第363話 <リゼ 2/2>
まさかジェイクの義弟がこのような事態を引き起こすとはリゼは全く想像もしていなかった。
アクシデントと呼んでも差し支えない。
体力がないと言っていたが、病気がぶり返していないのだろうかとかなり心配である。
放課後、恐らく自分はかなり『難しい』顔をしていたのだろう。
生徒会室にやって来たジェイクが怪訝そうな顔でリゼを凝視してくるのが分かった。
「どうした、リゼ。何かあったのか?」
何かありました、と言わんばかりに眉間に皺を寄せていたのがいけなかったのか。
ジェイクは額を手の指でぐりぐりと解しながら彼の到着を待っていた自分を見つけ、当然のように声を掛けてくる。
「いえ、大したことでは……
うーん、大したことなのかも知れません」
何も無かったとリゼが証言したところで、ジェイクとグリムは兄弟だ。
そしてこの間の様子から見るに、結構仲が良さそうだと推測できる。
間違いなく今日の講義での出来事もジェイクの耳に入るのだろうと想定すると、敢えて口を噤む必要はないと判断した。
生徒会室の扉を開けて、躊躇うことなく中に入るジェイク。
リゼは数秒待ち、彼と適切な距離を保ちながら頭を下げてそそくさと後に続いた。
本当は自分が立ち入れる場所ではない場所だ。
特別な計らいでお邪魔させてもらっている、毎週の事とは言えやはり生徒会室に入る瞬間は緊張してしまう。
「なんだ、それ」
「……私、月曜日はフランツさんの講座を受けてるじゃないですか」
机の上に鞄を放り投げ、ジェイクは自分の椅子にどっかりと腰を下ろした。
頬杖をつき、離れた場所に立つリゼを見据えてくる。――グリムと同じ橙色の瞳なのに、こうも違うのか。
じっと見られていると思うと、勝手に顔が紅潮しそうになった。
「それで今日、ジェイク様の弟さんと一緒になりまして」
「は? あいつ、なんでそっちに行ってるんだ?」
「体調が万全ではないので、融通が利くフランツさんの講座が都合が良いんだって言ってましたよ」
「あー……そういうことか。
アイツ、お前らに何か迷惑かけなかったか?」
喉元まで「そうなんです!」という言葉がせり上がって来ていた。
急に倒れるまでは良いとして、冗談でも膝枕だなんだとふざけた事を言った事は確かだ。
だが彼の血縁者に対して非難めいた訴えを起こすのも気が引ける。
フランツからしっかりお叱りを受けているのだから、蒸し返すこともないだろう。
「迷惑……というわけではないのですが。
本人が言う通り体力がなかったんでしょうね、途中で息切れをして倒れてしまって」
「そうか……そりゃあ、お前にも迷惑かけたな」
「いえ、私は何もしてないです。
すぐにフランツさんが弟さんを担いで医務室まで連れて行きましたよ」
まるで挽いた小麦を入れた袋を担ぎ上げるように、フランツは軽々とグリムを肩に乗せて校舎の方へとスタスタ歩いて行った。臨時でも講師は講師なんだなぁ、とその頼れる後ろ姿にちょっと感動した。
リゼなら引き摺って連れて行かないといけなかっただろう。
「面倒な事やらかしたんだな、アイツ。
って事は、まだ医務室で寝てるのか?」
「そうかも知れませんね」
寄ってから帰るかー、とジェイクは独り
うっ、とリゼは息を呑んで視線を逸らす。
もしジェイクがグリムのおでこに出来た傷を見て、それがリゼの暴力の痕だと知ったらどうしよう。
気に入らない事があったら暴力に訴える女だと思われるのも甚だ遺憾である。
咄嗟に手が出てしまったが、後ろめたさに心がズキズキ痛んだ。
生徒会室から中庭を挟んだ向かいの廊下に医務室がある。
普段リゼが世話になることもないのですっかり忘れていたが、直線距離で考えたら凄く近い。視界に入る距離だ。
……実際にここから医務室に向かうとなると、一度中庭の外周――廊下をぐるっと回りこんで向かい廊下に行かなければいけない。
体調が良くなっていれば一人で帰っているだろうが、ずっと寝込んでいるという可能性もある。
「すまないな。身内がやらかして」
「いえいえ。
それより、今日も勉強頑張りましょう!」
あまりグリムについての話をしていて、時間が削がれるのも口惜しい。
貴重な一時間が溶けていく一方な気がして、リゼは両手を振って話を無理矢理終わらせた。
彼ら兄弟について、リゼは何も知らない。
いや――当初はグリムこそがロンバルドの”後継ぎ”だったことがあると知っている分、話題はとてもデリケートな要素をはらんでいるのではないかと勝手に一人恐れ慄いている。
いたずらに彼のお家事情を探るような事はしたくない。
ジェイクの家庭教師は久しぶりだな、とリゼは無意識に頬が緩みそうになるのを堪えた。
……三学期の最後――彼が自分を避けるような挙動になってしまった時には、この世の終わりが来たのだと柄にもなく絶望したものだ。
何とかそのぎくしゃくした状態を抜けて、普通に会話が出来るようになった。
この状態を意地でもキープしてやるのだ、とリゼは内心こっそり気炎を吐いている。
「なぁ、リゼ」
「何ですか?」
人一人分の距離をしっかり保って、彼に絶対にぶつからない位置取りに椅子を持って行く。
分からないところがあった時はしょうがないが、彼に不快な思いをさせないよう最大限の注意を払っているはずだ。
長い棒でも持ってきて、出来るだけ遠くから文章や資料を示せるように道具を用意するべきかと、目下のところ思案中である。
「やっぱり不便じゃないか?
……もうちょっとこっちに来いよ」
まさかの提案に、リゼの頭は完全に真っ白になってしまった。
自分が今何をしようとしていたのかも忘れ、口元を引きつらせたまま少し離れた場所に座ったままジェイクを二度見した。
「?????」
接触事故が起こるのは困ると言ったのはジェイクの方だったはずなのに。
ここに来ていきなり、遠すぎるから近くに来いと言われても困惑するばかりである。
もっと離れろと言われるよりは万倍マシと言えるが、前触れもない提案にリゼはわたわたと無意味に手を上下させてしまう。
「で、でも、ジェイク様!
あ、あまり近づかない方が良いと……思います……けど……?」
自分で言っておきながら、旅行時の夜のやらかしが一気に脳内を占拠して今すぐ床の上でのたうち回りたい衝動に駆られる。
「気にするな。
――俺も気にしないことにした。
とにかくこの距離は開きすぎだろ、どう考えても」
気にするなと言われても!
何と反応して良いやら、リゼは目を白黒させて彼を恐々と視界に入れた。
「は、はい。……了解です」
そもそも距離を開こうと決めたのは、彼が自分を遠ざけたいのだろうと思ったからだ。
全く接点がなくなってしまうくらいなら、二度と触れられない位置付けを強制されようが構わないとさえ思った。
「それに、選択講義の時も俺と組手しなくなっただろ」
先に自分を避ける素振りをしていたのは間違いなく彼の方だったという記憶はある。
だがようやく普通に話せるような状況に回復しても、リゼは彼と剣を合わせるのが怖くてずっと避け続けていた。
……元凶は自分だ。
だがその状況に彼自身折り合いがつき、寛大な心で許してくれたというのなら――
良いのだろうか?
うーん?
朝、自分で自分を縛り上げた『三原則』がぎゅうぎゅうとリゼの首を締め上げる。
ここで調子に乗ってしまったら、薄氷の上に何とか保たれているこの関係が粉々に壊れてしまわないだろうか。
素直に頷いていいのか判断できず、無意味な思考の欠片が周囲をぐるぐると回り続けていた。
「いや、俺も大げさで大人げなかったからさ。
もう気にしてないし。
……お前になんとなーく避けられる方が嫌だって言うか」
確かに今までの隣同士に座って勉強をしていたのに、距離を開けてわざわざ移動しないと話も出来ない関係を維持するのは互いに不便だ。
そして万が一の接触を恐れて剣術講座でも彼と組手をする機会を悉く避けていたのは事実である。
出来るだけ彼の気に障らないように慎重に行動していたつもりだったが、逆にやり過ぎていたのだろうか。
難しい……
「ジェイク様!」
思わず立ち上がり、ぐっと拳を固めた。
折角同じ趣味、興味関心を持つ特別な『クラスメイト』という位置に滑り込むことが出来ていたのだ。
あの旅行中の一瞬の油断で全てがパァになったのではないかとショックでやりきれない日々を過ごしていたけれど……
ジェイクの方も、気まずくぎくしゃくした状態は嫌だと思ってくれているのだ。
そう思った瞬間、自分に言い聞かせていた”三原則”がさらさらと塵と化して吹き飛んで行ってしまう。
彼の方からそうやってこちらの失態を無かった事にしてくれようと言うのだ。
それなのに、自分ばかりが気にして距離を取り続けるというのも意固地が過ぎるし本末転倒である。
「もう二度と! 絶対あのような醜態は晒しません!
また前みたいに普通に接してもらえるなら嬉しいです」
「……。
ああ、そうだな。
前にも言ったけど、もう酒は飲むなよ」
全く以て御尤もだと、リゼは壊れた人形のようにコクコクと頷く他ない。
「勿論です。注意します」
「なら良かった。
じゃあ、今度の休みに一緒に遠乗りに行かないか?」
「えっ」
次から次へと畳みかけてくる彼の言葉に、リゼは椅子を移動させようと立ち上がったまま動きをピタッと制止する。
「リゼの乗馬のスキルも見違える程上達したってフランツから聞いてさ。
声を掛けようとは思ってたんだが、何か微妙に誘いづらくてさー。
俺も大袈裟過ぎたって反省してたんだよ。
いつまで気にしてるんだって――ただの不可抗力なのにな」
ははは、と彼は軽く笑って文字通り『無かった』ことにしようとしてくれる。
リゼにとってはとても有難い話だ。
自分が信じられない迷惑をかけた上に失礼な事をしてしまった事を完全に水に流して、今まで通りの仲でいようと言ってくれている。
……でも、リゼの記憶から無かったことに出来るわけがない。
意識がなくとも、一瞬の事でも、混乱していただけでも……
ちゃんと、覚えているのになぁ。
かと言って避けられるのも嫌だ。
人一人分の距離を意識して触れないようにおっかなびっくり状態は、彼が言う通り不便でもあるし距離感を感じて辛くなる。
――じゃあどうしろというのだ? 自分でも良く分からない。
己の我儘さに呆れてものも言えず、彼に観られない角度で俯き溜息を落とした。
※
「今日もお疲れさまでした、また来週宜しくお願いします」
一時間なんてあっという間だ。
彼の横顔を見ているだけで何時間でも余裕で静止出来るというのに、時間の流れは無情である。
「お疲れさん。俺はグリムがいるか見て帰るわ。
医師から詳しい容態も聞いておきたいし――つーか入学早々、またルウェン行きになっても知らねーぞ、俺は」
彼は再度、ブツブツと文句を呟く。
グリムが医務室に運び込まれたことによる弊害がこんなところに……!
リゼは心の中で地団太を踏んだ。
折角一緒に下校できるチャンスだったのになぁ、と。
仕方のないこととは言えガッカリ過ぎて愛想笑いも適当になってしまったかもしれない。
「あ! その……
弟さんと会えたら、謝っておいてくれませんか?」
直前まで黙っていようと思ったが、どうにも心が晴れない。
もしも今後グリムと彼が合流した時、彼に他人に怪我を負わせても気にしない『暴力女』と思われるのも嫌だ。
「何を?」
「実は私、弟さんに怪我をさせてしまったので」
「嘘だろ、マジで!?
お前アイツに一撃入れたのか!?」
怒るどころか彼は素っ頓狂な声で若干興奮気味にリゼに詰め寄ってくる。
怪我をさせたというのに逆に「よくやった!」的な反応ってどうなんだ!?
しまった、怪我の一つや二つ、彼らにとっては心底どうでもいいことだったのか。
これは藪蛇だったかな……とリゼは頬に冷たい汗を流した。
「ち、違います。
その、ちょっとした行き違いがあって、弟さんが倒れているところに一撃……」
途端、ジェイクは一歩退いた。
どうやら想像とは全く違う様子を思い描いていたようで、期待に添えず申し訳ないとリゼは少し胸が締め付けられた。
「そりゃそうか、普通の状態で勝てるわけないだろうな。
強かっただろ?」
「あれで病み上がりというのはビックリです」
とても倒れる寸前まで無理をしていたという剣捌きには見えなかった。
もしも本気で挑まれたら、一瞬で命さえ刈り取られてしまいそうだ。
彼もまた、ダグラス将軍の実子でジェイクの弟なんだなぁと血の繋がりを感じてしまう。
彼をぬか喜びさせてしまったような気がしないでもないが、これでグリムの額が赤く腫れていてもスルーしてくれるかもしれない。
気をつけて帰れよ、と手を振って医務室に向かうジェイクの後姿を見て――胸が騒いだ。
ふと、立ち止まる。
グリムの声が幻聴となって、リゼの耳に蘇ったからだ。
……膝枕してくれる?
彼は冗談めかした口調で、そう言った。
もし
あれが二人きりで
彼が
「膝枕をしろ」と”命令”してきたら
果たして自分はどうしていたのだろうか? と、そんな起こりえない仮定がフッと過ぎった。
冗談で、遊びで、軽い感覚でも、相手はロンバルド家で一時は後継ぎ候補に選ばれていた少年だぞ?
しろと言われたら嫌でも付き合わないといけなかったのだろうか。
そう深く考えてしまうのは、隣町の古書屋のお姉さんの姿が心にしこりとして残っているからだ。
貴族の軽い一言や戯れで、平民の人生なんか地を這う虫のように踏みつぶされてしまう事を知っている。
いや、でもこの学園内でそんな無理を強いようものなら、学園の管理者側が黙っているはずもないか。
生徒が不祥事を起こしたり、貴族の家同士でゴタゴタが勃発しないように目を光らせているはずだし。
生徒会もちゃんと校内の風紀を取り締まってくれるだろう……
と考えて、リゼは「あっ」と声を出した。
生徒会の風紀委員って、ジェイクじゃないか。
入学当初から生徒間のいざこざに引っ張り出されていた事をふと思い出す。
少し前の事になるが、ベルナールがカサンドラに急に距離を詰めた時に待ったをかけたのもそのせいでは?
当時は気づかなかったけど、似合わないけど綱紀粛正を担当する風紀委員だったから。
………もしも……
何か自分にとって斯様に不都合なことが生じた時、訴える先はジェイクになるのか。
例えばグリムに膝枕を強要されました! 仕方なく気が済むまで拘束されました!
なんて直接ジェイクに言わなければ、再発防止を訴えることも出来ないのか?
勘弁してくれ。嫌過ぎる。
テオのこともあるし、グリムのこともある。
………。
自意識過剰で済むならそれでいいのだが、蓼食う虫も好き好きだとリゼは身を以て知っている。
今回のグリムの件は、急に倒れて気まずい彼が放った渾身のジョークだろうから良いとして、だ。
今後も己の身の置き方は気をつけないといけないなとリゼは背筋を凍らせた。
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