第377話 自分にできること
先日は王子達と登校できたものの、流石に二日連続という幸運は巡って来なかった。――が、
「ごきげんよう、カサンドラ様!」
今日は明るい声とともに、同級生のデイジーが地面の土を蹴って駆け寄ってきた。
彼女は自分の姿を視界に入れるやいなや、お嬢様とは思い難い疾走ぶりを見せカサンドラを驚かせる。
「デイジーさん、ごきげんよう」
人に声を掛ける時には、つい相手の名前も添えてしまう。
第一声で誰に話しかけているのか分からない状況だと、他に人がいる場合気まずい状況を生み出しかねない。
名前をちゃんと覚えている、貴女に対して話しているのです、という明確なアピールになるので多くの生徒も同じような会話の始まりである。
そう思うと、やはり名前とは自分のものであるにも関わらず、他人が使用する不思議なモノなのだな……と不思議な気持ちになった。
自己紹介で使う他に、自分の名前を自分で言う用途は無い。
記憶が過去に飛んだ瞬間、ウッとカサンドラは胸に激しい痛みを覚えた。
そう言えば、幼い頃は自分の事を「キャシー」と名前で呼んでいた時代があったと思い出してしまったのだ。痛い。痛すぎる。
レディとしてそれは幼くはしたないことですよ、と母に諭されて一人称を変えたわけだが。
どうして父や母、祖父母は使っていいのに自分は使ってはいけないものなのかと口を尖らせた。
大切な家族――『身内』だけが使える呼び名、それが愛称。
ならばこれ以上使用する相手が増える事もないと思っていたし、王都に来てからは自分にそんな呼び方があった事を学園生活で意識した事はなかったはずだ。
それがまさか、日常的に王子に使ってもらえるようになるとは。
本当に人生とは分からない、自分が望んだことのはずなのに恥ずかしいやら畏れ多いやらで未だに不意打ちを食らうと心臓が跳ね上がる。
「お、はよう、ござい……ます……。ごほっ……」
「デイジーさん。大丈夫ですか?」
普段走ることの少ない令嬢稼業。
駆け出してきたデイジーは、カサンドラの傍らに辿り着くと上体を前傾姿勢に折り曲げてぜぇぜぇと息を切らせている。
折角朝から時間をかけてセットして来ただろう頭の上のリボンが風を受けて曲がっていた。
「は、はい。運動不足のようです。
……お見苦しいところを」
カサンドラは苦笑した。
春休み以降、ダイエットのために集まって走り込むということはなくなってしまった。
だが、運動の大切さは文字通り骨身に沁みた――時間に余裕がある休日は、屋敷の庭をこっそり走ることもあった。
またスカートのホックがキツくなってしまっては堪ったものではない。
卒業パーティまでに元に戻せた体型を、今は何とかキープしているところである。
ちなみに、昼食時の特別メニューは未だに続いていた。
それはそれで有難い事である。出来れば減量について悩んでいる女子生徒全員、同じメニューにしてあげて欲しい。
「しばらくそのままで……リボンの位置、直しますね」
彼女が腰を曲げて息を整えているので、カサンドラの視線の先に丁度デイジーの青色のリボンが揺れている。
そのままでは不格好だろうと、リボンの位置を直してあげた。
複雑で細かい髪のセットアップは出来ないが、少しピン止めの位置を直し角度調整するくらいなら。
「ありがとうございます」
黙してにこやかに微笑んでいれば、可愛らしい貴族令嬢にしか見えないお嬢さんなのに。
ハキハキしたしっかり者で、教室で興奮しすぎて卒倒してしまうと言う若干アクロバティックな女子生徒である。
現状、唯一の同郷ということで何かと気遣ってくれる懇意にしているクラスメイト。
こうやって話しかけてくれる彼女は、自分が他の生徒と話しかけている時に敢えて割って入るような事はしない。
カサンドラが一人の時には限りなく存在感を主張してくるが、その他の場面では物凄く控えめだと思う。
こちらの交友関係に気を遣ってくれているのだろう。
はにかんで笑う彼女と一緒に、カサンドラは教室に向かう。
三年間クラス替えがないのは自分にとっては幸運な事である。
「そういえば、カサンドラ様。
キャロル様の婚約お祝いを考えていらっしゃるとか」
「ええ、そうなのです」
何故デイジーがそのことを知っているのだろう? と、小首を傾げた。
別に嘘をつく必要もないので、頷いておく。
「先週、シャルロッテ様とお話をしている時にお聞きしました。
とても素敵な事だと思ったので」
シャルロッテの姿がポンと頭上に浮かび上がる。
そう言えば彼女とデイジーは何度か話をしたことがあるのだったか。正確には、シャルロッテから一方的に話しかけられる。
選択講義が重なった時は挨拶をしたり、隣に座る事もあると言う。
今までの鬱憤を晴らすかのようなシャルロッテの積極性には舌を巻いてしまう。
リナともお近づきになりたいと言って、取り巻きでお目付け役の二人を遠ざけてでも接触しようとするところとか。
派閥だ身分だで沢山のしがらみ、話して良い相手も内容も常に監視され続けていた状況は不本意極まりなかったのだろう。
それがあのお茶会以降、徐々に自分から話し始めるようになり。
今ではお目付け役生徒を振り切って自由に交流をはかっている。
問題が起こっていないならそれでいいのだけど……
間違いなく良い事のはずなのに、ギャップが凄い。
シャルロッテの変わり様に戸惑っている生徒も多い事は知っている。
兄のビクターは自分がもはや関与できない学園内のことを考えると胃が痛いでは済まないだろうな。
「肝心のキャロル様のご婚約者がどのような方なのでしょうね」
「週末にお会いしましたが、ご高名な演奏家でいらっしゃいました。
お二人とも仲睦まじい様子に、わたくしも嬉しく思ったものです」
「それは素晴らしいですね!
ではまた皆様でお集まりに!?
……再びカサンドラ様が主催されてご婚約祝いの場を設けるとなれば……
大変晴れがましく、その事実を学園中に喧伝して回りたい程です」
「いえ、そこまで大々的にされるわけには……」
「分かっていますけれど、カサンドラ様。
私としては少々歯痒く思います。
――ここは王子のお力もお借り出来るのなら、カサンドラ様に一層の箔がつくのではないでしょうか。
王家のご威光があれば、カサンドラ様がお三方を公式にご招待するのに何の差し障りもありませんよね」
思わず前につんのめりそうになってしまった。
一体何を言い出すのかと横に並んで歩くデイジーを凝視したが――彼女の目は結構本気だ。
以前彼女達をお茶会に招待した時は、完全に内々の話で波風を立てずに集まりたい、という事情がまず先にあった。
自分が何か行動することで派閥の間に余計な緊張を生み、収拾がつかなくなってカサンドラの手に負えなくなることを恐れたからだ。
アイリスに打診されたとは言え、慎重に事を進めた。
デイジーの力も借りて可能な限り水面下での接触を図ることに成功したのだ。
王妃候補であるカサンドラを上に担ぎ上げた第四の派閥が出来るのは本意ではない。
ただ対立の構図を深めるだけである、と。
そういう意図はないのだと、皆も理解してくれているはずである。他ならぬデイジーの尽力があったのだから。
「デイジーさん、何故そのような大それたことを仰るのですか?」
「カサンドラ様は王子達の手を煩わせたくなくて、いつも控えめに動かれているのだと推察します。
ですが近頃の王子のご様子を拝見して思います、あの方は望んでカサンドラ様にお力添え下さるのではないでしょうか。
三派閥の融和や調和というだけに留まらず、いっそ学園にご在籍の間、カサンドラ様が上に立てば問題も起きないのではないでしょうか」
「……そのつもりはありません……」
はぁ、とカサンドラは顔半分を掌で覆って深い溜息を落とした。
確かにデイジーの立場からすれば、波風を立てないよう目立たないよう立ち回るカサンドラの意志に賛同しこそすれ、思うこともあったのだろう。
そして進級してからの王子の態度の変化が、彼女の心に突き刺さったのかもしれない。
これだけカサンドラに肩入れしてくれるのであれば、カサンドラが身を乗り出しキャロルやシャルロッテ、ミランダなどの有力貴族の娘達より上だと強権で言い聞かせることは可能かも知れない。
だがカサンドラが在学中は良くても、その後は争いの火種だけを残して去っていくことになる。
そもそも今まで不干渉を貫いていたカサンドラという地方貴族の娘が、王子の婚約者であるというだけで三家よりも上の立場だと明確に階層付けされれば絶対に反発を招く。
カサンドラの自尊心は満たされ、同じ地方貴族にとっては溜飲が下がるかもしれないが……
王子、すなわち王家という虎の威を借って立場を分からせる、というのは自分の思想に馴染まない。
本当に結婚して王家の一員になり、自分が侮られるようなことがあったら強く出ないといけない事もあるだろう。
だがまだ婚約者の段階で、王家の一族であるかのように振る舞うのは抵抗が強かった。
第一、自分は現状侮られているわけでも軽んじられているわけでもない。
他の生徒は自分にそれなりに気を遣ってくれている。
その上でこれみよがしに自分が上の立場だ、と言って回っても良い事はないのでは、と思ってしまう。
もし自分が逆の立場なら――王族に気に入られているからと威張り散らして女王様気取りの人間が身近にいたら嫌だなと思うわけで。
デイジーの熱い想いは理解できるが、中々その助言通りにとはいかない。
と同時に、父クラウスの『宿題』が否が応でも思い起こされる。
カサンドラのそういう感情はどうあれ、自分が王子の手や威光を借りてでも”功績”を作る必要に迫られていることもまた事実。
王子の存在は今の自分にとって
自分がこの学園で何かしらの行動を起こす時、一度きり正当な目的で使う事が出来るカードという認識でいる。
みだりに振りかざすことは出来ないが、地方から遠路はるばる王都までやってきて窮屈な生活を強いられる生徒に恩恵を与えるためなら――自分の未来のためにも、切らざるを得ない。
今は切り方を考えあぐねているだけだ。
「……王子もカサンドラ様に何かお願いされればお喜びになるのではないかと思うのですが」
彼女がそこまで思考を飛躍させていることに苦笑を禁じ得ない。
しばらく呆気に取られていたカサンドラだが、やおら、ポンと手を打った。
「ああ、そうですね。
では王子のご意向をお借りして、デイジーさんのお誕生日を盛大にお祝いするというのはいかがでしょう?
わたくし、それでしたら王子にお力添えをお願いします!
色んな派閥のお嬢さんをお呼びして――」
「え!? いえ、いえいえ! おやめください!
私の事などどうでもいいです!」
彼女はきっと気後れして断るだろうと思っていたから、少しからかってしまった。
だが気持ちは言った通り、嘘は無い。
彼女は望むのなら、王子に協力を申し出るつもりだが――
完全に恐縮して肩をすぼめるデイジーを前に、ちょっと脅かし過ぎたかなと反省した。
※
その日の午後、シャルロッテと同じ講義室で顔を合わせた。
彼女は結構勉強が好きなようで、座学系の講義をあちこち聞いて回っているのだと言う。
言われてみれば今までも何度か彼女の姿を講義室で見かけたことがあったが、大抵彼女の周囲には取り巻きの女生徒が囲んでいたので個人的な話が出来る状況ではない。
可愛いらしく、大人しいお嬢さんだという認識しかなかった。
――あの収穫祭の日までは、だが。
流石に控室でお嬢様とは縁遠そうな暴言の連発を聞けば印象も変わる。
「ああ! カサンドラ様、ご一緒できて嬉しいです!」
彼女はこちらの姿を視界に入れるやいなや、ススス、とカサンドラとの距離を詰める。
少し離れた席でこちらをジーッと睨んでいる取り巻き達の視線は相変わらず痛い。
カサンドラは取り巻きのお嬢さんに「ごきげんよう」、と微笑みかけたが彼女達は愛想笑いを浮かべてペコリを頭を下げる。
……カサンドラが邪魔だという意識ではなく、シャルロッテが変な事を言わないか、ハラハラしているのだろう。
前も思ったが、彼女達の立場にはちょっと同情する。
「早速ですがカサンドラ様。
キャロルさんの婚約者、いかがでしたか?」
シャルロッテに促され、彼女の隣の席に着席。
腰を下ろすと同時に、期待に満ち溢れた表情に迎えられる。
「晩餐会でお会いしたキャロルさんのお相手は、ご高名な演奏家だそうで。
キャロルさんも良いご縁があったとお喜びでしたよ」
「ミランダさんに引き続き、キャロルさんにも良縁だったなんて素晴らしいです!
ではお祝いの席を設けたいという話を前向きに進めても宜しいでしょうか」
「はい、わたくしも賛成します」
キャロルの相手としてはかなり年上の男性に見えたが、しっかりしていて頼りがいがありそうだ。
話の様子から察するに、随分心を開いていて可愛がられているのではないかと感じた。
講義が始まる前の雑多な話し声が聞こえる広い室内。
チラチラと視線を感じ、シャルロッテも少しだけ声のトーンを落とした。
「お二人の婚約のお祝い、楽しみですね。
本当は私の屋敷にお招きするべきだと思うのですが……
お兄様が良い顔をして下さらなくて」
でしょうね、とカサンドラは心の中で頷いた。
割と派閥間の緊張に触れる機会がある立場のビクターだ、自分の領域にロンバルド派やヴァイル派の令嬢を招くことに心理的垣根が高いのだろう。
学園では明確な派閥間の壁を感じることはなかったが、それは生徒会の中だからで。
教室での立ち回りは少し違ったのかもしれない、なんて想像してしまう。
「では今回も、わたくしが皆様を招待しましょう。
シャルロッテさんのご提案を横取りするような形になってしまいますが」
「いえいえ、とんでもございません。
そう仰っていただけて、私、とても嬉しいです!
もしもカサンドラ様もご都合がつかなければ、学園内でどこかのお部屋を借りて集まるしかないと思っていました」
流石にそれは声を掛けづらいですので、とシャルロッテは困ったように笑う。
そうやって儚げな様子だとまさに可憐としか言いようがない事に戸惑いを覚えた。
春の妖精……!
外見の他人に与える深層の影響力は凄いと改めて実感する次第である。
「では近い内にお声掛けいたしますね。
お日にちですが――」
カサンドラはこれからしばらく週末に用事が入っていない。
学園生活も二年目、人間関係も良好、生徒会活動も支障なし。
お祝い事の席を準備し日程調整を行うくらいは容易い事だった。
キャロルの幸せそうな様子を見ていたら、シャルロッテの婚約祝いをしたいという一見突拍子もない提案も『ナイスアイデア!』と今なら諸手を挙げて賛成したくなるというものだ。
そしてミランダはミランダで、婚約が決まったのは丁度一年前のこと。
未だにラブラブ状態らしい、キャロル一人ではなく彼女もお祝いをしたら喜んでくれるのではないか。
でも、良いのかな……?
張り切って『準備のお手伝いをします』と、グーの形にした両手で力強い発言をするシャルロッテ。
シャルロッテ本人はまだ婚約者が決まっていないはずだけど、自分のことは良いのだろうか?
だが友人を祝うのだと意気込む彼女を前に、そんな疑問はあっさり押し流されてしまったのである。
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