第372話 <リタ 1/2>
アイリスの腹違いの三姉妹が突然近づいてきたと思ったら、酷い勢いで自分だけではなくキャロルやカサンドラを侮辱するような事を言ったことは覚えている。
彼女達の存在感はとても強烈で、リタもあの日の舞踏会で遭遇して大変驚いたものである。
よくもまぁ、こんな場所で……と、ひたすらその場に立ち竦む。
自分は『リリエーヌ』として、どう振る舞えばいいのだろうかとそればかり考え、表情を曇らせていた。
ここでニコニコしているだけでは、大勢の前で『リリエーヌ』を選んだラルフの沽券に関わるのではないか、とか。
言い返してしまっても良くないのだろうか……?
学園でも、公衆の面前で罵倒された場合の対処法など教えてくれなかった。
紳士淑女であるということを前提に行っていたマナー講座ゆえ、このようなトラブルの解決法など全く頭の中に呼び起されなかったのである。
だが――
突然、ぎゅっと肩を抱かれ、そんな些末な事を考えている心の余裕もなくなった。
ラルフ様ーーーー!?
ぎゃー、と心の中で大絶叫だ。
近くではカサンドラを庇うように三姉妹の前に立ち塞がる王子の姿も見え、ドキドキドキドキ、と鼓動がやたらとうるさくなってくる。
どうやら婚約者であるカサンドラや『リリエーヌ』を貶められたことに怒って、こうして庇ってくれたのだと状況を理解する。
どよめきが冷めやらぬ娯楽室内――
ふと三姉妹の方に視線を遣ると、彼女達は悔しそうに肩を震わせ恥ずかしさに堪えられないかのように揃って部屋を出て行く。
以前舞踏会で見た時のようなバタバタとした退場にリタは唖然と見送ることしか出来なかった。
流石に王子やラルフに睨まれては分が悪すぎるし、この場から逃げ出すのは当然の事かも知れない。
「……。」
フッと肩が軽くなる。
それまで自分を抱き寄せていたラルフの手が失われたからだ。
とても名残惜しいという気持ちになり、かと言って慌てて訳の分からない事を喋るのも駄目。
近くで同じように婚約者に庇われたカサンドラの対応を参考にしようと、少しだけ彼女達の様子を覗き見る。
二人とも、あれだけの事があったのに。
まるでそれが当たり前だと言わんばかりの澄ました様子だ。
「これであの子達も、反省し考えを改めてくれればよいのですが。
大変申し訳ありませんでした」
アイリスが申し訳なさそうに恐縮し、王子とラルフに恥じ入るアイリス。
自分の身内が起こした騒動に、王子自らのお出ましとなっては立つ瀬がないのも分かる。
尤も、普段見る事の出来ない彼らのパフォーマンスに場が湧きたったのは当然の事で、周囲は騒然としていた。
王子やラルフがいかに『婚約者』を大事にしているか、という事実が大きく広まる事だろう。
……なにか、違うんじゃないか。
ズキンと胸が痛んだ。
恥をかいて退散した三姉妹。
キャロルやアイリス、カサンドラは彼女達に対して溜飲が下がる想いがしたかもしれない。
過去、それだけの行いをされたから当然と言えるだろう。
今まで煮え湯を飲まされていた相手がやり込められれば、どこか胸が梳く思いがするのは人間なら当然だ。
――だがリタは違う。
リタは……彼女達に「ざまをみろ」なんて言えるような立場じゃない。
むしろ逆ではないか。
いくらラルフから頼まれたとはいえ、家ぐるみで偽物の婚約者に仕立ててもらって……
盛大な舞踏会に参加してもらった令嬢達の想いを無にするようなやりとりが裏ではあって。
自分は偽物だ。
カサンドラとは違う。
罵られても当然だったのではないか、という居たたまれなさに身を包まれたのだ。
いわば率先して他人を騙している自分が、この幸運を当然の事として受け入れて今、にこにこ微笑むなんて出来る話ではなかった。
ラルフが放った言葉は、この世に存在しない
後ろめたさが押し寄せてくる。
『ズルい』
同じ境遇で、同じようにラルフを好きだった他クラスの特待生の言葉が脳裏を過ぎった。
別にリタがズルい事をしたわけではない、ラルフの頼みだから引き受けたのだ!
でも今の状況を役得だなんて思える程楽観的にはなれなかった。
「……すみません、ラルフ様。
私、少し席を外しても良いですか……?」
恐る恐る、リタは声を上げた。
声は震えて、掠れている。
――もしかしたら……ショックを受けたか弱いお嬢様、という演技に見えたのかも知れない。
※
あの三姉妹がどこに行ったのか気になって、リタは娯楽室を一度後にした。
きょろきょろと周囲を見渡し、廊下を歩く使用人に彼女達が向かった先を尋ねながら――
気が付けば、奥まった場所にある庭に辿り着いていた。
娯楽室から賑やかな声が漏れ聞こえる程度に近い、四方を外灯に照らされた中庭。
その端っこに、三人が悄然と肩を落として座っているのを発見した。
綺麗に着飾っているから、パッと見ればすぐに存在が分かるくらい目立っていた。
他に誰か通りかかってはいないかと左右を確認したが、この通路は極端に人通りが少ない――中庭というよりは、裏庭なのかも知れない。
「こちらにいらしたんですね」
会話もなく、溜息を落とす彼女達。
自分比で出来る限り静かな声で呼びかけると、彼女達は幽霊かオバケでも見たかのような驚愕の顔でこちらに視線を突き刺した。
しばらくポカンと口を開けていた三姉妹の一人が、肩にかかった髪を手の甲で振り払いながら口を引き結んだ。
「何よ、人の家の中、こんなところまでフラフラと。
私達の事を笑いに来たの?」
「違います、そういうわけではありません。
……申し訳ないです、慣れない場所で気の利いた事も言えなくて」
「はぁ?」
怪訝そうに眉を顰める。
ゆっくりゆっくり、スカートの裾を踏んで転ばないように気をつけながら彼女達ににじり寄る。
月明かりの下、涼しい風に吹かれる庭の隅っこで固まる彼女達は、不審人物を間近にしたような凄い形相でリタを睨んできた。
「凄く、気になったんです。
どうして……貴女方は、わざとアイリス様に迷惑をかけるのですか?」
「……。」
その問いかけに、長女は鼻白む。
あまりにも唐突だったかもしれないとリタも一瞬後悔したが、聞いた以上は後には退けない。
彼女達に会ったのは二回目だ。
そしてキャロルやアイリス、そしてあろうことかカサンドラにまで酷いことを言って場の空気をぶち壊しにしようとした。
意地の悪いケンヴィッジの三姉妹という話は耳にしていたが、成程確かに強烈だ。
だが、少し不思議だった。
彼女達は『恥ずかしい』という概念を持っている。
邪魔をして、悪い事をして、白い目で見られて、だから強制的に排除される前に逃げ出して姿を消す。
本当に自分が恥ずかしい立場だと自覚しなければ、逃げ出す事もないだろう。
常識も分かっていて、この状況は困った、恥ずかしい――だから逃げる。
恥を知る人が、同じような事を何故繰り返すのだろうか。
今まで彼女達の鼻っ柱を折る人がいなかったから、増長した結果なのか。
「あのように優しいアイリス様を悩ませるのは、何故なのですか?
出自や身分、立場などを気にせず、私に対しても善くして下さいました。
どうして、アイリス様を困らせるのですか?」
キャロルの反応を見るに、きっと彼女にも酷いことを言ってきたのだろうと推測される。
あまり馴染みのない状況だからこそ、彼女達三姉妹の立ち居振る舞いは違和感が大きかった。
すると――
長女はリタを矯めつ眇めつジロジロ眺た後、失笑した。
まさに鼻で笑われてしまったのだ。
「貴女、アイリスが本当に優しいって思うの?」
「勿論、そう思います。
先ほども貴女達の言動を静かに諭され、決して叱る素振りもなく……」
「――本当に優しいなら、私達が晩餐会に参加したい! ってお願いしたら、聞き入れてくれるものなんじゃないの?」
「え!?
いえ、でもアイリス様にもお立場やお考えが……」
何と図々しい事をぬけぬけと言うのかとリタは面食らう。
自分達の今までの素行などを考えれば、アイリスが警戒して断るのは当然の権利ではないだろうか。
現にこうして無断で姿を現わし罵詈雑言、結果迷惑を振りまいているのだから。
何という面の皮の厚さだと流石のリタも二の句が継げなかった。
「あのねぇ。
私だって……私だって!」
彼女はこちらを強い意志を持つ目で睨み据えた。
「百も二百も、他人に譲れるものがあるのなら……
一つくらい、分けてやれるわよ!」
彼女は立ち上がり、リタの真ん前まで距離を詰める。
そして、こちらの鎖骨と鎖骨の間をトンと指で突いた。
その痛さに顔を顰めるよりも、彼女の憤りに満ちた瞳の方が怖かった。
「自分が相手よりも十倍も二十倍も恵まれていたらねぇ、そりゃあ誰だって優しく出来るでしょうよ!
上から目線で、困ってる事はないですかー? って?
そういうの、同情――いえ、施しって言うの。
なんで。
なんで私達が、あの人達の慈悲を乞わなきゃいけないの?」
”施し”と言う表現に瞠目する。
持てる者が持たざる者へ分け与えるのは、貴族に名を連ねるものとしては当然の事だとされていた。
教会への寄付や炊き出しなどもそれにあたるだろう。
だがそれはあくまでも余力――余っているから、自分の生活には影響がないから行える事である。
もしもこのパンを渡せば自分が飢えて死ぬとなったら、笑顔で他人に分け与える事が出来る人間などそうはいない。
だが千個パンを持っていたら、一つや二つ分け与えたところで本人は痛くもかゆくもないだろう。
よっぽどのケチではない限り。
「……私達に……『悪者』を望んだのは、向こうの方じゃない……!!」
歯をギリっと音が出るまで激しく軋ませ、彼女は俯いた。
アイリスとこの三姉妹、ましてやキャロルとの確執などリタは知りようがない。
ただ――
全く何の理由もなく、ただただ『意地悪な人』という存在をリタは今まで見たことが無い。
それはとても幸運なのだろう。
周囲に恵まれていたということだ。
彼女はしばらく黙し、地面に視線を落とす。
悔しそうに拳を震わせ、遣る瀬無い細い吐息を落とし。
でも、やはり苛々した様子を隠せないまま、半ば自暴自棄にリタに昔の事を教えてくれた。
※
彼女達は最初からアイリスと仲が悪かったわけではない。
幼い頃、アイリスは優しい姉ということもあって懐いていた時代もあったそうだ。
愛人の娘達ということでとかく低く見られがちな自分達にも平等に接してくれるアイリス。
彼女を慕っていた時代もあったのだ、と。
皮肉めいた表情で、彼女は語る。
――その均衡が崩れた日。
アイリスの従妹のキャロルがケンヴィッジ邸に遊びに来た時のことであった。
その日は他にも親戚が多く集まっており、歳の近い子供達も多かったそうだ。
周囲の大人たちの物言いたげな視線は幼心に居心地が悪かったが、広い庭で皆と遊ぶのは楽しかった。
「あら、これは……」
地面の上に落ちているペンダントを、三姉妹の長女――アリーズはひょいと拾い上げた。
キャロルの持ち物で、遊ぶときに失くしてはいけないからとテーブルの上に置いていたものだとすぐに思い至った。
元気な少年たちが走り回ってテーブル下でかくれんぼをしていたのも思い出し、あちゃあ、と額に手を添えた。
きっと彼らが脚にぶつかって、その衝撃でペンダントが落ちてしまったのだ。
運の悪いことに、そのペンダントの表面には傷がついてしまった。
石ころにぶつかってしまったのかも知れない、とアリーズは顔を顰める。
大切にしているものだとしたら、キャロルは悲しむだろうな。
でもそのまま置き捨てることも出来ず、ペンダントを持ってキャロルの元に急いだ。
従姉妹同士仲が良いアイリスとキャロルはその日も二人で人形遊びをで遊んでいた。
可愛いお人形の着せ替えをしていた二人に、アリーズは「ねぇねぇ」と声を掛け――
「あ! 私のペンダント……
傷がついてる」
手の上に乗せていたペンダントを一目見て、キャロルはとてもガッカリと肩を落とした。
宝石の表面に傷が入り、ペンダントの装飾が大きく欠けてしまっている。そりゃあがっかりもするだろうな、とアリーズは納得した。
「テーブルの下に落ちて……」と、アリーズが言いかけたときの、あのピリッと走る緊張感を忘れる事は出来ないだろう。
「アリーズ、ペンダントを壊してしまったのね。
大変なことだわ、キャロル。本当にごめんなさい」
勝手に勘違いをして、アイリスは顔を青くしてキャロルに謝ったのだ。
申し訳ないという想いが伝わってくる謝罪に、鼓動が一気に速くなるのを感じた。
……え?
アリーズの動きが止まった。
別に自分が落としたなんて、言ってない。
これを傷つけたのは、自分じゃない。
でも何故か彼女達は自分が壊してしまったと思い込んでいる、その誤解を解きたいと焦った。
「あ、あの……」
「大丈夫! 気にしないで!
同じものを、またお父様に買ってもらうようお願いするから!」
キャロルは無垢な瞳、全く悪意の欠片もない眩しい微笑みでそう言ってくれたのだ。
そう言って『くれた』。
別に赦しを乞いにきたわけではないのに。
「許してくれてありがとう、キャロル。
……アリーズも隠さず報告に来てくれてありがとう。
正直に言いに来て、偉いわ」
ホッと安堵したアイリスは満面の笑みとともに、労ったのだ。
自分は何も言っていない。
なのに勝手に、自分が何かしたのだろうと決めつけて、自分達で勝手に「良い子ちゃん」ごっこを始めた事に――
ぞわっと、虫唾が走った。
彼女達が他意なく、完全なる善意で、アリーズを庇ってくれたことはわかる。
でも結局、アイリスもキャロルも自分を対等だなんて心の底では思っていないのではないか? と、疑心の目が芽吹いた。
自分達と比べて可哀そうな子だから、守ってあげなくちゃ。
そんな思いが透けて見えた気がして、気持ちが――萎えた。
善意が鋭い牙となってアリーズの心を食い破っていく。
そして大切だと言っていたペンダントのことを会話にすることもなく、人形遊びを続ける二人。
……買えば済む。
……報告出来て偉いね。
何それ。
何、それ。
彼女達、いやアイリスにとって自分はいつも不出来で面倒を見なければいけない子で。
明確な段差、線引きがあって……
悪い事をした義妹、上手く出来ない義妹達を上から「はいはい」と優しく受け入れる、そんな都合の良い自己肯定役にしか過ぎないのではないか。
幼いゆえに上手く表現できないもどかしさ。
いくらでも新しく買ってもらえるものだから、寛大にも”許してあげる”って言いたいワケ?
ごく自然にスムーズに――
自分はそういう役回りなのだと思い知らされ、カーッと血が上って……
ペンダントを強く強く、地面に投げ捨てた。
持てる者の余裕。
頭から大上段に構えるその態度!
――ムカついてしょうがないのよ!
※
「望み通り、困らせてあげてるだけ!
私達が悪い子の方が都合が良いんでしょ?」
ハハハ、と彼女は月光の下で笑った。
何もかもがどうでもいいとでも言いたげな、投げやりな言葉。
いつの間にか長女の傍にいた二人の妹も、気まずそうにこちらを見た後アリーズの肩に手を添えている。
「アイリス様は貴女を傷つけるつもりなど、全く無かったと思いますよ」
自分の義妹が壊してしまったと思い込み、慌ててしまっただけだ。
でも確かに本当に妹のことを信じていたら事情をちゃんと聞いていたのかもしれない。
いやいや、あの人はアリーズが嫌な印象を持たれないように一生懸命フォローしただけだとしか思えない。
今に到るまで長期間、徹底的に意地を張るようなことではないのではないか?
「いいじゃない、別に。
……沢山、沢山。
普通に生きてる人が絶対に手に入れられないもの、持ってて。
この家を継ぐのはアイリス。
レオンハルト様と言う素敵な婚約者をお父様から与えてもらったのもアイリス。
皆から尊敬され、可愛がられるのもアイリス。
何もかも思い通りで、幸せな人。
一つくらい、
望み通り、『困った妹達』になってやったわよ。
彼女はそう叫び、肩を震わせた。
時間をかけて飾った綺麗なドレスが物悲しく目に映る。
恥を知り、プライドが高いからこそ義姉の思いやりすべてを「施し」だなんて言って否定し、自分を守ろうとしたのかもしれない。
過去に何があろうが、他人を傷つけても良い理由にはならない。
それはそれだ。
第一、ただ幼い頃、行き違いがあっただけではないか。
三姉妹はたった今、来客の前で良くない言動を行ったのだから。ちゃんと謝らなければいけないはずだ。
――そんな正論が果たして彼女達に届くのだろうか。
響くのだろうか。
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