第394話 十人十色?
リタとラルフが観覧席に戻ってきたのは、開演少し前の事であった。
あわや間に合わないのでは、というギリギリ滑り込みで彼女達が姿を現わす。
時間が掛かったのは、キャロルからの強い”お願い”を受けたエドガーが素直に熱烈な謝意を述べたからに違いない。
それは良いのだが、気がかりなことが一つあった。
先ほどまでは結構機嫌が良さそうに見えたラルフ。表情こそ変わっていないにもかかわらず、どこか剣呑とした雰囲気を纏っているようだ。
カサンドラの気のせいではあるまい。
注意深く見ればリタもぐったりと疲労の影が濃くなっている。お礼を言われるだけでここまで憔悴感は出ないだろうに。
彼らを迎え入れた王子も何か察したのか、怪訝そうに眉を顰める。具体的な言葉こそかける事は無かったが、チラチラと彼の座席の方に視線を向けている。
王子は感情の変化の機微には聡いのだと思った。
もう事情を聞く時間は無い。
それに――大方、何があったのか予想はつく。
ラルフの気分を一瞬で氷点下にすることの出来る人物など限られている。
姉のクレアに会ったのだろうなぁ、とおおよそのあたりをつけることが出来たはいいが……
結局のところ、自分には彼に話しかける言葉を何一つ持ってやしないのだ。
彼の心情は理解できる、だがそんなことを他人に等しいカサンドラが知っていることはおかしいし。
逆に彼の心を一層ささくれ立たせることにしかならないのだ。
――舞台の上には黒い衣服に身を包んだ王宮楽士団の面々が配置に着き終わった。
時間を一分も
アッシュグレイの髪を揺らす指揮者が仰々しく観覧席に座る面々にお辞儀をした。
その堂に入った壮年男性の貫禄は凄い、離れていても圧倒される。
自信満々なオーラを放つ男性がスッと黒い指揮棒で空を撫でる。
と同時に、荘厳な音色がホール内を包み込んだ。
観覧席は仄暗く、周囲の景色は不鮮明。それ以前に、音楽を聴いている最中他所の座席をジロジロ眺めるものではない。
ふかふかで座り心地のいいチェアにゆったりを腰を下ろし、正面から迫りくる大音量の音楽に耳を澄ませる。
「……。」
……気になって何度か一つ席を離れて座るラルフの様子を確認する。
彼は右の手で頬杖をつき、足を組んだ姿勢のまま無表情に見えた。
苛立ちを顔に出して周囲に気づかせるような人ではないが、今日彼が機嫌よさそうな姿を見ていたからそのギャップが隠しきれていない。
出会うとは思っていなかった人に出会い、テンションがガタ落ちの模様だ。
不運な事だと自分で片付けないといけない、精神制御は大事。
だがしかし、言うは易いが気分というのはかなり繊細なものである。
それまでウキウキで最高潮で幸せを疑っていない時に、些細な事で頭をぶたれるような衝撃があったら一気に斜面を直滑降。
一度ズーンと下がったテンションを持ち上げるのは自力では中々難しいことだ。
人間の感情は負の方向に傾きやすいことはカサンドラも良く知っている。
恵まれているはずなのに、些細な事を「
だって自分「が」腹立たしいし、悲しい。
不機嫌を隠しムスッとしていない分だけ、ラルフの対外的な印象を取り繕う仮面は分厚いのだろう。
それから一時間近く、美しいオーケストラに心を奪われつつも。
ふと横を見ると、変わらぬ様子のラルフが視界の端に映って現実を思い知らされる。
この演奏会が終わるまでには、気持ちを持ち直して楽しい気持ちを取り戻すことが出来ればいいのだけれど。
ついつい心配になってしまう。
リタのこともあるし、折角の機会に彼が嫌な思いに捕らわれるのも嫌だった。
ドン、ドン、と。
大太鼓が一定のリズムで叩かれる音に合わせて、カサンドラの心臓もドキドキ鳴り響いていく。
※
一旦休憩を挟んだ後、次はラルフもヴァイオリン奏者としてステージに上がることになっているのだとか。
王国で最高峰の音楽団の後半で満を持して参加できるラルフの能力の高さに今更ながら驚きを禁じ得ない。
ここに至って彼のスペックに驚くことは無いと思っていたのに、やはり特殊な才能の持ち主なのだと唸らされる。
「さて、」
休憩とは言え会場内に改めて明かりがともるわけではない。
薄暗がりの中、演奏会を特等席で聴いていた人たちが小声で雑談を交わし、喧騒一歩手前と言ったところだ。
「それでは僕も準備に向かわなければ。
……リリー、ここでカサンドラ達と聴いていて欲しい」
席を立ち、ラルフはチェアの縁に手を掛ける。
「はい、分かりました」
リタは去り行くラルフを見送ろうとして――
何故か、腕をずいっと彼に向かって伸ばす。
衝動的な動きだったのか、腕を伸ばしたリタ自身も何故か驚いている。
椅子に座ったまま彼の黒い燕尾服の尻尾をぎゅっと掴んでいるのだ。
唐突な彼女の挙動に、ラルフは暗がりの中でポカンと口を開けている。
カサンドラも彼女が隣に座っているから目で追えたものの、そうでなかったら突拍子もない彼女の反射行動に気づけなかっただろう。
「ラルフ様。
元気、出してください。
……ええと、そうではなくて……
ラルフ様の演奏、とてもとても楽しみでした!」
出来る限り抑えた声量でも、やや挙動不審で不鮮明なフレーズでも。
掴んだ服の裾からパッと手を離し、拳を握りしめて頑張って励まそうとしているのは伝わってくる。
「――ありがとう」
彼は表情を緩め、大きな掌でリタの頭を優しくポンポンと叩いた。
時間が迫っている事もあってラルフは席を離れて行ったけれど、随分と気分が上向いたように見える。
なんだかんだ言って、彼も自分の好きな
他の誰が言っても響かないだろうに、発信者によって受けての心象はこうまで変わるのか。
頭を優しくぽんぽん撫でる、それが絵になるのは美形だからか。
たまに忘れかけるが、元は乙女ゲームで恋をするために生まれて来た男の面目躍如である。
感心した様子で眺めていたカサンドラだったが、リタがやや慌てた様子でカサンドラに耳打ちしてきた。
蚊の鳴くような本当に辛うじて耳元で聞き取ることのできる、貴重なリタの囁き声に違和感しかない。
ひそひそ。
『もしかして私、
彼女の表情は仄暗い会場内でも分かるくらい真っ青だ。
耳打ちした後頭を抱え……いや、思いっきり押さえるという挙動不審ぶり。
「……。大丈夫ですよ」
思わず絶句しかけた。
別にラルフはウィッグのズレを指摘するために頭を撫でたわけじゃない。
肝心なところで、鈍感な乙女ゲームの主人公ムーブ……!
「あの、カサンドラ様。
……先ほど、その……
クレア様と、クレア様の旦那様に再びお会いしまして……」
「そうだったのですか」
予想は的中していたようだ。
「何故、ラルフ様は……お姉様のご結婚に頑なに反対されているのですか?
その、あの人らしくないなって、そう思いました。
お姉さん想いと言うには、少々表現が難しいと言いますか」
「リリエーヌさん。
これはわたくしの推測ですが……
ご家族に”反対される”ということは、それに足る理由があるのではないでしょうか」
「………。」
釈然としない表情だったが、リタは黙り込んでしまった。
物凄く大雑把に言えば、姉想いはシスコンとも呼ばれる。
美談になるか揶揄の対象になるか、呼ばれ方で大きく変わるものだ。
彼がお姉さんの結婚に反対した時には姉を取られたくないがゆえの嫉妬……だと思われがちである。
仲良しで大好きな姉が格下貴族の次男坊と結婚なんて、ヴァイル家の長男としても納得しがたい部分はあっただろうし。
周囲からは「聞き分けのない弟」とからかわれる場面が多く、ラルフは人前で滅多にお姉さんの話を出さない。
世の中には素晴らしい男性ばかりが存在するわけではない。
カサンドラにとって究極の理想像である王子のような男性もこの世に存在している。
とりたてて特筆することもない人畜無害な男性もいる。
そして当然、人としてどうかと思える男性がいることもまた事実である。
どうしようもない、いわばろくでなし系で外面だけは良い男性も確実に普通に生活しているのだ。
ラルフの姉は心優しく、自己犠牲精神に満ち溢れ、困っている人を放っておけない善良な……いや、善良過ぎる女性であった。
一般的には博愛精神を持った優しい女性は賞賛の対象だろう。
だがそういう女性は、何かの間違いで駄目男を好きになる傾向も高い……!
事業に失敗して大借金を抱え、勘当されかけた彼を助けてあげるため、また自分の想いを遂げるために親兄弟の反対を振り切って結婚にまで至ったわけだ。
愛?
それも、一つの愛のカタチなんだろう。
好きだから、愛しているから助けてあげたいという想いは尊いものなのかも知れない。
カサンドラとしては理解できない感情だが、他人の想いを否定できるほど偉い人間でもない。
問題があるとするなら、相手はその好意を無意識にか意識的には搾取することが多いという事だ。
傍から見れば女性側は不幸せにしか見えない、別れた方が良い。そう言っても、本人は愛が全てだから離れられない。
こればかりは外野が物申したところで、一層当人が燃え上がるだけという悪循環に陥る。
彼女にとって自分の想いを否定されることは悲しい事だから。
正面切って忠告したところで決して届かない。
世間知らずのお嬢様を手玉に取って、まるでヴァイル家への人質のようにあれやこれやと臆面もなく融通を頼んでくる。
――うっすらとした表現ではあったものの、暴力と言う形で手が出る事さえあったのだろう。
ダメ男という呼称によるオブラートを剥がせば、要は
でもお姉さんは旦那さんを『好き』だから一緒にいたい。
同じ世界で同じ言語を操り、同じ単語で同じように使っているはずの「愛」という言葉。
その意味の広さに眩暈を起こしそうだ。
カサンドラなら絶対にそんな愛はごめんだが、それは自分の価値観で強制出来ない。
苦言を呈することも出来ないなら、そっと距離を置くしかないのだ。
本人が幸せならそれを他人が間違っている、目を醒まさせないと、と悪戦苦闘するのはお門違い。
幸せの形は人それぞれ、”好き”という想いで日常が満たされるならもはやマイワールド状態、二人の世界でお幸せに……というわけで。
王子も長年クレアとは会っていないと言っていた。
今日の反応を思い出す限り、彼はクレアの相手はあまり良い人ではないことを知ってそれとなく反対したのかもしれない。
だとすると、向こうから避けられている……のかも。
親友の大切な家族が自分の価値観で測る限り、幸せではない状況にある。
もしそうだとすれば、なんと歯痒く痛痒の想いなのだろうか。
口を出す権利はない、でも一般的基準で言えば”不幸”に限りなく近い。
眉間に皺が寄りそうな、難しい顔になってしまう王子の心境を察してしまうカサンドラだった。
※
ラルフが参加する、王宮演奏会の後半戦。
彼は遠目からも、先ほどまでのモヤモヤを引きずっているように見えなかった。
気持ちが少し上向いたのならそれに越したことはない。
わぁ、とリタが感嘆の声を上げそうになって慌てて口を掌で覆う。
しっかりとラルフの婚約者役をこなしていた彼女だが、流石にずっと完璧に気を抜かずにいるのは難しいようだ。
感嘆の声くらいならセーフなはずだが、カサンドラの左側に王子が座っている。
彼は観察能力が高く目敏い人だ、全く別人の装いとは言えリリエーヌの正体が同じクラスのリタだと看破してしまいかねない。
一年以上同じクラスで過ごしてきたのだ、いつ気づかれてもおかしくなかった。
仮に王子に知れたところで何か問題が起こるようには思えなかったが、リタ自身が気を引き締めて出来るだけ秘密を最小限にとどめたいという気持ちは分かる。
一応リゼやリナにも内緒にしているらしいし、その覚悟は本物のはず。
例外をカサンドラ以外にも一人作れば、更にそこから広がっていくことは想像に難くない。
きっと踏ん張りどころだから頑張れ、と。
冷や汗を流すリタの横顔に声に出せないエールを送る。
それからはしっかりと『リリエーヌ』である自分を保ち、表情を大きく変えずに良家のお嬢さんであろうと背筋を伸ばしてステージの上を眺めている彼女。
リタの素の性格を考えると、ラルフの姉のクレアとは全く違う。
彼女はそんな歪つな、不健康とでも言うべき関係とは無縁。
優しいには優しい、でも燦々と照りつける太陽のような明るさが伴っている。
あまりの健全さ加減に、ヒモ希望の男性の方が避けて通りそうだ。
当初ラルフがリナの事を気にしていたのは、雰囲気が何となくお姉さんに似ていたせいと言っていた。
自分の事を後回しにしてでも、優しくて誰かのために、という思いやりを感じる女の子だったから。
乙女っぽくふわふわっとした甘いお菓子のイメージか。
誰かが注意して見ていないと――ろくでもない人間に騙されるのでは、利用されるのではと姉の面影がちらついたことだろう。
勿論それは杞憂だ。
彼女は自分で自分の人生を切り開くポテンシャルを持つ”主人公”なのだ。
決して優しいだけではない、芯の通った女の子。
もう一度、横目でリタの姿を見る。
キラキラと目を輝かせ、奏でられる音楽にうっとりと酔いしれている彼女は自分の世界に浸っているようだ。
今ラルフの傍にいるのはお姉さんとは異なるタイプのリタ――か。
案外、全く違うからこそ救われているのかも知れないな。
そう思い、カサンドラは口元を微笑みに形作った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます