第393話 <リタ 2/2>


 リタは何とも言えない微妙な表情のまま、カサンドラ達のもとへと戻る。

 ラルフのお姉さんに会えた事は驚いた。


 どんな人なのか知りたいという想いは強かったが、その出鼻を挫かれるような衝撃的な出来事だ。

 とても儚げで華奢な可愛らしい女性。

 弟のラルフにそっくりなのに、纏う雰囲気は全く違って感じられた。


 大人しくて優しそう。

 ……でも会話の全てを旦那さんが主導していたように見えた。


 主体性が無い?


 たった一度会った人に対して持っていい印象ではない、と。リタはかぶりを振った。

 余りにも強い勢いで首を横に振ると、ウィッグが跳ね飛ばされそうだ。

 慌てて髪を押さえる――どうやら無事なようでホッとする。


 もしもウィッグが飛んで行ってしまったら前代未聞の大事故でしかない。



「無事にお渡し出来ました。

 やはりクレア様の持ち物でした」


 浮かない表情で戻って来たリタ。

 何かあったのかと心配そうなカサンドラと王子を安心させるように、ニコッと笑んだ。


「……。

 それは良かったです」


 カサンドラは胸元に手を当て、安らいだ表情を浮かべた。

 そこまで心配しなくても、自分の”秘密”をラルフの身内相手だからとべらべら喋るようなことはしないというのに。


 今までの自分の言動をざっと振り返ると、カサンドラが冷や汗をかく理由も分かるのだけど。

 彼女にフォローしてもらわなくても、このくらいならリタ一人でも行動できる。


 正体がばれないようにするくらい。




 ……正体、かぁ……




 もしも……

 自分が本当のラルフの婚約者だったら。

 リリエーヌなんていう想像上の人物でなければ。

 彼の姉であるクレアに、堂々と挨拶に行くことが出来ただろうに。



 こうやってカサンドラ達と一緒に社交の場に参加していると、時折勘違いしそうになるのだ。

 もしかしたら自分は本当は生まれながらに特別な存在、お姫様だったんじゃないか、と。


 見た事も触った事もない綺麗なドレスに身を包み、ラルフの隣に立ってニコニコ笑っていればそれで事足りる。

 夢みたい!



 幼い頃見て憧れた、セスカ伯爵令嬢のお嬢様になった気分だ。



 ああ、これが真実ほんとうだったらどれだけ幸せか。

 演技でない、素の自分だったら。



 馬車に乗ってヴァイル邸に戻り、服を着替える時に幸せな魔法は解ける。

 帰りの馬車に乗りたくないなんて贅沢な悩みなのだろう。

 一般人の自分がここに潜り込んでいることは、普通に生きていたらありえない奇跡。



 ラルフにかけてもらった”婚約者”という魔法もいずれは解けてしまう。

 明日になるか、来年になるかは分からないけれど。



 静かに砂時計の砂がサラサラと落ちていく。

 砂が残っている間は夢の国の住人でいられる。



 巨大な透明のガラスの向こうで、ただひたすら滑り落ちていく金の砂粒。

 ガラスに掌をへばりつけても、叩いても、流れ往く時間は変わりはしない。





 ――残りの砂の量さえ、リタには見えやしないのだ。






 ※





「待たせたね、リリー」


 リタより数分後、ラルフは戻ってきた。

 声を掛けてくれたのはとても嬉しいのだがその呼び名にいつもドキドキする。


 本名は短すぎ、愛称で呼ばれる事はない。

 もはや本当の名前が略称かと勘違いされるレベルである。


 自分が言わば妄想して創り上げたリリエーヌという人物に、まさかラルフが愛称をつけてくれるとは。

 中々無い経験に、今になっても戸惑いを隠すのに四苦八苦だ。


 彼が言うには、それが親密さをアピールするのに大きな手段――らしい。


 婚約者というていになっているが、それは表面上の事だけだ。


 決して本当の恋人ではない。その上ラルフは紳士的な男性なので、演技でも人前で過剰に触れてくるようなこともない。

 ただあまりにもよそよそし過ぎれば関係性を疑われてしまう。


 そんな時、王子がカサンドラの事を愛称で呼び始めた時に『これだ』と思ったらしい。

 言われてみればラルフが他に略称や愛称で誰かを呼んでいる場面は見たことがないし、呼びかけの言葉だけで親密度をアピールできるなら易い事だ。

 案を採用されたばかりの時は、慣れるまで苦労したものである。

 いや、動揺するという意味では完全にはまだ慣れてない。


 シャルローグ劇団のアルバイトが終わってからというもの、リタは毎週末ヴァイル邸にメイドとして働きに出ている。

 使用人として働くが、ほぼ行儀見習いのような扱いを受けていた。


 時には屋敷に返って来たラルフと打ち合わせをし、社交界に身を投じるにあたって必要な事を教えてもらったり。

 中でも社交ダンスの練習が一番好きな時間だった。


 大手を振って堂々と接触できる機会なんてそのくらいだ。

 指導は厳しかったが、月に何度かあるダンスの時間が待ち遠しくてしょうがなかった。



「もう顔見せは終わった?」


 王子が気さくに話しかける。

 いつも天高い雲の上の偉い人という風格、どこからどう見ても王子様な彼。

 幼馴染といる時は、年相応に見えることもあった。


「僕の方は終わったけど。

 実は……」


 ラルフは微かに言い淀み、チラッとリタの顔を見遣る。


「言いにくいことだけれど。

 エドガーがどうしても君に会って挨拶をしたいと聞かなくて。

 申し訳ないけど、リリーも僕と一緒に控室まで来てもらえないだろうか」


「私……ですか?」


 驚きの余り瞠目し、狼狽しそうになった。

 オーバーリアクションで仰け反らなかっただけでも自分を褒めたい。


 彼に同伴しての挨拶回りは出来るだけ控えておくのが共通認識のはずだった。

 本来実在しない人間である自分が、彼の婚約者でございますと大きな顔でついて回るのは後々困る。

 

 だからラルフ一人で楽団員に挨拶に向かったはずなのだが、リリエーヌにも会いたいなんてどういうことなのだろう。


「キャロル嬢に替わって礼を言いたいのだとか。

 ……時間はとらない、少しだけだから」


「喜んでお伺いいたします」


 ヒエッ、と小さな悲鳴が零れ落ちそうになる。


 もしかしたら、前回のケンヴィッジ邸で行われた晩餐会の話だろうか?

 つい先日、カサンドラの隣で凄い勢いで、その場にいないリリエーヌに対して謝意を口にしていたキャロルの顔が脳裏に思い浮かぶ。

 先方から熱望されているのに会いに行かないのも失礼だ。


 それに――王子も頑なに他の貴族達と接触を拒むリリエーヌの姿を見たら不審に思うかもしれない。


 ラルフも来て欲しいと言っているのだし、ここは素直に快く引き受けるのが吉だ。

 

 演奏会開始まで長い時間が残っているわけではない。

 終わった後はもっとごちゃごちゃ、人の出入りも激しくなるだろう。開演前にサッと顔を見せて姿を晦ませてしまえばいいのだ。


 カサンドラと王子が先に席に向かってしまったが、こちらの都合で随分待たせてしまっているなぁ、と申し訳なく思う。



「早く戻らないと、ですね」


「いや、別に。

 僕達がいなければいないで……

 いや、いない方が楽しく過ごせるんじゃないかな」


「それもそうですね」


「アーサーも先週から楽しみにしていたみたいだし」


 本当にあの二人は仲が良いなぁ、とリタは思わず頷いてしまう。

 こちらのイベントに付き合わせることになってしまったが、彼女達も楽しい時間を過ごせているのならギリギリ面目も立つ。



 ラルフの歩調は自分に合わせてかゆっくりめだ。

 二人きりで話す時には、リリエーヌに対してではなく”リタ”に話しかけてくれる。

 演技を徹底しなくてはいけない場面でミスを誘発しそうな気もするが……


 ごく自然に自分に話しかけてもらえるのが嬉しかった。

 外側リリエーヌではなく、内側リタの方を尊重してくれているような気がするから。







「おや、先ほど見かけた人影があると思って来てみれば――

 これはこれは、まさか彼女が噂の婚約者殿とは」


 その声にラルフとリタの足がピタッと止まる。

 ホール後方から伸びる通路を渡るため、双開きの重々しい扉を開く直前のことだった。

 ラルフが今まさに棒状の取っ手に指をかけんとする場面で、背後から聞き覚えのある声が向けられる。


 まさに”見つかってしまった”状態だ。



「君の言う通りだったね、クレア。彼女が君の義妹いもうとになる女性らしいよ。

 ……久しぶり、ラルフ君」

 

 片手を挙げて笑みかける青年。

 先ほど見かけたクレアの旦那様だが、彼の傍にクレア本人もぴったりと寄り添っていた。

 表情はにこやかに見えなくもないが、笑っているような気がしない。

 彼があまりにも糸目で瞳が見えないから感情が出てこないだけだろうか。


「……。

 アーガルドさん、御無沙汰ですね。

 僕に何か用ですか」


 ラルフは完全に虚を突かれた様子で数拍動きを制止させた。

 しかしすぐに気を持ち直し、彼ら夫妻に身体を向き直らせたのである。

 だがその声の響きは聞いたことがないくらい無機質で、リタはラルフを二度見した。


「おや、いつも言っているだろう。

 私の事を兄と呼んで欲しいと」


「ご厚意だけ頂きます」


 ラルフがここまで棘のある口調で言い捨てるのは初めて見たかもしれない。

 それは言葉遊びとは全く違う、心から嫌がっているようにしか感じなかったから。


「やれやれ……。

 相変わらずつれない子だね、君は。

 こんな時だ、そっちから顔を見せに来てくれてもいいじゃないか」


「貴方が参加している事など、今知りましたよ。

 珍しいですね。

 音楽に興味もないでしょうに」


「いや、何。

 たまには妻孝行もしなければならないと思ってね」


「そうですか、僕には関係ない事ですね」


 ラルフの口が逆三角形に尖っている気がする。


 あまりにも取り付く島のない彼の対応に呆れたのか、クレアの夫は大仰に肩を竦めた。


「相変わらず君の弟は私に対して辛辣だ。

 君の婚約者がようやく決まったと聞いた、良かったじゃないか」


「……どうも」


 果たしてこの二人はどんな関係なんだ? 自分はどんな立ち回りをすればいいのだ?

 背中から汗がツゥと一筋滴り落ちる。


 距離感を計りかねている時、アーガルドの視線がリタを捉えた。


 値踏みをされている感覚に、ぞっと悪寒が走る。その寒気を必死で堪える。

 じろじろと凝視されるのを黙って耐えていると、ラルフが肩を抱き、己が一歩前に踏み出した。

 それは彼の視線を遮るような動きで、少しホッとする。


 相変わらずクレアは穏やかな微笑を浮かべたまま、彼の傍にいた。

 時折、アーガルド程ではないがチラチラとこちらの様子を伺うような一瞥をくれてくるのがどうにもモヤモヤする。

 言いたいことがあるなら正面切って訊いてくれた方が良いのだが……



「はは!

 人と言うのは変われば変わるものじゃないか!


 ……私とクレアとの結婚をあれほど釣り合わないと否定しておきながら、まさか君自ら……

 彼女のような人を選ぶとは信じられない話だ。

 

 でもこれで私へのわだかまりが溶けたのではないかな?」


 彼は愉しそうに笑った。


 不安さを表情に出していたつもりはないが、一応自分リリエーヌ

話題の俎上に一緒に乗せられているようだ。

 身の置き場の無いリタに向かって、アーガルドはもう一度大袈裟に肩をひょいっとすくめてみせたのだ。



「リリエーヌ嬢、だったかな。

 彼は幼い頃からお姉さん想いの子でね、彼女との結婚にずっといい顔をしてくれなかったんだよ。

 それはしょうがない事だけれど、いつか分かってくれる時が来ると思っていた。


 ――現に彼は君のような出自の女性を見初めたわけだ。

 うん、うん。やはり愛は身分を越えるのだね。


 知らせを受けて驚くと同時に嬉しく思ったものだ。

 なぁ、クレア」


 呼びかけに応え、クレアは再び鈴の音のような綺麗な声を出す。

 


「ええ、本当に。可愛らしいお嬢さん、婚約おめでとう。

 好きな人と一緒になれるなんてとても幸せな事だわ。

 貴方も良い人と出会えて良かったわね、ラルフ」



「――。姉さん」



「何かしら」



「勘違いしないで欲しい、僕は貴女達の仲を認めたわけじゃない。

 気持ちはずっと変わってない」



 誤解の余地もない、彼の断固とした否定の言葉。

 それは冷えた音楽ホール内を更に底冷えさせるような冷たさをはらんでいた。



「はぁ……。

 君の姉想いぶりには頭が下がるよ、全く」



 困ったなぁ、と。

 実は全く困ったような気持ちは感じられない飄逸とした態度のアーガルド。

 後頭部を片手で少し掻いて、呆れの混じった嘆息を一つ。



「本人を目の前にしてその台詞を吐けるとはね。

 ……さぁ、行こうクレア。

 私はまだ彼のお眼鏡にはかなわないようだ」





 ラルフがお姉さんの事を慕っているという話は聞いたことがある。

 既に結婚してしまい、家から出て行ってしまったけれど。

 今でも当然親交があり、仲が良い姉弟なのだと思っていたが……




 ※





「き、緊張した……」



 彼らが颯爽と身を翻し、ようやく去ってくれたと分かった瞬間。

 リタは全身全霊を込めて大きな吐息を漏らした。

 張りつめていた緊張が弛緩し、一気に全身が緩む。


 腰砕けになってその場にへたりこみそうな心境でさえあった。



 ラルフの家族と会うのは緊張するに決まっているが、想像していた斜め上の緊張感だ。




「でもお姉さんが恋愛結婚って、凄いですね」



 思考と言葉。

 その意味を深く考える隙なく繋がって、口からいて出る。

 

 それはリタの本心だったからだ。

 お相手の男性を羨ましいとは欠片も感じなかったが、公爵家のご令嬢が周囲の反対をものともせずにゴールインなど夢が溢れる世界だと思う。



 だがあまりにも無神経過ぎた。


 言ってしまった直後に「しまった」と口を噤む。

 ラルフはお姉さんの結婚を反対していた側なのだ、今の会話からも察するに今も仲違いが解消したわけではなさそう。



 大好きなお姉さんをとられてしまったという事実は、何年経っても中々飲み込むことが難しいのだろう。

 姉妹しかいないリタには想像するしか出来ないのに。

 同意を求められても困るだろう。




 彼はこちらを見もせず、重たい扉を開ける。

 ギィ、と音を立ててゆっくりと射し込む光が眩しい。リタは反射的に目を細めた。







   「………恋だの、愛だの。

    この世から消えてしまえば楽になれるのに」







 耳が拾った彼の小さな呟きに、心の深い繊細な部分を思いっきり抉られる。

  




 台詞の是非を問う事も怖くて出来ないまま、無言でリタは彼に着いていく。

 本当に義兄アーガルドとそりが合わないのだろうなぁと凍り付く想いだ。

 いかなる相手でも器用に対応できるだろう彼が、あんなけんもほろろな応対をするなんてよっぽどだ。







   恋や愛が世界から消えてしまったら。

   ――とても暗い灰色の世界に変わってしまいそうだ。





 ありえない事だけど、もしもそんな世界が実現したらと脳内にイメージ像が組み立てられていく。




 愛が消えたら、リタの存在など骨さえ残らず消え去ってしまいそうだ。





 今の自分は彼への想いで満たされていて、そのせいで辛いこともあるけれど――毎日とても幸せだから。   

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