第395話 延長戦


 観劇の時にもそうだったが、椅子に座って鑑賞するイベントは歩き回ったり話をする必要が無いので楽と言えば楽だ。

 自分にとって興味がある分野なら猶更、素晴らしい時間になるに違いない。


 勿論カサンドラも貴族の令嬢として十五年間育てられてきた。

 ピアノやヴァイオリンはあまり得意ではないものの、フルートは好きでその分嗜んでいたから全くのド素人というわけではない。

 キャロルではないが、プロの音楽家の指導を長く受けて来た経験もある。


 大規模なオーケストラだ、フルートも当然参加している。

 その中で耳が音を拾い、つい指先が動きそうになった。


 調和のとれた纏まった音楽、建物の構造で観覧席に向け横から上から音が響き迫力満点の演奏は続く。

 だがどんな演目にも終わりは必ず訪れ、当然のように幕が落とされる。


 リタはまだまだ、ラルフの優雅な演奏姿を眺めていたいだろうなぁ。

 隣で幸せそうな顔をして聴き入っている彼女の姿を見なくても、その喜びは伝わってくる。


 途中参加とは言え、彼の堂々とした演奏ぶりは学園で見るよりも更に大人びて見える。

 決して誰か一人が出しゃばるのではなく、あくまで全体の一部を支える音を奏でるプロの演奏家の音楽は聴いている人の心を揺さぶるし感動させる。


 音楽一つで身を立てるのは決して易いことではない。

 ステージ上にいるのは成功者たちで、そこに到達できない音楽家は彼らの何百、何千倍は存在する。

 芸術分野の世界も厳しいものだなぁとカサンドラは彼らの演奏を聴いていた。





 ***




 大きな拍手と共に演奏会が終了する。

 演奏会に招待された貴族の殆どは音楽や芸術などに造詣が深い人達だ。


 まぁ、要するに道楽――

 日々あくせく額に汗を流して働かなくとも、芸術文化振興のお題目で優雅な生活を送れている人達である。


 そこに王子やカサンドラも属するのだろうが、まだ学生ということもありそういうサロングループなどとは縁遠い。

 有閑マダム達の上品な笑い声を背に、カサンドラ達は演奏を終えたラルフと合流するため待機していた。


 彼が最後に参加するという話を招待客は知らされていなかったようで、驚いた彼らから遅くまで引っ張りだこだったのだとか。

 中々戻ってこないなと待っていると、若干疲労の色を滲ませるラルフが扉を開けて入って来た。


 演奏会が終わった後のホールは暗幕とガラス窓が開け放たれ、とても明るく先ほどまでとは別世界にワープしたかのような錯覚に陥る。

 薄暗がりの中ではよく見えなかった細部の飾りや人の顔なども射し込む陽光が詳らかに映し出す。



「ラルフ様」


 招待客の殆どがホールから出払った後、賞賛の嵐から解放されたラルフが胸元の赤いタイの歪みを直しながら現れた。

 リタが小走りで近寄ると、「お疲れ様」、と逆に長時間の鑑賞を労う。

 疲れながらも充足感に満たされた表情でラルフは笑っている。


 良かった、もうすっかりバッタリ出会った姉夫妻の事は引き摺っていないようだ。

 リタの応援もあっただろうし、多数の観客の前で演奏をするのはいくら彼でも緊張したはずだし。

 それどころではなかったのだろう。

 幸い、このホールにラルフ姉夫妻の姿はない――もしかしたら、彼らが去るまでラルフもタイミングを見計らっていたのかも。

 

「とても素晴らしい演奏でしたね、ラルフ様」


 通り一遍の感想しか言えない自分が少し恥ずかしい。

 だが技巧的な話を王子やラルフ達に訳知り顔で話すのもすぐに馬脚を現しそうで、シンプルな言葉しか出なかった。


 素直に一番分かりやすい言葉だけに留めて置く。


「最後まで付き合ってくれて感謝する。

 ……。アーサー」


 何故かラルフは王子に向かって何か言いたげに目配せしている。

 問題でもあったのだろうか、と彼の行動に気づいたリタと思わず顔を見合わせた。


「分かってる、ちゃんと覚えているから大丈夫。

 私だって楽しみにしていたんだ」


「それもそうか」


「ラルフからそんな提案返しをされるとは思わなかったから、驚いたけどね」


 カサンドラにはよく分からない会話をする王子は、楽しそうにクスクスと笑っている。

 勝手知ったる彼らのやりとりは、言動だけでは全く何が起こるのか想像が出来ない。


「キャシー、そしてリリエーヌ嬢。

 これから少しだけ時間をもらえないだろうか、案内したい場所があるんだ」


 コホン、と微かな咳ばらいをした王子がこちらをゆっくりと眺めて誘ってくれた。

 自分だけではなく、リタも?



「はい、わたくしは問題ありません。

 リリエーヌさんは――」


「私も大丈夫です。

 ……ですが、王子。一体どちらにご用があると言うのでしょう」


「着いたらすぐに分かるよ。

 キャシーは一度行ったことがある場所だね。

 お楽しみ……でいいのかな?」


 カサンドラも過去訪れた事がある王宮内の場所?

 いや、そもそも王宮内なのかどうかも定かではないけれど……


 演奏会のために選んだ服を着て今から外に――という提案も考えづらいのでやはり王宮内のどこかに案内してもらえるのだろう。


 着けば分かるというなら、王子とラルフに着いていくのが賢明だ。

 彼らが自分達にを甘言を弄し罠に填め、どこかに閉じ込めるような真似をするはずがないし。


 困惑気味のリタだったが、これで解散と思われていたイベントがまだ何か続きがあるのだと気づき、すぐにニコニコ笑顔になった。

 薄闇の中では茫洋としていた彼女のドレスは、今、光を浴びてキラキラと輝いている。




 ※




 これから何が始まるのか分からないまま長い回廊を王子に着いて歩く。


 腕時計を一瞥して確認するが、食事をとるにはまだ早い時間帯。

 第一食事の席を設けてあると言うのなら、あんなに意味深長な言い方をしなくてもいい。


 一緒に皆で食事でもしよう、と声を掛ければ済む話である。

 休日に王子と一緒に過ごすにも拘わらず催し事が終わったらその場で解散、さようなら――というのも何だか物足りないのは確かだ。

 折角王城を訪れたのだから、王子と一緒に過ごす時間が欲しいと思う。


 リタの付き添いと言う形で招待されただけでここまで望むとは、自分も強欲になったものだと自分で自分に呆れつつ。



「……まぁ、ここは」


 しばらく歩き続け、どこか見覚えがある景色に辿り着きカサンドラは目を瞠る。

 自分にとって”懐かしい”と思える、そんな記憶が呼び起されてドキドキした。


「さぁ、二人とも。

 こちらで演奏会の続きを聴いてくれるかな」


 王子はにっこりと笑み、その部屋の扉で立ち止まる。


 ――思い起こせば、随分遠くへ来たような気がする。


 去年の自分の誕生日、カサンドラが王子からもらった思いがけないサプライズの事が克明に呼び覚まされた。


 所在無げにきょろきょろと室内を見渡すリタは緊張している。それが傍目からも良く分かった。


 自分以上にリタにとって、ここは未知の領域であろう。

 王宮の奥まで案内される機会もなかった上、演奏会の続きとは一体? と緊張でやや表情が強張っている。


 だがカサンドラはここでかつて何が行われたのか、よく覚えている。

 広い一室、そこに用意されているのは楽器だった。


 ピアノが運び込まれ、磨き上げられた木目の床の上で存在感を放っている。

 以前カサンドラが腰を下ろした椅子も健在だ。


 先ほどの巨大な音楽ホールと比べれば小さなホールの内装は一年前と変わり映えすることはなかった。

 壁掛け時計は「チクタク、チクタク」と静寂を誤魔化すように一定の速度で音を響かせる。


 それ以外はシーンと静まり返った、誰もいない部屋。



「今日は演奏会に出席してくれたこと、感謝しているよ。

 お陰でエドガーからの強い誘いに応える事が出来たし、僕も久しぶりに彼らと演奏が出来る機会があって有意義な時間だった」


 ラルフは室内に置かれている黒く四角い箱の傍で立ち止まる。

 その大きさや形から察するに、ヴァイオリンのケースだろう。


 王子はピアノの傍に歩み寄り、黒く重そうな蓋を開けて指先で鍵盤を押し、調律を確認。

 そう言えばヴァイオリンだけではなくピアノも上手だった事を思い出す。

 本当に何でも出来る人だな、と思うが――王子に関しては感覚が麻痺してしまっているような気がする。



「実は以前、キャシーの誕生日プレゼントの一つとしてここで音楽を演奏したことがある。ラルフにも参加をお願いして、皆で演奏したんだ。

 その時の話を持ち出し、リリエーヌ嬢達に特別に聴いて欲しい曲があると場所の提供を要請されて――私も協力することになった」



「カサンドラ様のお誕生日……ですか?」


 きょとんとした顔で王子の話を聞くリタは、大きな蒼い瞳で興味深そうにこちらをしげしげ眺める。


「ええ、とても希少な機会をいただきました」


 学園での聖アンナ生誕祭の前の役員合同での合奏も良く覚えているが、ここで四人の演奏を聴かせてもらったことは更に忘れがたい思い出である。


 ”特別”という意味では、他に誰が実現しようとしても不可能な状況だっただろう。

 ラルフと王子だけではなく、シリウスとジェイクまで一緒に来てくれたのだから。

 今思い返しても奇跡としか言いようがない。


「生憎今日はシリウスとジェイクは捕まえられなかった。

 その内、機会を見てもう一度声を掛けるつもりだけど」


 ラルフはちょっと不満そうな表情ではあったが、彼のその不満は一層リタを困惑させる。

 前回の事を再現しようとしたということは、まさかその二人も一緒にいたのかと。

 実際に体験したカサンドラでも改めて当時の状況を脳裏に思い描くと、凄い光景だったなぁと思う。



 ラルフが黒いケースの中から取り出したのはどこからどう見てもヴァイオリンだ。

 演奏会でも得意のヴァイオリンの腕前を披露させていた、演奏会延長戦の今もその演奏を聴かせてくれるに違いない。

 だがそのヴァイオリンは――

 カサンドラのような楽器に造詣の深くない者の目から見ても、どこか異質な空気を纏っているように見えた。


「そのヴァイオリンは」


 リタは見覚えがあるのだろうか。

 驚きと戸惑いの視線をラルフが掴み上げる楽器に向ける。


「晩餐会でエドガーが話していた『魔法のヴァイオリン』だ。

 紆余曲折を経て、僕の手元にある」


 エドガーの人生観、考え方を変えたという一連の出来事。それの一端を担っていた『魔法のヴァイオリン』の話は良い話だなぁ、という感想で終わった。

 自分には関係のない話だと思っていたけれど、まさか実物を目の前にすることが出来るとは思わなかった。


 希代の名匠が作り出したと言われる、世界に二つとないだろう奇跡の逸品。

 かつて天才ヴァイオリニストがその楽器と一緒に音楽会の頂点まで駆け上がったという、圧倒的な存在感を放つ名器。

 少しでも音楽を嗜んだことがある人間なら、カサンドラでなくとも興味津々に凝視してしまう事だろう。


 先ほどの演奏会でラルフが弾いていたヴァイオリンは、これとは違う彼の別のヴァイオリンだったはず。流石に『魔法のヴァイオリン』を大勢の前では弾けないから、と彼は苦笑した。


 王宮演奏会の一曲限りのゲスト扱いで、いきなりそんな大物を引っ提げてステージに上がってしまえば全ての話題や印象を搔っ攫ってしまいかねない。

 あくまでも楽士団の「一員」ということで声を掛けられたのに、ある意味で演奏会を台無しにするような危険を冒せなかったのだという。



 いやいや、大袈裟な……とカサンドラは心の中で苦笑した。


 王宮演奏会という国の最高峰の音楽家たちが一堂に会し奏でるハーモニーの中で話題を独り占めしてしまうようなヴァイオリンって一体何なんだ。

 いくらなんでもそれは自意識が過剰すぎるのではないか。

 魔法がかかっているにせよ、魔法がかかっているかのように素晴らしい名器ということにせよ。

 他と同じヴァイオリンという楽器であることには変わりないだろうに。



「……カサンドラ。

 君は以前、あの作りかけの曲の続きを気にしてくれていただろう」



「勿論覚えております。

 ――完成したのですか!?」


 その記憶は辛い思い出も同時に湧き上がってくる。

 とてもとても悲しくて辛かった時。

 王子と”無関係”になる方が良いのだと思い込んで……

 あの日ラルフに会えなかったら、自分はどうなっていただろう。


 王子に自分の気持ちを伝えよう、彼の本心を知ろうなんて奮い立てなかったと思う。

 人生には数多くの分岐点、選択がある。間違いなくあれは大きな分岐点。



「今までどうしてもうまく思い描けなかったイメージが、この間急に降りて来た。

 半年近く苦心していたのに、完成は一瞬だから不思議なものだね」



 彼は肩を竦めた。


 ラルフが依頼を受けて作っていた曲は、あの日「未完成で続きは無い」とにべもなく言われた。

 完成したところで自分に教えてくれることはないだろうと思っていたのに、意外だ。


 あの日前後にインパクトの強い出来事が立て続けに起こったので、その流れの中で聴こえた切ない曲調は未だに耳に残っていた。

 そうか、あの曲がとうとう完成したのかとカサンドラも気持ちが高揚する。



 要は、完成した曲をリタやカサンドラにも聴いて欲しいということで演奏会の”延長戦”を企図したわけだ。

 しかも噂に上がった魔法のヴァイオリンを使って……?

 


「リリエーヌ嬢だけではなくキャシーにも聴いてもらいたいと言われては、私だって何もしないわけにはいかないからね。

 今日は準備と伴奏を申し出た。

 他の二人は最近多忙で、休日を押さえられなくて残念だけど」 

 

 ラルフの独奏ではなく、王子も一緒に弾いてくれるなんて純粋に嬉しい。

 彼のピアノ演奏を聴くのは本当に久しぶりな気がする。

 生半可な腕ではラルフと一緒に合奏なんて言い出せないだろうに、相変わらず王子は何でも高水準で友人についていけるのだなぁと感心する。



「わたくしにもお声を掛けて下さってありがとうございます」




 去年の生誕祭の再現と言うわけではないけれど。

 再び彼らの合奏が、しかも未発表で気になっていた新しい曲を聴かせてもらえるなんて豪運としか言いようがない。



 ピアノの前に腰を下ろした王子が、鍵盤を叩く。

 彼の細く長い指がしなやかに白と黒の大地を自在に駆ける。





 ラルフもヴァイオリンを構え、ピンと張った弓を静かに引いた。  









   聴いているだけで、心の弱い部分に直接訴えかけてくる優しいメロディ。


   この曲は恋愛がテーマの劇に使われるものだから、その愛しく切ない曲調なのは納得だ。

   心が鎮まり、悩みや蟠り、こんがらがった糸がスッとほどけていくような清廉な響き。









 彼はこの曲を、天使が与えてくれたというが――

 その詳細だけは分からずじまいだった。

 もう一度、カサンドラの頭上に疑問符が飛んだ。






    だから、天使って 何のこと?


 

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