第385話 風邪の看病


 それは週明けの朝のことだった。


「あら?」


 カサンドラは学園へ向かうための支度を済ませ、制服姿でレンドール邸の食堂に向かっていた。

 室内に入って違和感を覚えたのは、本来そこにいるべき少年の姿が無かったからである。


「アレクはまだ寝ているのですか? 珍しいですね」


 カサンドラは首を傾げながら自分の席に向かう。

 自分の見間違いかと二度見したが、無人の席があるのみだ。


 規則正しい生活を送っているアレクが寝坊とは珍しい。


 ひょっとしてアレクは今日、急な用事があって既に不在なのだろうか。

 いや、ちゃんとアレクの分の食器も用意されている。

 彼がこの屋敷にいるという証左を前に、一層首を捻るカサンドラ。


 この別邸に越してきて一年半ほど経つが、自己管理のしっかりしている彼が寝坊などついぞ記憶にない。

 妙な居心地の悪さを感じていると、カサンドラに対して給仕に訪れたメイドが困惑気味に眉尻を下げて教えてくれた。


「実は、アレク様……

 お体の具合が宜しくないとのことで、今日は一日お部屋でお休みになるそうです」


「え……?

 あの、大丈夫なのですか!?」


「フェルナンドさんがお医者様の手配に向かわれました」


 着席して水を飲もうと伸ばしていた指先が滑る。

 つかみ損ねたグラスは底面をぐるりと回して倒れるかに思えたが――奇跡的にそのまま元の位置に戻る。

 回るグラスが小刻みにテーブルに当たる音が食堂内に響き渡った。


 水が零れなかったことにホッとしている場合ではない。


「わたくし一人悠長に食事をするわけにはいきません。

 様子を見に行きます」


 食堂の大きな時計を一瞥する、当然まだ時間に余裕があった。


 そもそも、弟が体調を崩しているのだ。

 それを無視して定刻通りに通学するなど薄情すぎる話ではないか。


 あの健康、頑健という単語の申し子が……風邪!?


 とても信じられない。

 もしかしたら今日に限って夜更かしをして、それを誤魔化すために体調不良と言っているとか?

 だとすれば呆れはするが、安心できる。



「アレク、大丈夫ですか……?」


 いつものように大きくハッキリとしたノックをするのは躊躇われてやや控えめに叩いたのだけれど。

 中で休んでいるのだろうアレクから返事がない。


 見慣れたアレクの部屋の扉の前で、ごくりと喉を鳴らし――ゆっくりとノブを回して中に入る。


 灯りをともすことなく、カーテンを閉め切っているせいか室内は朝なのに薄暗かった。

 絨毯は足音を飲み込み、物音を立てずに奥まで進むことが出来る。


 子供一人が寝るにはあまりにも幅広の大きな寝台の上に、人の気配を感じて立ち止まった。

 思いっきり眉間に皺を刻み、苦しそうな顔で横たわるアレクの姿を目の当たりにして胸がぎゅうっと痛んだ。


 いつも憎まれ口をきいてくる、顔の良い小賢しい少年。

 それが今は全く元気がなく、熱にうなされているのかと思うと想像以上に心に突き刺さる光景だった。


「………アレク」


 呼びかけそうになって、自然に掌で口を押さえる。

 折角寝ているなら起こすのも申し訳ない。

 声を掛けることは止めたものの、熱で臥せっているという彼の事が心配で。


 そっと彼の額に掌を乗せたが――


「……!?」



 指先から伝わる熱さにカサンドラは目を見開き、大丈夫なのだろうかと内心で大いに慌てる。まだ到着していない医師の姿を部屋に求める。

 他の人間などこの部屋にいやしないというのに。


 その時、ふっと少年の瞼が薄く開く。

 半開き状態の蒼い双眸、熱のせいかぼーっとしているアレクの焦点は合っているようには見えなかった。


 彼は苦しそうに顔を歪めながら、苦しそうに声を発する。




「……………かあ……さま………?」



 ゆっくりと手を伸ばして来る少年の細い腕。



 その瞬間、カサンドラは鈍器で後頭部を殴られたような。落雷を直接浴びたかのような大きな衝撃を受け、言葉を失った。

 普段の余裕ぶった生意気そうな影がなりを潜め、ぼんやりとした意識の中で呼ぶのは、今はいない本当の”母親”なのだ。


 もう十一歳。子どもが親を求めるにしては、少々大きいかも知れない年齢だが……


 でもこの子は数年前に血の繋がった家族から離れて、父クラウスの庇護を受けて生きていた。

 いくら養子として迎えられても、あくまでも自分達はアレクにとって遠慮すべき他人であって、本当の家族にはなれなかったのだろう。


 しょうがないことだ。カサンドラだって、物心がついた頃に親元から離れて、他人と一緒に暮らすことになってしまったら割り切って新しい家族だ! なんて思う事は出来やしない。


 あの日嬉々として王子に声をかけ、一緒に過ごそうと言った彼こそが本当の彼の姿。

 今まで本当の意味で誰かに甘えたり、弱音を吐くことも出来なかったに違いない。


 歳の割には大人びて、泰然とした態度。

 どこか世の中を斜めに構えて見るような子だった。


 衝動的に彼が弱弱しく掲げる手をぎゅっと両手で握りしめる。

 自分は彼の本当の家族ではないかも知れないが、長い時間一緒に過ごしてきたのだからもう家族も同然だ。

 今まで年下の弟に頼ることばかりだった事を心底恥じ、慙愧の念に堪えない。


「アレク、大丈夫ですか?」


 彼の手は熱湯にでも浸かっていたのかと言う程熱を発している。

 心配になって彼の顔を覗き込む、と。


「ん……?」


 ようやく焦点の合ったアレクと視線が噛み合う。

 良かった、ちゃんと意識はあるのだとホッとする。

 カサンドラは今まで大病を患った事もないし、病気に対する知識もない。

 彼の病状の重篤さが分からなくて気が気ではなかったのだ。


「えっ」


 彼は戸惑い、そしてカサンドラから思いっきり強い力で手を引っこ抜く。

 そこまで拒絶しなくても……と若干ショックを受ける彼の行動。


 アレクはこれ見よがしに大袈裟な寝返りを打ち、こちらに背を向けてシーツを被り直す。

 バサッと音がする。



「母様、すみません……!

 全く以て似ても似つかぬ人と貴女を間違えるとは――何たる不覚……!」




 小刻みに肩を震わせているように見えるのは気のせいではないだろう。

 己の行為を懺悔する姿にカサンドラの額に青筋が浮かびかかる。


「どういう意味ですか、アレク」


 先ほどまでの溢れんばかりの慈しみの気持ちが一瞬で霧散しそうになるではないか。


「……はぁ、姉上。

 もうこんな時間ですよ、もう食事は終わらせたんですか?」


 のろのろとした仕草で、アレクは上体を起こしてカサンドラを真っ直ぐ見遣る。

 先ほどのとろんと溶けた意識状態の彼とは全く違う、完全に意思を取り戻した彼は何度か咳をした後カサンドラに尋ねて来た。


「まだです。

 貴方が熱を出したと聞いて、慌てて様子を見に来たのですから」


「……ただの風邪ですよ、季節外れですけど」


「アレクが風邪をひくなんて滅多になかったので、心配で」


「姉上も去年大風邪をひいたじゃないですか」


 確かに去年、風邪のせいで学園を欠席した事は覚えている。

 でもあれは疲れが溜まっていたせいもあると思うのだ。


 もしや、アレクも何か心労が……?


「僕の事は心配いりませんよ。

 医師も呼んでもらってますし、姉上にうつっても困ります」


 早く登校しろ、と彼は言外にプレッシャーを与えてくる。

 ここで彼が心配だと押しかけ続けていても、休めないだろうことはカサンドラにも分かるのだが。


 今日一日くらい休んで、義弟の看病にあててもいいのではないか? とそんな気持ちがむくむくと芽生えて来た。

 そんなカサンドラのそわそわした態度を察知したのか、アレクは再度釘を刺してくる。


「お願いですから、一人にしてください。

 落ち着いて眠れません」


 病人に無理をさせるわけにはいかない。


 無力な自分に肩をしゅんと落として、カサンドラは後ろ髪をひかれる想いで登校することにしたのである。




 ※



「アレクが、風邪……?」



 教室に着いたのは、いつもの時間より遅かった。

 それはアレクの様子を見ていたのだから当然だが、朝食を食べる時間まで削れて――

 さっきまで行きの馬車内でパンを食べていた事は誰にも言えないので黙っておく。


 浮かない表情のカサンドラだったが、パンの事は無しにして今朝あったアレクの話をした。

 寝込む程の高熱、屋敷には大勢召使がいるから心配してもしょうがないと思うけれど。


 やはり万が一のことを想像すると、動悸が激しくなる。

 心配し過ぎだと、カサンドラは暴走する自分のイメージを何とか軌道修正しようと試みた。


「ええ、高熱に魘されていました。

 わたくしをお母さまと見間違えになるくらい、意識もぼんやりしていて」


 大丈夫だ、朝の様子を見るに急に容態が急変する事もないはず。

 憎まれ口を叩くくらいの余裕があったではないか。


 話も出来ない意識不明状態ならともかく、誰だって風邪の一つくらいひくこともあるだろうし、まるで幼い子を心配しているようだ。アレクが聞いたら逆に子ども扱いし過ぎて気分を悪くするかもしれないなと思った。


「そうか……。

 しっかり者に成長したと驚いたけれど、アレクは昔から寂しがりやなところがあったから。

 口では強がっていても、本当は心細いのかもしれない」


 授業開始の時間は迫っていたが、王子は廊下の窓の桟に手を添えたまま心配そうな表情と共に眉宇を曇らせる。


「王子、お見舞いに来ていただくことはできませんか……?」


 無理を承知でそう尋ねてみる。

 カサンドラはアレクにとって本物の家族ではない、血の繋がりがないのだ。

 だが王子は別、本当の兄である。もしかしたらアレクの寂しさも紛れるのではないか。

 心強く思い、すぐに快復するのではないか? と期待した。


「キャシー本人が寝込んでいるならどんな予定だろうと棚上げにして向かうけれど。

 流石に……婚約者の弟のお見舞いという口実は難しい……かな。

 アレクには申し訳ない、これでは兄失格だ」


 彼もかなり葛藤していたようだが、確かに……

 カサンドラはこんなに元気で過ごしているわけで。


 用事をキャンセルしてカサンドラの家を訪れる理由が「婚約者の弟のお見舞い」というのは言いづらいにも程があるだろう。

 流石に違和感のある理由だろうし、嘘をついて用事を抜ける事も真面目な彼には易しい事ではないはずだ。


 だから彼が申し訳なく思う必要は全く無い。

 

「いえ、それは仕方のない事です!

 わたくし、今日は王子の替わりになれるようアレクの傍にいてあげたいと思います」


 亡くなった本当のお母さんと、わけあって一緒に暮らせない実のお兄さん。

 そのぽっかりと開いた空隙を自分が埋めることは難しいかもしれないが、寂しい想いをさせたくないと思う。


「君が看病してくれるなら、アレクも心強いだろうね。

 ――ありがとう」


「大切な家族ですから当然のことです。

 ですが何度お聞きしても”寂しがりや”という表現が似合いませんね、あの子は」 


「事情が事情だから、今のように振る舞うしかなかったのだと思うよ。

 人間の本質なんて変わるものではないから、ね」



 こうやって王子と話をしている間も、彼は熱に魘されているのだろうか。


 体調を替わることは出来ないけれど……

 ちゃんと家族が傍にいるんだ、ということを彼にも分かって欲しかった。




 自分がこうして、明日の心配をせずに不安を抱かずにいられるのもアレクのお陰なのだから。


 



 ※





「……姉上? え? 何ですか?」


 寝台の上で上体を起こして座るアレクは、朝よりも少しは具合が良く見えた。

 医師の煎じた薬湯が良く効いているのだろう。


 ただ、ずっと横になっていたせいでさらさらの彼の銀の髪があらぬ方向に跳ねている。

 いつもきっちりとした格好で過ごす彼には考えられない、それが彼の余裕のなさを表しているようで胸が切なくなった。


 顔色も幾分戻り、調子が戻ってきたのも分かって――安堵と共に可愛いなぁとしみじみ思ってしまった。


「皆さんに聞きました。

 今日はアレクが全然食事を摂っていないと」


「はぁ。食欲がなかったもので」


 カサンドラは意気揚々と、サイドテーブルの上に持ってきた野菜スープの入った鍋を置く。

 湯気の立つ、しっかり煮込まれた野菜スープだ。素朴な素材の持つ旨味が匂いでも分かる。

 細かく刻まれた野菜のスープは胃にも優しく、そして栄養も満点だ。


 ポカンとした顔のアレクは、カサンドラとその鍋を交互に眺めて怪訝そうな顔を隠さない。



「はいどうぞ、アレク」


「えっ……。

 良いです、自分で食べられます――」


「まぁ、アレク。病人は病人らしく、世話を焼かれて下さい!」


 アレクは遠慮するだろうなとは思っている。


 だが病人のお世話と言えば、氷嚢を変えるか食事の介助くらいしか思いつかない。


「え? え? え?」


「はい、口を開けてください。あーんですよ、今日は特別にわたくしが食事のお手伝いをしましょう!」


 精神年齢の高いアレクにはこの状況は恥ずかしいのかも知れない。


 でも、今日ばかりは事情が違う。

 今まで誰かに頼ることや甘えることの出来なかった分、身体が弱っているときくらいは、幼い子のように甘えて欲しいとも思う。


 もしもこれが母親だったら彼も言うことはないのだろうが、亡くなった人を生き返らせることは出来ない。

 彼の言う通り、王妃様には全く似ていないカサンドラだけれど、それ”らしい”行動くらいなら。


「………。ええと……

 じゃあ。一口だけ」


 こちらの期待を籠めた眼差しを受け、抵抗しても時間の無駄だと観念したらしい。

 大仰に肩を落としたあと、自暴自棄さながらの様子で口を大きく開けた。

 固く目を閉じているのはアレクなりの抵抗なのだろうか。


「一口だけですか? まだまだありますよ、おかわりも沢山」


「いえ、まだ本調子じゃないですから。

 はー……

 兄様に言ったらまた凄い顔をされそうな事を……」


 若干口元を引きつらせ、アレクは視線を逸らした。

 ぼそっと言い捨てた呟きを、カサンドラの耳は聞き逃さなかった。


「王子がどうかされたのですか?」



「何でもないですよ。

 まーた兄様に嫉妬されちゃうなー、困るなーって思っただけです」



「???」



「姉上、僕が言うのも変な話ですけれど……

 男の嫉妬心を甘く見ない方が良いんじゃないですか?」


 寝間着の胸元をぎゅっと押さえ、彼は苦笑いだ。



「はぁ?」

 


 さっきから何を言いたいのだ、アレクは?

 いまいち要領を得ず、カサンドラはスプーンを手に持ったままアレクの顔をじっと凝視した。

 今日一日ですっかり細くなってしまったように見える、華奢な少年。

 言われてみれば王子との血縁関係を思わせる、女性の自分が嫉妬さえ覚えかねない綺麗な顔立ち。


「兄様は昔からええかっこしいなんです、人の目を気にすると言いますか。

 表には出さないでしょうけど……人間の本質なんてそう簡単に変わらないんですよ。

 だから姉上、気をつけてください!」



 王子の話が中々実像と結びつかず、カサンドラは戸惑うだけだ。


 確かにこの行為を全く違う男性にカサンドラが行ったとしたら、絶対にダメだ。

 流石にそれくらいの分別はある、これは家族の看病としておかしなこととも思えない。


 第一、当の王子からしっかり看病をして欲しい、という要望をもらっているのだが?

 そう言う意味ではアレクの忠告は全く的外れだと思う……


 しかし全力で否定するほどカサンドラも自信家ではなかった。


 見解の相違で病床のアレクと言い合う意味もない、「そうですね」と頷いてスプーンを銀トレイの上に戻す。



 それにしても――

 本質は変わらない、か。


 離れ離れになって久しいとはいえ、流石仲の良い兄弟だ。

 カサンドラも知らないお互いの共に過ごした過去を思い出し、”本質”なんて口にするところは似ているとしか言えない。

 見えない絆が確固たるものとして結びつけているような気がして、カサンドラは思わず笑ってしまう。





「ふふ、やはり兄弟なのですね」




 自分でスープを飲み始めたアレクは、ジロジロと不審そうな視線をこちらに向けてくる。

 いつもカサンドラに向けてくる、呆れたような――だが親しみも感じる視線。




 良かった。

 明日は元気な義弟アレクの姿が見れそうだ。


   

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