第382話 日傘


 カサンドラは姿見の前で自分の姿を確認し――

 おろしたての真っ白な日傘を屋内でさしていた。


 季節は春。

 しかし四月も半ばを過ぎ、そろそろ陽射しが強くなってくる頃だ。

 お気に入りの鍔の広い帽子に合わせて用意させた日傘は、あまり物品に対してときめくことのないカサンドラにしては珍しく一目惚れをしたものである。


 真っ白なレースをあしらい、縁の意匠が凝っていて品良く見える小洒落た日傘だ。

 大きなワンポイントのリボンの飾りがついた帽子に良く似合っている――と、ついつい無意識の内に傘を動かし、ポージングまでとってしまった。


「まぁ、お嬢様、とてもお似合いでいらっしゃいます!」


 普段はただの社交辞令、太鼓持ちなのだろうと思えるメイドの言葉も素直に頷ける程、お気に入りの一品である。

 身に着けるものに拘りはなかったのだが、たまにはこういう掘り出し物もある。

 商人が持ってくる商品は大体大人びたデザインや派手な色合いのものが多かったが、シンプルな形がとても気に入った。


 これなら街に出て散策するのも楽しい気持ちになれそうだ。


「ありがとうございます。

 ……そうですね、折角ですし今日は街に出ましょう。

 良い天気ですから」


 何の予定もない週末に、ずっと屋敷に籠っているのも不健康極まりない。

 先月のダイエット期間を思い出すと家で静かに本を読んで過ごすだけというのは――脳裏に体重計がチラついて落ち着かないものである。

 雨が降って足元が悪いならまだしも、今日は朝からいい天気だ。


 抜けるような高い空の中、白い雲がゆっくりと風に押し流されている。滄海のような青空が広がっていた。


 折角自分好みの日傘があるのだから、使いたいという気持ちが湧き上がる。

 学園に日傘を持って行くことはないので休日くらいしか使う機会がない。


 パーティ会場と違い扇や荷物を持ってくれる侍女が控えているわけではなく、雨でもないのに鞄以外の荷物を持ちたくない。

 まぁ、カサンドラが日傘をさして通学を始めたらそれを見て真似をする女子生徒も現れるかもしれないが……

 別にファッションリーダーになりたいわけでもないので、余計な持ち込みをしたくないのだ。


 こうやって一人休日に気分を良くして出歩くくらいがちょうどいい。



「畏まりました、お嬢様」


 傍仕えのメイドが恭しく頭を下げる。

 日傘があっても陽が高い時間帯に街中をウロウロしたいわけではないので、早速午前中に外出しようと手を叩く。


 健康やダイエットの目的も兼ねているので今日は勿論歩きだ。

 三十代のベテランメイドを伴って大通りに繰り出すことにした。




 ※




 春の到来で、街も俄かに活気づいている。

 あたたかい陽射し、街の至る所で花々が咲き誇って人々の顔も心なしか浮かれているように見えた。


 冬の寒い時期と比べると行き交う人の表情の差は雲泥で、大通りを歩くカサンドラの足取りも弾む。

 時に立ち止まり、無意味にくるくると傘を回してみたり。

 樹々の枝に咲く花を眺めてメイドと楽しく話をしたり。


 ――何気ない日常がこんなにも愛おしい。


 一年前と比べて屋敷に勤めるメイド達も自分に恐れをなして無言を貫くということもない。


 にこにこと穏やかに、キャロルたちの婚約お祝いのお茶会の予定を語り合っていた。

 前回集ったお茶会は秋だったが、今回は春。

 サロン内の雰囲気も一新しましょう、とメイド達もかなりやる気に燃えているようだ。



 平和だなぁ、と空を見上げる。

 去年の今頃はこんな風に空の蒼さに心を躍らせる余裕などなかった。


 今までこの世界で生きて来た十五年間がひっくり返る、前世の記憶に絶望さえ抱いたものだ。

 勿論、まだまだ道半ば。根本的な事態の解決には至っていないけれど。

 自分は決して一人ではないのだという安心感は絶大だった。


 この学園にいる間に父クラウスの課した『宿題』をこなして、卒業した後も自分が王宮内で有利に立ち回れる状況を作らなければいけない。

 御三家の当主に屈するわけにはいかない、王子の幸せが妨げられることのないよう自分も全力で支えていかなければ――



 通りを歩いていると、姦しく賑やかな話し声が前方から聴こえて来た。

 その聞き覚えのある声に思わずカサンドラは歩みを止める。


「……まぁ」


 視界に飛び込んできたのは、市場での買い物を終えたのだろう三つ子達の姿だ。

 目深に傘をさし、顔を隠すように歩いていたカサンドラはクイッと傘を後方へと傾けた。


 つばの広い帽子が傘にあたって落ちてしまわないよう、ゆっくりと傘の角度を変える。

 すると三人でワイワイと楽しそうに歩くリタ達が、レンガ道を散策途中のカサンドラの姿に気づいてそれぞれ驚いたような顔をした。

 が、すぐに「カサンドラ様」と呼び掛けてくれる。


 休日に一緒に行動することは珍しいという話だが、こんな風に揃って街を歩いている三つ子を見たのは確かに初めてだ。

 偶然の邂逅にカサンドラも緑色の目を細めて笑顔になる。


「ごきげんよう、皆様。

 今日はお買い物ですか?」


 リゼが両手で提げる重たそうな籠から、野菜や調味料の入った瓶などがチラチラと垣間見えていた。

 寮で生活をしているのに何故野菜……?

 目を良く凝らせば、ソーセージやチーズの塊も底の広い籠の中に見え隠れしているではないか。


 リゼは一人、肩をビクッと跳ね上げて愛想笑いを浮かべている。


「そうなんです!

 リゼが明日、ジェイク様と遠乗りに行くのにお弁当を作るって言うから……

 その買い物に皆で来ちゃいました!」


 ニヤニヤと楽しそうに笑いながら、リタが肘でリゼの脇を小突く。

 相変わらずボーイッシュな、健康的な生足が伸びる短パンを穿くリタ。この格好を見ていると、とてもリリエーヌと同一人物とは思えない。


「ちょっとリタ! そんなこと言わなくても良いから!

 はー、無理矢理ついてきて買い物中も邪魔ばっかり」


「聞いてくださいカサンドラ様! リゼとリナったら、私を一人置いて市場に行こうとしたんですよ!?

 三つ子なんですよ? 声をかけてくれたっていいと思いません!?」


「……リタがいるとうるさいから嫌なのよ……

 ちゃっかりお菓子まで沢山買わせるし。後で請求するから」


「えっ、三人で食べようと思って買ったのに!?」


 荷物を持っているのはリゼだけではなく、リナも一抱え程の袋を持ってニコニコ微笑んでいる。

 どうやら何かの粉……小麦粉のようだが。


「私もリゼのお手伝いで、パンを焼こうと思いまして」



 明日はジェイクとリゼが遠乗りに行く日――お馬さんデートの日か。

 完全にジェイクルートに入ってイベントを楽しんでいますね、としか言いようのない微笑ましい状況にカサンドラも笑みが止まらない。


「まさかリゼがお弁当とかねー、明日雪が降らないと良いけど」


「お願い、不吉なこと言うの止めて」


 リタは純粋に姉の行動に驚き、興味本位でついてきただけのようだ。



 それにしても、遠乗りデートで手作りお弁当か。



 これで付き合っていないというのだから、乙女ゲームって凄いなぁ、と心中で驚きを隠せない。

 休日に異性と二人で手作り弁当を持ってデートに行く間柄で付き合っていない……だと……?


「きっとジェイク様もお喜びになりますね。

 明日は楽しんできてください、リゼさん」


 カサンドラがそう激励に似た言葉をかけると、リゼはカーッと顔を赤くして買い物籠を握る手に力を込める。

 そして茹ったように蒸気を発した後、静かに一度コクンと頷いた。


 物凄く照れていて恥ずかしいのだろうなと伝わってくる。

 それが普段の彼女とのギャップも相俟って、とても可愛らしかった。



 あまり冷やかすばかりでも、時間を経過させ荷物の中身を傷めるだけだろう。

 カサンドラは手を振って、寮に戻る彼女達の後姿を見送った。



「まぁまぁ、デートですか?

 青春ですわねぇ、可愛らしいこと」


 カサンドラの傍に控えて畏まっていたメイドも、ふふふ、と優しい笑みを浮かべてカサンドラと全く同じ感想を言葉にしてくれた。




 ……重ねて思う。

 いや、理由は分かっているつもりなのだが……それでも、なお現実を眺めていて疑問を抱かずにはいられないのだ。








   なんで付き合ってないの?






 ※




 市場の外周をぐるっと眺めて回り、そろそろ散策を引き上げる時間になった。


 やはり部屋に籠っているだけでは楽しい事に巡り合うことは出来ないものだな、と三つ子との偶然のエンカウントを思い出しては忍び笑いを漏らしてしまう。

 お気に入りの日傘と帽子に空色のワンピースを纏って、晴れやかな気持ちで散歩が出来る。


 こんな日常がいつまでも続けばいいのにな、とカサンドラは春の空気を大きく吸い込んだ。

 だがそんなカサンドラの穏やかな心境は、次の瞬間に木っ端みじんに粉々に砕かれる。


「――キャシー! 偶然だね」



「……!? お。王子!?」



 大通りを歩いていると急に王子に話しかけられるなんて、全く想定の埒外だ。

 幻聴かと思ったが、嬉しそうに笑みかけて近づいてくる人影は王子にしか見えない。そもそもカサンドラをその愛称で呼ぶ人間はこの王都に彼だけである。


 誰と誰を見間違えても、王子を見間違えることだけは絶対に無い。

 条件反射で、速やかに日傘を下ろし畳んで手に持つカサンドラ。


 彼の姿を間近にし、深々と頭を下げた。


「王子、ごきげんよう。

 失礼ながらお伺いしたく存じます。

 ……王子はこちらで一体何をなさっておいでなのですか?」


 王子の近くには数人の騎士の姿がある。

 だが違和感を抱いたのは、彼らが王子の護衛をしているようには見えないことだった。


 それに王子は護衛をぞろぞろ引き連れて街中を闊歩する事は好きではなかったはず。

 多忙な彼は、土日の殆どを王宮内で過ごすと聞いているので猶更疑問符だけが飛び交っていく。


 春の陽光をキラキラを浴びて燦然と煌めく王子の立ち姿に目が眩みそうだ。


「今日は騎士団の仕事中。

 王都内を警邏しているところだよ」


 余計にわけがわからない。

 王子がわざわざ警邏と称し騎士に混じって見回っていることは、カサンドラにとって疑問の塊でしかないからだ。

 こちらの理解不能な心境が王子に伝わったらしい。


「実はジェイクに代替を頼まれてね。

 私もしばらく街の様子を見ていなかったから、気分転換に引き受ける事にしたんだよ。

 まさかキャシーと会えるとは思っていなかったから、幸運だった」


「ジェイク様の、替わり、ですか」


「そう、私も騎士の皆と久しぶりに同行出来て楽しいよ。

 護衛対象になるより気が楽だ」


 言われて視線を馳せるが、その場にいる騎士の面々の中にジェイクの姿はどこにもない。


 人が多く集まる場所を見回ってトラブルを未然防止する騎士の存在は大きいものだ。市民の安心感も違うし、とても大切な現場の仕事だと思う。


 ――はて、そんな自分の仕事を王子に押し付けたジェイクはどこで何をしているというのか。

 折角王子に会えて嬉しいのに、釈然としない気持ちが沸き起こる。


 ああ見えて仕事に関しては超のつく真面目な人間だ。

 決められた役割を友人に押し付けるような無責任な性格ではないと思うのだが……


「まさかジェイク様、体調がよろしくないのですか?」


 デートのためにお弁当を作るのだと市場に繰り出したリゼの心中を思うと気が気ではない。


「違うよ、大丈夫。

 明日休むために、執務室に籠って残りの仕事を片付けたいと言っていたからね。

 外回りが入ると終わらないって絶望してたから……まぁ、私もつい見かねてしまったというか」


 ジェイクと一緒に行動する騎士は、王子とも親しい者ばかりだ。

 「しょうがないですねー」と。カサンドラが思うよりずっと軽い調子で、王子が代替で街に出る事を認めてくれたらしい。


 王子自身もぞろぞろと護衛を引き連れて視察をするより、この方が気が楽だと。

 騎士団内部で問題視されたら責任問題だろうが、そこは人徳というか普段の人間関係のおかげなのだろうか。


「随分無茶をなさいますね、ジェイク様」


 頬に掌をあてがって、ホッと吐息を落とす。

 リゼの行動が無駄にならずに済んでホッとしているが、王子を巻き込んだ事はどうかと思う。

 ……まぁ、王子も友人が困っていたら手を差し伸べずにはいられない人なのだからしょうがないか。


 王子は「ははは」と笑い、肩を竦めた。


「良くあることだよ。たまたま今回は、今日このタイミングだったというだけで」


 成程、これが初犯ではないということか。

 こんな大通りで人目のつくところ、しかも優秀な騎士達が傍にいるから安全は安全だろう。

 以前もジェイクは王子に護衛は要らないと言い切っていたな、と思い出す。王子が剣の腕が立つことはカサンドラも重々承知している。


 王子も仕事と割り切って逆にのびのびと見回りが出来ているのかもしれない。


 それにしても明日のデートのために、何が何でも仕事を片付けるというジェイクの鉄の意思には素直に感心する。

 よっぽど楽しみなんだろうなぁ、としみじみと頷くと同時にもう一度先ほど浮かんだフレーズが脳内に木霊した。




 ――驚くべきことに、これで付き合っていないのである。


 付き合う、という単語の定義に疑問を抱く一歩手前状態だ。




 

「ご多忙の中お引き留めしてしまい、失礼いたしました。

 お勤めは並々ならぬご苦労かと存じます。どうかお障りございませんように」


 時間があるからと街中を散策している自分が恥ずかしくなった。

 このまま立ち話を続けていては、騎士達からの視線も痛い。


 引き上げるため、カサンドラは「失礼します」と白い日傘をもう一度さして頭上に掲げた。


「いや、声を掛けたのはこちらの方だから。

 ……ところでキャシー」


「何でしょう」


「君は護衛もつけず、彼女と二人で出歩いているのかな」


 恐縮し、視線を地面に落としたまま完全に固まっているレンドール家のメイド。

 彼女とカサンドラを交互に見遣り、王子は訝しげにそう言った。


「さようですが……」


「人通りが多いとはいえ、何かあっては大変だ。

 ……騎士の誰かに家まで送らせよう。

 本当は私が付き添いたいけれど、ジェイクの替わりにいる以上持ち場は離れられないからね」


 心配そうな王子の果てしなく杞憂な気遣いにカサンドラは泡を食う。


「えっ、いえ、王子!

 それは職権濫用にあたるのでは」


「要人警護も騎士の仕事の一つだ。

 私もこのまま君を帰すのは心配だから、どうか納得して欲しい」


 そうまで強くお願いされては、意固地になって申し出を断ることも失礼だ。

 カサンドラは勧められるまま頷く他なかった。


 安堵したように胸を撫でおろす王子が、騎士達に何か指示をしようと振り返る。

 だが不思議な事に、一度体勢を変えたはずの王子は大きな忘れ物をしたかのような顔で――再度、カサンドラに正面から向き直ったのである。


「ごめん、言い忘れるところだった」


「王子?」



 彼はにこっと微笑み、カサンドラの姿を眺めて感嘆の声を上げる。



「その日傘、とても上品で良いね。君に良く似合っているよ。

 ああ、君は元々綺麗だから何を身に着けても似合うけれどね」

 


 ………!



 完全に不意打ちを食らったせいで、傘の柄を握る手に変な力が入る。


 恥ずかしさの余り、思いっきり顔を隠してしまった。

 実際に誰から見ても綺麗な人に直接言われると、こんなにも恥ずかしいものなのか。


 この間の晩餐会の時と言い、王子はこんな台詞をさらっと吐ける男性なのかなぁ、と。カサンドラは自分の真っ赤な顔を覆い隠していた日傘を少し上げて、薄目のまま王子の横顔をゆるゆると視界に入れていく。


 騎士達に向かって話をする王子の頬は朱色に染まっていて、彼らも幾分からかいの混じった視線を向けているようにも見える。



 どうやら彼も、良く知った間柄の前でいわゆる気障キザな台詞を吐くのは相当恥ずかしかったらしい。




 照れる王子の姿は年相応の男子でしかなく、カサンドラと痛み分け状態である。



 これは――互いに恥ずかしい。



 心臓がドキドキ、疾走中だ。


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