第376話 <リゼ>
今日もいい天気だ。
春休み中は雨や曇天が多かったけれど、学園が始まった途端再び晴れの日が続いている。
このまま週末まで天気が保ちますように、とリゼは完全に浮かれ模様だ。
月曜の選択講義、フランツはまだ修練場に顔を出していない。
そして先週乱入するようにやってきたジェイクの弟――グリムの姿も無かった。
もしかしたら今頃、講義に参加したいと主張するグリムをフランツが抑えているのかも知れない。
グリムには色々と驚かされたものの、剣の腕が図抜けているということよりも療養明けのせいか体力が無くすぐに倒れてしまった事が一番吃驚した。
あんなに凄腕なのに勿体ない話だが、講義の最中激しく動く度に卒倒されるかもしれない危険を考えれば、フランツも簡単に首を縦には振らないだろうな。
グリムが参加していない方がリゼも気が楽だ。
もしも複雑そうな兄弟事情が無ければ、ジェイクの事を少しでも聞き出せるよう粘ったかも知れないが……
普通の兄弟ではなく腹違いの兄弟、しかも過去にお家騒動もどきがあった気配がするとあっては気軽に過去を聞くことも憚られる。
触らぬ神に祟りなしだ。
彼ら兄弟の関係から出来るだけ距離を置いた方が良いのだろうと、何となく感じる。
こんな庶民オブ庶民が詳細を知ったところで出来る事もない。
何より下手にグリムと会う機会が増えて、懐かれるのは少々困る。
……そう、グリムはどこか昔馴染みのテオに似ている。
たった一年遅く生まれただけなのに、近所の弟特権をナチュラルに使いこなし相手の懐に入り込んで思うがまま頼りにし甘えると言う。
末っ子気質とでも言えばいいのか。
彼の事は嫌いではないが突き放せないリナや元々彼を可愛がっているリタの様子を見ていると歯痒い想いもするわけで。
甘え上手ってホント得だな、と憎めない彼らを見ていると思うのだ。
今日はこの広い修練場で訓練を受ける。もはや自分専用の空間だ。
野ざらし状態で一昨年まで全く使われていなかった、学園内で最も端っこの裏寂れた場所ではあるが――
誰にも気兼ねなく動けるこの場所に、すっかり愛着がわいてしまった。
雨が降ったら使えない、欠陥修練場だというのに。
春の昼下がり、うららかな日差しを浴びてリゼは一人柔軟運動をしていた。
以前より柔らかくなったとは言え、まだまだ筋が固い。
「~~~♪」
あまりのポカポカ陽気の下でいよいよ気分も上向き、リゼはらしくもなく鼻歌を口ずさんでいた。
完全に浮足立っている。
教室内なら他人の視線があるから表情を引き締めるよう意識できるが、いざ一人きりになると途端にウキウキと弾む心が抑えられなくなった。
今日は本当に朝からラッキーだった。
カサンドラがいてくれたおかげで、王子の友人――ジェイク達と一緒に短い時間だが登校することが出来た。
彼女がいなかったら、例え彼らの姿を見かけても挨拶をして素通りするだけだ。
王子が声を掛けてくれた事は本当にありがたく、朝から運が良い。
しかも、今週末はジェイクと念願の遠乗りに行ける!
去年の夏では考えられないが、彼と馬を並べて遠出が出来るという事態に今から夢心地であった。
そんな日が訪れるなんて去年の自分に言ったところで信じるわけがない。
昨日もしっかりとフランツに乗馬指導を受けて来た。
その甲斐あってか、教官も苦虫を噛み潰したかのような表情ではあったものの遠乗りの『許可』をもらえたのである。
フランツのいないところでも、ちゃんと乗り回せるというお墨付きをもらえたのだ。
今週末の予定がいよいよ実現可能となったのだから、テンションが上がらないわけがない。
つい鼻歌も興が乗り、気持ちが乗って気持ちよく口ずさめる――
「~~~~♪」
「随分ご機嫌だな。リゼ・フォスター」
背後から剣呑としたフランツの声が投げつけられる。
口を閉ざし真一文字に固く結ぶが、時既に遅し。
「フランツさん、こんにちは……です」
「お前、結構音痴だな」
グサッと心に突き刺さる言葉の矢を浴び、リゼは引きつら笑いを浮かべる。
「今日はこんないい天気ですし、気分も良くなりますよ」
「そうかそうか。
先週はグリムがいて、指導もろくに出来やしなかったからな。
よーし、今日はいつもの二倍ペースで休憩無しな」
「えっ」
容赦ないフランツの鶴の一声に、リゼの笑みも強張る。
忘れていた。
彼は、無茶や無理を強いて来る、鬼教官的な側面も十分に持ち合わせていたということを。
「そんな締まりも緊張感もない顔でまともな訓練になるわけないだろう!
基礎からやり直しだ、もっと気を引き締めろ」
苛々の矛先を都合よく自分に向けられた気がしないでもないが、怒気をはらんだ顔で強面のオジサンに一喝されれば無条件で頷く他ない。
浮かれ気分も一気に萎び、リゼはかなり久しぶりに、彼にしごかれることになってしまった。
……運が良い一日かと思っていたら、急転直下の事態に泡を食う。
「そんなに変な顔してましたか、私」
「気味が悪いくらいヘラヘラしてたぞ、鏡で見て来い」
口を逆三角形に尖らせ、フランツはかつてない程憮然とした様子で腕組みをしている。
相変わらず物事をやんわりと伝えるということを知らない、ストレートな言い方の教官。
歯に衣着せぬ、親しいからこそのやりとりかも知れない。
「……。結構です」
付き合いも一年になるフランツをドン引きさせるようなだらしない顔って、一体どんな表情してたんだろう。
リタの事を言えたものじゃないな、と顔を覆った。
※
疲れた体に鞭を打ち、リゼは生徒会室に向かう。
フランツの無茶な訓練のお陰で意味もなくヘラヘラ笑ってしまうような心の余裕は消し飛んでしまったけれど。
もしも疲労の色を濃く残していたら、ジェイクはこれ幸いと家庭教師――つまり勉強の時間を今日は止めにしようと提案しかねない。
それだけは嫌だ、とリゼは痛む手足の筋が訴える痛みを無視して、何事もないいつも通りの表情でアルバイトに臨む。
「ジェイク様、今日も一日頑張りましょう!」
ぐっと拳を固め、彼の案内で生徒会室の中にお邪魔する。
視界に入ってくる、整然とした生徒会室の重厚な雰囲気は何度訪れても気後れしてしまう。
生徒会役員の使用する大きな造りの個人机の並びは全く変わっていない。
だが他の役員達の入れ替えで、学級委員の使用する机の配置が少し変わった事に気づいていた。
それまで誰も使用している気配がなかった端っこの机。
今はいくつかの書類やファイルが置かれ、使用されていることが分かった。
去年までリゼ達のクラスには学級委員はいなかったが、今年からその役をリナが任されている。
その事にクラス内も騒然としたが、カサンドラや王子、シリウスやラルフという現役幹部たちの推薦。
更にリナ自身が、一年間このクラスで過ごして皆に好感を持たれていたおかげなのだろう。
大きな反発もなく、すんなりと生徒会役員に収まってしまった。
慣れないことばかりで大変そうだが、シリウスと一緒にいる時間は増える。
そして生徒会にはカサンドラもいるから真っ新な状態で挑戦するよりは幾分気が楽だろう。
――それにしても、まさか三学期の試験結果でリナの後塵を拝するとは思っていなかった。
その実績もあってリナが勝ち得た役員の座。
でもリゼだって納得はしているが決して漫然と次の試験に臨むつもりはない。
まさかライバルがリナになるとは想像の埒外だったにせよ、良い好敵手だ。
毎日の勉強にも一層身が入るというものである。
「相変わらずやる気満々だな」
ジェイクはややうんざり顔でいつも通り、自席に鞄を放り投げる。
そして大き目の椅子にどかっと腰を下ろし――
「あれ? ジェイク様」
彼に近寄ることを許されているとは言え、出来る限り慎重に後をついていく。
そして彼が椅子に腰を掛けた事を確認して自分も倣おうとしたものの、この段になって気づいた。
「制服のボタン、取れそうですよ」
「これか?
さっき着替えの時、つい引っ張り過ぎて」
制服の上着がブレザーなのは男女共通だ。
前を留める大き目の黒いボタンの一つが、今にも落っこちてしまいそう。一本の細い糸で辛うじて服とボタンを繋ぎとめているといった様子だ。
もう一度彼が勢いよく立ち上がったら、その衝撃でポロッと落ちてボタンが行方不明になる未来しか見えない。
朝の段階では普通に彼の服に留まっていたし、剣術講座の着替えでやらかしてしまったと言うのは本当なのだろう。
「後は帰るだけだしな。
新しい奴引っ張り出せばいいし、気にするな」
彼は全く気にしない。たかがボタンの一つや二つ、取れたなら別の制服に替えれば良いという何という貴族思考なのか。
しかし気のないジェイクの反応とは相反し、リゼは一気に気持ちが高揚した。
これは!
名誉挽回、汚名返上の最大のチャンス!
両手で机を叩き、その勢いで身を乗り出すようにして提案した。
「ジェイク様、私がそのボタン、付け直しましょうか?」
この機会を待っていた。
いや、実際にこうして直面することが学園生活の中で起こるとはあまり期待はしていなかったのだけど。
予想通り、ジェイクはポカンと呆気にとられている。
目が点になっているというか、信じられないモノを見るかのような驚きの視線。
「え? 付け直すって、誰が?」
「だから、私です」
思わず得意げに、フフンと己の胸元に手をあてがってリゼは言い切った。
尤も、リゼは裁縫に物凄く自信があるわけではない。刺繍は興味もないし。
要は人並み――ボタンを付け直す基本中の基本くらい自分だって出来るのだ。
これで在りし日の雪辱が果たせるのだと、心が湧きたつ。
夏の避暑地、カサンドラに連れて行ってもらったラズエナの別荘のやりとりは未だにリゼの記憶に鮮明に刻まれている。
『無理しなくていいんだぞ?』
ボタンを付け直してあげようと提案した自分を、彼は彼なりに気を遣ってくれたのだ。…全く以て的外れな気の遣いようにショックも大きかった。
ジェイクは自分を簡単なボタン付けも出来ないような不器用な人間だと思い込んでいることが良く分かった。
元々リゼには”女子力”は低い自覚がある。
だがそれにしたって、ジェイクは自分を男友達だという認識でいるのではないか? という疑惑がずっと渦巻いていた。
だがそれはリゼも反省すべきところばかりだ、しょうがない。
女の子らしいところなんかどこにあった状態、日頃のやりとりを思い返せば自分は男勝りとしか表現できないかもしれない。
完全にジェイクが悪いわけではない。
普段から綺麗だったり可愛い女性を見慣れ、それが当たり前という意識で過ごしている彼の目には、十人並みの容姿のリゼは女性としてカウントされていないのではないか。
クラス旅行以後しばらくあった、リゼへの拒絶反応はそれを端に発したものだったのではないかと疑念を抱いている。
異性扱いしてない相手に急に接近されたら「そんなつもりはない!」と突き放したくなる気持ちはリゼにもよくわかるから。
だが今更、日常の生活で女性らしさを主張するなどリゼには困難なこと。
そもそも女性らしさとは何なのか、見た目で可愛くなれない女の子は女性扱いされないのかと絶望したものだ。
裁縫……!
これなら、性差の機微に疎いリゼにも分かる。
料理や裁縫はリナも得意で、いわば女子力を計る上で最もお手軽な手段だと思う。
「……お前、裁縫できるのか!?」
「決して威張れた腕ではありませんが、ボタンの付け直し位はできますよ。
ジェイク様は出来ないと先入観を持っていたようですが」
元々リゼは負けず嫌いだ。
出来るのに出来ない、と思われることを殊の外厭う性格である。
だからいつか訪れるかもしれない機会のために、学生鞄に常に裁縫セットを入れて持ち歩いていた。
去年の夏からだから、およそ一年近く機会をうかがっていた自分の執念深さに自分でも呆れるけれど。
「元々私、あまり服を持つ人間じゃないので。
破れたり解れたりした服は、買い直すのも手間なので自分で繕ってました」
よっぽど手に負えない破損の場合はリナ先生に頭を下げる他無かったが、ボタンを着けてなんて頼んだ事は無い。
「へーー」
リゼはスッと鞄からノートを取り出し、彼の前に広げる。
「なので、ジェイク様。問題を解いている間、私がボタンを着け直してもいいですか!?」
その後、学生鞄の奥から白い小袋を取り出した。
今までリゼの制服のボタンを着け直したり糸の解れを繕ったりすることしか出番の無かった道具を手にしたリゼに、ジェイクは勢いに圧されたようにコクコクと頷いた。
「そんなに言うなら、じゃあ頼むか」
「はい、お任せ下さ……」
満面の笑みを浮かべ、裁縫セットを片手に待ち構えるリゼ。
そんな自分の目の前で、ジェイクがよいしょとブレザーを脱いだ。
間髪入れずに無造作に渡された白い上着を、慌てて受け取る。
……何だろう、一気に気恥ずかしくなってきた。
自分の制服よりも一回りどころか二回りは大きなサイズで、しかも直近まで身に着けていたものなので……
温かい!
掌にじんわりと伝わるぬくもりに、リゼはようやく我に返った。
自分の渾身の女子力アピールの機会だと気炎を上げたものの、いざこうやって手渡されると一気にドキドキが全身を支配する。
長袖の白いシャツは、去年も何回も見た制服の一形態だと言うのに何故か恥ずかしくて目を逸らしてしまった。
「すぐに終わりますから、ちゃんとそのページ終わらせてくださいね」
ただボタンを着け直すだけだ。
このままだと床に転げ落ちてしまいそうな危ういボタンを探し当て、一度糸を切る。
他のボタンを留めている糸と同じ黒い糸を出し、針の穴に通し――……
集中したいのに、すぐ傍から視線を感じてどうにも手が進まない。
「ジェイク様、ジロジロ見られてたらやり辛いんですけど……」
「いや、何か意外だと思って」
彼は正直な人間なので、思った事をそのまま口にする。
その口調は感動も入り混じっているような気がしたが、それはそれで自分はどこまで不器用だと思われていたのだと悔しくもあった。
……勿論、別に裁縫が出来るからと言って女性らしいかと言われれば決してイコールでは結びつかない事は百も承知だ。
だが騎士や傭兵たちでさえ繕い物が出来るのに、一端の年齢であるリゼがそんなことも出来ないと思い込まれていた誤解を解きたかった。
いや――それも少し齟齬がある。
確かにリベンジに燃えたキッカケであることに違いはない、が。
チク、チク、と。
針を生地に刺し、ボタンの穴を通す。
例え彼にとってはとれかけたボタンの制服などいくらでも替えがあるからどうでもいいものであったとしても。
たった十数分の下校時間の事だけであっても。
彼のために何かが出来る事が、嬉しかった。
いつもしてもらうことばかりだったから、自分の手で僅かでも助けになれるのなら嬉しい。
興味深そうにじーっとこちらの手元を見る視線が痛いが、ボタンを付けるなどあっという間だ。
緊張で指を針の先で刺さないようにだけ気をつけて、ササッと終わらせてしまった。
膝の上に置いた彼の制服は急速に残されていた温度を下げ、ただのブレザーと化してしまう。
「終わりました!
……で、何で一問もやってないんですか……?」
立ち上がり、バサッと彼のブレザーを広げる。
両肩の部分を掴んで持ち上げ、仕上がりを確認。完璧ではないが、まぁ先ほどの今にも落ちそうな状態よりは何倍もマシだろう。
緊張したのか、ちょっと強く縫い付け過ぎたようだ。
許容範囲、許容範囲と自分に言い聞かせリゼはジェイクの方を向き直ったのだが……
彼の手元のノートは最初から全く何も変化が無い。
一文字たりとも進んでいない進捗に脱力して、一気に声が尻すぼみになる。
はい、とブレザーを彼に手渡しながらも目つきが険しくなってしまう。
「指刺すんじゃないかって無駄にハラハラしたからしょうがないだろ!?
言う通り慣れたもんだな、吃驚した」
「これくらいならお安い御用です、いつでも言って下さい」
技術が必要なボタンではなくて良かったと内心ほっと胸を撫でおろしながら、リゼはドンと自身の胸部をドンと叩いた。
一年前の雪辱ここに果たせり、と。心はスッカリ晴れやかだ。
「じゃあ、またボタンが取れたらお前に頼むからな。
ありがとう」
ジェイクはブレザーに袖を入れて着直しながら、ちょっと照れたようにはにかんだ。
少しは女の子らしいところをアピールできたのだろうか、と彼の評価を気にする余裕もその瞬間、消え失せた。
照れ隠しに大きな声を上げるわけでも誤魔化すでもなく。
ごく普通に照れた顔でお礼を言われたら、普段見ない反応にリゼの心機能が停止しそうになるではないか。
中々見る機会もない、レアな反応。
精悍で大柄な青年の仄かな照れ顔を前に、リゼは拳をぎゅっと固めて気持ちを抑える。
――可愛いなあ! とリゼは心の中で一人もんどりうっていた。
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