第384話 <リゼ 2/2>
リゼにとっては大きめの弓だったせいか、扱いが難しく肩が痛んだ。
更に馬上で踏ん張るために太腿に力を籠めすぎ――既に午前中でリゼは疲労困憊。
しかしそんなリゼの事情など時間は斟酌しない。
本日最大の難関、昼食の時間がとうとう訪れてしまった。
気を抜くことのできない瞬間が畳みかけるように連続で訪れる。
しょうがない、どれだけゆっくり過ぎて欲しいと願う時間であろうが情け容赦なく秒針は平等に刻まれるのだ。
陽の高さが頭上に辿り着き、ふと腕に巻いた時計を確認すれば丁度お昼を過ぎた頃だ。
身体は正直に空腹と喉の渇きを訴えるのだから、自分の体内時計の正確さにも呆れてしまう。
そろそろお昼にしましょうか、と出す声は間違いなく震えていた。
疲れたからでも喉がカラカラのせいで掠れたわけでもない。
緊張のあまり、全身をめぐる血液が逆流してしまいそうだった。
彼の口に合わなかったらどうしよう――
不安ばかりが先走り、パンの包みを手渡す時に落っことしてしまいそうで。
でもそんな心配は杞憂だった。
「おー、これすっげー美味いな!」
冷静に考えれば、人が作ってきたものを当人を目の前にして
確かにデリカシーに欠けたところはあるかも知れないが、彼の本質は優しい人だ。
「それは良かったです、沢山作ったので、どうぞどうぞ」
男の人の食べっぷりは凄いなぁ、とリゼは感心した。
感心したというよりは懐かしさを覚えたと言った方が正確か。
学園で食べる食事はフルコースで、皆お行儀よく静かに決められた量を食べている。
食べ盛りの男子だろうが細身の男子だろうが大きな男子だろうが関係なく、いいところのお坊ちゃんばかりを集めた食事風景。
すっかりそんな異質な食事の様子に慣れてしまったが、本来男の子は良く食べるものだよなぁ、と。
村にいた頃、働き盛りのお兄さんたちが日に焼けながら持ってきたお弁当にがっついている姿を良く見たものだ。
ナイフやフォークでお上品に肉を切り分けるなんてとんでもない。
普通の男の人みたいに、美味しそうにパクパクとパンを食べていく姿はいっそ気持ちが良い程だ。
勿論分かっている。気を遣ってくれているのだろうということくらい。
舌が肥えに肥えた貴族の御曹司の味覚を満足させられるような腕は持っていない。
リナほど家事経験を積んだ女の子ならまだしも。
まぁ全ての味を決める土台のパンが彼女作なのだから、最悪なことにはならないだろうことも分かっていたが。
こちらが一つのパンを食べる間に、ジェイクは三つ目に手を伸ばしていた。
もぐもぐと乾いた口の中で柔らかいパンを咀嚼し、普通に食べられる味であることにホッとする。
不味いものを美味いと言わせるのも気が引けるから。
……彼は”優しい”人だ。
誰かを意図的に傷つけるような人ではない。
リゼが昼食を作ってくると言ってそれを許容した以上、「美味い」と言って食べるのは彼の中では決定事項だったのだ。
いつも食べている食事より美味しいはずがないのは、リゼが一番分かっている。
幾度も餐館で豪勢なメニューをご馳走になったからこそ、それと比すべくもないものだと否が応でも分かってしまうのだ。
凄く美味しそうに食べてくれるのは嬉しいのだが、それだけ気を遣わせてしまったのだろうかと。
自分らしくない卑屈な感情に苛まれる。
そんな劣等感を何とか隅に追いやって、リゼはいつも通り彼と軽い雑談を続けた。
内容は射手として練習した方が良いアドバイスに終始していて、本当にいつも通りだ。
こんな遠くに馬で出かけても、結局やっていることは普段と変わりがないのだなぁと苦笑が浮かんだ。
「はー、食べた食べた。
ご馳走さん」
彼は地面の上にあぐらをかいたまま、自身の腹を軽く擦った。
いくらなんでも食べ過ぎだろう。
気を遣わせて申し訳ないやら――でも、心の底からホーーッと安堵の吐息が湧き出る程には嬉しかった。
「本当、ここは静かでいいとことですね」
ポカポカと春の陽光が射し込んでくる。
樹の下の陰で昼食をとっていたリゼは、今日の一大懸念事項を無事に終わらせることが出来て感無量の表情でバスケットをしまう。
背負うリュックの荷物は昼食の用意が殆どだったので、一気に軽くなってしまった。それを木の根に被せるようにして置き、リゼは大きく背を反らして伸びをする。
「リゼ、お前結構疲れてるだろ。
休んだらどうだ?」
唐突にジェイクから提案を受け、リゼはウッと言葉に詰まった。
ポカポカ陽光。
疲労困憊の体。
心地よい草の匂い。
満たされた、食欲……!
「休むって……」
「誰もいないし、昼寝も気持ちいいぞ」
更に言葉に詰まる。
何という……抗いがたい魅力的な提案……!
いやいや、待て。
折角ジェイクと一緒にいられる時間を、睡眠の時間にあてるなんてそんな……勿体ない!
心はそう抵抗するが、無意識の内に――いつの間にか柔らかい
心理的抵抗とは裏腹に、身体は本当に正直だ。まるで足から根が張ってしまったかのように、そこから動けない。
ごろんと天を仰ぐように横たわると、爽やかな春の風が前髪を大きくさらっていく。
「帰りもあるんだし、少し休め。
俺はあいつらの様子見て来るからさ。水も飲ませてやらないと」
樹に手綱をくくりつけた二頭の馬の存在を思い出す。
もしもあの二頭が逃げ出してしまっては大変な事だ、今日中に街に帰ることが出来なくなってしまう。
彼らは昼食の間、むしゃむしゃと草原の草を遠慮なくゆっくりと
「そんな、休むなんて……大丈夫……です」
ガクン、と視界が揺らぐ。
早起きしすぎた弊害か。
一番の緊張する場面を潜り抜け、完全に気が抜けてしまったのか。
起き上がろうと腕に力を入れようとしても、ちっとも体は言うことを利かない。
陽光が少し眩しいなぁ、と目を薄っすらと閉じると……
そのまま意識が暗転する。
スーーッと。抵抗空しく”睡魔”に無理矢理別の世界に引きずり込まれていく。
まるで深い深い落とし穴に足を滑らせて落ちてしまったかのように、あっけなく。
寝つきが良い方じゃないのに――……
目を開けよう、意識を保とうと強く思う。
でも、うとうとと微睡む心地よさには抗いがたい。
「ほら、やっぱり疲れてたんだろ。
ゆっくり寝てろよ」
遠くでジェイクの声が聴こえた気がした。
完全に現世と切り離され、夢の世界に取り込まれて深いところに落ちていく。
**********
夢という自我の制御がきかない世界で、とりとめのない感情の奔流に流されていた。
ジェイクの声が遠い。
リゼの体力を心配してくれている。
……優しい人だ。
……そう、優しい。
いいなぁ。
……この人と結婚出来る人って、いいなぁ。
優しくて真面目な人だから
絶対他所に愛人を持つような事もしないし
責任感の強い人だから
決められた相手が誰であろうが、
好きになれるよう努力するのだろうな
自分のようなただの同級生に気を遣ってくれるんだから
他人でなくなったら
絶対 絶対 大事にするんだろうなぁ
いいなぁ――
******
パチッと目が開く。
「――――――ッ!!」
意識が現世に舞い戻り、リゼは慌てて上半身を跳ね起こした。
目を閉じた僅か一瞬で寝落ちしてしまうとは……どれだけ寝不足だったのか。
大丈夫といった三秒後には寝入っているのだから、ジェイクもさぞかし驚いたに違いない。
時間にしてみれば一時間かそこらだったようだが、貴重な時間を無為に過ごしてしまった事に身を捩りたい程の後悔に駆られる。
馬たちの世話まで任せきりにしてしまったことに背筋がぞくっと冷えていく。
反射的に首を動かし、彼の姿を探そうと身を乗り出した。
だが必死になって探さなくとも、視線を僅か下にずらしただけで済む話である。
数十センチくらい離れた場所で、彼も腕の上に頭を乗せてスヤスヤと眠っていたのだから。
自分だけが昼寝に興じていたわけではないらしい、胸に手を置いてちょっとだけ安心した。
彼の言う通りここは絶好の昼寝スポットだと思う。
お腹が満たされると今度は睡眠、となんとも分かりやすい本能的な行動に再び苦笑いだ。
近くの木の上から小鳥の囀りが聴こえる。
ひらひらと花と花を行き交う蝶々が見える。
馬がもしゃもしゃと、首を傾けてまだ草を食んでいる。
小川のせせらぎの音。
暖かく、柔らかい陽射し。
端的に表現するなら、
……こんなところに一人でいたら、そりゃあ眠くもなるだろうな。
ジェイクを手持無沙汰にしてしまったことをリゼは大いに反省した。
「……。」
音を立てないよう、静かにジェイクの傍ににじり寄る。
膝を立てて一歩。
手を伸ばせば触れられる距離で、彼はスヤスヤと微かな寝息を立てて寝入っていた。
もしかして寝入り端なのだろうか、かなり眠りが深そうに見える。
「………。」
声をあげないよう覚悟を決めて、彼の顔を斜め上から覗き込んだ。
いつも自信に満ち、精悍な格好いい彼の姿とは打って変わって、その寝顔は驚く程健やかというかあどけないものだ。
あの強い意志を感じる橙色の双眸が閉じられているからだろうか。
目は口ほどに物を言うというが、成程他人へ与える印象の多くを瞳は持っているのだろうなと変なところで納得する。
程良く健康的に日に焼けた肌はリゼも吃驚するほど滑らかだ。
王子やラルフと言った美人さんが傍にいるからあまり目立たないけれど、この人も大概整った顔立ちをしているよなぁ、と。
この千載一遇の機会を逃すまいと、間近で凝視して観察してしまう。
それにしても、騎士がこんなところで無防備に寝ていていいものだろうか。
先に寝入ってしまった自分が言えたことではないけれどと自省をしつつ、寝ている彼の様子をもう一度見て……
思わず悲鳴を上げそうになった。
口元を押さえ、必死で声を飲み込む。
何という事だ。
思わず視線がその一点に釘付けになる。
彼の白い上着の裾が僅かに捲れていた。
ここに来て腹チラ……!?
『ジェイク様の腹筋はもはや芸術の域!』
はっきりとした陰影が覗き動揺したのは、かつて聞かされたジェシカの言葉が脳内に勝手に蘇ったせいだ。
………芸術的な腹筋って、何……?
滔々と語った彼女の憧憬を覚えているから、余計に気になってしまうではないか。
………。
…………。
リゼは己の内なる好奇心をめった刺しに串刺し、無言で自分のお腹を拳で殴った。
正気に還るための強烈な一撃は、自身に理性の光を取り戻させる。
――私は痴女か!? 変態か!?――
心の中の荒れ模様、心象風景は嵐の大海原だ。
しばらく彼から視線を外して動揺を鎮める。
全く、自分が馬鹿みたいだ。
動いて喋るいつものジェイクを良く知っているのに、ただ意識がない状態で寝ている彼を
確かにここは自分にとっての非日常だ。
だからと言って、関係性が変わることは一切ない。
気楽に話が出来るクラスメイトで、それ以上でも以下でもないはずだ。
自分が勝手に一方的に別のベクトルの感情を向けていただけというだけで。
距離は縮まっても、互いに気持ちの向く方向はバラバラで決して交わることはない。
「………。」
彼の顔を未練がましく視界に入れる。
なんだかんだ自制しようとしても、この得難い機会に気は
未だに心地よさそうに寝入っている彼の赤い髪に、緑色の何かが飛び乗って来た。
ぐっと下唇を噛み締め、小指ほどの大きさのバッタを睨み据える。
リゼは相変わらず虫が苦手だ。
蝶々はまだマシだが、なんで足が沢山ついている生き物はこうも気味が悪く映るのか。
彼の赤い髪の上でこの上なく目立ち、嫌でもチラチラと残像が残り落ち着かない。
決死の覚悟でリゼはそのバッタを手の甲でさっと横に追い払う。
憎たらしい程鮮やかな緑色の虫は、羽を広げて遠くへと跳んでいった。
その急に羽を広げるのは心臓に悪いから辞めてくれないかな、と生態系へのいちゃもんをつけ眉を顰めたのだが――
指先が、彼の髪の先に僅かに触れた。
自分の髪とは全く違う、硬質な触感。
その感触にリゼは瞠目して……
恐る恐る、もう一度毛先に触れる。
硬質だがサラッとした髪は、一度寝癖がついたら大変そうだなぁと変な感想を抱く。
心の奥に流れ込んでくる、言い知れぬ熱を帯びた感情。
一度、二度。
更に慎重に、
端っこの方を申し訳程度に何度か。
……膝枕をしてと冗談でも言ったのが、グリムではなくこの人だったらどれだけ幸せだったか。
ありえない仮定をして、無関係なグリムを恨みたくなるくらい激しい衝動に駆られる。
胸が詰まる。
苦しくて苦しくて、呼吸のやり方も忘れてしまう。
触れる度に”好きだ”と思う。
この感情の行き場がない。
旅行の後のギクシャクした微妙な距離感を思い出し、口をきゅっと引き結んで俯いた。
もしもこの想いが知られたら、傍にいることも出来なくなるのではないか。
大丈夫、大丈夫。
この人は、素直で鈍感で、その癖人の好意に慣れすぎるほど慣れていてきっとマヒしている。バレやしない。
ただでさえ、人の想いなど言葉にしなければ伝わらないものだ。
言葉を尽くしたって伝わらない事だって沢山ある。
言葉にしなければ、想いは伝わらない。
ジェイクには届かない。
だから、届けない。
いくら心の中で『好きだ』と言っても、口に出さなければ伝わらない。
それで良いんだ、と思う。
伝わらなければ、ずっとこのままでいられるんじゃないか。
いつかは醒めるまどろみの夢でも
今は”ここ”が、この世のどこより愛おしい
※
「ふぁ……よく寝た……
って、ヤベ!」
ジェイクが目を醒ましたのは、リゼが起きて三十分くらい経過した頃か。
もう二度と無い機会だろうからと寝顔をガン見している最中に目覚めなくて良かった……!
動揺が激しく顔の熱さがどうにもならず、文字通り冷や水を顔に浴びて来た後の事で助かったと言える。
リュックの中にタオルをしまいながら、危ない所だったと別の意味でドキドキが止まらなかった。
流石に起床直後に髪を触られていたなんて気味が悪いだろうし、リゼも言い訳が思いつかない。
「俺も顔洗って来るかな」
のそっと彼が立ち上がる。
「……あれ? ジェイク様?」
ジェイクを横目で盗み見ていると、さっきまで見えなかったものに気が付いた。
「どうしたんです、その手。
凄く腫れてません?」
彼の左手に視線が釘付けになる。
かなり痛そうに赤く腫れあがっている手の甲が目に飛び込んできた。
こんな状態なのにどうして気づかなかったのか――ああ、後頭部を組んだ両手に乗せて眠っていたから、彼の手がそんな酷い状態だと全く気づけなかったのだ。
「もしかしてそれ、虫ですか?」
自分で言って、悪寒を走らせる。
さっきまで自分も寝ていた事を思い出し、両手両足を確認したが、どうやら被害は自分にまでは及んでいないようだ。
「そうそう、
彼は真っ赤に腫れる手の甲をヒラヒラと大袈裟に振り、冷たい水が流れる川に向かってスタスタと歩いて行った。
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