第356話 送り主は
「ただいま帰りました」
「姉上、おかえりなさい!
久しぶりの学園はどうでした……か?」
レンドール家別邸にようやくたどり着いた時、既にカサンドラの心はボロボロ状態であった。
デイジーとリナのとんでもない勘違いを知ってしまったせいで、もはや頭の中は真っ白。
館の玄関で自分を迎え入れてくれたアレクは、俯きがちにとぼとぼとした足取りのカサンドラの登場に目を白黒せさせている。
「姉上?」
「申し訳ありません。少し休ませて下さい」
まさに昨日の高いテンションから直滑降の様相を呈すカサンドラ。
唖然とした顔のまま、義弟は自分を見送った。背中に絶句した彼の視線を感じるが、今はとりあえず心を落ち着かせたかった。
別にカサンドラに恥じるところがあるわけではない。
それに、王子だってただ挨拶をしただけなのだ。
……まさか一部生徒にこんな勘繰りをされているなど想像の埒外である。
しかも話題が話題なので王子に相談できないのが厄介極まりない。
窮地に立たされる前に話し合って問題を解決していこうという合意はあるものの、デイジー勘違い事件を果たしてどう説明したものか。
かなり頭が痛い話であったが、もうこれは逆に堂々としている方が『何事も無かったのだ』と思ってもらえそうな気がする。
この段階で急に王子と距離をとったり、以前と同じような振る舞いに落ち着けたところで――余計に、昨日の王子の挨拶は何だったのかという話になるだろうし。
周囲の視線を気にするのは当然だけれど、後ろめたいことなど何一つない。
一々他人の視線に怯えて萎縮するのは、今後の事を考えれば良くない事だと思う、
そもそも勘違い事件は、デイジーが気を失わなければカサンドラも、そんな可能性が取りざたされるとは思いもよらないことであった。
――多少好奇の目を向けられた際、目立つ行いをした時の試金石なのかもしれない。
カサンドラは平然と振る舞うべきだろう。
……そうは言っても、かなり心にダメージを負ってしまったカサンドラである。
リゼやリタに引き続き、リナにまで誤解されてしまったのかと思うと顔を覆いたくなった。
しばらくの間、自室の椅子に腰を下ろして思考を『無』にしていた。
それにしても”恥ずかしい”という感情は、他の感情と比べると少々異端だ。
一つ、身悶える程恥ずかしく思う事態を思い起こしていると、芋づる式に過去の己の恥ずかしい過ちや黒歴史も一緒くたに紐解かれて襲ってくるのだ。
楽しいことを思い出す際にはあまり見られない現象だと思われる。
直近の恥ずかしさから目を逸らした場所に、以前の思い出したくなくて押し込めていたシーンが……殊更色鮮やかな景色を持って突きつけられるのだ。
負の記憶の連鎖は留まることを知らず、一層カサンドラの心情を掻き乱して行った。
「姉上、宜しいですか?」
コンコン、と部屋の扉をノックされた。
珍しくアレクが自室を訪れてくれたことに、ようやくカサンドラ本来の意識が目覚めていく。
壁掛け時計を見れば、帰宅して既に一時間は経過しているようだ。
……食事もとらずに、一体何をしているのだろうと自己嫌悪に陥る。
入室の許可を出すと同時に開かれた扉。その廊下側に立つ銀髪の少年は――手に一通の封書を持って肩を竦めていた。
「一体どうなさったのです? 朝お出かけになった姉上とは別人ではないですか」
「……少々、予想外な出来事がありました」
「何か起こったのですか!?」
彼は眉を顰め、蒼い瞳に真剣な光を宿しカサンドラを凝視する。
「個人的な悩みですので、詮索は無用です」
「はぁ」
肩透かしを食らったように、アレクはやはり怪訝そうな表情のままだ。
王子、ひいては三家の情勢に何か変化があったのかと固唾をのんで聞いて来たのだろうが、実際はこんなくだらない事で悩んでいるなんて口が裂けても言えなかった。
――下らなくはないかもしれないけれど。
この世界で最も、今回の件を相談しづらい相手。それがアレクではあるまいか。
今まで王子に関する悩みごとや相談全てで頼みにしていた頼れる義弟。でも彼にとって王子は血の繋がった実の兄で、カサンドラは数年間の付き合いとは言え姉弟の関係。
とてもではないが、意見を乞う勇気は無かった。
「ところでアレク、そちらの封書は何でしょう」
「はい、どうぞ。
姉上がお戻りになったら渡そうと思っていたものですが、なかなか降りて来られませんでしたので。
こちら、招待状をお預かりしています」
招待状?
アレクからしっかと手渡された真っ白い硬質な封書はしっかりと封蝋がされてあった。
あて先はカサンドラの名で間違いない。
差出人は、とくるっと裏側をひっくり返して息を呑んだ。
「まぁ、アイリス様から!」
正確には、アイリスと彼女の婚約者のレオンハルトとの連名だ。
卒業式が終わってから当然のことだが、一度も会っていない。純粋にアイリスの顔を見ない日数なら去年の夏休みの方が長かったが。
今後二度と学園で姿を見る事がないと思うと――
たった二週間しか経っていないのに、名前を見るとこんなにも懐かしく感じるのが不思議だ。
彼女の制服姿を見ることもないのだなと思うと、良くしてもらった思い出が蘇って心苦しくもある。
内容はケンヴィッジ家の晩餐会への招待状となっている。
二週間ほど先の話だ、新体制が落ち着いた頃と見込んでの日程であろうか。
「嬉しい、早速準備を行わないと」
殿下と一緒に、という文言が入っている以上、王子の許にも同じように招待状が届いているに違いない。
学園を卒業してから、初めて自分の名で催す行事はとても大切なものではないだろうか。
社交界への挨拶代わりの催し事になるもので、格も重要視される。
舞踏会、社交界デビューとはまた違う。
家の名を背負う一人の貴族として、同じく高貴な賓客をもてなす様を評価されるわけだ。
その大切な機会、カサンドラや王子をさらっと招待できるアイリスは前途洋々であることは間違いない。
カサンドラを助けて来たのは保身のためであったり社交界への足掛かり的な想いもあったとアイリスは言う。
成程、確かにこうして招待を受けて義務感でもなく喜び勇んでカサンドラや王子が出席するなら、かなり注目度も上がる。
お偉方への牽制になるのだろう。
でも打算があったとしても、カサンドラは彼女の優しさや気遣いにずっと救われてきた。
いくら心の中で慕われていようが、実際の行動が嫌がらせに近かったり、カサンドラの足を引っ張るものであれば好意的に見ることなど出来なかった。
あそこまで実際に優しくしてくれたら、もう”優しい人”で良いと思う。
進級初日から動揺が走ったカサンドラの心を優しく癒してくれるかのような、アイリスの招待状。
有難い事だと、カサンドラは白い封書をぎゅっと掻き抱く。
彼女も元気そうで、本当に良かった。
※
「おはよう、キャシー」
流石に二度目ともなると、カサンドラも心の準備は出来ている。
むしろ彼が自分の席に辿り着くよりも早く椅子から立ち上がり、頭を下げた。
「おはようございます、王子」
まだ半数近くの生徒しか登校していない朝の教室。
騒々しさとは無縁だったカサンドラの学園生活は、王子の普段とは違う行動によって全く違う方向に舵をきりつつある。
昨日ほどの動揺が走ったわけではないとは言え、やはり視線を感じてしょうがない。
ただ挨拶されただけで、何故ここまで緊張せねばならないのか。
今更ながら、去年までの自分達はどう見られていたのだろうと遠い目をしたくなるカサンドラであったが。
「少し時間をもらってもいいかな」
「はい、勿論です」
「良かった。少し話をしたいことがあるのだけど」
そう言って王子はぐるりと教室内を見渡した。
こちらの様子を伺っていた生徒達は王子と目が合うと愛想笑いを浮かべるかパッと視線を逸らす。
好奇心丸出しと思われたくないのだろう、露骨に目を逸らし過ぎて背も逸らし天井を見上げている男子生徒もいた。
「落ち着かないだろうし、廊下で話をしようか」
王子は教室後部の扉を指差して苦笑した。
あまり周囲に会話を”聞かれる”事に慣れていないカサンドラには非常に助かる話だ。
廊下で声のトーンを抑えて話をすれば堂々と盗み聞かれる心配もないであろう。
今日は昨日とは逆に彼に連れられ、廊下に出る。
全ての窓が開いた廊下は程良く開放感に溢れていた。教室の喧騒から抜け出したことに胸を撫でおろす。
「キャシーはアイリス嬢からの招待状は受け取っただろうか。
晩餐会の案内のことだけれど」
「はい、先日お受け取り致しました。
日程も差し迫っていますが、とても楽しみですね」
一体何の話を出されるのかとドキドキしていたが、先に王子が招待状の話題を出してくれた。
思わず顔を綻ばせ、王子の顔を正面から見つめてしまう。
ハッと息を呑んだ。
こちらを優しく見守るような柔らかい表情に、不意打ちを食らって視線がショートするかと思った。
キラキラ眩しい笑顔が、今は自分だけに向けられているかと思うと勿体なささえ湧き上がる。
更に、廊下の端で大声にならないよう、距離を詰めて話をする自分達。その姿を客観的にイメージしてしまい、一気に恥ずかしさの閾値を越える。
他所のクラスや学園でカップルになった者同士が、廊下で見つめ合い二人の世界を創っている場面を見かけたのは――前世の記憶も足すならば一度や二度では利かない。
カップル二人の周囲に淡いピンク色の粒子が纏って見える、独り者には異次元空間。
もはやこの大地に自分達以外は存在しないとでも言いたげな、ラブラブカップルが想起されてしょうがない。
この様を他の生徒が見たら、かつての自分がそうだったように「お熱い事」と小さく笑みつつも、邪魔をしないよう小走りですり抜けるような状況なのだろうか。
男性と付き合った経験がないので、どうにもいざ自分がその立場に立ったと言われても戸惑うばかりだ。
「もし君さえ面倒でなければ、衣装合わせに来てもらえないかな」
まさか男子寮に来いとは言わないだろうから、王宮に呼ばれているということなのだろうか。
晩餐会で着用するドレスを持参して欲しいとは、意外な申し出である。
「えっ。
……王宮に……ですか?」
まさか王子からそのような提案があるとは思わなかったので、カサンドラは狐につままれたような気持ちになった。
「今回の晩餐会は日付も近いから、衣装の準備は君に委ねることになると思うのだけど。
せめて装飾品くらいは私に用意させて欲しい。私の衣装係は優秀らしいから、一緒に見立ててもらおう」
えっ。
王子の衣装係……!?
「ついでに今後のため、何着かドレスを仕立てる手配をしようと考えている。
女性のドレスの用意は時間がかかると分かっていたのに、後手になってしまって申し訳ない」
「まだ袖を通していないドレスは何着かございますが……
宜しいのでしょうか」
「ぜひ任せて欲しい。
去年まではパートナーを随伴する事が難しいと招待を断ってばかりだったけれど……
今後のことを考えれば、面倒がらずに多くの人に会っておいた方が良いのではないかと。
君にもパートナーとして同伴してもらう機会が増えると思う。
――せめてドレスくらい、用意させて欲しい」
「ありがとうございます」
余りにも予想外の申し出だったので心の中で泡を吹く寸前である。
パーティ用のドレスは、二度と同じものは着ないのが鉄則だ。一度着てしまえば、二度と日の目を見る機会もない。
決して安いものでもないので少なくない貴族にとって、悩ましい経費だとも言える。
何度も採寸を行うのが面倒だからと、余裕をもってドレスを何着も仕立ててもらっているカサンドラのような貴族の令嬢もいれば、一度着たドレスを仕立て直して予算を浮かせる令嬢もいたり。
また、ドレス好きなお嬢さんに到っては毎回の招待された相手や場所、ドレスコードなどから新しく最新のデザインのドレスを都度仕立てたりするらしい。
ドレスに一切の執着がないカサンドラには全く意味のわからない話なのだが。
……このキツい顔立ちのせいか、薄い化粧でも派手に見られるカサンドラ。
カサンドラに合わせ、仕立ててもらった大人っぽいドレスに化粧を添え。実際に姿見で確認したら――あまりにも「ケバすぎる」と絶望したことは何度もあった、
かと言って所謂お姫様のようなふんわりしたドレスも似合わない。
いっそ髪を縦ロールにでも巻いて、私こそが悪役令嬢! と言わんばかりの装いの方がマシなのではなかろうか。
似合うドレスの色やデザインが限られているので、毎回何を着て参加しようか選ぶのが苦痛なばかりだ。
去年の王宮舞踏会はシンシアの素敵なデザインのおかげで事なきを得たが、今年も彼女を頼るわけにはいかないだろうし。
今から胃が痛い話だったことは確かだ。
王子は――何と太っ腹なことに、一年を見通してカサンドラにドレスを用意してくれると言う。
そこまでの負担はかけられないと断ろうかと思ったが、相手は曲がりなりにも王子である。
相手の申し出を断るなど、懐事情を心配している事と同義だ。
あまりにも失礼過ぎるので、カサンドラは素直に頷くことにした。
――普通に、とても嬉しい。
今後王子とパーティに参加する機会が増えるのなら、ドレスの出番は多くなるだろう。
余りに変な格好だと、同行する王子も恥ずかしく思うかもしれない。
カサンドラは己の美的センスに一切の自信を持てないまま今に到る。
その点、彼の監修があれば安心してそのドレスを着て会場に向かうことが出来るだろう。
「アイリス様もお忙しくされているのでしょうね。
今からお会いできることが楽しみです」
卒業した後になっても、彼女に助けられているような気がする。
自分も、彼女のような文字通り『親切』な人間になりたいものだ。
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