第361話 『アイリス嬢、思い出に耽る。』
――カサンドラと初めて会ったのは一年半前の事だ。
当時アイリスは上級生、王立学園生徒会の書記を任されていた事を良く覚えている。
本来は一度就任したら卒業まで書記を務める事になるケースが多いが、何と次年度入学してくる王子の『婚約者』も同時に入学してくるらしく話が変わった。
生徒会の書記は通例、例外がなければ在学中最も序列の高い女子生徒が務めることになっている。
ケンヴィッジ侯爵家の長女である自分より序列の高い者はこの年代にはいないはず――だった。
王子と一緒に入学するレンドールのお嬢様は彼の婚約者。
王子、それもとりわけ第一王子の婚約者という立場は大きい。
今、もしも陛下に何か障りがあっても王子は卒業まで王位を継ぐことができないが卒業すれば正式な後継者だ。
王子が卒業するまでの間、継承権を持つ中で最も順位の高い学園卒業者が「摂政」という立場で国政を代行すると決まっている。が、百五十年以上の間、その約束事が実行されたのは一度だけだという。かなり稀な事態と言っても良い。
大過なく卒業すれば正式にアーサー王子は王太子を名乗れる。いつでも王位を継げる立場に収まるのだ、彼の配偶者という立場は強い。
それにカサンドラは地方貴族の娘とは言え、レンドール侯爵家の長女だ。
アイリスの方が序列が高い女生徒だと言われても大変困る話だし、何より第一王子の婚約者で侯爵家の娘ならその座を譲ることに何の不満もない。
むしろ、どこかホッとした。
……自分の意志ではなく、学園側の都合で引きずり降ろされるのならアイリスに瑕疵があったわけではないのだから。
役員を辞しても学級委員として生徒会の一員であることは変わらない。
毎週金曜日やイベントの度に駆り出されることは同じだが、責任は少し軽くなる。
そのことがとても嬉しかった。
急に生徒会の役員と言われても、カサンドラも困るだろう。
……それに彼女の立場はとても複雑だ。
王子の婚約者だが、中央貴族から擁立された婚約者ではないわけで。
いくら地方では豊かな暮らしぶりの名門貴族と雖も、少しでも鼻につくような態度を取れば……女子生徒達から総スカンを食らいかねない。
特に中央だ地方だと線引きしたがる貴族令嬢達の中には、カサンドラが婚約者に選ばれた事を苦々しく思っている者も多くいるだろう。
表立って上の決定に逆らうような事は言わなくても――
少しでも彼女が対応を誤れば針の筵のような三年間が待っているだろう。
だからせめて、彼女が滞りなく役員活動を始められるように。
事前に彼女をお茶会に招待し、詳しい活動内容を彼女に伝えておこうと思ったことが始まりであった。
ただの善意ではない。
いくらカサンドラが周囲の生徒達が素直に認めがたい立ち位置にいる王子の婚約者であるとしても――
正式な婚約者で、紛れもない王妃候補なのだ。
彼女と太い繋がりを持つことが出来れば今後の自分の助けになるのではないかという打算も働いたことは否定できない。
貸しを作って悪いことにはなるまい、と。
それにカサンドラという少女に興味もあった。
地方の貴族令嬢だというのに、彼女の振るわない評判はアイリスの耳にまで届いている。
一体全体、どんなお嬢さんなのか……
皆より一足先に会って確認しておきたい。
アイリスは引継ぎと言う名目で自然に呼び出すことが可能な立場だったのである。
※
お茶会に招待した彼女を見て、アイリスは面食らった。
美人であることは間違いない。だがツンケンした態度、親しみやすさとは真逆の
……そしてそのアイリスには馴染まない雰囲気には覚えがあり過ぎた。
腹違いの三人の妹に、なんと似た空気を纏っているというのか……!
失礼極まりないが、一瞬義妹達を髣髴として僅かに背中が仰け反った。
目つきの悪さがいけないのか、不機嫌そうな表情だと思わせる。
無言で立たれると何か不興を買ってしまったのかとビクビクしてしまう、そんな印象を抱かせる女性だ。
威圧感も凄い。他人を吞んでかかるとはこのことだと言わんばかりのカサンドラの存在にアイリスは一瞬、絶句した。
成程、高慢で高飛車で我儘、他人を思いやることのない典型的な”貴族のお嬢さん”という評判は間違いではなかったのだ、噂とは侮れないものだと内心で感心したものだ。
カサンドラを招待しようと決めはしたものの、応対が自分だけというのも少々不安だったこともあり、婚約者のレオンハルトにも同席してもらったことを覚えている。
彼も数年前は生徒会の生徒会長だったので、カサンドラに助言できる事も多いだろうと声を掛けたのだ。
だがしかし、意外にもカサンドラは予想していたほど無礼な女性ではなかった。
確かににこりともしない、愛想のない少女だ。だがアイリスやレオンハルトに不躾な質問をすることは一度もなかった。
口数も少なかったが、結構真面目に話を聞いてくれた。
「新入生で急に役員は大変でしょう。あまり無理をしないでくださいね」
老婆心ながらそう声を掛けると、彼女は――初めて、僅かに笑みを見せてくれた。
「王子と一緒に生徒会に入れるので、今からとても楽しみです」
アイリスは演劇を観ることが趣味の一つだ。
特に恋愛ものの劇が大好きで、時間が合えばレオンハルトと良く観劇に出かけていた――カサンドラは劇中にいわゆる『敵役』として出てくる役者と同じ雰囲気を持っているように思えてしょうがなかった。
外見で損をしているのだろうなぁ、と半ば同情めいた気持ちになったのはその表情を見てしまったからだろう。
王子の事になると、普通のお嬢さんとしか言いようがない可愛い笑顔を見せてくれるのにな、と。
釣り目がちの美人の強面、その上口数も少なくあまり社交的ではないのなら、まぁ現状の評判になってもおかしくはないか。
そのタイミングで、アイリスが恐れていた最悪の事態が発生してしまったのだ。
「まぁ! レオンハルト様!」
「今日は我が家に遊びにいらしていたですのね!」
腹違いの三姉妹たちが、庭で話をしていた自分達を目敏く見つけて乱入してきたのである。
少し離れたところで様子を伺っていた母も彼女達を何とか止めようとしてくれたが、数のパワーで障害を押しのけてテーブルまで遠慮なく近づてくる。
アイリスの婚約者であることは誰もが知っていることなのに、彼女達はベタベタと彼の腕をとったり怖気が走るような甘ったるい声と共にしな垂れかかったり。
レオンハルトもかなり迷惑と思っているはずだが、いくら不快でもアイリスの妹。それに女性に対して乱暴な拒絶など出来る人ではない。
何とか宥めるように苦心しているが、来客中で遠慮がちになっているアイリス達を小馬鹿にするように――彼女達は全く意にも介さずレオンハルトへと秋波を送る。
カサンドラの目の前で、だ。
憤りの感情より、本当に恥ずかしくて恥ずかしくて。
顔は真っ青になったり真っ赤になったり、アイリスは卒倒寸前だった。
一刻も早く庭から出て行って欲しいと願ったアイリスだが、この暴走する義理の姉妹を引きはがすことなど自分には……
「はぁぁぁ……」
急に大きな、これ見よがしな溜息が秋の庭に響き渡った。
正面で苦虫をかみつぶしたような表情で眉根に皺を刻む、カサンドラの姿。
三姉妹は今まで他人に睨まれた経験がなかったのか、彼女に見据えられて身体を硬直させた。
ただでさえ、カサンドラの目力は強い。
「レオンハルト様は、アイリス様の婚約者でいらっしゃるとお聞きしましたが。
このように外聞もなく絡まれるなどお気の毒様です、本当に見苦しい事ですね。
……わたくしは今、アイリス様とレオンハルト様にお話を伺っているのです。
見てお分かりではありませんか? とても不愉快です」
物凄く淡々とした口調でそう言われ、悪びれた風もないカサンドラ。
歯に衣を着せないどころか、感じた事をそのままダイレクトに言葉の槍で刺し貫いてくる。
貴族世界特有の遠回しな皮肉や嫌味も使わない、ハッキリとした物言いにアイリスは呆気にとられた。
義妹達の言動が周囲の人間の目に余ることは確かだ。
だが流石に招待主の妹にその言い方は暴言甚だしい……そう、眉を顰める人間も確かにいるかもしれない。
今まで三姉妹に会う者は誰もが父の陰に怯え、彼女達に対しては腫物のように扱っていた。
だから一向に物怖じしないその光景はとても新鮮に映ったのだ。
「まぁ、なんて身の程知らず!」
アイリスはかつてない程怒り狂う三姉妹にフォローを入れつつカサンドラに謝りながら――心の中で思いっきり快哉を叫んでいた。
その事実を彼女は未だに知らないままなのだろう。
※
何故急にカサンドラの事を思い出していたのか、その原因を説明するのはとても分かりやすい話だ。
たった今、アイリスが彼女に纏わることで父から叱責を受けている最中だからである。
「一体どういうことだ、アイリス」
苛立ちを抑えるような仕草を見せながら、アイリスを正面から見下ろしてくる父。
その瞳の中には自分に対する興味関心など欠片も見出すことが出来ない、少なくともアイリスにとっては冷たい侯爵であった。
父の後ろでニヤニヤとほくそ笑むように嘲笑を籠めた視線を向けてくる三人の妹――という構図はケンヴィッジでは特に珍しい事ではない。
落ち度のない事でもこちらがとても酷い非情な事をしたかのように責め立ててくるのだ。
こちらに僅かでも非難されることをしてしまった場合など、容赦のない叱責をもらうのはいつもの事。
学園を卒業してもこの家にいる限り、いや義妹達がこの家にいる限り変わりはしないのだろう。
その事実はアイリスの心を暗くさせた。
「酷いわ、お姉さま!
私達の事なんて、どうでもいいのね!?」
見事なウソ泣きで顔を覆い、二女は金切声をあげてアイリスを責めた。
「アイリス。
何故お前は過去の試験問題を残しておかなかったのだ。
……妹達が必要とすることを分かっていた話だろう」
「……。」
自分を避けるように学園に入学した三人の義妹。
正真正銘の三つ子とは違い、それぞれ年子の姉妹の彼女達はクラスが離れると寂しいという我儘を発動させ年齢に差があっても同じクラスに通っている。
それ自体はアイリスと無関係な話なのだが、長女が「学期末試験の過去問題を早く譲ってくれ」と言い出した事が事の発端だった。
虚偽の申告とは言え病気療養中で入学が遅れて、皆より二歳も年上というアリーズには学期末試験で下位になると恥ずかしいなどと騒ぎ出した。
今から試験の傾向を確認したいから過去の問題を見せてくれと言い出した。
まさか彼女達が過去の試験の問題を求めるほど勉強に興味があると思っていなかったのでアイリスも動揺したのだ。
今までは父親に庇われて”やらかし”を衆目から遠ざけるように口止めしてきたものの、いくら父でも試験の順位の操作は出来ない。
王子や御三家の後継ぎさえ、そこは絶対に手を加える事の出来ない不可侵の領域だ。
もしもカンニングをしたりでもしたら間違いなく停学処分、地道にコツコツ勉強して結果を示すしかない。
彼女達は過去の問題を暗記すれば事足りると勘違いしている節があったが、とにかくケンヴィッジ家の人間として恥ずかしい成績は残せない!
と、アイリスに鼻息荒く詰め寄って来たのである。
確かに姉としては彼女達のために、試験問題や答案などを保管して譲ってあげるいべきだったのだろう。
だが残念ながらアイリスはそれを持っていなかった。
「申し訳ありません。
過去の試験問題は――カサンドラ様にお譲りいたしました」
ピクっと三姉妹の肩が大きく跳ねた。
泣き真似をしていたはずが、目の端を釣り上げて各々怒気を表した顔になってアイリスは少し仰け反る。
彼女の事を苦手としているだろうとは思っていたが、ここまで嫌悪感を示すほどとは思っていなかった。
「何、カサンドラと言えばレンドールの……
王子の婚約者か、ふむ」
そこで初めて父は、顎髭に手を添えて僅かに言い淀んだ。
彼女は娘達を殊更かわいがる父であると同時に、由緒正しいケンヴィッジ侯爵家当主。
外面は良い男性だ。また、決して仕事が出来ないわけでもなかった。
ヴァイル公爵とも懇意にし、その他の強いコネを維持できる貴族でもある。
ここで後の王妃に貸しを作ったのだからしょうがないと思わせることが出来れば、今日の叱責は回避できるかもしれない。
そう思ってカサンドラの名を出したのだ。
「騙されてはいけません、お父様!」
甲高い声を上げ、父の背中の後ろに隠れていた妹たちが騒ぎ始める。
「おお、どうした。そのような顔をして」
父はそう言って自分に向けた事のないような極めて穏やかな表情で彼女達の様子をぐるりと見渡した。
「カサンドラという先輩が王子の婚約者であることは確かですわ。
ですが学園の先輩方のお話をお聞きしたところ、王子はあの方の事を特に何とも思っておられないご様子だとか。
邪険にこそしておりませんが、お気持ちがないことは明らか!」
「そうですわ!
……男の人が意に沿わぬ結婚相手を周りから押し付けられたらどうなるか……
ええ、それはもう近い内に側室へとお声が掛かるのではとお考えになっている方も多くいらっしゃるのだとか」
「お父様なら、良くおわかりでしょう?
王子の婚約者だからと媚びをうったところで、何の得にもなりはしませんわ!
ですからこれは、私達への嫌がらせ以外の何物でもないのです!」
アイリスの心を的確に抉る事だけは上手い。
実際に親にあてがわれた婚約者を疎み、本当に自分が想う女性をもはや本妻であるかのように接する父。
そんな彼の心をこの上なく揺さぶる言葉ではないだろうか。
今後のカサンドラの扱いが手に取るように分かると言わんばかりだ。
自分の行動を思い返せばさもありなんという話だが、本当にそれでいいのか……?
「そうかそうか、危うく誤った判断を下すところだった。
お前たちはきちんと人物評を把握しようと、入学早々学園内で各々努力を重ねているのだな」
急に機嫌よくにこにことそう話し始める父を前に、アイリスは何とも言えない――むしろ恥ずかしささえ感じてしまう。
今はまだ家の中だけに納まっているからいいようなものの。
義妹達からの話を鵜呑みにし過ぎ、誤った情報に振り回されては今後の対外折衝にも支障を来しそうなものだ。
父は耄碌してしまったのだろうか?
今まで、家は家、仕事は仕事と完全に切り離していたはずなのに。
ここでその話を正しい情報だと勘違いしては、非常に危険だ。
父も大仰に頷きながらも三姉妹の言う事と、半信半疑の状態かも……
「王子も大変なご苦労をされておいでなのだな。
……そうか、そうか」
えっ、とアイリスは思わず彼の顔を凝視する。
完全に勘違いを鵜呑みにしている……?
「立場や身分だけに拘泥し目を奪われ本質を見誤るなど、人の上に立つ者にとっては恥ずかしい事だ。
……アイリス、お前が今までどれほどレンドールの娘に恩を売って来たかは知らんが……
売りつけてきたものの回収見込みは、勿論あるのだろうな?」
「それは……」
最初は彼女に対し、多少の打算があって声を掛けた。
でも入学して一緒に彼女と過ごす内に、すっかり以前の噂や評判など思い出すこともなくなるくらい劇的に変化したカサンドラ。
王子との関係も決して良好に見えなかったけれど、アイリスは彼女の恋は心から応援している。
それに王子も徐々に彼女に対し距離を縮めているようにしか見えなかったので、一体どこからそんな話が湧いてきたのだろうと不思議でしょうがなかった。
でもいくらアイリスが抗弁したところで、父の耳には入るまい。
「まぁ、お前が過去の試験問題を所持していないのならしょうがあるまい。
他の者に頼む他ないだろう。
……もう良い、下がりなさい」
まるで犬を払いのけるかのような、鬱陶しそうな手の動き。
彼の”誤解”を解いた方が良いのだろう、その方がこの侯爵家にとっては良いはずだ。
尤も、アイリスの言葉など彼に届かないだろう、逆に頑なに思い込んでしまう可能性も。
アイリスはケンヴィッジ侯爵家の跡取りだ、もしも父の誤った認識のせいで王家から不興をかったり恥を掻くことは自分にとってマイナスの影響を及ぼしかねない。
だが言及を諦め無駄に逆らわず、あっさり引き下がることにした。
「お父様の仰る通り、不明を恥じ入り精進したいと思います」
アイリスは生まれて初めて、父に向かい心の中で舌を出した。
――来週の晩餐会が楽しみだ。
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