第二部

第352話 新学期


 学園の春休みはとても短い。

 ただ新学年に進級する準備も特に必要なく、学園生活二年目ということもあって心に余裕も出ている状況。

 しかも学園からの課題もないので、やるべきことの一切ない完全に自由な二週間をしっかりと満喫できた。




 ――クローレス王国レンドール侯爵家の一人娘、カサンドラ・レンドール。


 彼女は明日から始まる二度目の四月を心待ちにしている。

 楽しみ過ぎて、レンドールに帰っていた間もずっと学園の話ばかりしていた。




 春休み中、それまで帰省する事の無かった実家であるレンドールに滞在し、僅かな”自由”を存分に享受したばかり。


 懐かしささえ覚えるレンドールの屋敷に入ると、大勢の見知った従者が迎えてくれたことを思い出す。

 自分が十五年間住んでいた懐かしい家で、一年以上会っていなかった人たちと会うことが出来た。


 記憶にあるのは、従者達の不安そうな表情ばかり。

 彼女達は恐々と緊張した様子でカサンドラに挨拶した。目を合わせようとしないよそよそしい感覚がもはや懐かしい。


 いつ何時なんどきカサンドラの不興をかって叱責を食らわないかと緊張に支配されていた、カサンドラの傍仕えの召使たちである。

 ここを発つ前とほぼ変わらない面子の出迎えを受け、俯き視線を合わせない召使たちに己の故郷での振る舞いを思い出し黒歴史の濁流に呑みこまれたカサンドラである。


 だが別邸から随伴してもらったメイド長のナターシャや他のメイド達の甲斐甲斐しいフォローあって、ようやくカサンドラは噂にあるように『性格が変わったらしい』と理解されるに至った。


 なんだか釈然としない話ではあった。

 別に暴力を振るってきたわけでも、何もしていない召使いを怒鳴り散らしたわけでもないのに、そこまで怖がらなくても……。


 以前までのカサンドラは、我儘で高慢な人間だったかも知れない。

 だが高額なものを欲しがったり、他人を虐めたり、無理矢理辞めさせたなんて記憶はないのだ。


 ここまでビクビクされるのは、やはりこの顔か雰囲気のせいか。


 一応美人の範疇に収まる顔立ちのはずなのに、鋭いまなじりや気軽に話しかけられない常に不機嫌そうな表情。

 日々「楽しくない」「満たされない」という想いが昂じ、余計に刺々しい雰囲気を纏っていたことは事実だ。

 しかも、自分で言うのも難だがあまり優秀でも特技があるわけでもない能力的には平凡極まる令嬢であった。

 それが余計に「何様なのか?」というチグハグな状況を生み出していたのだろう。


 今になれば偉そうで反感を買う性格だったなぁ、と思うのみ。

 当時を振り返ると、能面のように表情を失くしてしまうカサンドラだった。




 ※





「……ああ、本当に綺麗、そうは思いませんか……?」


 カサンドラは住み慣れた別邸の私室に義弟のアレクを呼び、帰省の報告を行っている真っ最中だ。

 夕食の時に報告すれば良いのに、全く我慢が出来なかっただけの話である。


 王子からもらった指輪を紺色のケースに入れたまま、自室の丸テーブルの中央に置いて何度呟いたか分からない感嘆を口にする。

 蓋が開いたケースには大きなダイヤが填まった指輪。室内の光源に照らされてキラキラと輝きを放っていた。


 両手で頬杖をつくカサンドラの正面に、ほぼ無理矢理座らされているアレクがいる。

 辟易としか表現しようのないうんざりしたアレクは、苦虫をかみつぶしたような顔を向ける。


「姉上」


「こんなに素敵な指輪をいただけるなんて、信じられませ――」




「姉上、もう、この話は五回目です。

 僕は何度貴方の惚気話に付き合わないといけないのですか」



「え? それは……。

 わたくしが帰省している間はお披露目できなかったのですから、アレクももう一度見たいのではないかと」


 戸惑いつつも、カサンドラは言葉を続ける。


 見れば見る程、溜息が出る程綺麗な指輪だ。


 今まで全く気持ちを推し量ることの出来なかった王子の想いがこの中にぎゅっと詰まっている気がして、誇張ではなくこの世で最も美しい宝飾品だと思うのだ。

 美術館に飾られていても全くおかしくないこの素晴らしい芸術的フォルム、加工技術……!

 レンドールに帰省していた時は装飾品の一部として填めていたが、流石に学園に持ち込むわけにはいなかい。

 指輪を填めて登校している令嬢もいるにはいるが、どうしても紛失などのトラブルは排除できない。あまりに高価なもの一点物は学園側も保証出来ないので持ち込まないのが普通だった。

 聖アンナ生誕祭などのドレスを纏う特別な式典ならともかく。


 そして家の中ではわざわざ指輪を填めて過ごすこともないので、しばらくこの指輪を着ける機会はないわけだ。

 そもそも勿体なくて普段使いなど考えられない。


 しばらく見られなくなるのだからアレクの目にも焼き付けてもらおうと思っただけなのに。


「結構です」


 ピシャリと冷たく言い放たれ、カサンドラは少ししゅんと肩を落とす。

 指輪ケースの蓋を閉じ、自分の手元に手繰り寄せた。


「……浮かれすぎではありませんか?

 いえ、嬉しいのは分かりますよ?


 ――正直、一年前を思い出すくらい鬱陶し……耳に胼胝タコができる有様なのですが」


 アレクは額に人差し指を添え、はぁ、と堂に入った憂鬱そうな溜息を落とす。

 とても十を過ぎたばかりの少年には思えない完成された美形の少年アレクの呆れた顔は、それでも小奇麗なもので惚れ惚れ魅入ってしまう。


 レンドール侯爵家の養子として迎えられた少年は、全く思わぬことに今は亡きクローレス王国の第二王子その人であったという。

 本来ならこのように易々と会話が出来る相手ではないはず。しかし以前の名も立場も捨てた彼は正真正銘カサンドラの義弟だ。


 衝撃の事実判明後も関係性は変わることはなく、こうして今に到る。



 一年前と言うと、入学式典一日前の今日のことか……

 当時の事をふと思い出してしまい、カサンドラは口を閉じてじっと紺色の指輪ケースを見つめていた。


 そう言えばあの日も、アレクに興奮したまま王子と会えるとはしゃいで彼をうんざりさせていたような気が。

 ……途中、突然前世の記憶を思い出してショックを受けて寝込む寸前になった事まで当然思い出す。


 あの日のはしゃぎっぷりと同じ浮かれようだとアレクに言われ、カサンドラは言葉を失った。

 確かに、いくらもらって嬉しかったからとは言え何度もアレクに見せるものでもなかったかもしれない。

 他の人に「見て見て」なんて話しかければ自慢以外の何物でもないので、湧き出る想いを彼に話を聞いてもらっていたわけだ。


 ……アレクに迷惑をかけてしまったなと、カサンドラは反省した。

 ごめんなさいと謝ると、アレクもオーバーに肩を竦め片目を閉じる。


「喜ばしい事ではあるのですけれどね。

 その、僕としてはその喜びは王子本人にお伝えして欲しいと言いますか」


「そうですね、ごめんなさい。

 お母様がわたくしと一緒にとても喜んで下さって嬉しかったもので、つい」


 レンドールに帰省している間、カサンドラの着けた指輪が王子から贈ってもらったものだというと母は我が事以上にとても喜んでくれた。

 周囲に話せば自慢と思われるが、身内ならば喜んでくれる。

 そういう想いが根底にあった事は間違いない。


「え?

 侯爵の反応はいかがでしたか?」


「……そう言えば、ご報告しても全くご興味も無さそうでした」


「でしょうね」


 食い気味に反応し、真顔で大きく頷くアレク。


「やはり男の方は装飾品に関心はないのでしょう。

 アレクはセンスも審美眼もありますから、この指輪の素晴らしさに想うことがあるのではと早とちりしてしまいました」


「細工が見事なのはわかりますから。

 失くさないよう、大切になさってください」


 この指輪を見ていると、この一年間が報われたようなとても幸せな気持ちに浸ることが出来た。

 どうにかして王子を救いたいのだという一心で過ごした期間。

 そのもがいていた間も、多くの出会いや気づきがあり今思えば充実していたとも言えた。


 いそいそと指輪ケースを机の引き出しの奥にしまうと、アレクは何故か小難しい顔をして俯いている。

 そんなに自分の浮かれた姿が見るに堪えなかったのだろうか。


「アレク?」


「ああ、いえ。何でもないんです。

 姉上がこの調子で、問題を起こさなければ良いなと思っているだけで。

 それに、侯爵からの宿題を終える目途も立っていませんしね」


 少年は苦笑いを浮かべた。

 ティーカップを持ち、優雅に紅茶を嗜む姿はやはり普通の人ではないと思わせる美しさを有している。

 これが生まれながらに持つ気品なのだろうか。

 顔立ちは王子にそっくりとは言い難いが面差しは言われてみれば似ている――というところか。

 綺麗ではあるが、王子と歳が離れているし。

 髪の色も金と銀で違う、王子は父親似だがアレクは母親似に思えた。

 尤も、王も王妃もまごう事なき美しい顔立ちなので、どういうパーツの組み合わせでも美形になるのは約束されていたことは間違いない。


「寛大な沙汰に見せかけ、お父様も無理難題を仰います」


 父クラウスが自分のために動いてくれると言うのは嬉しい事実だ。

 だがカサンドラが学園で何かしら地方貴族の待遇を改善しなければいけないというのは、考えても相応の答えの見つからない話であった。


「どちらにせよ、この一年が勝負だと思いますよ」


「分かっています」


 カサンドラは椅子に座り直し、大きく首肯した。

 この一年は、最上級生にミランダとシャルロッテとキャロルが在籍している。

 彼女達はこの学園の中央貴族の派閥それぞれをとりまとめる顔役に等しい。

 三人とも、いかにもという型にはまった貴族令嬢の価値観ではない柔軟な思考の持ち主であり――カサンドラとも個人的に親しくしてもらっている。


 カサンドラが比較的自由に動けるのはこの一年と言っても良い。

 気ばかりが焦るが、長年の慣習を自分一人が簡単にひっくり返せるわけもないのだ。


「侯爵に満足していただけるよう、頑張りましょうね」


 本当にアレクは父が好きなのだなぁと思う、その無垢なキラキラ笑顔に圧倒された。





 ※




 四月一日は入学式だ。

 クラス替えも行われないので、そのまま持ち上がりである。特に大きな変化もなく、教室の場所が変わっただけの新学期なのだけど。

 入学式の前、登校した生徒達は自分のクラスに入っていく。

 

 二週間ぶりに着用した制服、その白いブレザーの裾を正しながらカサンドラも上級生用の教室に向かう。

 メンバーは変わらないので新鮮味は少ないが、その分やりやすくはある。

 前年度中に問題が起こり学園に訴え、それを受け入れられればクラスが変わることはできると聞いたことがある。だが幸い、今年はそのようなトラブルもなかったようだ。


 他のクラスの子の中には、王子と一緒のクラスが良い! と学園に訴えた剛の者もいたそうだが当然の如く却下されたのだろう。

 去年一人退学になってしまった生徒の穴を埋める配置もなく、カサンドラは教室の中に入った。

 席替えくらいしてくれても良いと思うのだが、まぁ後方の席に慣れてしまったので今更前に座らされるのも困る。


 薄くなっていくカサンドラの前世の記憶を辿れば、学年が上がればクラスのメンバーも変わるのが当然だった。

 だが元々乙女ゲームの設定ではクラスが変わる、離れるという現象は起きない――というか、特にクラス替えの話に言及がなかった。


 攻略対象とは同じクラスというていでイベントが進む。

 更にジェイク達は皆王子と同じクラスという前提がこの世界にあるので、当然メインキャラはそのまま持ち上がり。

 他の生徒の顔だけ変わるのも不自然。だからそもそも、クラス替えという概念がなくなったのかもしれない。


 心機一転とはいかないが、慣れた方が過ごしやすいという利点がある。


 デメリットは相変わらず王子の席が遠いこと。教室の前と後ろで離れていることだけだ。それ以外は文句のない自分の席に着いた。

 入学式典まで時間がある、新入生たちの案内の際の周り順などを確認する時間なのだろう。


 生徒会長を務める王子は在校生代表の挨拶をするけれど、カサンドラ達は壇上に登ることもない。

 あの退屈な学園長の話を延々と聞かされるのかと少しうんざりするのみである。



「おはようございまーす!」



 久しぶりに聞いたリタの元気な挨拶。

 

 新しい学年になって、教室の窓からの景色は変わった。

 だが目新しさはない、皆の空気も緩んでいる。楽しそうに雑談する生徒達の話すそれぞれの相手は以前と変わらない。


「カサンドラ様、おはようございます」


 リゼとリナもカサンドラの座る席の横を通って、自分の席に向かう。特に机に変化もないが、教室の場所が変わったし内装も違う。

 きょろきょろと教室内を見遣る三つ子の姿が可愛らしいなぁと、微笑ましい気持ちで自席から眺めていると――


 前方の扉が開き、入って来たクラスメイトの存在に教室内が一斉にそちらに注目する。


 同じクラスメイトで良かったぁ、などと歓喜の声が起こった。

 改めて後ろから見て、彼らの存在はやはり別格だと思う。


 外見が目立ち美々しいという事もあるが、無視できない存在感を持っている。

 元々この世界では選ばれた特別なヒーローという役を持った攻略対象、そして元はラスボスとして主人公の前に立ちはだかる存在だった王子と。


 ……元の作りが違う、という表現がこれほどしっくりくる状態があるだろうか。



 迷うことなく自分の席に向かい鞄を置く王子。彼の所作を後ろから見つめていた。

 例え他の生徒達と楽しそうに話している姿を後ろから見ているだけでも、しばらく彼と会えずに干からびそうだった王子成分が補充されるというものだ。


 あまり王子を見ているのも見苦しいかなぁ、と少し視線を逸らすように様子を伺っていたのだが……




「………?」




 話しかけてくる生徒達に掌を掲げ、制止する王子の姿が見えた。

 ごめん、と謝罪する様子に思わず瞠目する。


 珍しいな、彼がそんなあからさまに他人を制するような態度をとるなんて……

 ぼんやりとそう眺めていたカサンドラだったが、全く他人ごとではいられなかった。


 彼がこちらに向かって歩いてきたからだ。

 去年一年を通して、このクラスの生徒でも一度として見た事のなかっただろう王子の挙動に、全員が戸惑いに満ちた視線を送る。



 カサンドラのすぐ横に、彼は立っている。

 相変わらず眩く煌めく美しい青年だ、なんてのんびり彼の存在を眺め感動しているわけにはいかなかった。





 なんだ?

 何があった??





 カサンドラは完全に石像のように固まったままだ。






   「おはよう、キャシー」










 静寂の数秒、その後、教室内は蜂の巣をつついたような騒ぎだ。


 王子に会うためにわざわざ教室を訪れた他クラス、他の学年の女生徒達も一緒になって動揺の大波が教室を襲う。


 ”普段通り”とは程遠い新学期が、とうとう始まってしまったのである。

 

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