第350話 <アーサー>
一体いつから『
最初の頃は、自分の抱える事情に関わらせるべきではないという気持ちだけで接していたように思う。
彼女がただ普通の貴族の娘というならまだしも、父王がずっと望んでいたレンドール侯爵家のお嬢さんだ。
彼女の存在を起点に、一体どんな形で『彼ら』に一矢報いようとするのか想像するのも躊躇われる。
絶対にエリックらと衝突するに違いない、レンドールを盾にして無茶な事を言い出すのではないかと気が気ではなかった。
だから穏便に婚約関係の解消をすることが、アーサーに課せられた最重要課題だったのだ。
それとは別に、彼女はアーサーにとって意外性に満ちた人物だった。会うたびに興味を惹かれていたのは事実だ。
聞いていた話と全く違う性格であったことを始め、彼女の常に一定の距離を保った『好意』はとても居心地が良かったのだと思う。
彼女は謙虚だったし目立つことも嫌っていた。
そんな彼女だから婚約者という立場で対応しやすく、非常に有難かった。こちらにぐいぐいと迫って来られたら、かなり難儀な事になっていただろう。
彼女から向けられる好意に反し、自分は社交辞令的な振る舞いが多かったはずだ。
でも一つ一つの自分の言動を受けて控えめに喜ぶ彼女の姿は、騙しているという後ろめたさで圧し潰されそうになるくらい、いつも真っ直ぐで素直で可愛いとさえ思えた。
自分も彼女の事を好意的に捉え始めたのは早かったが、それはリスペクトに近い感情だとずっと思っていた。
もしくは好ましい友人という感情。
一緒にいるのが楽しい。
出来る範囲で彼女の好意に報いたいと思う心が俗に恋愛感情と呼ばれるものだと知ったのは、つい最近の話である。
自分がジェイクと同じような感情を持っているのだと薄々勘付いていたものの、認めるのが怖くてずっと目を逸らし続けていただけか。あの時思い知らされたのだ。
『――王子との婚約を辞退したいと考えております』
自分の目的が彼女の手によって完遂されたあの瞬間。
幸運にも相手の方から申し出てくれた、お互いにとってベストな提案。
――目瞬きするほどの僅かな瞬間、アーサーの脳裏に今までのカサンドラと一緒に過ごせた日の思い出が脳裏を過ぎていった。
『婚約者』として適切な距離を保とう、どこまでが自分に許される境界線なのかと模索していた頃から。
自分はずっと、彼女の事を恋愛的な意味で好きだったのだと気づいてしまった。
気づいたところで何もかもがもう遅いというのに。
彼女から解消を申し出てくれた事に、感謝するべきなのに。
あの時感じた凄まじい喪失感は、未だ夢に見、
※
アーサーはその日の午後、植物園に出向いて一人で花を観賞していた。
管理人のゼスは小部屋に籠り、何かの作業をしているようだ。
既に水やりも終わっており、世話を終えた植物たちは活き活きした様子でアーサーを迎えてくれた。
もうすぐ学園での試験週間が始まる切羽詰まった時期に、のんびりと花をめでる程の余裕はない。
チラと腕時計の時刻を確認する。
もうすぐ二時か。
……レンドール侯爵が王都を訪れるとカサンドラから聞いて、いてもたってもいられなかったアーサー。
どうしても彼と話がしたかった。
頻繁にカサンドラの別邸に足を運ぶことも憚られ、侯爵に渡して欲しいとエレナに手紙を託したのは数日前の話である。
果たして侯爵がそれに応えてくれるかどうか、そもそも手紙はちゃんと手元に渡ったのか。
全く定かではないが、目立たないように彼と会うにはこの場所しか思いつかなかった。
この植物園の中は誰の視線も感じず、ゆっくり休憩できる場所だ。
侯爵を呼び出して話をするには少々不似合いな、春の花が咲き始めた色とりどりの蕾に囲まれた空間ではあるのだが。
まぁ、昨日王都に着いたと聞くし、流石に今日自分の呼び出しの打診に応えてくれるとは思っていない。
二時ごろという時間指定も急すぎて、彼も困るだろう。
半ば以上、今日は会えないだろうなと諦めにも似た想いだ。
だがそんな逸る心を落ち着けるためにも、植物園と言う空間はアーサーにとって大変適した場所だ。
ここでしばらく時間を潰すのも悪くない……
「おや、王子。
このようなところでお会いするとは、実に奇遇ですな」
ゼスの案内を受け、王子に向かって片手を挙げる壮年男性の姿が目に映る。
視界に入った、全く花など似合わない厳めしい顔立ちの男性は、レンドール侯爵クラウスその人だ。
まさか本当にこちらの都合に合わせてくれるとは思ってもいないことだったので、僅かに息を呑む。
だが呆然と立ち呆けている場合ではない。
すぐに笑みで取り繕い、アーサーは彼に対し頭を下げた。
「ご無沙汰しております、クラウス侯。
珍しいですね、貴方が植物園を訪れるなど」
全く事情を知らない管理人、ゼス。
彼は急に訪れたクラウスの存在に泡を食って、完全に顔を白くして震えている。この王城で、いわゆる”お偉いさん”がひょっこり顔を出すことは無いと言っていい。
ここは珍しい希少な草花を管理する区域だ。
見目麗しい華やかな花壇は中庭にいけばいつでも見られるので、よっぽど植物に造詣の深い職員でもないと足を踏み入れることのない場所である。
そこに遠方の地より訪れたレンドールの侯爵がやってくるなんて、ゼスにしてみれば目玉が飛び出る程吃驚する話だ。
昔馴染みのラルフならともかく、急にむすっと怒っているかのような不機嫌そうな貴族にどう対応して良いのか……と。
救いを求めるようなゼスの視線に、アーサーは心の中で謝罪する。
まさか自分が呼び出したのだなど言えず、白々しい会話のやりとりを彼に聞かせることになってしまった。
「……で、ではごゆっくり。
私は部屋におりますので、御用の際は何なりとお申し付けください」
完全に引きつった笑みで、ゼスは後ずさる。
とても植物に優しい男と思えないのは体格の良いゼスも同じだが、ゼス以上に全く不似合いな存在を前に言葉に詰まって逃げ出した。
「申し訳ありません、急にお呼び立てしてしまって」
「全くです。急に王宮植物園に来いだなどと……
貴方でなければ、見なかったことにしていたでしょう」
自分でも緑あるこの風景に場違いだと思っているのか、いつもより眉間の皺が深い気がした。
「貴方と話をしたかったものですから」
「――……。
昨日、あの子達には一通りの話はしましたがね」
「いえ、そのことだけではありません。
……
失われたと思っていた
それだけでも僥倖だというのに、レンドールに保護されてクラウス夫妻の養子にまでしてくれたという。
「大したことではありません。
少々の罪悪感と――彼の優秀さに惹かれただけですので。改めて礼を述べられると複雑な想いです」
ありがとうございます、ともう一度頭を深く下げた。
軽い咳払いが聴こえる。
ありがたいことに、クラウスの方から本題に入ってくれた。
「例の件についてですが……
今に到るまで娘の身の事を、王子なりに案じられていたと理解しています。
陛下と娘の間に立たされ、さぞや難しい立ち回りを要求されたことでしょうな」
クラウスは正面の白い花を見ながら、後ろ手を組んだ。
カサンドラと絶対に結婚し、王宮に入ってもらうのだ! 彼女の機嫌を損ねるなと命じてくる父親。
自分に好意を寄せてくれていると気づいていても、手を取ることのできない
何も知らない彼女を巻き込むのだけは嫌だった。
彼女の身に危険が及ぶことが、何より恐ろしかった。
自分は――何の影響力も持たない、無力な存在だから。
分かっていても、耐える事しか出来ない自分が嫌で、そんな情けない自分のことを知られることも嫌だった。
彼女には『理想的な王子』として接していたかったという
どうするのが最善かということを分かっていたはずなのに。
カサンドラに最後通牒を突きつけられる瞬間まで、仮初の幸せをもう少し、と未練がましく続けていきたいと願っていた。
ぬるま湯に浸かっていたかったのだ。
彼女と一緒にいられる時間はいつも楽しく、満たされていたから。
国王への言い訳や報告をするのが億劫だし時期尚早だ、カサンドラも急に婚約解消と言われても困るだろう――そんな言い訳を繰り返しながら、足踏みばかり。
いっそ時が止まればいいとさえ思った。
来年など永遠にこなければいい。
「侯爵。
私は先日、アレクに貴方のお考えを聞かせてもらいました」
この人に迷惑をかける事は、即ちレンドールと言う南部地方全てに影響があるという事だ。
今の王国体制を変えるつもりは無いという彼を、こちらの事情に巻き込むことは申し訳ない。
「……もし今後、貴方がカサンドラ嬢の後ろ盾になることを善しとしない状況になったとしても。
貴方の力添えがなくとも、私は絶対に彼女を守ります、
必ず、お約束します。
どうか彼女との結婚を許してもらえないでしょうか」
失うことばかりが怖かった。
自分のせいで傷つけたり、不幸にさせてしまうかもしれない”可能性”が怖かったのだ。
だが彼女は全てを知った上で、こんな頼りない自分の傍にいてくれることを望んでくれた。
彼女は自分の置かれている状況を正確に理解した上で、そう言ってくれたのだ。
ならば侯爵頼みだけというわけにはいかない。
自分も最初から諦めるのではなく、全力で彼女を危険から守らなければいけない。
こちらの意志は、彼にどう届いたのだろうか。
大声で決意表明などは出来ないが、隣にいるクラウスにはしっかりと聞こえたはずだ。
「王子自らそう仰って下さるなど頼もしい限り、私も気が楽になります。
尤も、親として娘に出来る限りの協力を惜しむつもりはないですがね」
そして彼は、三家に手出しをされないよう牽制するための話を少しだけ話してくれた。
今後中央貴族との関わりを強めていき、また地方の領主たちの助力を得ることになるだろうとも。
味方は多い方が良い。
例えばケルン王国の王女や、山を隔てた隣国の王女と婚姻すれば『国』という大きな後ろ盾がある王妃ゆえ、例え三家と雖も実力行使に及ぶことは出来ない。
外交問題に発展するから、丁重に扱うだろう。
それと同じように、カサンドラに何かあれば国が二つに分かれるぞと言外の圧力が効果を発揮すれば――安全な状況と言えるかもしれない。
逆に面倒ごとを避けるためにエリックもカサンドラに不干渉を貫くのではないだろうか。
こちらが大人しくしていれば安全が約束されるならば、アーサーも勇気づけられる話である。
「彼女が王家に求められなければ、貴方も面倒を背負いこまずに済んだでしょう。
お手数、ご心配をかけて恥じ入るばかりです」
「はは、何を仰る。
私としては、ようやく娘を喜ばせる機会を得られたわけですから、その務めを果たすまで。
ああ……これは、
クラウスは膝下の赤い蕾を腰を屈めて
「私は子どもは二人……いや、三人は欲しかったのです」
自分には兄弟姉妹がいなくて、羨ましかったからだと。
とても彼の外見からは想像もつかない発言に、アーサーは目を白黒させた。
一体急に何を言い出すのだろうと。
「ですが不運にも、妻が娘を生んだ時に少々難があったようでして。
結局、あの子は弟妹を得る事は出来ませんでした」
そんなプライベートな事を自分に? と、緊張が走る。
だが言われてみれば、レンドール侯爵家ともあろう大貴族が娘一人しかいないというのも珍しい話だと思う。
息子が生まれるまで子をもうけるという家は多いものだ。
そういう事情があったのかと、得心がいく。
「息子も望んでいたのですが叶わず、大変残念なことでした。
ですが何の因果か、出来の良い
あの子たちの希望は叶えてやりたいものです」
淡々と出来る限り感情の入らないようにそう話すクラウス。
真面目で頑固一徹の仕事人間で、失礼ながら今ままで人情味を感じたことはなかった侯爵の一面にアーサーも俯く。
誰だって、生きていれば辛い事や悲しい事はいくらでもあるはずだ。
自分だけが不幸なのでない。改めてそう自戒する。
弟の顔が思い浮かんだ。
確かに彼には無事なら戻って来て欲しかったし、せめて自分だけには生存を知らせて欲しかったと思った。
でもこの侯爵の意志を裏切るような事は出来なかったのだろうな。
きっとクリスは――いや、アレクはレンドールにいた間、幸せだったに違いない。
少し、羨ましいと思ってしまった。
クラウスは、よいしょ、と中腰体勢から腰を伸ばす。
トントンと腰骨を叩きながら彼は言った。
「勿論貴方も娘と結婚する以上、もう一人の
困ったことがあれば、何なりと。文の一通でも寄越してください」
アーサーの目に、彼の姿は眩しく輝いて見えた。
勝手な行動をする国王を黙らせるため王妃を亡き者にした宰相、共謀した将軍や公爵。
愛する妻と子を失って意気消沈し塞ぐ日々、王権を取り戻すことを己の宿願としてアーサーを諭し続けてくる国王陛下。
王家の実態を知らないが故、無力な自分に媚び諂う、もはや滑稽とさえ言える貴族の当主たち。
彼らにはそれぞれ自分の立場、守るべきもの、培ってきた過去がある。大人とは、そういうしがらみの中で生きるものだ――という先入観があった。
でも今まで接してきた大勢の大人たちとは全く違う印象を受けてしまう。
大人を頼りにするという着想に初めて至ったとでも言うべきか。
込み上げてくる感情を宥めながら、アーサーは彼を真っ直ぐ見つめた。
「ありがとうございます、侯爵。
私は必ず、キャシーの事は守りますし、幸せにします」
家族という言葉は、自分にとっては消えない傷跡の代名詞のような単語だった気がする。
でも、彼らに家族として迎えられる事を想像すると胸が熱くなった。
自分もそのぬくもりの
「うん………ん?」
だが真剣に頷いていたクラウスが、ゆっくりとこちらに顔を向けたではないか。
ギギギギ、と不穏な音を立てて彼の首が回った。
「”キャシー”……?」
「あっ、いえ、これはその」
いきなり愛称呼びをしてしまったことが彼のカンに障ってしまったのか、少し前とは真逆のかなり刺々しい視線をじろじろと不躾に向けられる。
その鬼気の籠った迫力に、アーサーは背中にとめどない汗を流しホールドアップの姿勢をとった。
「これはこれは。
聞いていたより随分、娘と親しくなったようで――
なに、仲が良いのは何よりです」
ちっとも「何より」とは思っていないだろう、重々しい口ぶりである。
大変な失言だったのかも知れないと咄嗟の発言を後悔した。
家族というワードに触れ、自然と口を衝いて出てしまっただけなのに、クラウスは両目を大きく見開いているのでとても怖い。
元々地顔が偏屈な怒り顔の男性。
ちっとも目が笑っていないのに、「ははは」と笑うその姿はアーサーにとって恐怖以外の何物でもなかった。
「分かっているとは思いますが。
貴方も娘も未だ結婚に至ったわけでもない、学生の身の上。
節度を持ち、身を弁えた関係であるべきだと強く思いますがね。
王子のことは信用しております。
全く以て無駄な心配、杞憂でしょうな!」
「勿論、重々承知しております」
アーサーは頭を下げ続け、彼の言うことに何度も肯定の意を込めて何度も「はい」と頷き返す他、なす術がなかった。
どうやら厳重に釘を刺されてしまったようだ。
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