第374話 眠れない夜
アイリスの主催した晩餐会が終わり、参加者たちはそれぞれ帰りの馬車に向かっている最中だ。
三分の一ほどの来客は先に帰宅しているものの、普通の晩餐会でお開きになる時刻までこの人数が残っていることは珍しい。
社交の季節であれば、様々な会が重なる日は重要でないと判断した招待に顔だけ出してすぐに中座し、別の屋敷へ向かう――と言ったダブルヘッダーも決して珍しい話ではない。
過去のカサンドラのように途中で席を外すと言った人間だって、ごく普通に参加しているわけで。
多少のトラブルが発生したとはいえ、お開きの時刻までこれだけ残っていれば十分成功したと言えるだろう。
カサンドラも晩餐会を最後まで参加したのはこれが初めてである。
今まで中央貴族達に混じってパーティに参加する経験も少なく、そもそもパーティ自体が苦手だ。
こんな日付が変わりそうな時間まで、他人の屋敷で談笑を続けた経験など一度もない。
だが今日は楽しく過ごすことが出来たし、何よりアイリスの顔を見れて嬉しかった。
キャロルの婚約者もこの目にし、良い縁談であったことを自信を持ってシャルロッテに報告できる。
また、リタも『リリエーヌ』として自分が想像していた以上に上手く立ち振る舞っているようでホッとした。
リタにとっての社交的お付き合いの”初陣”が、知人の多い晩餐会だった事は幸いな事だったに違いない。
途中ラルフが良く分からない事を口走っており、結局何が何だか分からないままなのが気がかりと言えば気がかりだが……
自分に直接関係が無いのに、あれやこれやと探りを入れられる程ラルフと親しいわけではない。
考えてもしょうがないので、忘れる事にした。
しかし、時間も時間だ。ぐったり疲れ切っている。
いくら楽しかったとはいえ、カサンドラは緊張と疲労で困憊状態であった。
もしも帰りが王家の馬車でなくレンドール家の迎えの馬車だったとしたら、靴を脱いで長椅子の上のクッションを下敷きに横になっていたかもしれない。
勿論そんな恰好を王子の前で晒すわけにもいかないので、今日は帰宅するまでずっと気が抜けない時間が続いていた。
王子も娯楽室では立ち話が
それなのに一向に疲労の気配を感じさせない事に驚嘆してしまう。
王族って思っている以上に体力仕事なんだな……と改めて思い知らされる。
式典の時や民の前で挨拶をする時、とかく大勢の前に晒される機会も多いし時間も長い。
国王陛下は玉座の間で座っているイメージがとても強かったが、彼も若かりし頃はこうやって日夜笑顔を絶やさず涼しい顔で立ちっぱなし状態を過ごしてきたのだろうな。
病弱ではとても責務はこなせない、王子が幼い頃から剣術指南を受けているのは自己防衛のためでもあるし体力をつける意味があるに違いない。
たちまち今日は部屋で休む前にふくらはぎのマッサージをしないと、足がむくんでしまいそうだ。
歩きやすさよりも見た目を重視して選ぶお洒落な靴で長時間歩き回るのは本当に辛い。
チラ、と窓の外に視線を遣る。
窓の外の世界は静まり返って、月明かりがぼんやりと街の影を浮かび上がらせる。
明るい内は雑踏行き交う大通り。だが深夜に人影は無く、ただこの馬車一行の周囲を固める騎士達の気配のみ。
ようやく帰宅できる――というカサンドラの心中とは逆に彼ら騎士はこの道中、かなりの気を張っているようだ。
もしも襲われるとしたら、闇夜に乗じるケースが多いのだろう。
ピリピリした緊張感に耐え切れず、すぐに視線を馬車内に戻した。
会話は少なく、穏やかな時間が過ぎていく。
幸い、王子と二人きりになったら何か話をしないと間が持たない! という焦りを感じたことはあまり無い。
今に始まった事ではないが、王子は多弁になる時と寡黙になる時を上手に使い分けている。
一緒にいても苦にならない関係が一番長続きするとはよく言われることだが、確かに、と納得だ。沈黙や、ふとした静寂さえ心地いい。
緊張を和らげたり気まずくならないよう自然に話を振ってくれることもあれば、今は車輪が地面を走る音に耳を澄ませているかのように穏やかな時間を作ってくれる。
それが彼の気遣いなのだろうと思う、自分も見習わないといけないところである。
※
「お帰りなさい、姉上! ――王子も、長い時間お疲れさまでした!」
レンドール屋敷に戻ると、夜も更けているというのにまだ部屋の明かりが各部屋に煌々と灯っているとすぐに分かる。
他の邸宅は灯りを落としているところが多いというのに、まるでこれからパーティでも行うのかというくらい動いている人影が多い事にカサンドラは絶句した。
晩餐会を見送ってくれた使用人達がそのまま残っているのではないか。
盛大に迎えられてカサンドラも絶句状態。
現状に至る采配を振るったのであろうアレクは、普段なら自室に引きこもっている時間、楽しそうにニコニコ笑顔で自分達を迎えてくれたのである。
「た、ただいま帰りました……
その、アレク。
フェルナンドを始め皆さん、このような時間まで待機していたのですか?」
家令のフェルナンドはその職に相応しい高齢の男性だ。
こんな夜遅くまで働かせて大丈夫なのかと心配になってくる。
「勿論です!
さぁさぁ、皆さんお疲れの事でしょう。
ゆっくり寛げる部屋を用意してあります、遅い時間ですし今日はお休みになって下さいね」
キラキラと輝く笑顔でアレクに提案され、騎士達もそれぞれ顔を見合わせた。
今回王子に随従した騎士の多くは、アレクの誘いに乗って一泊休んでいくことにしたようだ。
どのみち王子が宿泊するなら、護衛として残らねばならない。
今日の報告事項が残っているので、とそそくさと王城に戻る騎士の後姿が少し物悲しかった。
この世界でもブラックな仕事環境は当たり前にあるのだな、と。
当然の事に気づきながらも、カサンドラ達はようやく緊張を解ける場所に辿り着いたのである。
王子がレンドール屋敷に泊って帰るとは言うものの、自慢ではないがこの屋敷はかなり広い。
特にカサンドラ達家族の済む区域と、来客用の客室は棟から違う。
エントランスホールで左右に分かれる事になるのだ。
隣の部屋や近い部屋、もしくは同じ階に王子が泊まると言うのなら絶対に落ち着かない自信がある。
だが彼のために用意された最も豪華な客室なら、クラス旅行で泊った館の方がよっぽど近い状態での就寝だ。
王子に限らず、王都に用事がある親戚やお客さんをもてなすことも多々ある別邸。
カサンドラは既に自室に撤収モードで、後は王子に挨拶をして今日と言う一日を終える――はずだった。
「王子! 良かったら僕の部屋で一緒に休みませんか!?
案内しますから」
アレクがこの上ない朗らかな、近年稀にみる屈託ない笑顔でそんな事を王子に提案する。
その言動を間近で聞いたカサンドラは、思わず吹き出してしまうところだった。
まさか義弟がそんな突拍子もないことを言うとは夢にも思わなかったので、心臓が止まるかと思った。
アレクの私室は、当然客室よりもカサンドラの部屋に近い……!
自分の『日常生活』の中に王子という存在がぽんっと配置されることに、カサンドラは言いようのない恥ずかしさに見舞われる。
実の兄だからこそのアレクの思い切った誘いだ。
だが流石にカサンドラの義弟と一緒の部屋に泊まるなんて王子が頷くはずがない。
この段階では、かなりカサンドラも楽観視していたのだ。
アレクがこんなに子供らしい反応を示すのは珍しい、初めて見ると思うほどのテンションを微笑ましく思う余裕もギリギリあった。
「折角の誘いだから、お言葉に甘えようかな」
いつも規律正しく、常識に沿った行動をするはずの王子が――
今日に限ってはアレクの申し出を軽く受け入れ、アレクに負けずとも劣らない良い笑顔で頷いた瞬間。
………え?
カサンドラは内心、一人で埴輪と化していた。
※
「………。
…………。」
眠れない。
毎晩使用している自室の寝台の上で、何度も何度も寝返りを打つが、目が爛々と冴え渡っているのが自分でも分かる。
アレクの寝室は階こそ違えど、比較的近い場所にあった。
普段気軽に訪れている義弟の部屋に、まさか王子が宿泊しているなど全く想像さえ出来なかったことだ。
身体も心も晩餐会が終わった後で疲れているはずなのに、全く寝付ける気がしなかった。
今頃二人はどんな話をしているのか――気になってしょうがない。
アーサー王子と、クリス王子。
まさか二人の王子がレンドール邸に今揃っているなんて誰かに知られた大事だ。
死んでいたと思い込んでいた弟が、婚約者の義弟としてもう一度再会するだなんて思いもよらない事実のはず。王子は今何を思って過ごしているのか。
アレクと話をしたいだろうに、決して今に到るまでレンドール館に積極的に近づくこともなかった王子。
彼の心中を実際に問いただしたことはないが、こうして弟と膝を突き合わせる機会は今日が初めてのはずだった。
こうして同じ館内に自分がいる状態で、弟と婚約者が同室で一泊するって一体どういう事?
冷静に考えれば物凄く違和感を生じる現場だが……
実の兄弟としての想いを考えれば、邪魔する気もないし心行くまで話をすればいいと思う。
だけどあの兄弟がどんな会話をしているのか……!?
物凄く真面目な話?
懐かしい昔の話?
それとも現状報告……?
それならまだカサンドラも心穏やかにぐっすり眠ることが出来る。
今一番カサンドラがドキドキして寝付けない事、それは――
カサンドラの過去の黒歴史を包み隠さず調子に乗ってペラペラしゃべっているわけではあるまいな?
という、どうにも義弟を信用しきれない疑念が胸中に渦巻いている事だった。
レンドール家の後継ぎと言う立場をかなぐり捨てて、王子の弟としてあることあること自分について情報提供されていたらと考えると冷や冷やものだ。
確かに過去の自分のことなのだが、記憶を思い出す前だから違う……!
と、言いたくても言えない事情がカサンドラの首を真綿でじわじわと締め上げるのだ。
もしもその場にカサンドラ本人がいれば遠慮して言わないかもしれない事を、本人不在を良い事に話してはいないだろうか。
過去の自分の素行が憎い。
オホホホホ、と高笑いと共に周囲を見下していた自分の姿が脳内に鮮やかに思い起こされ頭を抱える。
強く寝返りを打つと同時にその勢いで床に落下してしまいそうだ。
アレクの良識に期待するしかない今が歯がゆい。
案外王子も疲れ果ててすぐに眠ってしまっているかもしれない。
そうであって欲しいと、カサンドラは闇夜の室内に茫洋と浮かび上がる壁掛け時計の長針を見つめるのみだ。
いくら気になるからと言って、アレクの部屋に枕を持参してソファで良いから眠らせてくれなんて押し掛ける事も出来やしない。
ドキドキと、眠れない夜がカサンドラを置き去りに更けていく。
※
「お、おはようございます……」
殆ど眠れないまま夜を過ごし、頭が少し痛い。
だが王子がこの別邸で過ごしているというのに、自分が顔を合わせないままというのも勿体ない話だ。
次にいつこんな機会が訪れるのか分からない、とても希少な状況と言っていい。
カサンドラは勇気を振り絞って、二人が揃っているという食堂にひょこっと顔を出した。
普段なら先に起きたアレクが向かいの席に座って待っているという状況だ。
しかし今日は、カサンドラの斜め向かいにもう一人分の人影が映っている。
レンドール家当主クラウスがいる場合、彼が座る奥の特等席に――
今日に限っては王子が着席していた。
そろそろと近づくが、自分の寝不足の顔を見られることを恥ずかしく思う。
王子は白いシャツに黒いズボンという、とてもラフな格好で椅子に腰を掛けていた。
晩餐会に着ていた服のままというわけにはいかないだろうし、当然アレクは寝間着や私服を手配していたわけだ。
朝起きてすぐに王子がいるという現実が聊か信じがたく、何度も目瞬きをして凝視する。
だが彼は少し俯き加減で、片手で頬杖をついたまま微動だにしない。
こちらに視線を向けることもなく、沈黙を保ち続ける王子にカサンドラは焦った。
いつも綺麗に整っている金の髪が、今朝は微妙に寝癖がついている。
――なんて珍しい光景を楽しんでいる場合ではなさそうだ。
カサンドラの声が聴こえているだろうに、全くこちらを一瞥する様子も見せない彼に背筋がひんやりと冷えていく。
もしかして昨日、アレクからあることないことを聞いた王子が、自分に対して「騙された」なんて悪印象を抱いてしまったんじゃないか!?
なんて、あるはずもないような事態に一人足を震わせていた。
「お、王子……?」
「はー。相変わらず寝起き悪いですね……。
ああ、姉上おはようございます」
ぼそっとアレクが呟いた。
挙動不審なカサンドラに気づき、ははは、と誤魔化すように軽く笑う。
義弟が肩を竦めている様子から察するに王子はまだ寝ぼけている状態ということだろうか?
学園や王宮で見る王子のしっかりした姿しか知らないカサンドラにとって衝撃の事実である。
「――……
……ん?
……? キャシー?
――……おはよう。」
漸く、いつもの半分くらいの反応速度でカサンドラの方を向く王子。
かなり……眠たそうだということは分かった。
「ごめん、昨日、殆ど寝てなくて……」
元々寝起きが良い方ではない上に、話が弾んだのか夜更かしをしていたのならこの状態にもなるのか。
ただ、清潔感のあるパリッとした白いシャツに少し気怠そうに頬杖をつく王子――という姿は、これはこれで一枚の絵画だ。
芸術点が高い。
カサンドラは彼に気づかれないよう、ついついじっくりと凝視した。
「申し訳ありません、さぞアレクが騒々しかったのでしょう」
「それは違うよ。
あんなに楽しい夜は久しぶりだった、泊めてくれてありがとう」
ピンボケしていた王子の思考が、ようやく現実に焦点を合わせて来たようだ。
彼の爽やかな笑顔を受けて、カサンドラはその眩しさに顔を覆いそうになる。
それまで曇っていた暁の空がサッと開き、朝陽が燦々と世界を照らす。
その変化の境目を目の当たりにしてしまった。
「……何だか、嬉しいな」
王子は寝起きの自分が恥ずかしかったのか、やや照れた様子だったが。
三人揃い、食事が運ばれていく様を眺めて小さくそう声を零した。
「朝起きたら、アレクがいて、キャシーにもすぐ会えて。
……こんな日が続けば良いと思うよ」
それはカサンドラも同意だ。
物凄く眠たいけれど、昨日の疲れは全く取れていないけれど――
三人でいただく朝食は、二人きりの時より遥かに幸せな味がした。
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