第362話 <リゼ 1/2>


 これは『夢』だな、と気づいてしまう。


 特にこのところ顕著であった。


 夢の中だと分かってしまうのは、ジェイクが傍にいるからだ。


 肩を叩いてきたり、話していると何かの拍子で手がぶつかったり――

 ぐるんと視界が反転したかと思うと、彼に抱き上げられている。



 それは過去の自分の記憶を元に再構築された感覚なのだと思う。

 忘れるはずがない。彼の体温、感触は未だに強く憶えている。



 今では距離も開いて歩くし、間違っても事故が起こらないように人一人分の間隔を常にキープしている。


 だから絶対に起こりえない現象だと分かっている。

 気づきたくなくても、『夢だ』と一瞬で看破してしまう。


 誰にも迷惑をかけることのない夢の世界の話なのだから、そのまま楽しんでいれば良いものを。


 夢の中でさえ冷静な自分が嫌になる。


 すぐに現実に引き戻ってしまい、瞼がパチッと開いてしまう。

 甘い夢を見る事さえ許されなくなってしまったのか、と寝ぼけ眼で上体を起こす度に歯噛みする。



「……はぁ、朝か……」


 カーテンの隙間から漏れる陽射し、そして窓ガラス越しに聞こえる鳥の囀り。

 薄暗い室内の壁掛け時計は、五時半を過ぎたところだ。


 朝食までまだ時間がある。

 二度寝しようかと思ったが、直前までの夢見の悪さのせいでそれも億劫に思えて毛布を跳ねのけた。


 目を凝らして時計の隣に掛けているカレンダーを見れば、今日は月曜日――家庭教師アルバイトの日だ。

 まだ新学期が始まったばかりでろくに授業は進んでいないが、仕事は仕事。

 そして……

 一週間で唯一、ジェイクと二人きりで過ごせる貴重な時間だ。

 去年までの科目で苦手な分野でも復習するべきかな、など着替えをしながら放課後の段取りを脳内に思い浮かべていた。





 自分は我儘なのだろうな、と思う。

 そもそも人間は貪欲な生き物なのだ。



 ――彼と出会うまで、リゼは今まで誰かを好きになるという感情を知らなかった。


 姿が見えれば嬉しい、話が出来れば嬉しい、一緒にいられればもっと嬉しい。


 そんな喜びを一度知ってしまったら最後だ。もうそれ以前に戻ることが怖くて怖くて仕方ない。

 知らなければ、喜びは無かった。

 でも知ってしまえば失う恐怖も同時に抱く。


 でも……今はまだ、彼と一緒に仲の良いクラスメイトという立ち位置でいられるのだ。

 そして自分のやるべきことも変わらない。


 この想いがどういう形での決着を迎えるのかは定かではないが、どうなったとしても後悔はしたくない。

 もう二度とあのような失態をしでかすことのないよう、重々気を引き締めなければならない。


 鏡に映る自分の顔をじーっと眺め、頬を両手で叩く。





   ジロジロ見過ぎない、調子に乗らない、ぶつからない距離を保つ――良し!




 己が決めた三原則を何度も自分に言い聞かせる。


 例え恋愛的な意味で特別な存在になれなかったとしても、卒業した後縁が切れる事は嫌だ。

 だから絶対に騎士団関係の職に就きたいと思っているし、そのためには剣や乗馬などの腕をもっともっと磨く必要がある。

 今は『これ以上』を求めずに、自己研鑽に励むべきだと割り切った。



 気合を入れて、リナ達の待つ朝の食堂へと向かったのである。




 

 ※




「フランツさんお久しぶりで……す?」 



 新学期始まって最初の月曜日。

 意気揚々とフランツの待つ、樹々生い茂る植え込みの奥にある屋外修練場へと辿り着いたリゼ。

 そんな彼女が目にしたのは普段と異なる光景である。


 フランツの隣で楽しそうに笑う少年を見て、思わず指をさしてしまった。


「よう、リゼ。……悪いな、今日は余計な”おまけ”がくっついて来たみたいだ」


 うんざりとした顔を隠さず、フランツはぼさぼさの髪を片手で掻く。

 苦虫を噛み潰したかのような顔で――グリムを睨み据えていた。


 その特徴的な灰色の髪と橙色の瞳、ひょろっと背の高い少年には見覚えがあった。

 間違いない、ジェイクの弟だ。

 まぁ、母親が違うのだから純粋な意味で兄弟と言うわけではないのだろうが。


 こういう腹違いの兄弟姉妹という感覚は、リゼには少々馴染まないものだった。


 田舎暮らしということが大きいのだろうか。

 近所のお宅に腹違いの子どもがひょっこり出て来たら……浮気だ不義の子だと村中を巻きこんだ大変な騒ぎになってしまうだろう。

 万が一リゼ達に腹違いの弟の存在が判明しようものなら、家の中で包丁が飛び交いかねない。


 第二夫人だか愛妾だが愛人だか知らないが、そういう事情に耐性がないので未だに落ち着かない気持ちになってしまう。

 自分の奥さん以外の面倒もみる公然の男女の関係の意味がよく分からない。


 ……甲斐性のある貴族だからこその慣習なのだろうか。

 まぁ、少なくとも王子やジェイクには無縁の言葉だろうなあ、とは思う。


 ……無縁だからこそ、自分の想いは決して報われることはないだろうという覚悟をしなければいけないのだが。

 先の事を考えても暗くなるだけだ、とリゼは一旦その想像を脇に追いやってグリムを凝視した。


「今日はお邪魔するよ、えっと……三つ子の、リゼ? 先輩!」


「はぁ……

 こんにちは」


 少なくとも、フランツの剣術講義にリゼ以外が出席したのはカサンドラ以外では初めての事だ。

 男子生徒がここに来ると言うのは極めて考えづらい事態である。


「あの、失礼ですけどなんでここに?

 男子生徒ならもっと相応しいところがあるでしょう、ルーカス教官とか」


 全く剣術を嗜んだ事のない男子生徒が学園でいきなり剣術を習い始める、そんな事象は極めて考え難い。

 庶民ならともかく、教養の一環として家で剣の指導を受けている者が殆どだ。


 剣術が苦手でも、少なくとも入学当初のリゼよりは体力もあるだろう。剣術が不得手な生徒用のグループに入れば良いだけの話なのだ。


 リゼはそこからも門前払い相当の厄介な生徒だったので、このような特別な形態で指導を受けることになってしまっただけで。


「ちょっと事情があってね。

 それに僕に敬語は要らないよ、年下年下」


 敬語は要らないと言われても相手は天下のロンバルド侯爵家の関係者だ。心理的抵抗が強く、リゼは口を引き結ぶ。


「こいつ、実はこう見えて病弱なんだ」


 フランツは腕組みをし、何とも言えない奥歯にものの挟まったような表現をする。


「病気なんですか?」


「長らく体調を崩してて、つい先月、療養地から戻って来たばかり。

 大分具合は良くなったんだけどね。

 過度に動き回るとまた倒れかねないから。

 剣術講座に行きたくても、今の体力は激低で――ついていけずに無理して倒れて、皆に迷惑かけるわけにはいかない。

 ……ってあきらめてたんだけど、フランツが個別指導で初心者向けの教官してるって聞いてさ!

 ここなら融通利く! って参加したんだよ」


「……グリムさ……グリムは、剣が好きなの?」


 ”さん”付けで呼ぼうとしたらムッと口を曲げられたので、慌てて言い直す。

 これはこれで面倒くさいな、とリゼは内心で溜息を落とした。


「そう、元々剣を振るのは好きだったから。

 無理しない範囲、身体を慣らす感じで参加したいんだ」


 力強く頷くグリムを見て、その言葉に嘘はないのだろうと感じた。


 確かに剣術講座は午後の二時間しっかりと指導を受ける。

 それだけの体力が必要な事は、リゼも身を以て知っている。

 途中で一人だけ見学だの休憩だのなんて、特別扱いだと言われかねない。


 それなら初心者相手に指導するフランツのところに行ってこい、と周囲に揶揄されて結局はここに落ち着くことになるのだろう。


 剣が好きで、でも身体を壊してそれが難しくなって……

 ゆっくりでいいから、また練習したいという彼の気持ちを考えると「どうしてここに」なんて不審に思った自分が少し恥ずかしく思えた。


 第一リゼだって十分特別扱いをしてもらったのだ、むしろ彼のような事情があって配慮を受けるべき生徒がこのフランツの講義を利用してしかるべきでは?


「グリムが一緒でも良いか? 

 まぁ、お前にとっても悪い話じゃないと思うんだが」


 何故それを自分に聞いて来るのだ。

 リゼも腰に手を当て、肩を竦めるしか出来ない。


「良いも何も、私にどんな権限があるって言うんですか。

 フランツさんが良いなら、勿論構いませんよ」


「そうか」


 ホッと彼は安堵の表情を見せた。

 ……だが、やはりどこか煮え切らない様子にも見える。ロンバルド関係の相手なのでフランツもやりづらさを感じているのかもしれない。

 グリムはこの国の大将軍の息子だ。

 何か不手際があったら大変と緊張しているのかとも思ったが、普段のジェイクに対する態度を思い出す。



  うーん……



 身分のことで気にするような人ではないとも思う。


 彼に対して何か、フランツが個人的に引っかかるところでもあるのだろうか。


「リゼ先輩!」


「……その先輩って言うのは止めて欲しいんだけど。

 慣れないし」


 今までジェシカの事を先輩と呼んでいたが、いざ自分がそう呼ばれるととてもむず痒い。

 自分はそんな大層な人間ではないし、ただ彼より一年早く生まれたというだけだ。


「準備が終わったら、手合わせしよう!

 誰も僕の相手してくれなくてさぁ」


 ま、山奥でのんびりしていたから相手もいなかったんだけどね、と彼はケラケラ笑う。

 とても貴族とは思えない軽い口調にリゼは戸惑った。

 ……ロンバルドの人間は皆こうなのだろうか?


 でも……

 別に砕けた口調だからと言って、彼に親しみを抱くことはないし好意も全く湧いてこない。


 ジェイクを見た時は、強烈な印象を抱いた。

 心臓を大きく揺さぶられ、貫かれたような感覚は文字通り全く次元が違ったと言うべきか。

 何もかも、存在全てにおいて、個々の要素を論う必要もなく――

 一瞬で囚われてしまった。


 そうか、あれを一目惚れと言うのかと漸くここに到って理解したリゼである。


「無茶するなよ?」


「大丈夫大丈夫! 楽しみだなー!」


 るんるん気分を隠す事無く、グリムは嬉々として手足の先をぐるぐると回す。


 激しい運動をする前は柔軟体操をしないと、リゼの場合は絶対に怪我をする。

 生来の体の固さのせいだと思うが、筋を痛めては敵わない。素直に彼に追従する形で腕を伸ばした。





 ※




「よーし、やろう!」

 

 まるで玩具を前にした幼い子供のようだ。

 自分の長い剣、得物を構えて橙色の目を爛々と輝かせる。


 しかしこれは、少々困った事になった。



 相手は病弱、先月まで療養中だった身だと言う。

 ここで本気を出してジェイクの弟を怪我をさせるわけにもいかない。そもそも相手の力量が分からないのでどんな風に対応したらいいのか見当もつかないのだ。


 去年、ジェシカは自分に対してこんな気持ちを抱いて相手をしてくれていたのか。

 図らずもこんな形で思い知ることになるとは思わなかった。


 リゼは細く長い吐息を口から出す。


 ええい、あまり気にするな。

 グリムはジェイクの弟で、将軍の息子だ。


 決して弱いはずはないだろうが、怪我をさせることのないように気をつけなければ。



「――行くよ」


 彼は、スッと橙色の双眸を細めて微かに口の端を吊り上げた。

 練習用の先を潰した模造剣をこちらに向け……


 一歩、先に踏み出した。


「………っ!?」


 己の視力が退化したのかと困惑した。

 彼はとても病弱だとは思えない迅い動きでリゼの正面まで一気に間合いを詰める。

 判断が遅れたが、瞬時にリゼも剣を上に構え彼の斬撃を待ち構えた。


 読み通りに彼の剣の軌跡を捉え初撃を凪いだものの――その重さに指先がジンと痺れた。

 あんな軽く繰り出したように見えた一撃が、滅多矢鱈と重たい事に衝撃を受ける。


 嘘でしょう、とリゼは目を瞠り歯を食いしばって彼の連撃を耐える。

 右から左から、打ち込まれてくる彼の斬撃。


 そこに僅かの隙も見つけることもできない、まるでジェイクを相手にしていると空目する程の『手練れ』だ。

 とても自分の技量では全てを受けきることは出来ない。

 でも彼はとても楽しそうに眼を輝かせ、リゼを追い詰めてくる。


 一歩、半歩。

 徐々に後退させられ、圧される――反撃の隙も無い彼の身のこなしに戦慄を覚え汗が噴き出る。



「――くっ!」



 彼の剣を受け止めると同時に、体勢を大きく崩された。

 上体が開き、構え直すのに間に合わない。




 しまった、られる――



 最初は、油断したかもしれない。

 でも仮に油断せずに全力で向かったとして、彼の剣を全て捌ききる自信はなかった。


 圧倒的な差、越えられない高い壁。

 普段ジェイク達と共に教えを乞うている時に実感する、分厚い障壁。




   この少年も彼らと同じだ。

   才能に恵まれ、天性の素質を戴く者。




 彼の剣が強かにリゼの胸部を薙ぎ払う、はずだった。

 痛みや衝撃を覚悟して全身を強張らせていたリゼ。


 だが、彼の剣は自分に届くことは無かった。




「あーー! もう無理、駄目だ。

 疲れたー……!!」


 彼はそう言って剣を横手に投げ出して、そのまま前傾姿勢で地面にバッタリと倒れ伏したのである。



『グリム!?』



 まるでゼンマイの切れたオルゴールのようにぱったりと活動を止めた彼に驚き、リゼとフランツの声が重なる。

 良く見れば、リゼの前にはフランツの剣がいつの間にか――彼の剣の軌跡を防ぐように静止していた。


 もしもグリムが本気で一撃を食らわせようとしても、恐らくフランツはそれを許さなかっただろう。

 流石の判断だ、剣の腕が確かなだけの事はあると感心する心の余裕は無かった。



 さっきまで軽快に動いていた彼の足はふらふらにもつれ、立ち上がることも儘ならないようだ。



 うううう、と呻き声を発する少年の髪は土埃に塗れている。

 うつ伏せの姿勢のまま何とか顔を上げているものの、その目はぐるぐると回っていた。


「いきなり無茶し過ぎだ、グリム!」


 剣を収めるフランツの、大きな叱責が飛んできた。

 病み上がりのような状態でいきなり飛ばし過ぎだと彼は完全にお冠である。



「だって久々で楽しくて……

 あー、目が回る……」



「大丈夫?」


 決して自分のせいというわけではないはずだ。

 だが組手中、急に目の前で倒れられては心臓に悪い。


 ――こういう状態では他のグループに混じって講義を受けるのが難しいだろう。


 彼の剣の腕はリゼも圧倒され、素晴らしいとしか言えないけれど。

 糸が切れたようにいきなり倒れ伏されては講義にならないと思ってしまう。


 彼の命に別条があるのではと焦ったが、ちゃんと喋るし意識もあるし、フランツも呆れているので重篤な事態でないことはホッとするけれど。


「リゼ、お願いが……」


 彼は震える右手を、リゼに向かって伸ばしてきた。

 絶命する間際、救いを求める人間かのような挙動にリゼはビクッと肩を跳ね上げしゃがみこんだ。


 今まで何人かの生徒や剣を扱う人間と組手をしてきたが、こんな反応を示されたのは初めてだ。

 表情も知らない内に強張り、彼の言葉に耳を凝らして聴き入ってしまう。


「疲れたから……

 膝枕でもして欲し   ゥガッ!?」


 ゴン! という痛々しい音が修練場に響き渡る。


 リゼは反射的に彼の頭を上から押さえ、そのまま地面に向かってめり込ませていた。

 自分でも制御する事の出来ない、流れるような自然な挙動であった。


 身体が弱く、疲弊して倒れている後輩相手に……いくらイラっとしたからと言って自分は何ということを……!


 思わず両手を戦慄かせて「ご、ごめんね?」と謝る他ない。


「酷い……」


 完全に頬を地面につけ、彼は弱弱しい声でリゼの暴力に抗議する。





   うん。自分でも悪いと思ってる……。

 




「自業自得だ! この馬鹿!」



 良く晴れた新緑の季節、青空の下に激しい殴打音が木霊する。


 リゼより遥かに勢いよく拳を振り下ろしたフランツは、グリムに大きなたんこぶを作っていた。

 

 ロンバルドの皆さんは、度が過ぎた言動には容赦がないようだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る