第387話 伝えたい


 シンシアが俯きながら途切れ途切れに話してくれたことは、カサンドラにとっては衝撃的な話だった。


「私、気づかない内にベルナールさんを傷つけていたんです」


 外野――カサンドラや身近にいる友人のリナにとっても、二人はこれ以上ない程仲良しに見える。

 付き合うに至る経緯こそ唐突で、驚きに値するものだったけれど。


 一目惚れしたとか言うベルナールが渾身のアプローチでシンシアと交際を始め、その後婚約までこぎつけたことは記憶に新しい。

 去年の年末、意気揚々とレンドールにある実家にシンシアを連れて帰ったことも伝え聞いているわけで。

 ウェッジ家長男の嫁だから、形式上侯爵である父クラウスの許可が必要で対面したとも。


 控えめで穏やか、優しく家庭的なシンシアはベルナールの両親にもクラウスにもとても良いお嬢さんと映った。

 中央の商会と伝手も出来るといいことだらけの婚姻話で、何もかもがトントン拍子に進んでいく様子が「これが縁ってものか」と周囲を感嘆させるに至った。


 だが順風満帆で不安などなかったはずのその関係は、とあることがきっかけでシンシアに大きなショックを与えたのだ。



 ベルナールは意外にも好きな人に対して積極的で、好意を伝える事も全く厭わず傍から見てもベタ惚れ状態である。

 その熱意に半ば絆されるように、付き合いを続けることにしたシンシアだが……


「あの人をずっと不安にさせて、傷つけていたんだって気づいてしまいました」


 いつも自分の事を好きだと言ってくれる人。

 態度や行動に表して、自分を肯定してくれる人。


 別に彼女がそれにずっと甘えていたわけではないのだろう。

 ただ、彼女の性格上ベルナールほどはっきりと想いを口にすることが出来なかった。

 恥ずかしいという気持ちも強かっただろうが……



  言葉にしなくても分かるはず。伝わってるはず。



 シンシアはベルナールのために手作りのプレゼントを欠かさなかった。

 直接的な気持ちを口にする必要などない、見ていれば分かるくらい明らかにシンシアも彼の事を好きなのだ。

 好きになったのがどちらが先かなど関係ない。

 彼の熱心で誠実な行動力は彼女に結婚を意識させるものだったのだから。


 だけどシンシアは、絶対に彼が言わないだろう――言うはずのない言葉を聞かされた。

 およそベルナールが言うには相応しくない、恋人にそれを言われたら心が抉られる一言。






     『俺の事、ホントに好きか?』





 悲しそうに、躊躇いがちにぽろっと漏れ出た彼の声に彼女も戸惑う。

 だってそんな質問は今更ではないか。

 付き合いを継続する時に「好きだ」と言った。

 その後もずっと一緒に過ごして、結婚の約束までして、色んなものを彼のために作って――


 それでもなお、これ以上どう行動で示せというのか。



「そんなの、わかりきってることじゃないですか。

 でも……

 私はいつも言われてました。好きって言われて嬉しいって思ってたのに。

 その時初めて気づいたんです。

 ……ああ、私最後にあの人に好きだって言ったの、いつだったかなって。


 …………こんなにずっと一緒にいたのに、何か月も前のことしか思い出せないんです」



 ベルナールにしてみれば、自分の気持ちを言うことに何一つ抵抗はなく素直で、そしてカサンドラも思いもよらない情熱的な一面を持っているのだと知ってしまった。

 だがそんな彼でさえ、いつもいつも自分ばかりが、と冷や水を浴びせられたような感覚に陥ることがあったのかと吃驚した。


 一緒にいるのだから気持ちは伝わっているはずなのに、それでも不安になったのか。

 関係性を埋めていき、憂いが何一つなくなった後だから、もう引き返せないところまで彼女を引っ張ってしまったから。


 「それくらい分かってやれ」とベルナールを責める事は容易いことだが、自分が向ける感情に返ってくる言葉が少ないことに身を焦がされるような焦燥感を抱く――

 そんな不安も成程、分からなくはない。

 人は他人の気持ちを正確に測る手段を持たない。


 態度だけでも、言葉だけでも不安になる時は不安になる。

 相手の考えていることを直接覗くことは出来ないから。気にしてないと嘯きながらも、心の奥底でははっきりした言葉を求めてしまうものなのかもしれない。


「ベルナールさんの思い込みが激し過ぎじゃないかな……? 私はそう思うけれど。

 シンシアさんが言葉にしなくたって、あんなに想いを籠めたプレゼントを送ってきたのを知ってるから」



「………。

 確かにそうかもしれない。

 でもね、私、元々それは趣味だし、好きな事だもの。

 料理を作ったり、裁縫したり――自分の好きなことだから。

 私は私の好きな事だけしてたのかも知れない。それで完全に伝えた気になって、大切な事はいつも恥ずかしいから黙ってたの」


 当人を目の前にして自分の好意を恥ずかしげもなく堂々と言える人の方が少ないだろう。

 ましてや相手はシンシアだ。

 明確な言葉を求める方が野暮だと思う……けれど。


 そういう外野からの理屈は、一度不安に陥った彼には届かないのだろうな。

 いつもいつも自分からばかり、という状況に一度冷静になって俯瞰した時に相手の気持ちを確かめたくなる。

 そしていつまで経っても、どれだけ待っても期待した言葉はシンシアからは向けられない。



 女々しく、まるで女性が男性に言うかのような質問を相手に投げかけてしまう程思いつめていたのかも知れない。



 その質問をされたこと自体が、シンシアには堪らなくショックだったのだ。

 届いているはずの想いが実際は上手く届いていなくて、ずっと疑心を持たれていたという事実に愕然とした。

 いや、聞かれるまで気づけなかったことを悔やんでいるのだ。


 自分はいつも言われて満たされ、嬉しいと思っている。

 でも自分は恥ずかしいし、敢えて苦手なアクションを起こしたくないと口を閉ざす。

 彼のために他に出来る事があれば、それできっと伝わるだろう。


 ――この世界は、言葉にしないと伝わらない事で溢れているというのに。


 一度繋がった運命の糸は、何もしなくても永遠に同じ強さで結ばれていると勘違いしてしまう。



「聞かれた時、私本当に吃驚して。

 なんで今更そんな事聞くんだろうって、固まってしまったんです。

 ……それを勘違いされたみたいで……」


 彼は凄く傷ついた顔をした。

 変な事を聞いて悪かったと言い残して、それ以降顔を合わせていない。


 まさかそんな風にこじれていたのか、意外と面倒な男だったんだなとカサンドラはうーん、と閉口した。

 自分はシンシアの方が身近で、彼女の事を応援したいと思っているからそう思うだけなのだろうか。

 女性にそんな事を聞くなんて紳士的ではないという先入観のせいだろうか。


 ……なんでそんなことを聞いたのだろうかと想像すると、やはり彼の置かれた中途半端な貴族のようで貴族ではない立場も関係するのかもしれない。

 学園内には自分の自信を喪失させるような出来事は沢山あるし、プライドを傷つけられることもあるだろうし。

 身分が上の子女ばかりで、庶民の特待生には勉強で敵わなかったり。


 弱気になることや不安になることもあっただろうな。

 他にも沢山の良い条件の男子生徒がいる中で、本当に自分で良かったのかとか。


 ――本心を確かめたくなる。


 それもこれも、ベルナールの口から聞いたわけではないので想像だけど。


 かつては好きと言われたこともある。

 感情を乗せた言葉は現在いまを表すものに過ぎなくて、決して永続的な感情を保証するものではない。


 過去の言葉を拠り所にしていたベルナールだったが、今になってはっきりとした感情を欲した。

 だからつい確かめたくなったのだろう。

 勿論好きだと言われて、安心したかった。


 だがその切羽詰まった質問は、シンシアの想いがちゃんと伝わっていなかったことの証左でもあって――


 互いに互いの反応に傷ついた。


「私、今までずっとあの人の言葉に甘えて、ちゃんと言えてなかったんですね。

 そんな事に気づけなくて、傷つけてて。

 ……今更どんな顔して会えばいいんだろうって……

 すみません、カサンドラ様。

 私、後悔しているのに……怖くて、謝りに行くことも出来ないんです。

 嫌われたのかなって……」




「悩むことはありませんよ、シンシアさん。

 ベルナールは貴女が好きだからこそ、望む返答が得られなかったことに落胆しているだけです。

 確かにベルナールは傷ついたかもしれません。

 ですが直接彼の目の前で言葉に出来れば、あっという間にそんな傷口も塞がりますよ。


 一度で駄目なら、二度でも三度でも――好きな人なら、告白は何度されても嬉しいものでしょう?」 




 好きじゃなかったら、相手にそんな答えを求めはしないのだから。




「シンシアさん。私達に言った事をもう一度説明したら分かってくれると思います!

 ベルナールさんが言ってくれたから、相手の気持ちが分かったわけですよね?


 自分の想いは、言葉にしないと伝わらないですよ。

 シンシアさんが後悔していることさえ、言わなかったらベルナールさんには分からないんですよ、きっと」




 しばらくシンシアは口元に手を添え、床をまんじりともせず凝視する。

 完全に硬直し、固まっていた彼女であるが……



「そう、ですね。

 私も恥ずかしさを言い訳に、言おうと頑張ることもしなかったのは良くない事だと分かりました。

 今度は自分から告白してみます……!」



 緊張した面持ちで頷くシンシアの瞳は強い意志が光っている。



「ありがとうございます。

 ……カサンドラ様。私、ベルナールさんの事がどうなろうと――

 皆さんにお茶会で喜んでいただけるような品を用意しますね」



 そう義理堅く表明する彼女を見て、カサンドラは小さく微笑んだ。



 彼が喜ばないわけがないだろうに。



 互いに距離が近すぎて見えなくなる気持ちってあるのだなぁとカサンドラは改めて思い知る。

 



 それにしても――

 あのいつもシンシアに想い一直線を隠さない飄々としたベルナールでさえ、不安になるのか。

 直情径行なだけではなかったようだ。


 相手にどう思われようが、自分は好きだ! というタイプかと思っていたが、意外に繊細な部分もあるのだなぁ。

 




 ※








  ふと思う。


  じゃあ、自分は…………?


  自分の気持ちは、ちゃんと伝わっている……のかな………?






 ※




 唐突な不安がカサンドラの胸中を襲い来る。

 昼休憩に話したシンシアとの話が自分には関係がないなんて、とてもそんな思いあがった気持ちにはなれない。


 確かに以前カサンドラは王子に好きだという自分の気持ちを伝えた事はある。

 でもそれ以後は……



 相手に甘えてしまった、というシンシアの懺悔は自分にとってクリティカルな視点であった。


 きっと王子はベルナールのような問いかけはしてこないとは思う。

 そんな人には見えないし。


 ……でもあのベルナールでさえ、あんなにもはっきりと好意を態度で示すシンシアの気持ちが伝わっていなかったという事実!


 言葉は全てではない。

 言葉は時として吹けば飛ぶように軽々しく感じるものだし、言語化できない想いも沢山あるはずだ。


 でも、それはそれとして。

 言葉は不要だ、言葉だけでは信用ならない、言葉だけでは伝わらないから、と。

 気持ちを口に出さないことは違うのではないか。

 人と人とが一緒にいる以上、言葉と行動のどちらが欠けても駄目なんじゃないか。



「…………王子」



 一体これは何の導きだというのか。

 選択講義が終わり下校する途中、王子とバッタリ出会ってしまった。


 彼は玄関ホールで誰かを待っているのか、一人で柱の陰に背をもたせている。

 こちらの声に気づき、にこっと微笑む王子の笑顔に目が眩みそうだ。


「キャシーは今帰りかな?」


「はい、そうです」


 しきりに時計を気にしている王子は、どうやらこれから用事があるようだ。

 彼一人で下校出来ない事はカサンドラも承知している。

 どうやらジェイクの帰りを待って、合流する予定のようだった。


 自分は王子を守ることも出来ない細腕なので、ここで一緒に帰ろうと声を掛けてもそれが難しいかも知れない。


「あの、王子」


 シンシアの言葉が頭の中を占めていく。

 したり顔の自分が彼女にした助言が、今になって恥ずかしくなる。

 偉そうに言ったくせに、果たして自分はどうなんだろう。


「今日、一緒に下校……しませんか?」


 王子は僅かに驚いたような顔でこちらを眺める。


 ああ、勢いというものは怖い。

 それにしても――自分から誘うというのは、こんなにも緊張するものなのか。


「勿論。キャシーからそう言ってもらえて嬉しいよ。

 ただ、ジェイクが中々来なくて……

 一緒に待ってもらっていいかな」


 下校途中の生徒が横切り、チラチラとこちらの姿を視界に入れてはすぐ逸らす。

 相変わらずどこにいても注目される人で、身分上一人になることも難しい雁字搦めの人なのだな。


 



   ――好きな人なら、告白は何度されても嬉しいものでしょう?

 



 自分が言った言葉が脳内に反響する。

 ぐるぐると視界が回り、鼓動が早くなる。


 あの場面では臆することなくはっきりと言えたことが、こうも脈絡もない普通の生活の中で口にするのは躊躇われ恥ずかしいのだろう。

 


「王子、少しお耳を拝借しても宜しいですか?」


「……? 何かな」


 こんな他の生徒が行き交う玄関ホールで、好きだなんて言えるわけがない。

 教室の中で、廊下で、食堂で、学園内で。

 街の中で、城の中で。


 一体どこなら遠慮なく言えるのかと自問自答すると、そんな機会はぼんやりしていては手に入らない気がして。



 自分の気持ちを疑われること程、悲しいことはない。



 少し耳をこちらに向け、そばだてる彼にこそっと耳打ちした。


 掌で覆い隠し、その伝えたい言葉が僅かでも漏れ出てしまわないように。




  『――好きです』



 言った後思わず視線を周囲に向ける。

 下校途中の生徒達の話し声、開放感に溢れた弾む足取り。沢山の靴音。


 足早に素通りしていく、名前も知らない生徒達。


 自分はこんな大勢の生徒が行き交う場所で何を言っているのだ、と熱くなる頬に掌を添えた。


「ありがとう、凄く嬉しい――

 ……吃驚した」


 彼は彼で、カサンドラの頭越しに遠くを見ながら、顔の下半分を大きな掌で覆っている。

 それでは隠しきれない程、耳まで赤い。

 ……なので自分も余計に恥ずかしく、その場で時間が過ぎるのをただひたすら黙って耐えていた。






「悪い悪い、遅くなった!」


 沈黙したまま互いに肩を並べて、何分ほど経っただろうか。


 ようやく廊下の奥から、見知った生徒が手を振って駆け寄ってくる。

 悪いと言いつつも、ちっとも悪びれた風のないジェイク。


 そんな彼の後ろから、一人の女子生徒が慌てた様子で顔を出す。

 頭をぺこぺこと下げながら必死で謝罪するのは、リゼである。


「すみません王子、ジェイク様に片づけを手伝っていただいて……

 こんなに遅くなってしまいました!」



「あ、いや。

 別に待ってない……から、良いよ」


 王子の声は珍しくやや上擦っていたが、リゼはカサンドラの存在に気づいてバツが悪そうにもう一度謝罪した。


「すみません、お二人をお待たせして」


「……ま、全く待っておりませんから……気になさらないでください」


 そしてカサンドラの声も完全に第一声が裏返ってしまった。







 当然のように、ジェイクとリゼは並んで前を歩いている。

 ジェイクも王子と一緒にいればそれで良いと思っているのか、こちらの存在を気に掛ける事もなく話に夢中だ。

 本当にこれで付き合っていないというのが奇跡のような関係だなぁと、半ば呆れるような想いで二人の後姿を見ながら並木道を歩く。



 ふと、手に何かがぶつかった。

 ……確認しなくても分かる、それは隣を歩いている王子の手なのだろう。





  一回。


  二回。



  僅かに触れ合うだけだった。








 最後の五十メートルで繋いだ彼の手は、温かいを通り越し――とても熱かった。

 それは自分も同じだっただろう。










 指先を通して、こちらの心臓の音が伝わったのかも知れない。


 ついでにこの想いも一緒に伝われば、言葉も要らないのに。

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