第392話 <リタ 1/2>


 急に予期せぬ方向から肩をぐいっと押され、リタは思わず身体を横に傾けた。


 体幹には結構自信がある。普段の自分ならよろめくこともないのだが、今の自分はリタではなくリリエーヌというお嬢様だ。

 普通のお嬢様……いや、女の子ならか弱い感じでふらっとよろめくはず。力いっぱい踏ん張るのは絶対駄目だ。


 一瞬の間に、リタはそう判断する。

 大袈裟にならない程度によろめくフリをするのは難しい。


「………おっと、失礼」


 体勢を崩したリタの身体が、カサンドラの腕に抱き留められる。

 ギリギリのところで踏みとどまろうと足に力を入れていたお陰で、カサンドラにぶつかって押し倒さずにすんだことにホッと胸を撫で下ろした。


 リタという障害物など眼中になかったかのような態度の青年に視線を向ける。

 悪びれた様子もない青年は、見た目は細い目が特徴的。

 パッと狐のような顔だなぁと失礼な事を考えてしまったわけだが。


 他人の事を第一印象でとやかく言える立場ではないが、彼を見た瞬間胸の奥がざわざわと騒ぎ立て始めたことに戸惑いを隠せない。

 見ためはごく普通の男性だ、二十代前半かそれくらい。

 少なくとも自分よりは年上。初めて見かけるだろう相手に対し、なぜこんなにモヤモヤした感情を抱くのか自分でも分からない。


 戸惑いを覚えて顔を曇らせる少し前、彼は一緒に連れている女性に向かって「クレア」と呼び掛けた。

 彼の視線と声に釣られるようにリタも同行している女性を視界に映し――


 声を失うくらい、驚いた。


 薄暗がりの中でも分かる金髪の美人さんというだけではなく、髪の色から瞳の色から、そして顔の造作もラルフの面影を感じる女性だったからだ。

 他人の空似という言葉は存在するが、これで他人だったら本当にびっくり仰天のホラーだと思う。


 光石の仄かな明かりの中で、彼女のくれない色の双眸がやたらとハッキリと浮かび上がっていた。

 細身で儚げな、まさに可憐で麗しいという言葉がぴったり似合う女性ではないか。


 リタがあまりにもじっと彼女を凝視していたせいだろうか。

 彼の体の後ろに隠れるように立っていたクレアと呼ばれた女性もまた、同じようにリタを見つめ返す。


 ドキンと心臓が大きく一度跳ねた。



 ラルフが女性だったらこんな姿をしているのだろうなぁ、と。ごく自然に納得してしまう。


 視線が互いに噛み合ったのは数秒のこと。

 彼女は軽い会釈をした後、何かリタに話しかけようとしていた。


 だが男性は構わず先を行こうとするので、彼の腕を掴んでいる彼女はそれに合わせるしかないようだ。

 クレアと呼ばれた女性が、ペコっと頭を下げた時。彼女の髪を飾る装飾も仄かな明かりを反射してキラキラと光っていた。綺麗なパールのイヤリングが揺れている。

 儚げな容姿も相俟って、かなり幻想的な様子であった。



「今の方、ラルフ様にそっくり……でしたね」


 煌めきを放つ金色の髪が音楽ホールの前方へと消えていくのをぼんやりと眺め、リタは細く長い吐息を落とす。



「……あの人はラルフのお姉さんだね」



 自分の思い違いではなかった事を王子が補足してくれた。

 ああ、やっぱり……と合点がいく。


 だが自分はともかく、カサンドラや王子が同じ場所にいるのに声も掛けずさっさと移動する彼らに違和感しかない。

 いくら薄暗がりで視界が悪いとは言え、王子だぞ?


 遠くからでも簡単に判別がつくような王子をスルーするなどということが起こり得るのだろうか。


「そ、そうなのですか。

 申し訳ありません、物を知らず大変失礼いたしました」


「彼女は積極的に外に出る人ではないからね。

 私も久しぶりに見かけた気がするけれど……

 会っていない期間が長かったせいか、顔を忘れられてしまったかな」


 王子が苦笑を浮かべるのを見て、リタは盛大に慌てた。


「王子を覚えていないなどありえません。

 視界が不良だったのでしょう」


 ラルフには姉がいて、既に既婚者だということは知っている。

 だが名前や容姿などはリタも聞いていなかったので、すぐに結びつかなかったのだ。

 あんなに容姿が似ているのに、他人の空似なわけがないか。



 ラルフのお姉さんは、ヴァイル家の長女だった。

 立場に相応しく、まさに高嶺の花とし表現できず。恐らく卒業したアイリスのような存在だったのではないだろうか。


 それにも関わらず、彼女が嫁いだ先はヴァイル派でもあまり聞き覚えのない家だった。

 リタもこの仮の婚約者役を全うするために、クローレス王国の貴族名鑑を見せてもらったことがある。


 元々暗記は得意な方ではない。

 全てを覚えきるなど無理過ぎて、とりあえずヴァイル派の主要なお家だけだけど。


 だがケンヴィッジやマディリオンと違って、目にしたことのない爵位。

 そもそも結婚相手は次男なので、家を継ぐとかそういう身分でもないらしい。


 リタとラルフと比べたら土台が違うが、それでも貴族一般の価値観で考えれば随分な格差婚だと思う。

 王子の話によると、恋愛結婚なのだという。

 本当は別の男性と婚姻するはずだったのが、クレアがどうしても今の旦那さんが良いと望んだから。

 結ばれるはずのない相手だが、必死の説得で父の許しを得たのだとか。


 リタにぶつかってしまった男性の連れが、まさにその旦那様。



 ……ヴァイル派は婚姻に関してはかなり自由なのかも知れない、と思った。


 リリエーヌという今まで存在さえなかったブレイザー子爵家の妾腹の娘でもラルフが選んだのだからしょうがない、と皆が渋々でも納得したのはお姉さんの例があったからか。

 格差婚をしている姉を持つから、自分にもチャンスがあるとラルフに執心していた女性も沢山いたのだろうなとも。



「カサンドラ様、どうかなさったのですか?」


 彼ら夫妻が去って以降、何故かカサンドラの表情が曇っているような気がした。

 それまでにこにこ微笑んでいたのに、眉を顰めて考え事をしているような素振りだ。


 もしかしたら自分がラルフのお姉さんを知らない事に”詰めが甘い”と呆れているのだろうか。

 背中が冷え行く想いがして、彼女の顔を恐々こわごわと見つめるリタ。


「ああ……いえ、何でもないのです。

 わたくしもお名前しか存じ上げませんでしたので。

 ラルフ様に似ていらして驚きましたね」


「やはり私からお姉さまのもとへ挨拶にお伺いするべきでしょうか」


 いくら仮初の婚約者とは言うものの、一世一代の大舞台での代役だ。

 ラルフの姉なのに、リリエーヌが顔も見せに来ないのは失礼だ! なんて思われたらラルフにも迷惑が掛かってしまうかもしれない。


「おやめになった方が宜しいかと思いますよ。

 ……差し出がましい言い方ですが、 リリエーヌさんはあの方たちと関わり合いにならない方が……。

 出来ることならば、その方が良いのだと思います」


 彼女はやや遠慮がちに、リタにそう意見を伝えてくる。

 ラルフのお姉さんと聞けば即座に傍に走って行って御機嫌伺をするのが小姑予定の彼女への礼儀かと思っていたが。


 


 クレアに自己主張アピールしに向かうのは、確かに違う。

 リタの件はヴァイル家でもかなり限られた人間しか事情を知らない。


 秘密を知っている人物の名にお姉さんの名はなかった、既にお嫁に行っているのだからヴァイル家とは直接関係ないという扱いなのかも。

 であれば、ラルフの許可なく勝手にリタが彼女に接触をはかるのは迷惑をかけてしまうかも知れない。


 カサンドラがやんわりとリタをたしなめたのも、余計な事をしない方が良いというアドバイスに違いない。



 リタは納得して頷きかけたが、その時視界の隅に光るモノに気づいた。



「………?」



 足元の床に、何かが落ちている。

 分厚いビロードの絨毯が敷き詰められた通路の上に、白い石がキラリと光った。

 スッとしゃがみこんで指先で抓み上げると、パールのイヤリングの片方が落ちているではないか。


 さっき一瞬見えたクレアの顔、その記憶を思い出すと同じものを身に着けていた気がする。

 ではこれはクレアの落とし物か。

 彼に引っ張られるような動きをとった時、ぽろっと落ちてしまったのかも。


「カサンドラ様大変です、クレア様が装飾品を落とされてしまったようです。

 あの……こちらをお届けするだけなら、大丈夫でしょうか」


 片方のイヤリングだけ無いと据わりが悪いのは、去年の生誕祭で自分が体験済である。


 彼女程の大物ならイヤリングの片方など取るに足りない捨て置けるものの可能性が高い。

 が、万が一カサンドラが身に着けている婚約指輪のように、旦那様からのプレゼントなら悲しむことになるだろう。



「そのくらいならば、構わないと思います……けれど……」


 カサンドラはやっぱり困った様子だ。正面切って制止する理由はないが、接触して欲しくないのは本心なのだろう。


 ならばカサンドラにも着いて来て欲しいと思ったが、お願いするのは気が引けた。

 どうやら彼女達に好意的な感情を抱いていないようだ。カサンドラにしては珍しい、と思う。そんな感情をリタに悟られるなんて……


 とにかく、名乗らなければ自分がラルフの婚約者リリエーヌであると彼女が知る術はない。

 王子やカサンドラを引き連れて行ったら「一体何者!?」と警戒されかねないので、自分一人で持って行くのが吉だろう。



 このイヤリングを返しに行くだけだから。



 もしも持ち主でなければ、謝って引き下がれば良い。



 あの旦那様の雰囲気はどうも好きになれないが、何せラルフのお姉さんと僅かでも話が出来るチャンスだ。


 王子でさえ殆ど会ったことがないというラルフのお姉さん。

 この機を逃せば二度と見かけることもなくなってしまうのだろう。


 胸中に広がっていたのは、あれやこれやと理由をつけても――大部分を占める、好奇心。



 パールの装飾品を掌の中におさめ、逸る心臓の鼓動を必死で抑える。






 ※




 ホール中央近くの席に、クレア達の姿を見つけた。

 まだ開演していないので舞台からの光源も乏しく、会場全体が薄っすらと暗い。


 視界もすっかり暗所に慣れて来た。今、ホールの外に出たら強い日差しに目つぶしを食らったような状態になるに違いない。

 躓かずに席と席の間を移動して降りていく。

 音楽ホールはシャルローグ劇団と同じく観客席がステージから遠ざかるに連れて高くなっていき、とても見やすい位置となる。


 劇団が地方巡業に向かいアルバイトも終わってしまった今、リタにとっては懐かしさを覚える内装の配置だった。



「失礼いたします、クレア様」



 出来るだけ大きな声にならないよう、椅子に腰を下ろす彼女の横から呼びかける。


「――私の妻に何の用かな」


 彼女が反応するより早く、リタの呼びかけに答えたのは旦那さんだ。

 少し前屈みになり、リタを仰ぎ見る彼の視線はどこか蛇を思わせる。




   ええい。さっきから人様の旦那さんに対して何を考えているのだ自分は。

   失礼過ぎる。




「こちらのイヤリングは奥様が落とされたものではないでしょうか」


 握りしめた掌を彼女の前でそっと開くと、彼女は「そうです」と小さく頷いた。

 初めて聞いたラルフのお姉さんの声は静かで落ち着いたもの。控えめだが鈴の音のように美しい声だった。

 たった一言、耳に触れただけなのに。


「わざわざご苦労。

 また落とされても困るな、私が着けよう」


 リタの掌に向かい、にゅっと男性の手が伸びてくる。


 まさかそっちから回収されるとは思っておらず少し仰け反ってしまったせいか、彼の指先が触れたイヤリングが再び絨毯の上に落ちてしまったのだ。

 彼はムッと不快そうに眉根を寄せる。

 落としたのはお前のせいだぞとでも言いたげなその視線にリタは慌て、再度しゃがみこむ。


「すぐに拾います!」


 幸い分厚い絨毯に守られている、どこかに転がってしまうことも傷がついてしまうこともないはずだった。



 キラリと光沢を放つイヤリング。

 それはクレアの足元にちょこんと申し訳なさそうに横たわっていて、急ぎ摘まみ上げようとしたのだが……





   ……ん?

 



 真の前にはクレアの足がある。

 すらっとした綺麗な脚を覆うように裾の丈は長い。

 彼女のくるぶしまで蒼いドレスが覆い隠していた。


 だがその僅かに覗く白い脚の素肌に……


 うっすらとミミズ腫れのような跡が残っていることに気が付いた。

 細い赤い筋が何本も、交叉するように。

 引っかき傷にしては跡の残り方が酷いと思う。


 転んで怪我でもしたのだろうか。

 案外、おっちょこちょいさん?


 釈然としない想いをしながらイヤリングを拾い、今度は努めて慎重に旦那さんへ手渡した。

 ふと気になって、椅子に腰を下ろすクレアの様子を横目で確認すると……



 手の甲あたり、そして首元にも腫れた跡がチラッと覗いているような気がした。

 見間違いかもしれない。



 その腕にも身体にも実は跡があるのではないか? と一瞬穿ってしまう、赤い膨らみ。

 日常生活で切り傷や擦り傷を負う事が多いリタである。自分が人の事を言うのはおかしいかも知れないが、自分とクレアは違う。


 貴族の奥様が傷だらけになるってどういう状況だ?


「わざわざ届けてくれたのね、ありがとう」


 自分よりも年上だろうに、可愛らしいとしか表現できないクレアの微笑みに、リタはドギマギする。

 顔がラルフにそっくりなので、余計に。

 三つ子だけど雰囲気が違うと言われ続けてきたが、こんな気持ちなのか、と初めて他人から見た自分達の姿を思い知らされた気がした。






 そういえば王子もカサンドラも、あまりこの二人の存在に触れたがらなかったなぁと思い返す。

 ジェイクの弟のグリムとはかなり懇意にしていたようで、友人らしく見えたものだ。



 異性だから会う機会が無かったのかな、と納得させようとする。



 好奇心に駆られてお姉さんに会いに行ったというのに、まさかこんなモヤモヤした気持ちになって引き返す羽目になるとは。






 あの傷跡、古傷には見えなかったな。

 雪のように真っ白な肌だから余計に浮き上がって感じたのか。


 まるで鞭にでも打たれたような………?




 鞭?

 ……?


 




 思わず途中で立ち止まり、リタは顔面蒼白になった。







「いや、いやいや。無い無い」






 いくら貴族には倒錯した趣味を持つ人も多いらしいと言ったって、流石にそれはないと思う。

 今会ったばかりのラルフのお姉さんとは到底結びつかない。





   脳内で唸る鞭が乱舞する……!





 失礼過ぎる自分の、更に逞し過ぎる想像力。


 心の中の自分に、自ら往復ビンタを食らわせた。


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