第383話 <リゼ 1/2>


 かなり早朝から行動を始めたつもりだが、慣れない厨房で調理をするのはとても手間取るものだ。

 傍にリナがいてくれなかったら、もしかしたら慌てるだけ慌てて何も出来ないままだったかも知れない。


 話に聞いた通り、寮の厨房を何度も使用したことがある妹は手際よく調理器具を用意し焼き窯に薪をくべる。

 彼女がパンを焼いている間に、中に挟む具を作る――自分の担当は簡単で単純。

 分かりやすく料理の腕を問われない領域だからすぐに終わると思い込んでいた。


 だが野菜を切るだけならまだしも、肉に味をつけて焼こうとすると途端に手が止まる。

 本当にこの味付けでいいのか?

 と、一度疑問に思うとドツボに填まる。


 味見も何度も続ければ味覚がぼやけてあてにならなくなるというがまさにその通りだ。

 パンに挟みこむのだから多少濃い味付けくらいがちょうどいいのだと思うものの、段々自信が無くなってくる。

 あまりにも考え込んだせいでゆで卵を作っていることを忘れ、湯立て過ぎて殻が割れ、中身が飛び出る無惨な状態を目の当たりにして呆然としてみたり。


 リナが傍にいてくれなかったら、後片付けが間に合わなかったに違いない。


 朝、厨房に降り立ったのは四時。

 そして全てが終わったのは、料理のおばちゃん達が姿を見せ始める六時半過ぎの事であった。

 こんな朝早くから付き合ってくれる妹は本当に女神の化身ではあるまいか。


 リゼはパン作りに全く詳しくないが、生地をこねてすぐに焼けるものではなく随所に休ませる時間が必要なようで。

 空いた時間にリゼが使用した器具をテキパキと片付け、洗ってくれる――そして結局、中身の具については最後まで一切手を出してこなかった。


 メインのパンを焼いてもらった上に味付けや盛り付けまでしてもらったら、それは完全に彼女の作品になってしまう。

 リナもそう思って手出し無用状態だったわけだが、口を挟みたそうにしている場面は何度もあった。

 ……ちゃんと手順通りに行えば、もっと手早く用意できたものを。


 一つのミスが順序を狂わせ、精神的余裕をリゼから奪っていった。




「……!

 で、出来た……!」




 馬上で揺らされても形が崩れないよう、一つ一つ紙で包んでバスケットの中に詰めていく。

 拳二つを並べたくらいの大きさのパンには、それぞれ色んな具を挟んでバリエーションを出した――はずだ。

 まぁ土台のパンが同じなので、何個も食べれば飽きてしまうだろうが。


 これだけ用意すれば、青年一人の腹は十分満たせるだろう。

 妥協というわけではないが納得する他ない。


 そもそも彼は普段一流の料理人達が腕によりをかけて丁寧に時間をかけて作る料理を毎日食しているのだ。

 リゼがいくら頑張ったところで誤差の範囲内だと思われる。


 お昼は自分で用意すると言った手前、食べられないものを持って行くわけにはいかないが――

 最悪は、何も挟んでいないプレーンなパンを食べてもらおう。

 リナの作ったパンなら彼の口にも合うだろうから。なんて、そんな気弱な逃げの一手も鞄の中に突っ込んだ。





 ※





 連日のリゼの祈りが天に届いたのか、当日は快晴であった。

 王都は雨自体が少ないが、その数少ない雨の日に当たってしまったら運が悪いどころの話ではない。

 ホッと胸を撫でおろし、リュックを背負ってロンバルド邸まで浮き浮きで歩く、あまりにも浮かれすぎていて地に足が着いていない状態である。


「おはようございまーす!」


 堅牢と表現するのに相応しい、厳めしい雰囲気の石造りの分厚い外壁が視界に広がる。

 ぐるっと壁に囲まれた領域はロンバルドの本邸だ。何百どころ何千の兵士を兵舎に住まわせているこの敷地内はもはや一つの大きな街のようだった。

 王都北部の広大な深い森全体もこの家の一部というのだから規模が違う。


 何度も行き来して慣れたものの、両端に一対の竜の石像が据え付けてある外門入口は雰囲気が重々しい。


 その外門前に、二頭の馬。

 そして赤髪の青年が立ってこちらに軽く手を挙げているのが見えた。

 チラと腕時計を確認すると八時ジャスト。

 自分の時間感覚に満足しながら、一層歩みを速める。


「今日はいい天気で良かったなー、じゃあ行くか」


 栗毛の馬は、フランツに乗馬指導を受ける際にいつも乗っている馴染みの一頭だ。

 おーよしよし、と馬のおとがいを撫でると馬は軽く鼻を鳴らす。

 すこし躊躇うような素振りを見せた後、黒く丸い目でリゼをチラと一瞥し――スッと頬をリゼの頭にこすり付けて来た。

 故郷の田舎で見かけるどの馬よりもしっかり手入れをされているおかげか、獣臭は控えめだ。


「今日は宜しくねー」


 長い首をポンポンと撫でる。

 リゼはよいしょ、と鐙に足の裏を乗せて馬の上に跨った。


「じゃあ行くか、疲れたらちゃんと言えよ」


 同じく馬上の人となっていたジェイクが、手綱を握って馬を数歩近づける。

 いつ見ても大きく、そして気性の荒らそうな黒馬だ。

 体重が重い彼を乗せて長距離走るには、このくらいの体格がないとすぐに潰れてしまうのかもしれない。


「了解です!」




 街中は広い通りでも人の往来が多く、思うように駆けることは出来ない。

 普段は道の端を徒歩で歩いている自分が、こうして道の真ん中をパカパカと蹄の音を立てて進んでいることが不思議だった。

 見慣れたはずの景色が一段高くなる。


 先導する彼の馬に置いて行かれないように気を払いながら、リゼはぎゅっと赤い手綱を握りしめた。

 ぶるっと身体が戦慄いたのは、感動か歓喜のせいか。



 一年前は、こんな世界が視界に広がっているなど全く想像も出来なかった。

 初めて馬に乗ろうと思った時はいくら練習しても手ごたえが無く、結局ジェイクの馬に乗せてもらっていたわけで。

 ……望外の幸せは嬉しかったが、それと同時に悔しかった。


 手を差し伸べられ続けるのが嫌で、引き上げてもらえないと同じ世界を見る事が出来ない自分が嫌で嫌でしょうがなかった。


 今は違う。

 こうやって、一緒に歩ける。


 剣の事に関してもそうだ。


 自分には無理だと最初から顔を背け目を閉じるのでなく、挑戦することの楽しさを知った。

 ゆっくりでも確実に上達を実感する日々は新しい可能性の扉を開け、反転した世界に繋がっている事を知る。


 己の能力ちからで、彼と同じ景色を見る事が出来る事が嬉しいのだ。

 ようやく――あの夏のラズエナでの悔しさが報われた気がした。



 街の外に出、街道沿いをひた走る。

 風を切る音も小刻みな揺れも心地よい。



「ホントに乗れるようになるとか、お前ホントに良くやるな」


 声が届く範囲で並走するジェイクが、半ば呆れたような表情で言った。

 リゼは振り下ろされないよう下肢に力を込め、姿勢を保持する。


「半分以上は意地ですよ!

 まぁ、フランツさんのお陰ですけどね!」


 やれる、出来ると自分で言った事が出来ないなど許せない。

 そしてその努力を可能にしてくれる環境があったことが自分にとっての何よりも幸運だと思っている。

 いくらやる気だけあっても、教えてくれる人がいなかったら――


 その場合は皆の迷惑になったり笑われてでも、学園の選択講義で騎乗を選んだのかも知れないが、ここまで上達できたかは分からない。


 馬に嫌われまくるリゼに根気よく付き合ってくれたフランツがいて、ようやく人並みに操れるようになったもので。

 しかもジェイクの家の一部を借り、馬まで特別に貸し出ししてもらえるとは……

 こんな恵まれた環境下で「頑張らなかった」「出来なかった」など到底許容できる事ではない。


「こうやって自分で遠出が出来るって、凄く良いですね。

 なんか……

 自由! って気がします」


 視界いっぱいに広がる緑の丘、平原。

 方角に迷うことのないよう、広く築かれた赤レンガの街道に沿って走っているが、自分達の前を遮るものは何も無い。


 時折商隊の荷馬車や、騎士の一隊の姿を見かける事はあったがそれだけだ。

 旅人がこんな目立つ街道を一人で歩いていたら野盗の類に身ぐるみはがされてしまうかもしれないが、自分は既に腕っぷしの強い人間に奪われるだけの町娘ではない。

 馬で駆け、剣で戦うこともできる――対抗できるだけのモノを持っている。


 奪われたり、踏みつけられることを本能的に恐れる必要がない。

 こういう心境を自由だと言うのだろう。


 どこにでも行ける、きっと大陸の果てにさえ。

 ……今は借り物だけど、いつか自分の馬を持てたらいいなぁ、と更に欲も出て来てしまった。

 そうなると馬を世話してくれる人を雇わないといけないし、厩舎も建てないといけないし……


 卒業後の進路で、騎士団の参謀補佐の試験に通ったら考えてもいいかもしれない。

 それまでは絵に描いた餅でしかないのだ。



 肝心の補佐役に就こうとするならば――

 戦闘能力と移動力、要は剣術や馬術は実技で絶対に落とせないところだ。

 弓術も習っていれば加点されるだろうし、以前ジェイクが見せてくれた騎射が得意になれば偉い人の狩りにもついていける。

 技術があって困る事はないのだ。


 ただ、そういう国官に関わる試験を受けるのは学園からの推薦が必要なので、成績を落とすことは受ける機会を逃すことになる。

 試験も手が抜けない。

 やるべきことは山積み状態だった。





 ※




 ジェイクが連れて行ってくれた郊外の絶景遠乗りスポット。

 そこは山道の奥ということで、途中斜面を登らなければならない。


 十分程度とは言え、平坦な道と比べれば悪路を往かねばならない。

 駆けあがるのに四苦八苦しながら、止まり止まりこちらを待ってくれる彼に何とかついていった。


 途中に通りがかった時に滝が見えた。

 激しい濁流音を渓谷に響かせ、吹き上がる水しぶきが綺麗な虹を作る。

 その滝の前はチラホラと人影が見え、景色の有名な場所かも知れないと思った。


 確かにその光景は感嘆に値するものだったが、止まって眺める余裕もなく――

 鬱蒼と樹々の茂る山間の道を進む。



 一面に原っぱが広がっていた。

 上流から流れる小川の水は澄んでおり、足の低い雑草を掻き分けるように色とりどりの花が咲き乱れる。


 もしもリナがここにいたら歓喜の声を上げるだろう、馬から降りて近くの樹の枝に長く伸ばした手綱を結んだ。


 少し先に歩くと――



 街壁に囲われ、中央に王城の聳え立つ王都がここから一望できる!

 春の風は強いが、疲れた今はその吹き荒ぶ風がとても気持ちいい。



「良い景色ですね!」


 当然他には誰もいない、貸し切りの丘。


「そんなに遠くないだろ?

 昔は良くこの辺りに遊びに来てたんだよな」 


 ジェイクは少し昔を懐かしむように橙色の目を細めた。

 彼もまた馬を降り、草を踏みしめてリゼの近くに歩み寄る。


「ご友人と、ですか?」


 それとも、お供をぞろぞろと引き連れて遠乗りで来たのだろうか。

 今は一人で行動することを許されているジェイクも、昔から大人顔負けに強かったわけがないだろうし。

 周囲の従者に守られながら生活するジェイクの図、というのも中々想像しづらかった。


「いや……

 友人っていうか、ほら。アーサーの弟。クリスな。

 あいつを連れて来たことあったなーって、つい思い出したわ」


 彼の言葉を濁した言葉に思わず口を押さえてしまった。

 そう言えばこのクローレス王国には王子が二人いて、同じクラスのアーサー王子の下に弟王子がいた――という話を聞いたことがある。

 リゼはただでさえ広い王国の端っこ、片田舎で育ってきた身なので王家の事情には全く疎い。


 だが小さな村でも王妃様と弟王子が亡くなってしまったと報せが来たあとは……

 セスカ領全体で一月、喪に伏していたのだったか。


 王子だの王妃だの、自分にとっては遠い遠い人だった。

 自分と血が繋がっているわけではないし、一度も会ったことがない人。

 だから皆が本当に悲しんでいるのか? と訝しむような可愛げのない子供だったと思う。


 そうか……

 王子の、弟。

 いつも太陽のように明るく、ニコニコしていて優しい皆の王子様。

 あの人は身近な人を亡くしていたのだな、と。可哀想に思ってしまった。

 自分なんかに同情されるのは、彼としては心外かもしれないが。


「ガキの頃は、俺も後継ぎでもなんでもなかったし。

 王宮に行くことはあんまりなかったんだけどな。たまーに誘われて同行することが何回かあって。

 んー……クリスは……あいつ、第二王子だったから、シリウスやラルフ達と一緒にいるわけじゃなくて……

 アーサーの後を追いかけてウロウロしててさ」


 仲間に入れるわけじゃないから、じーっと見ているだけの事も多かったそうだ。


「そりゃあな! 五歳差って大きいだろ?

 あいつらと遊ぶって言ってもなぁ……難しかっただろ」


 歳が離れていたら、子ども同士でも遊び辛いというのはちょっと分かる。


 弟王子の姿をジェイクも何度か見ていたが、御三家の後継ぎと第一王子との関係は他の関係と比べてそれ以上に明確な「差」があった。

 兄弟仲は良かったが、二人が常に一緒にいられる環境ではなかったそうだ。


 長男絶対主義という奴ですね、とリゼは心の中で頷いた。



 そんな弟王子を不憫に思った王妃に直接”気晴らし”をお願いされたジェイク。

 剣の師匠であるライナスらと相談し、気晴らしになるよう連れてきた場所はここだという。

 実際に来てみたら、クリス王子も喜んだしジェイクもすっかり気に入った。


 『きれいだねぇ』と、ニコニコ笑う第二王子は、長じれば今のアーサーのような絶世の美形に育っただろうな、と彼は視線を逸らす。


 決して周囲から邪見にされているわけでも、疎ましがられているわけでもない。

 普通に仲はいいのだけれど、”仲間”になれない疎外感。


 当時の弟王子の気持ちを思うと少し胸が痛む。



「なんだかんだで結局俺にお鉢が回ってくるし、アーサーの弟もいなくなるし。

 人生ってままならねぇもんだよなぁ」


 はぁぁぁ、と彼は鈍重な動きで額を押さえ、溜息を漏らした。



 晴れやかで楽しい一日を過ごすはずが、彼に暗い顔をさせたいわけではないのだ。

 不可抗力とは言え、自分をここに連れて来たせいで彼の気持ちが翳るのは全く以て本意じゃない。




 第一、自分には何もコメント出来やしない。


 深く突っ込んで聞くのも憚られるし、彼にしてみれば本来、話すだけ無駄なわけで。




 ただ、ジェイクが心の底からロンバルドの後継ぎを望んでいたわけではないということだけは伝わってきた。


 彼を支援してくれ、支えてくれる大勢の人が困らないようにその立場を投げ出さないというだけで。

 どこまで行っても真面目な人なのだろうなと思う。





「それじゃジェイク様、少し休めましたし!

 弓、貸してもらえませんか?

 今日は絶対コツを掴んで帰ります!」







「良いけど、無理するなよ?

 落馬されても困るからな」




 こちらを向いて笑うジェイクの――その優しい眼差しに、心臓が大きく跳ねた。  


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