨まれていると絶対に勘違いしてしまう。
文字通り新しい世界をレンズ越しに見渡すリゼは、明るく前向きな表情だった。
そんなほのぼのとした雰囲気が――次の瞬間、一変してしまう。
「悪い悪い、遅くなった!」
大きな足音が聴こえた後、扉が大きな音を立てて開かれた。
学園長と何かしらの話があったのだろう、ジェイクと王子が連れ立って生徒会室までやってきたからだ。
もっと静かに、と注意したところで彼がそれに大人しく従うとは思えない。
その勢いと風圧にビクッと肩を跳ね上げ、カサンドラは彼らを迎え入れるために笑顔を作った……のだが。
その一瞬。目瞬きの間で、ジェイクの表情が変わった事に背中が凍り付いたように動けなくなった。
彼の視野の中に恐らくカサンドラは入っていなかっただろう。
自分だけではない。
――シリウスの傍で眼鏡越しに見える世界を楽しんでいるリゼしか、見えていなかったのだと思う。
「何してるんだ、やめろ!」
彼はずかずかとリゼの隣に駆け寄り――そう叫んだ。
きょとんとする彼女が両の掌で押さえる黒縁の眼鏡。
何と彼は、思いっきり、それを厚い手で払いのけた。
ただの眼鏡だ、ジェイクの力と比べれば余りにも軽く、脆い物質。
まさか払いのけられるとは思っていなかった彼女の顔から、一瞬で吹っ飛んで行った眼鏡は――
後ろの白い壁に叩きつけられ、パリンと綺麗な音を立てて粉々に割れた。
黒いフレームはぐにゃりと歪み、床の上に本来ありえない角度で無惨にもねじ曲がって横たわる。
シリウスは見るに堪えない最期を遂げた自分の眼鏡の傍によろめきながら近づき、全身を小刻みに震わせた。
私の眼鏡が……と、肩を落とす姿は完全に意気消沈している。
毎日のように装着しているお気に入りの自分の”目”がこんな姿になったら、そりゃあ悄然となるだろう。
「あ、違……。
……悪い、そういうつもりじゃ……」
引きつった表情で、ジェイクは言い訳にならない「違う」という言葉を何度か口にした。
だが何と比べて違うのか、というのは形に出来ない。
先ほどの
彼女の心境を想像すると、居たたまれない気持ちばかりが募る。
確かに――他人が普段装着している道具を自分が身に着けているところを見られてしまったのは、全く意図していなかったとはいえ痛恨の極みだろうが。
しかし別に、ジェイクは彼女に対して現在は『何者でもない』。
ただのクラスメイトのはずで、それ以上でも以下でもない。
にも関わらず有無を言わせず怒りをぶつけられると言うのは、意味が分からないはずだ。
混乱をひた隠し自分の鞄を掴み、逃げるようにリゼは部屋から出て行った。
「お邪魔しました!」と、彼女の悲鳴のような声だけが室内にずっと反響していたような気がするし、その後も空気が沈んだままだ。
あの一瞬のジェイクの目つきの変化に気づいてしまったカサンドラは、握りしめた自分の掌が汗ばんでいる事に気づく。
怒っていた。
明らかに、衝動的で彼自身も制御できない”苛立ち”だ。
彼のオレンジの双眸に射した感情の色は憤怒。
隠す、だとか。
気づかれないように――そんな言葉は、彼の衝動性の前には無意味だと思える。
我に還った後の気まずそうな、悔恨の表情がそれに拍車をかけている。
「いや、他人の眼鏡を着けると目が悪くなるって言うし」
「だからと言って問答無用で破壊する奴がどこにいる。言葉を知らん野蛮人か、お前は」
完全に機嫌が直滑降のシリウスの黒い影に、ジェイクも一歩退いた。
「悪かったって。
ちゃんと弁償するし、許せ、な?」
「……当たり前だ。
この暴挙は高くつくぞ」
一部始終をジェイクの後ろから目の当たりにすることになった王子。
彼の憂いを帯びた眼差しに、カサンドラも同じように不安を重ねる。
彼らの関係がこの先どうなるのか、全く分からなかった。
全ては、心の持ちようだというのに。
思い込みや先入観ほど怖いものはない。
答えは最初から目の前にあるのに、彼にはそれが視えない。
彼の視界も感情も、依然曇ったままなのだ。
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