第378話 <リナ>


「あー、リナ君リナ君。ちょっといいかなぁ?」


「何でしょうか先生」


「すまんなぁ。ちょいと腰を痛めてしまって……」



 ※




 選択講義が終わった後、リナは講義で使用した資料を図書室まで運ぶよう講師に頼まれてしまった。



 一番講師の話をよく聞ける場所ということで、リナは空いていればいつも最前列にちょこんと座って講義を聞いている。

 その積極性を買われているのか、リナは講師から大変好意的に扱われていた。


 選択講義は授業とは違い成績に関係がないものだ。どう言いつくろっても、やる気が無く眠っている生徒がいたり、全く違う作業を端っこでこっそり行う生徒がいたりすることが避けられない。


 そんな生徒達の中で、いつも相槌をうちながら真剣に話を聞いてくれる生徒を好ましく思わない講師はいないだろう。


 何よりリナは講師陣が一切気を遣わなくて済む純粋な平民出身の特待生。

 私が! 学園で学ばせてやっているのだ! という堂々とした態度で話しかけることも出来る。

 何せ王族を始め、御三家に関わる貴族達ばかりのこの学び舎で。

 まともな神経を持つ講師は、生徒と講師という立場であるにも関わらず身分の差によって出来るだけ生徒達の素行に無関心を貫かざるを得ない環境に胃を痛めている。


 悪事を起こせば学園側の立場として糾弾することは可能だ。

 でもそんな大っぴらな事件などまず起こらない。


 「それ間違ってますよ」「字が読めません」「声が小さいです」などと生徒から突っ込みを受けても愛想笑いで対応しなければいけないのだ。

 特に座学の講師は学者かぶればかりなので、生徒との適切な距離を保てない高齢の男性が多かった。



 ――ちょっとした頼みごとを行う際に、リナはとても便利な生徒であった。



 しばしば頼まれごとをされるとは言っても、資料を図書室に返すくらいどうということはない。

 リナは数冊の本を抱え、軽い足取りで廊下を歩いていた。



「………あっ……」



 決して不注意ではない。

 廊下に開け放たれていた窓から、予兆なく突風が吹き込んだ。


 風が吹いて涼しいだけならともかく、その風は制服を大きく揺らす。そもすれば捲れあがってしまうのではないかと、手が反射的にスカートを押さえた――が。

 その突発的な動きのせいでバランスを崩した数冊の資料は、廊下に見事に散らばってしまった。


 大切な本が廊下に投げ落とされ、ゴトゴトと悲鳴を上げている。


 防ぎようのないアクシデントだと心の中で嘆息を落とすが、角が凹んではいないか傷が入っていないか戦々恐々だ。

 弁償しろと言われても、書物は高額なもの。

 冷や汗が背中を伝う。


 しゃがみこんで本を拾おうとした時、頭上に黒い影と声が降って来た。


「ここにある本は、お前が落としたのか」


「え? はい、そうです。

 申し訳ありません、シリウス様」


 廊下に本をばらまいた自分の姿を目撃されてしまったようだ。


 だがリナが本を傷つけたことを謝罪する間に、同じようにしゃがみこんでひょいひょいと自分の手に積み重ねていく。


「……全て地理学に関わるものだな。

 講義で使ったのか」


「はい、あの、これから図書室に返却に……」


「私も図書室に用がある、ついでに持って行こう」


 リナは「えっ」と声なき悲鳴を上げて飛び上がりそうになった。

 落としたのとは別の意味で背筋が凍りつく。


 淡々として、怒っているとも呆れているとも判然としない彼の声。

 表情もいつも不機嫌そうで、これが地顔なのだろうと思われる。

 折角綺麗な顔立ちをしているのに、その表情と眼鏡が邪魔をしているように思えてならない。



 立ち上がり、本を持つシリウス。

 無言で踵を返す彼き気づき、慌てて後ろについていった。



 いくら申し出ても、彼は両手に抱える本をリナに返してくれることはなかった。



 決して恩着せが無しいことは言わないが、リナを気遣ってくれていることは伝わってくる。


 彼に雑用をさせるなどとんでもない事であるというのに――

 おっかなびっくり、彼の横に付き従うように歩いていた。



 不意に、一年前の記憶がリナの脳裏に浮かんだ。

 まるで焼き付いて離れない光景、感情。


 ――それは生誕祭当日のことであった。




 ※




 リナはその日まで、気持ちがブルーに沈んでいた。

 生誕祭が怖かったからだ。


 生誕祭なんて、過去の自分が必ず体験したことがあるだろう行事。

 一体どれほどの既視感に心が傷つき、落ち込み、閉ざされた世界にいるのだと思い知らされるのだろうかと身が震えた。


 だがそんなリナの心配は、完全なる杞憂で終わったのだ。

 今でも信じられない奇跡だと思う。


「これが……生誕祭……」


 確かに身に覚えがあるような気がする。

 でも「違う、こうじゃなかった」と記憶が、魂が叫んでいる。



 全く苦痛な想いを味わうことなく楽しく過ごすことが出来るなんて、夢のような話だ。


 デイジーから借りる事ができたドレスのおかげだろうか。

 それとも姉達と一緒に過ごせる生誕祭だからだろうか。


 特にラルフと王子の合奏に、リナは危うく涙を零しかける程感動して言葉も出なかったのだ。

 こんな音色、自分は知らないはずだ。

 初めての経験、新しい世界!



 『既視感』に支配されない日々、それはリナが何より追い求めるものだったからだ。

 ふと目を醒ませば入学式。

 個々あっただろう記憶を失ったまま戻されて。


 過去の自分が幾度となく経験した事を再びなぞると知るだけの毎日は――心が壊れそうだった。


 どう行動しても過去の自分の足跡を見つける、そんな空虚な毎日。

 何度目かも分からないのだろう学園生活に、夢など抱きようがなかった。

 

 でも生誕祭は何もかも、リナにとって大きな感動を与えてくれる。

 過去の自分はこんな光景を見たことがなかったんだ、今、自分は自分にとって”初めて”の人生を生きているのだと。

 普通に生きている人はたった一度きりの人生だから当然のことなのに、リナはそれにいたく感激した。



 いくら三つ子で入学した不思議体験とは言っても、日常を送る際に既視感めいた感覚に冷や水を浴びせられるような事はこの二か月で幾度もあった。


 だが生誕祭でこんな初めて尽くしの感覚でいられるなんて想像もしていないことである。



 借りたドレスの裾をぎゅっと握りしめ、リナは一層強く思った。



 この世界で生きたい。

 未来に進めるのなら――この世界が良い。


 カサンドラも、リゼも、リタも一緒が良いな、と心の底からそう願った。


 そのためには自分が何度も入学式当日に巻き戻されているということがそもそも真実なのか。

 また、本当だとしたらどうすればこの閉ざされた時空から抜け出すことが出来るのか。

 自分はそれを探し当てなければいけないのだ。


 幸いな事に、最も神や魔物、魔法と言った情報に強いシリウスはリゼもリタも興味の対象ではないと言う。

 物凄く心が痛むことではあるが、何としてでも彼の懐に入り込んで神殿や聖アンナ教団など秘術が隠されているだろう場所に出入りできるよう取り計らってもらわなければいけない。

 王家の秘術だとしたら、もはや自分の手には負えないが……

 魔法学の権威はあくまでも宮廷魔道士が出入りする神殿のはずだ。そこに記されている事を祈る他ない。


 彼を騙すようでとても気が重たかった。

 ”今”の自分は、シリウスのことを何も知らない。

 他人から伝え聞く程度の、一般常識的な情報しか持っていない。


 だけど過去の自分は何度も何度も、彼と話をしたのだろう。


 どこか懐かしい、切ない、と感じる。

 それはシリウスだけではなく、ラルフやジェイクにも抱く想いである。


 きっと自分達は、見知らぬ他人ではない時もあったのだ――すっかり記憶を失い、でも、共にいたことだけは魂にこびりつきちらつく残影に知らしめられる。


 不可思議な表現しづらい感情がずっと燻っている。



 こんな想いのままシリウスに目的意識を持って近づくのは嫌だった。

 下心を抱えた自分が、彼に気に入られたいと思うことは罪深い。

 ……だからと言って再度今の記憶を白紙に戻され、入学式の日に連れていかれるのは耐え難い苦痛である。


 割り切って、彼と接する他ないのだろうと心に決めた。

 勉強して成績を上げて、魔法の練習をして……

 シリウスに気に入られるように動けば、彼は自分を信用して心を開いて、融通を利かせてくれるかもしれない。




 大講堂で行われた聖アンナ生誕祭が終わり、広間に移動した。

 式典が終わった後、飲み物をいただきながら歓談を行う時間が設けられていたからだ。



 リナはシリウスの姿を探し求めたが、大広間のどこにも彼の姿が見つからない。

 どうしよう、と右往左往して生徒達の間で不自然な程キョロキョロしていた。

 彼に近づかなければいけないのに……

 折角、今日はドレスも借りているしいつもと雰囲気が違っている。

 少しは目に留めてくれたかもしれないのに。



 ふと、シリウス、という人名が誰かの会話で出て来たのを耳が拾い上げる。

 視線を向けるとそこには役員らしき生徒が数名。

 深刻そうな表情で会話を続けていた。


 『氷魔法』『小部屋』『宮廷魔道士の失態』『シリウス様が替わりに――』


 漏れ聞こえるキーワードに想像力だけが先走る。


 リナは高い天井の大広間をぐるりを見渡した。

 講堂内と同じように、この広間も良い具合に空気が涼しく冷えている。


 季節は夏、外気はとても暑い季節だ。

 そんな時に大人数が一間に収容されれば当然だるような熱気が籠ってもおかしくない。


 ここが適温に保たれているのは魔法と言う超常現象があってこそ、だ。

 それは分かっているが……


 もしかして何かトラブルが発生し、シリウス一人で魔法を使っているのかとリナは驚いた。

 広間内にはカサンドラの姿もあるし、勿論他の役員の姿も――



 では彼は一人でこの大広間の温度を『維持』しているの? 



 魔法学を齧ったばかりのひよっことは言え、リナにだってその大変さは理解できる。

 勝手な行動は慎むべきだと思ったが、しかしこれは機会チャンスだと思った。


 彼に自分の存在をアピールできる。

 ……そんな考え方しかできない自分が情けなくて嫌だった。


 でも四の五の言っていられる状況ではない、と。

 半ば自棄になり、リナは冷たい飲み物を持って別室にシリウスの姿を追い求めたのである。





「――失礼します」


 静かに、そっと扉を開ける。

 壁の隙間から魔力が漏れ出ているので、この部屋に間違いないだろう。リナは軽くノックをして部屋に入った。



「………。」


 彼は狭い部屋の中央に両足を肩幅程広げ、床をしっかり踏みしめて立っていた。


 胸の前に蒼く淡い光を発しながら浮かぶ『イヤリング』。


 一対のアクセサリーに両の手を翳して――小部屋内にこもる暑さのせいで額から汗を流しながら、断続的に”魔法”の維持を行っている。


 どうして彼がここで一人、魔法を使って環境を整えているのかは詳しい事情は分からない。

 でも真面目な顔でイヤリングを睨みつける彼の横顔に……


 リナは少し動揺した。

 「以前にもこんなことがあったな」とがっかりする、そんな既視感が彼の立ち姿に重なり合うオーバーラップすることは無かった。





    ……こんな彼は、”知らない”。





「ああ、助かる」


 彼はこちらの姿を怪訝そうに一瞥した後、お盆の上に置いた飲み物に気づいたようだ。

 そして手を伸ばした瞬間、集中力が途切れたのかもしれない。

 彼の魔力が僅かに揺れてしまった。


 魔法の触媒となっていたイヤリング。

 カサンドラが着けていたものと同じくらい大きな宝石、片方のサファイアの表面に罅が入った。 

 

 みしっと空気が音を立てて揺れた気がする。

 リナはお盆を床の上に置いた後、自分の腕も”それ”に向かって伸ばす。


 こんな大きな魔法なんか使った事はないはずなのに。

 どうすれば魔力を集中できるのか、つかえるのか、予め分かっていることのように……まさに、身体が勝手に動いた。


 シリウスとリナ。二人分の魔力で触媒から発する歪つな暴走を抑え込むことに成功し、イヤリングの光が安定を取り戻す。

 

 ほーーーーっと、息を落とした。




 彼は片手のみでイヤリングを宙に浮かせ、操舵する。

 空いた方の手をリナに向けて、薄っすらと笑んだ。



「丁度喉が渇いていた」



 部屋の熱気にしばらく晒されたせいでジュースの中に入れた氷はすっかり溶けてしまっていた。

 水滴がまとわりつくグラスを彼に手渡す。


 彼は――薄味になってしまったオレンジジュースを、一気にぐいっと飲み干した。



「感謝する、リナ・フォスター」




 そうぶっきらぼうに返事をした彼の表情は、その声音とは裏腹にやわらかく。優しい笑顔だった。





 この日

 この場所で

 この人と




 自分はこんな”出来事イベント”を知らない。




 心臓が忙しなく音を立て、駆け巡る。





 ※





 一年前の事を思い出している間に、気づけば図書室に繋がる回廊に辿り着いていた。

 先ほどリナを襲った風は今は穏やかで、時折頬を優しく撫でていく。


 今日もいい天気だ。




「成程、私の方から言っておこう。

 自分の講義で使用した資料くらい、自分で帰しに行くべきだとな」


「そのくらいのお手伝いなら大丈夫です、先生、腰が痛かったみたいですし」


 リナがこの資料を運んでいる理由を問いただされ、嘘をつくわけにもいかず――選択講義の講師にとって申し訳ない事態に発展してしまった。

 いきなりシリウスから文句が飛べば、あの講師の肝が潰れてしまうのではないか。

 少々焦り、手を左右に振って彼の怒気を必死で宥めた。


「折角ですし、私もその中から何か借りて帰ろうかなって思います」



「……そうか。

 相変わらず学習意欲があっていい事だ、今後も励むと良い」



 彼が顔の角度を少し変えると、陽光が眼鏡に反射して――キラッと光を放つ。





 ガラスの奥の彼の黒い目は、一年前と同じ。いつだって優しい色をしている。


 


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