第353話 新入生たち


 今目の前で起こっている現象は、何だというのか。

 カサンドラは刹那の間に、解脱しそうになった魂を己の内に戻し押し籠めた。


 ここで放心状態になっているのは、絶対に良くない!


 周囲の驚きの声が耳に届くや否や、カサンドラは両手を机の上に置いて――すっくと立ちあがった。

 顔色を失い、笑顔は引きつっていたに違いない。


「まぁ、王子。おはようございます。

 わたくしにご用事ですか?

 では教室の外でお話を伺っても宜しいでしょうか」


 ホホホ、と。

 カサンドラは王子の反応を待たず、そのまま教室後方の扉から速やかに廊下に出ることにした。背後から視線が突き刺さって痛い。


 完全に混乱して視界がぐるぐる回っていたので、果たして王子に言葉が伝わったのかどうか、ついて来てくれたのかどうかも定かではない。

 ただただ、信じられないものを見るかのような強い注目、視線に耐えられなかった。


 王子は常日頃大勢から注目を受けることに慣れているのかもしれない。

 だがカサンドラは、今まで彼らの輝きの影の中に紛れていたような状態なので……急に注目の対象となることに全く慣れてはいなかった。


 ふらふらな足取りで、二階の廊下に設置された窓まで歩く。

 窓は開いており、外気に触れるよう桟を片手で掴む。反対の手で心臓の辺りを添え、少し前屈みになって収まらない動悸と格闘しているカサンドラ。


「キャシー、どうかしたのかな?」


 カサンドラについてきた王子が、全く状況が分かっていないと言ったきょとんとした様子で首を傾げているではないか。

 その仕草の一つをとっても見惚れるくらい綺麗ではあるのだけど。

 今この時ばかりは、動揺の方が勝っていた。


「王子、申し訳ございません。

 急に……お声をかけていただき、混乱してしまいまして。

 あの、何かわたくしに御用がお有りでしたでしょうか」


「……?

 君がそんなに驚いている理由が分からないのだけど」


 彼の方が、少し驚いた様子でこちらを見つめる。

 口元に手を添え、何か思案している素振りを見せるのみだ。


「私は自分の婚約者に挨拶をしただけだ。

 どうして君が慌てる必要が?」


 至って真剣な表情。彼はあの教室の中で湧き上がったどよめきに気づいていないのだろうか。

 皆が驚愕の声を上げ、王子の行動に注目していたことを。


 確かに王子はカサンドラに挨拶をしただけで、別にどうということはない話だ。

 それで驚かれる方が、今までの自分と王子の客観的に開いていた”距離”を突き付けられている気がする。


 ただ挨拶をしただけで、あのざま

 王子にとってカサンドラは全く優先順位の高くない婚約者なのだ――クラスの皆に、そう思われていた事の裏返しではないか。


「それに私は、以前君に伝えたはずだ。

 もう気持ちを隠すつもりはないと」


「そう……ですね。

 わたくしも、少々焦り過ぎてしまいました。面目もございません」


 あまりにも堂々とした態度過ぎる。後光が眩しく目がくらみそうだ。

 今までの書面契約上の婚約者、という態度を崩さず常に一定の距離を保ち続けていた王子。


 彼から声を掛けてもらえて、嬉しくないわけがない。


 でも一年を通して王子との物理的距離に慣らされてしまったため、全く感情が追い付いていない状況である。淡水に慣れた魚が急に海水に浸かればパニックにもなるだろう。


 ベルナールのようにいきなり女子生徒にプロポーズをしたというなら話は別だが、ただの挨拶にここまで驚くこともないのか。


 まだドキドキと落ち着かないカサンドラだが、王子の言うことも尤もだとようやく心が少し軽くなった。

 己の言動を思い返し、常識外れの言動をしたわけではない王子に失礼な態度だったかなと反省することしきりである。


「ではそろそろ教室に戻りましょう、王子。

 わたくしのせいで、ご迷惑をおかけしました。

 ただ挨拶をして下さっただけだというのに慌ててしまい、申し訳ございません」


 王子に挨拶をされても、焦って教室の外に出る必要などなかった。

 しれっとした顔で「おはようございます」と返事をすれば、それで事足りた話である。

 わざわざ外まで連れ出すくらいパニックになっていたのだと、カサンドラは猛省した――が。


「いや、このままで構わないよ。

 二週間君に会えなかったから、休み中の話を聞きたいと思っていた。

 ……他の人と話をするのはその後で良いから」


 そう言ってニコニコ微笑む王子。

 全く恥ずかしがる様子もなく、”素”でこういう発言が出てくるのかとカサンドラは一人勝手に慌てた。

 元々、距離を置いていた時でさえ。彼は決して紳士的な振る舞いを崩さなかった。

 カサンドラの顔を潰すような言動はしなかったし、蔑ろにされた事もない。

 あくまでも中立、婚約者と言う立場を保てるようカサンドラに接してくれていたわけで。


 その過去の立ち居振る舞いに、更に個人的な好意が加えられた破壊力と言ったら、筆舌に尽くしがたい。


 知らず俯きがちになり、カァァァ、と紅潮していく。

 今までの表面上のさりげない仕草だけ、いやもはや一目見た時からカサンドラは彼に夢中だったのである。

 ここまで好意のベクトルの先を向けられる事に全く耐性がないので、一人みっともないほど慌てふためいてしまう。


 いずれ慣れるのだろうか。


 気を紛らわせるように、レンドールに帰省した話を彼に話し始める。

 その間も教室の内外から大勢の視線に晒されていたが、出来るだけそれらを意識しないよう外界の景色の一切を遮断して王子に向かい合っていた。



「おい、アーサー。それにカサンドラも」



 廊下で彼と話を始めて、数分が経つ。時間の感覚さえもあやふやだったカサンドラは、前方の扉をガラッと開けて呼びかけられ――

 ようやく二人、顔を上げた。

 片手で扉を開けるジェイクの冷ややかな目と視線があった。


「いつまで話してるんだ、そろそろ時間だぞ」


 不機嫌そうな声で、自分達を呼ぶ声に我に返った。

 いつの間にか廊下も教室も静まり返っていた事に気づく。腕時計を見ると確かにホームルームの時間が近いではないか。

 カサンドラ達は慌てて教室内に戻り、まだざわざわと騒々しい声に出迎えられた。


 着席したと同時に、担任の教師がガラッと扉を開けて入ってくる。

 間一髪、ギリギリセーフだ。


 目立ってしまって恥ずかしかったが、ジェイクのお陰で注意を受けることもなかった。


 あのまま雑談を続けていたら、間違いなく担任の教師に見咎められていただろう。

 ホッと胸を撫でおろす。


「……あら?」


 自席に座ってホッと胸を撫でおろし、教室の様子をぐるりと伺っていると……

 一つの空席が目に留まった。


「少々お伺いしても?

 ……デイジーさんのお姿が見えないのですが」


 おかしい、登校してきた時には既に彼女の姿もあったはず。

 鞄を席に残したままで彼女の姿だけが見えない事を不思議に思い、隣の席の女生徒に小声で尋ねる。

 急に話しかけられたクラスメイトはビクッと肩を跳ねさせつつも、カサンドラの疑問に答えてくれた。


「デイジーさんでしたら、先ほど突然床に倒れてしまって……

 先ほど医務室に連れていかれたようです」


「えっ」


「極度の興奮状態? というお話で……いえ、私にはわかりかねます。

 申し訳ありません」


「興奮……? な、なぜ?」



 大丈夫!?

 新学期が始まってすぐ、体調を悪くしたのだろうか。


 分かりません、と困った様子でクラスメイトは首を横に振った。

 そんなに恐縮されると、こちらも話しかけづらい。





 心配だ。後で様子を伺いに行かなければ。



 カサンドラは深刻な面持ちで一人しっかりと頷いた。








 短いホームルームを終えた後、皆で入学式典に参列するために移動を開始する。


 カサンドラは大講堂に向かう前に医務室を覗いたが、デイジーは立ち眩みを起こして倒れたのだと医師に教えてもらうことができた。

 持病があるわけでもなく、すぐに良くなるでしょうとお墨付きをもらえてようやく安心できた。



 倒れた際に頭を打った痕跡もなく、受け答えもはっきりしているので特に心配もなさそうだ。



 二週間とはいえ、昨日まで学園の一切から解放された長期休暇を過ごしたのだ。

 また規則正しい生活に拘束されるということに過度なプレッシャーも感じていたのかもしれない。そう納得し、医務室を後にした。

 急がなければ式典に遅れてしまう。



 ――まさか彼女デイジーがカサンドラと王子の親し気な様子に感極まってその場に卒倒したなど、当然知る由もない話である。

 





 ※





 入学式典は特筆することもなく、粛々とした雰囲気のまま終了した。

 新しく迎え入れる新入生たちの姿を後ろから見守りつつ、一年前の事を懐かしく思い出す。果たしてどんな学園生活になるのは想像もつかなかった。

 王子と何とか親しくなりたい、そればかりを考えていた気がする。


 去年は王子達一行が入学ということで、色々と準備も大変だったのだろうなぁ……


 と、しみじみと思うカサンドラ。

 だが今年の新入生もかなり癖の強いメンバーが入ってくるということを、校舎案内の時に思い知ることになる。





「まぁ、王子様よ!」


 王子の姿を見つけ、一部の新入生が色めき立った。

 新入生たちの多くは王子達を気にしてチラチラと視線を向けていても、自制心や遠慮、そして常識が働いて遠巻きに眺めているだけだというのに。


 そんな慎ましやかな空気を破壊するかのように、大きな声で王子を取り囲んでいる三人の新入生を目の当たりにして――カサンドラは「うっ」と軽い呻き声を喉にり上げた。




  ――ケンヴィッジの三姉妹……!



 もはや彼女達と同じクラスの新入生も、若干引き気味の様子で一頻り王子に対して捲し立てる三姉妹を眺めているだけだ。

 先月卒業したアイリスの腹違いの三姉妹。

 

 本来、この三姉妹で新入生として迎えられる適切な年齢の生徒は三女のみ。

 長女と次女は、最上級生と上級生の学年に通っていてしかるべき年齢だったと記憶している。


 だが――アイリスと言う模範的かつ全生徒憧れの対象でまさしく学園のマドンナという目の上のたんこぶが通う学園に在籍したくない、と。彼女達は我儘を言った。


 この学園で正妻の子女とそうでない庶子の扱いの格差は歴然である。

 地方貴族の子よりもなお、扱いは悪い。


 いくら侯爵の娘と言っても三姉妹は妾腹。男爵家正妻の子女にも及ばない扱いをされ、アイリスの前で差をつけられることがプライドの高さゆえに堪えられなかったのだと推測される。


 その訴えを受け、長女と次女は病気療養のため学園生活を送ることが出来ない、と。ケンヴィッジ侯爵は休学手続きを行うことにしたのだ。

 娘に甘いにもほどがある。


 特別措置は本来認められるものではないのだが、そこはケンヴィッジ侯爵という強い権力を持つ父親がその”我”を通させた。

 一体いくら寄付金を納めたのか、学園長の弱みでも握っているのか。


 所詮貴族の愛人の娘だし、爵位継承の件に影響のない三姉妹。

 それで気が済むのなら、と。三姉妹が纏まって新入生という待遇で入学してきてしまったのだ。


 三つ子でもないのに、義姉妹揃って同じ学年の同じクラス……!

 この厚顔無恥な振る舞いを堂々としてのけ、罪悪感の欠片もないというのが凄いと思う。

 三姉妹が同じクラスという事実に、面倒な生徒はひとまとめにして隔離してしまおうという学園側の強い意志を感じる。カサンドラも苦笑いだ。


 王子にべたべたと纏わりつく姿に青筋が浮かびかけたが、ここで彼女達に絡んで目をつけられる方が厄介だ。

 己の不甲斐なさに歯噛みするが、王子もそれとなく立ち位置を変えたり動いたり、姉妹を押しのけることなく包囲網から華麗に逃れているのは流石の一言である。


 ぐっと我慢し、カサンドラは他の新入生たちに構内を案内する。

 この学園はかなり広く、そうそうすぐに覚えることは難しい。

 主要な施設、部屋のみ回って後は自由に散策してもらうのが通例のようだ。




 ちらっと新入生たちの顔を見る。

 ゲーム内で、この時期に入ってくる新顔のキャラは……『二人』だ。



 後方で同じクラスメイトと楽しそうに話をしている灰色の髪の少年がその内の一人。

 オレンジ色の瞳が印象的な、白いというよりは血色の悪そうな肌の少年――グリムか。


 ジェイクの腹違いの義弟で、今まで遠方に療養していたことはカサンドラも設定として知っている。

 もしもリゼがジェイクルートに入っていなかったら、完全に当て馬的立ち位置で扱われていた少年であるが。

 この調子なら特に今後主人公達に絡むこともないはず。

 一人でも不幸な想いをする人が減るのならそれが嬉しいので、しっかりと前年度ジェイクの恋愛イベントをこなしてくれたリゼには感謝の念さえ覚えてしまう。




 そしてもう一人は……と。



 主人公の幼馴染、同じ村の出身者――テオ。

 小柄で華奢で人懐っこい笑顔が特徴の少年、まさに弟! という性質を持っている。時に無神経な事も言うが、甘え上手だし素直な性格の少年を、主人公達も弟のように気に入っているはずだった。




 主人公の攻略が順調なら、殆ど彼らに出番はない。

 特にテオなど、救いのないバッドエンドにしないための最後のセーフティネットなわけで。


 ラルフやジェイク、そしてシリウスと一緒に行動するようなイベントはなかった。

 段々と薄れていくゲーム内の記憶を必死で総浚いしつつ、テオと言う幼馴染は進行の妨げになる存在ではない事を確認する。


 主人公達にとっては懐かしい故郷を知る後輩、というだけ。

 既に攻略対象のルートに入っているなら出番はない。

 パラメータや好感度が足りなかったりイベントで失敗して失恋状態になったら現れて慰め、励ましてくれる後輩キャラだから。




「姉ちゃーん」


 だがテオは上級生の集団の中に、目当ての三つ子の姿を見つけて一直線に向かって言った。

 まるで飼い主を見つけた犬のような一心不乱な走り寄り方である。


 テオは振り返って手を振るリタに、正面から飛びついた。


「テオ、入学おめでとー! まさか本当に試験に合格するなんてね」


 よしよしとテオの硬質な髪を撫でるリタ。

 本当に懐いて来た大型犬への態度と何一つ変わらないが、気心が知れた間柄と言うのは十分伝わってくる。



「………。」


 その瞬間。

 傍に立っていたラルフの方から、得も言われぬ悪寒を齎す空気が突如生み出されカサンドラは絶句した。



「そりゃあ、頑張ったから! 褒めて褒めて!

 リゼ姉ちゃんに一晩ずっと付きっ切りで面倒みてもらったし!」


 えへん、と腰に手を当ててテオは胸を張る。


 その瞬間、バキッと不吉な音が聴こえた。

 恐る恐る肩越しに振り返る、と。

 ジェイクが回廊内部にまで伸び、浸食する木の枝を――目を据わらせたまま折っているシーンが視界に映った。

 結構太い枝である。

 間違っても剪定ではないな、明らかに力を入れ過ぎたとしか思えない。怖い。


「頑張って入学できたから、リナ姉ちゃん、またご飯作って!

 姉ちゃんのお弁当がなくなって、ホント農作業の手伝いに張り合いがなくってさぁ。

 あ、ベリーのタルトも食べたい!」


 無邪気に笑う、新入生。





 ………。

 シリウスの方を確認するのは止めよう。



 怒気と苛立ちを絶妙に混ぜ合わせた黒い影が立ち上っているのは、幻覚としても怖いので本当に抑えて頂きたい。









 この三人を同時に苛立たせたこの幼気いたいけな少年に、無事に明日が訪れるのか?

 カサンドラは冷や汗を流しながら、新入生たちに校舎の案内を続けることしか出来なかった。

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