第389話 彼女はどこに
四月ももう終わりを迎えようとしている。
一か月という時間の流れは早く、あっという間だ。この一月だけでも随分密度が濃かったなぁ、とカサンドラは思い返して苦笑した。
食事を終え生徒各々、長めの昼休みを思うように過ごしている。
今日は初夏の訪れを知らしめるかのように、暑い一日だ。
たとえどんな真夏の陽の下でも、女子間のピリピリした丁寧さという皮を覆いかぶせた悪口のやりとりは寒々しい。
辛辣な雑言が飛び交い、その都度凍り付き空気も冷やされる場面に何度も遭遇したことがあったものだが――
現状は幸い、腹の中で皆が何を思っているのかは分からないが表面上は穏やかだ。
女子の派閥間対立がすっかり鳴りを潜めているので、静かだが寒々しい皮肉や嫌味の舌戦応酬を見かけることも滅多にない。
平和だ、としみじみ思う。
※
いつもより気温の高い一日だった。
春にしては陽射しが強い、たまにはそんな日もあるだろう。
まぁ、いくら暑かろうが、空気を凍らせるような冷たい言葉のやりとりを聞きたいわけではない。
じんわりと浮かぶ汗を白いハンカチで静かに拭った後、カサンドラは廊下を足早に歩き始めた。
午後の講義のため、早めに講義室へ向かうことにしたのだ。
講義室内で最も涼しく風通しの良い席に着きたかったら、なのだが――
どうやらカサンドラの他にも同じことを考えている生徒がいたようだ。
講義室の後ろの扉をそっと開けて中に入ると、広く静まり返った室内に人影が見える。
歴史学に使用される講義室の一番後ろの長机。
窓側の端っこにちょこんと座っている人影が見えた。
一人一人専用の机と椅子が用意されている教室の席と違い、講義室の机は一列に数人が座って聴講できる造りになっている。
長机と長い椅子は完全に建物構造物の一部と化していて生徒が自由に動かすことは出来なかった。
その女子生徒が座っている席は当然カサンドラも狙っていた席。
窓際の席は透明なガラスから陽光が射し込んで暑くなると思いきや、その席に限っては大樹の幹や枝が真上からの直射日光を遮ってくれる。
風通しも良く、日陰になる場所なのだが先客か……しょうがない。
席は早い者勝ちだ。
運が良かったのは、扉の方に背を向けて椅子の端っこに座っている生徒はカサンドラの友人の一人だとすぐに気づけたことだ。
肩で揃えたふわふわの栗色の髪、黄色のリボン。
正面に廻って顔を見なくても分かる、席について窓の外を眺めているのだろう少女はリタに間違いない。
友人の隣なら長椅子でも隣同士座りやすい。
カサンドラはホッと胸を撫でおろす。
片手に携える鞄を机に置くため、カサンドラは彼女の近くに歩み寄った。
「リタさん、偶然です……ね?」
リタの姿を視界に入れたのはいい。
しかし、それと同時に完全に固まってしまった。
「あーーーー、あっついーーー。
……あ、カサンドラ様!」
リタは椅子の端っこにガバッと両足を広げて座り、制服のスカートを掴んでばっさばっさと上下させている。
行為の意味はカサンドラにも理解できた。
理解は出来るが、その光景を脳が拒みたくなる。
スカートの中に風を送り込んでいるのだろうなぁとは思うものの――
無人の講義室をいいことに、そんな行動をとる女子がいようとは思わなかったので二の句が継げない状況であった。
暦の上では春。
まだ制服はブレザーの着用が定められていたので、暑いのは皆一緒だ。
だからと言って、この学園でスカートを捲り上げながら太ももを露にするような女子生徒はリタ以外にはいないのではないか。
普段短いズボンを穿くことの多いリタだ。彼女の健康的な太ももを見るのは別に初めてではないのだが、制服でそんな見え方はコメントに困る。
「リタさん、いくら暑いからと言って……」
話をする間にも、バサバサとスカートが上下している。
こんな姿をご両親が見たら泣くぞ、とカサンドラは心の中で突っ込みを入れる。
……いや、リタだからご両親も気にしないのか……?
少なくともラルフには見せられない姿である。
「……あ、ごめんなさい!
暑くてつい……!
そうですよね、女の子同士って言ってもカサンドラ様の前……
すみません」
困惑するカサンドラの視線に気づき、リタは慌ててスカートを元の位置に戻して両足をバチンと閉じた。
痛そうな音と、引きつり笑いのリタの顔。
「いつ他の生徒が入ってくるか分かりません、気をつけてくださいね」
「はーい」
リタはスッと視線を逸らす。
去年の夏にも、同じようにはしたない行動をとっていたのではないかと想像させる目の逸らしようだ。
自由気ままで、思考と行動が直結している女の子だなぁ、と何となく苦笑いが浮かんでくる。
この場にリゼがいたら
しかし……
目の前で視線を泳がせる一般女子生徒、リタ。
彼女は本当にリリエーヌと同一人物なのか? と、今更ながら疑問に思ってしまう。
ラルフの隣にいた彼女の姿はどこからどう見ても良家のお嬢様にしか見えなかった。
今まで学園の講義で培ってきた立ち居振る舞いやマナーを完璧に見せつけるように、どこに出しても恥ずかしくない令嬢然たる姿だったとうのに……
着ている服や化粧などを差し引いても、とても眼前のリタがリリエーヌに変じるとは信じがたい。
事情を知っているカサンドラでさえこうなのだ、絶対に正体がバレる事はないだろう。――それは良い事なのだが、複雑な気持ちだ。
リタの存在に気づき、最初に声を掛けたのがカサンドラだったことはリタにとって幸運だったに違いない。
「カサンドラ様、ごきげんよう。
今日は暑いですね」
直後、一人の美少女が入室してきた。
にっこりと朗らかに微笑むお嬢様、最上級生のキャロルである。
「ごきげんよう、キャロルさん」
ゆったりとした動作なのに足取りも軽い彼女が、微笑みを讃えながらカサンドラのいる窓際に近づいてくる。
キャロル、という人名を耳にしたリタはビクッと肩を跳ね上げる。
机に座ったまま、やや前傾姿勢。訪れた先輩に顔を見せないよう視線も窓の外だ。
「カサンドラ様の姿をお見かけしたもので。
私もご一緒して宜しいですか?」
「ええ、勿論です」
鞄を持って階段を登るカサンドラを見て、同じ講義を受けるのかも知れないと思ったキャロルは急いで支度をして訪れたという。
その突発的な行動に、お付きの女子生徒の姿も彼女の傍には見られない。いわゆる”撒いた”状態なのだろう。
「ところでそちらの方は……まぁ、貴女は……ええと、リタさんで宜しかったかしら。
お久しぶりですね」
カサンドラの体の向こう、息を潜めて存在感を消そうとするリタ。
だがひょいっと覗き込まれ、姿を視認されれば隠れる術などありはしない。
先ほどのはしたない行為を覗かれなくて良かったと前向きにとらえるべきか。
「……はい、リタです。こ、こんにちはー」
彼女にしては小声だった。
ニコニコ楽しそうに明るい顔のキャロルとは対照的と言えるだろう。
話しかけてくれるな、という言外の彼女の意思さえ伝わって来る。
礼法作法の講義に多く出席しているリタだ、彼女とも面識があってもおかしくない。
「同じ机を使っても?」
「どうぞどうぞ――あ! 狭かったら私、前の方に移動するんで」
「いえ、余裕はこの通り十分です。
お気遣いは必要ないですよ」
リタとしては生きた心地がしないというか、冷や冷やものな事態に違いない。
まだ講義が始まるまで時間がある。一番に良い席をゲットするために急いだのだから当然のことだ。
だが延々と立ち話をするわけにもいかない――時間つぶしように読みかけの本を鞄に忍ばせているのだが、それを開くことは今日はないだろう。
一番窓側の位置に座るのは、口を噤んで出来る限り気配を消そうと目論むリタ。
彼女の右隣にカサンドラが座り、更にカサンドラの右にキャロルが、という今までにない並びに妙な感覚を覚える。
リタの心情も考慮し、出来る限りキャロルの意識を彼女から逸らさなければといつも以上にカサンドラはキャロルに積極的に話しかけていた。
席を立たなくても良いと言われた手前、これみよがしに場を離れるのも気が引けるのか。
それとも立ち上がり動くことで彼女に注視されたくないのか、リタは石像のように動くことはなかった。容姿は誤魔化せても背格好は変えられないし、自分でも気づけない仕草、癖に気づかれていたら面倒なことになるかもしれない。
心配しなくても、事情を知らない人間がリタとリリエーヌが同一人物なんて気づけるはずがないというのに。
まぁ、姿かたちを変えることは出来ても声だけは気を抜けば悟られてしまう可能性はあるか。
以降、だんまりを決め込んだ彼女の選択は正しいのだろう。
しかし楽しく談笑を続けるキャロルの視線が、自分の肩を通り越してジーーーーッとリタに向けられていることに気づいてしまう。
ふふふ、と朗らかに微笑む彼女はただひたすら一点、リタの姿を凝視しているわけだ。
流石にガン見し過ぎではないか。
ちょっと怖いと思った。
「キャロルさん、リタさんに何か?」
「ああ……いえ。
カサンドラ様、リタさんって……どこかリリエーヌさんに似てません?
つい気になってしまって」
思わず真顔になってキャロルとリタを見比べたくなる。
彼女の指摘は正しいのだが、何故?
リタにとっては失礼なことだが、お世辞にも似ても似つかぬ外見なのだ。
お化粧とドレスパワーの凄まじさに仰天しているくらいだ、どこを切り取っても重なることはなかろうに。
カサンドラの脳裏には、大股を開きスカートをたくし上げてばっさばっさと風を送り涼むリタの姿が焼き付いている。
一層、「何故!?」と疑問符が乱舞してしまう。
「いいえ?
わたくしは全くそのように感じたことはなく驚きました。
一体何故そのような錯覚を?」
「……ですよね。
何故か雰囲気が似ている気がしたので、的外れなことを言ってしまいました」
「リタさんもリリエーヌさんも、どちらもわたくしの友人であるという点は同じですけれどね」
「彼女のお顔を見ていると、三姉妹の顔が浮かんでしまいました。
私にも何故かは分からないのですが」
「三姉妹と言いますと、”あの”?」
予期せぬ名の登場にカサンドラも表情が曇る。
キャロルとカサンドラの共通の知人で有名な三姉妹など、三つ子かケンヴィッジ妾腹三姉妹しかいない。
こういう話題の出し方なら、間違いなくケンヴィッジ侯爵家のあの姉妹をさすのだろう。
「――アリーズさんとお話をする機会があったのです」
「また何か酷いことを言われたのですか?」
更にカサンドラの眉間の皺が深く濃く刻まれる。
この間の晩餐会で醜態を晒し退散させられたにも拘わらず、なおもキャロルに接触をはかるなんて想像できないことだった。
「それが」
しかしキャロルは「未だに信じられないのですが」と言葉を続ける。
長年自分を虐め、ストレスを与えてきた相手だ。
絶対に会いたくもないし話もしたくない、姿さえ見たくない。
キャロルが三姉妹を忌避する心情はよく分かるし、カサンドラだって彼女達の姿を遠くからでも見かければ回れ右をしてしまうくらい関わり合いになりたくない人たちである。
「急に、あの人に謝られてしまったんです」
真夏に雪が降っても、こんなに唖然とすることはないだろう。
キャロルは未だに夢か現か状態で、困惑している。
「えっ??」
カサンドラも変な声が出てしまった。
謝るって。
……とてもあの図太く鋼鉄製の神経を持った彼女達に似合わない行動過ぎて、全く光景が想像できない。
「突然謝られたからと言って、私も気持ちが切り替わるわけではないのですが……
ただ今後は無関係だというあの人の言葉に、ホッとしたことは覚えています」
「もしかしたら、上の方々に注意を受けたのかもしれませんね」
王子とラルフはアイリスの意向を無視して侯爵に厳しく言うような人ではない。
だがあの晩餐会の態度が流石に目に余ると、直接とは言わず間接的にも侯爵に苦言を呈した人がいてもおかしくない。
何せ王子も状況的には非難していたと言って差し支えない状況、今まで侯爵の勘気を恐れて口を噤んでいた者も大手を振って注進できたのかも。
ケンヴィッジ侯爵が遅まきながら現実を知り、三姉妹を叱った――というなら、まだ分からなくはない。
どちらにせよ遅すぎる話だけど。
「それが……リリエーヌさんと話をしたから……という事を言っていたので」
彼女は口元に手を添え、不思議そうに語る。
キャロル自身も一体何があったのか詳しいことは知らないのだから、それを聞かされるカサンドラも猶更訳が分からない。
ただ、謝ってもらったという事実だけが本当なのだとしたら――
それは二度と同じような事態が生じない可能性が高くなるという事で、万々歳なことに変わりはない。
トラブルなんかないほうが良いに決まっている。
アイリスだって、もしも同じように彼女に謝ってもらえたとするならどれだけホッと肩の荷が下りることだろうか。
誰かが彼女達を無理矢理上から押さえつけ悪事を糾弾しなくても、自分の判断で離れてくれるのならこれ以上誰も傷つくことはない。
勿論、キャロルからしてみれば本人が言う通りモヤモヤは残るだろう。
散々暴言を吐かれて尊厳を傷つけられ、性格まで変わってしまうくらい怖がっていた。
たった一言で無かったことには出来ないし、逆にこれ以上反論も恨み言も言えないのだから――釈然としない、すぐにはいそうですか、と受け入れる事は難しいだろう。
カサンドラだったら、散々な目に遭わされて「ごめんね」の一言だけ言われても、逆に嫌悪感を抱くかもしれない。
今までの苦しみに見合わない、でも謝られたのだから許さないといけないのかと。
戸惑いながらも謝罪を受け入れたのだからキャロルの度量は広いとさえ思うのだ。
思わず隣に座るリタに事実確認をしたくなる衝動を必死で堪え、カサンドラは神妙な顔つきで相槌を打っていた。
「リリエーヌさんはもしかしたら、私のことを心配して下さって、あの人たちに勇敢にも抗議してくれたのだと思いませんか!?
私、謝られたことよりもそちらの方が驚いて嬉しかったのです。
ああ、本当に彼女は素晴らしい方……」
何だろう。
果てしなくキャロルが何かを思い誤っているような気がしないでもない。
少なくともリタは誰かをガツンと怒ったり叱るような性格ではないし。
仮に厳しく注意したからと言って、彼女達が聞く耳を持ったなんて思えない。
だが彼女の脳内では、リリエーヌが自分のために行動してくれたというストーリーが展開されている。それを否定するほどカサンドラも野暮ではなかった。
「次はいつお会いできるのかしら。
今からそればかり楽しみで」
どうやら今週末の演奏会、キャロルは鑑賞に行かないようだ。
この勢いだと王宮で彼女と鉢合わせでもしていたら延々と話しかけられていたに違いない。
彼女が不参加なのは、リタにとって再度の幸運と言えるだろう。
「……はぁ、リリエーヌさんも今から学園に入学なされば宜しいのに。
来年以降では、私もう卒業してしまっています」
すぐ傍に、いるよ。
完全に気配、存在感を消そうと普段よく喋る口を一文字に結び、懸命にこの胃の痛い空間を耐えているリタ。
リタの姿を見て、本来重ならないはずの二人を強引にでも結びつける程入れ込んでいるのだろう。
面影を感じて「似ている」と口走ってしまうくらい、鋭い嗅覚を発揮した。
両手を組んで恍惚とした表情、キャロルの夢見心地の様をカサンドラは居たたまれない気持ちでいっぱいである。
時として、真実を知らない方が気が楽なこともある。
もしも二人が同一人物だと知らなければ何ということもない会話なのに、リタの冷や汗がこちらにまで伝わってくる。
完全にほわほわと桜色の光の粒が舞い散るキャロル。
カサンドラは胡乱な瞳で夢見る乙女を眺めていた。
※
後にリタは苦虫を噛み潰した真っ青な顔で、心境を吐露する。
死んだ魚のようにどんよりと濁った目だった。
「――カサンドラ様達が話をしている間中……
私、窓から飛び降りたくて飛び降りたくて仕方ありませんでした」
「……。三階ですよ?」
架空の婚約者を演じるのは、楽ではないという事らしい。
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